拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   『 赤 』心

2024年05月05日 | 考えるな、漢字ろ!

  今日は一ヶ月ほど前から、彫塑アーティスト・ジャン-マリーBorgeaud 氏の作品展を見る予定になっていた。

 

  (彼とは3年前に初めて会って、彼の作品と人柄にいっぺんに惹かれ、彼のファンになってしまったが、2度目に彼に会った時

  10万円以上する作品を『ちょっと欠けてしまったところが、あるけど良かったどう?』・・・とわずか数万円で譲ってもらった作品が

  我々の新居の居間に掛かっているが、多分、我々の貧乏を知ったうえでのご好意による提案ではなかったかと思っている。)

  最初に彼の作品を観た時の様子・・・は、こちら ヨーロッパに観る 『 丹電力 』 - 2021 9/ 28

 

               

                   今日5月5日に観た作品の一つで、私のお気に入り

 

  彼の作品展はNeuchâtel(ヌーシャテル)という街で、電車で我が街モルジュから50分の所。

  電車の中で、今日が5月5日で『子供の日』であることに気付き、そうであれば今日は『子供の日』にちなんだテーマでブログを書きましょう・・・と

  考えたが、子供を持たない我々夫婦にとって、『子供の日』とは他ならない我々自身の『童心』というところに落着しざるを得ないところから

  『赤ん坊』という単語を思い浮かべ、そう言えば何故『赤』なのか・・・と考える事になった。

 

  そうすると、『考えるな、漢字ろ!』モードになり、馬骨流・悟学『解字』が出てきたのだ。

  『赤』= +・− ・手(x2)・足(x2)・・・という答えが出てきて、『プラマイゼロの手足』を持った無心(=仏心)の赤ん坊が観えてきた。

   まぁ、こんな感じ(漢字)かなぁ・・・、やっぱり赤ちゃんは無心なんだよ。

 

  そんな事を妄想しているうちに、ヌーシャテルに到着、バスに乗り換えて15分ほどで、目的のギャラリー『Galerie2016』に到着した。

  今日は、アーティスト自身による解説(?)をギャラリーが企画し、Borgeaud夫妻がジュネーブから来ていた。

  彼の話が始まる前に我々はギャラリーの作品を一通り鑑賞したが、相変わらずどの作品も『生きる喜び』で『イキイキ』していた。

 

               

 

  作品に登場する人物は誰も『丹田』が豊かであるが、作者のジャン・マリーは、誰よりも肩の力が抜けて気取りのまったくない男で

  私は、今日のテーマである『赤ん坊』の発想から出てきたのか、彼自身も彼の作品も実に『赤心』に満ちている・・・という風に感じた。

    

    info : 彼の作品展は5月26日まで、お近くにお住まいの方は是非ご覧ください。 www.galerie2016.ch    で確認のうえ

  

  

 

 

 

 


  『仕』の字で解く涅槃寂静

2023年09月17日 | 考えるな、漢字ろ!

  私がここで、『仕』の字を漢字方程式で『涅槃寂静』を解けば、来年のノーベル平和賞並びに物理学賞は間違いないだろう・・・か?

 

  釈尊の『三法印』の中で『涅槃寂静』は、大抵の人類にとって未だに未知の領域でこれを簡潔に解明、解説した者は稀だ。

 

  『仕』の字を解くにあたり、観自在菩薩が『漢字在菩薩』の姿となって時空を超えた事実を、私達はここで発見するであろう。

  釈尊による『悟り』は、やがてインド発祥となる数字『0』を生む土壌を培ったが、その思想を取り入れた中国人はそれを『空』と表す一方

  その深淵なる思想を、日常底において浸透させるべく大乗の漢字在菩薩は未来を見越して『仕』の字を発明をしたのだ。

 

  漢字方程式としての『仕』の字は・・・『 人をして「+」・「− 」=「0」』と解き、仏語の『空』や『法』であり、『涅槃寂静』である。

 

  仏教徒が行う『合掌』こそは『仕合う』を象徴した仕草であるが、その基本単位は自己自身に観る『我即是無我・無我即是我』の『仕』による

  『不二』としての『0』で、ここからすべての『縁』が忽然と『起』き、生きとし生けるものへの幸せを願う『仕合せ』の合掌が始まった。

  それが人類に課せられた『仕事』なのではないだろうか。

 

             君死ぬな せめて仕合せ 観るまでは プラマイゼロの 涅槃寂静 ・・・馬骨


  『意』の字

2023年09月15日 | 考えるな、漢字ろ!

  私は今日ほど学者でなくて良かった・・・と思ったことはない。

  適当なこと『馬骨の如し』と開き直れば、学術的妥当性をまったく無視して・・・というか、そもそも『漢字』には

  適当な解釈を許容する『度量』を内包する非常に優れた『文字』ゆえ、『考えるな、漢字ろ!』論を可能にし

  馬骨をして『漢字は、東洋を解く方程式』・・・と曰(のたま)わせるのであろう、と勝手に解釈することを許している。

 

  この『意』の字・・・仏教由来の仏語でなくて何なん?

  古(いにしえ)の仏弟子たちが、坐禅し、深い禅定に入った者たちは一様に『観(世)音』という境涯に至ったであろう。

  そういった者たちを当時は『観音菩薩』と称し、今ではその名残りとして仏像の名称だけとなってしまった。・・・と私は確信している。

 

  Avalokiteśvara(サンスクリット語)は鳩摩羅什によって『観世音』、のちに玄奘によって『観自在』と翻訳されたが

  その時に、中国人は『意志・意識・意味』といった人間にとって特に重要な意味を持つ高度な心の働きを『観音+心』という意味で

  『意』の一字を発明したに違いない。

  当時の人々にとって『意』の『音』は人間のルーツである『郷里さとり』からの『響き=郷+音』を『心』に聞くことであった。

 

         

  

  


  『人』 の字・ 馬骨流『悟学解字』

2022年09月01日 | 考えるな、漢字ろ!

  昨日Youtubeで二人の40歳代(?)日本人男性が Zoomで『悟り』について真剣に語り合っているのを聞いた。

  その二人は別に学者でも僧侶でもなく、ごく一般人として『悟り』を探究しているようで、知的で穏やかな感じを受けた。

  そういった場面に私自身は立ち会った事がなく、非常に新鮮な印象を受をうけた。

  この二人の会話を聞くことで、私の『悟り』解釈が自分自身に対してより鮮明になった気がして、その意味で有意義であった。

 

  私の『悟り』は『郷里』、これを『きょうり』と読まず『サトリ』と読ませるところがミソになっている。

  私にとって『悟り』は何も無いところから突然閃いて現れるのではなく、『生まれた時点が(悟り)状態』である…という認識。

  しかし、この認識は仏教では『山川草木悉皆成仏』と言い、人間のみならず本来何もかも『悟っている』という常識ではある。

  ただ人間だけが、『無我−自我−無我の自我』と途切れた道を超える作業を『意伝子』は組み込んでいるから人生は面白いものになる。

 

  『郷里・サトリ』という処に帰るように『意伝子』は私達に働きかけてくるのであるから、私たちは普段から『郷里・サトリ』に

  意識を向けていなかれば道を完結することはできない。

  その意志の表れの一つが『合掌』なのだと私は思っている。そしてそれは同時に『悟り』の正体である『不二の法門』を象徴している。

  だから仏教徒は皆、『合掌』をする。(ただ大半の人が無意識ではあるが・・・)

 

               

 

  古代の中国人は『横から見た人の形』から文字を象ったことが甲骨文字からわかる。

  しかし、現代日本においては、本にしろ、モニターにしろ、右上図にあるように『人』…と完全に左右の線が『合掌』している。

  

  馬骨的にはこれは偶然こうなったわけではない、『意伝子』の働きかけがこうしたに違いない。(本当か?)

  この『合掌』こそは、『人』が『自他不二』で、自己の幸せの実現は他己の幸せなしには完成しない…ことを象徴している。

  左右の掌が合わさって『合掌』が実現するように、自分だけが幸福になっても『意伝子』は満足しない・・・それが『人』の字で象徴している。

 

  『人』の字を読み書きする時は、心のなかで『合掌』をイメージして欲しい。自分との関係、他人との関係が必ず良くなる。

  

  


 ノギヘン の 『私』

2021年11月25日 | 考えるな、漢字ろ!

  いつも独りよがりな滅茶苦茶いっているけど、今日の『ノギヘン』ほどではなかったであろう・・・。

  まさに『考えるな、感じろ…』のブルース・リー師のお言葉を受けて『考えるな、漢字ろ!』と自己を叱咤激励したすえの『ノギヘン』であり、

  円覚寺の老師から頂いた公案『庭前の白樹子』を三十数年にわたり、今もって立ち向かう私、馬骨だからこその『ノギヘン』・・・なのだ。

  それにしても、老師はなぜ私に公案『庭前の白樹子』を選んでくださったのか? 私の名字『森』にちなんだわけでもないだろうに。

 

  私はある種かなり馬鹿で、いつの頃からなのか漢字の文字に対して勝手な解釈を加えては、勝手に腑に落ちる質であり

  その最初のキッカケ文字は『自分』の『自』、『目』の上の第一画のシュっと書く斜めの線は私にとって『眉』の形状を示し

  物事をしっかり『観察』することを象徴している『線=意識』・・・であると勝手に解釈していた。

 

  で、数年前に『考えるな、漢字ろ!』に開眼して

  『仏教』は 人をして無(ム)する教え… 無(ム)から仏になる教え・・・という簡潔な馬骨解釈に腑に落ちてからというもの

  日常的使っている言葉、特に重要な日本語には仏教の真髄である禅のエスプリがたっぷり込められているのを観る。

 

  公案『庭前の白樹子』であるが、9世紀ごろの中国での話

  僧問う 『如何なるか是れ祖師西来意』(祖師ダルマがインドからやって来た精神は何ですか?)

  師云く 『庭前の白樹子』・・・   (庭の前にある大木!)

  私が老師より頂いた公案は、こんな問題にもならないような『問題』であった。

 

  これって、今考えるとまさに『木』に『ノギヘン』の第一画『ノ=意識』をひたむきに傾ける行為でした。

  それがどこに向かうのかサッパリ分からず、とにかく大樹の前で坐禅、大樹になりきる気で坐禅と、ずーっとやっているうちに

  大樹も何もない『ノギヘン』=『ム』・・・になっていた、つまりそれが『私』っていうことであった。

 

  それにしても、一体誰が『わたし』を『私』っていう日本語に決めたのであろうか???

  日本語の『私』は 中国語で『我』であって、『私』(=無我)という漢字は日本でしか使われいない・・・。

       

  


悟りの郷〜その3

2020年11月19日 | 考えるな、漢字ろ!
前回、『悟り』は『郷里』と誤読せよ・・・と書いた。

(*仏教、禅に関する発言する時には私は自分を『馬骨』と名のることにしている)

それには馬骨流の妄想に近い解読術によってであって、ただ単に誤読を勧めているわけではない。

『郷里』で待っている人に会って来ることが大事だ・・・
そう言ったわけは漢字辞書にある、『郷』の字の解字から閃いた『解読』なのだ。

   甲骨文ではこうなっていて⬇︎

       
      『郷』の字〜ごちそうを真ん中にして、二人が向き合うさまに型どり、向かうの意味を表す・・・とある。

馬骨は、この二人の間にある『ごちそう』というのは、じつは『鏡』なのだ・・・と直観。
仏教では『大円鏡智』、神道であれば『八咫鏡(やたのかがみ)』であろう。

郷里(悟り)に帰って、出逢わなければならないのは、『真実の自己、本来の自己』であり
人間にとっての、心のごちそうは『真実の自己』を知ること以外ではないから…。

そう考えた時、向かいに座っているのは、『鏡』の向こうに映っているもう一人の自分であり
自分が観ているつもりで『鏡』に映っている自分を観ていたら、『鏡』に映っている自分も自分を観ていた!
その瞬間、どちらでもない自分の『声』を聞く・・・・それが『自他不二』で『悟り』の正体の『不ニノ法門』で
自己を他人、他人を自己のように愛することができる人間への『認知革命』であった。
また、この『声』を聞くことを仏教では『観音』という・・・
これは勝手な「馬骨論」であり、正否はさだかではない。『創造的誤読』あるいは『遊戯三昧』か・・・

        

考えるな、漢字ろ!〜 響き(ライブ)

2019年12月23日 | 考えるな、漢字ろ!

先日、バトミントンの友人(ベトナム人)がビルヌーブというローザンヌから電車で30分の所で惣菜屋兼食堂をオープンするにあたって、この街が月イチで行う第3週の金曜の夜に各店が店頭や店内に試食を提供するプチ祭り…をやるので、時間が許す人は是非来て下さい・・・とバトミントン・メンバーにメールが来て、早速いって来た。

ローザンヌからジャズフェスで有名な街モントルー方面、モントルーから快速で次の駅がビルヌーブという街であるが、人口6000足らずの小さな街で昔、作家ロマン・ロランが住んでいて、彼に合うためにガンジーが会いにきたことで有名な街であるが、街としては本当に小さな街で、僕らが街に着いたのは夜の7時頃で、すでに夜であった。

駅をでて、そこから駅前通りとなり、およそ300mに渡って、各店頭にテーブルなどを出してそれこそ出店状にちょっとした祭りの雰囲気を醸し出していた。

その出店の一つが友人のベトナム料理を振る舞う店であった。彼は7歳の時、ベトナムからスイスに移住して35年、スイスの学校で勉強したからフランス語を話せ、バトミントンも強く、なにより明るくバトミントンを本当に楽しんでいるのがわかる。その彼が奥さんと友人の手助けを受け、まだオープンしていない店頭にテーブルを出して揚げ物などを集まった人々に振る舞っていた。

ボク等も彼等の開店を祝い、何皿かごちそうになって他の出店を見学しながらビルヌーブの街を散策していると、あるレストランの前でギターの音色に女性の歌声が聞こえてきた。我々も本格的に腹が減ってきていたので、その歌声のするレストランに入った。

それは以外にもギリシャ料理のレストランで、時間が早いせいか?先客は一人もいなかつた。そこに夫婦と思われるオーナーの二人がいろいろ親切に対応してくれるし、10分後に店内で、歌のライブがあります…と売り込むので、席についた。

小さなドーム状の店内にクリスマスの飾りがあって異国の雰囲気。ギリシャ料理はちょっとボクの好きなグラタンに似た、美味しいく温まる料理で二人で舌鼓打っていると、さっきまで外で歌っていた男女が僕らの隣の席について、男の上手いギターに合わせて若い女が歌い始めた・・・。

シンプルなギター演奏に、心に沁みるような歌声… なんとなく心が奪われるのはライブだからなのか、彼女の才能のせいか?

ボクのブログのテーマは『琴線に触れる』事であるが、久しぶりに琴線に触れ、心に響いた。

ここでこの漢字『響』であるが、郷+音で、郷とは他ならぬ、『悟り』の里、そこに導くのが『音』とボクは観ずる。

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Lausanneを中心にライブ活動しているグループらしい。名前は残念ながら失念・・・