拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  考えるな、漢字ろ!〜 『禅』の字

2023年10月05日 | 東洋自分なり研究所

  『禅』という言葉の由来と意味というのをググってみると・・・

  『 禅という言葉は、サンスクリット語の「ディヤーナ」、パーリ語の「ジャーナ」の漢訳である。

    このパーリ語の「ジャーナ」という言葉の音を聞いて、昔の中国の人は漢字に訳す際に似た発音をする漢字をあてはめた。
    それが「禅那(ぜんな)」という言葉である。ここから「那」が落ちて、禅という言葉が生まれた。

    だから「禅那」という漢字自体には、じつは意味がない。パーリ語の「ジャーナ」に音が似ているというだけである。

    このように発音をそのまま写した訳を音訳といい、その反対に意味で訳すことを意訳という。 したがって禅那は音訳である。』 ・・・とあり

  これまで私が読んだ禅書にもだいたい同様なことが書かれ、禅僧が説教する際にも、同様な説明を何回か動画上で聞いた。

 

  私もつい最近まで、こういった説明を別になんとも思わず受け入れていたが、退職後、突然『漢字』に仏教的に(或いは禅的に)覚醒してからは

  この説明に満足しない・・・というより、先人の貢献を無駄にしている現代の禅僧に憤(いきどお)りを覚える。

 

  馬骨が駄洒落半分で『考えるな、漢字ろ!』と思いついたのは、じつは何千年か前の中国翻訳僧の憤りの『呪い』が、

  『念』となって、馬骨の愚脳に伝搬されたのだ・・・と、いま真剣に思い始めているところだ。

 

  何千年か前、インドから仏教が中国に伝わり、サンスクリット語から漢語に翻訳した中国仏教僧は、自らも悟りを得た語学的天才による翻訳であったはずで

  サンスクリット語の『静慮』を意味する、ディアーナを音訳して『禅』・・・とした時、『禅』という文字自体に『深淵な意味』を込めなかったはずはないのだ。

  カンフー映画の中で、ブルース・リーが弟子に教えた言葉『考えるな、感じろ!』・・・は、じつは先人の天才翻訳僧が翻訳の際『感じろ、観じろ、漢字ろ!』と念仏しながら

  それぞれの仏語を『漢字』として『デザイン設計』した、当時の天才たちの血と汗と涙の結集・・・であったのだ。

  なのに、・・・『禅(那)』という漢字自体にはじつは意味がない』・・・とは、一体なにごとだ!! と、嘆いているのです。

 

           

            我が村では、秋になって好例の『ダリア祭り』シーズン。漢字では『天竺牡丹』だそうで、有難いお名前の華・・・

 

  馬骨流に『禅』の字を解字すると・・・旧字体『禪』を見るとよりわかりやすく、『單』的(シンプルに)『示』・・・と、ズバリ示している。

                    

  問題は『單』の字で、辞書によると〜 甲骨文でわかるように、先端が両またになっている、はじき弓の象形。借りて、一つの意味に用いる・・・とある。

  そしてその心は?・・・『自他不二』の『不二の法門』、つまり『悟りの内容』をシンプルに示している文字が『禅 』なのだ。

 

  

  


  あれは最初の公案だった・・・

2023年10月05日 | 還暦録

  29歳の時、新宿にある東洋鍼灸専門学校へ入学すると、一人黒い着物に袴という出で立ちのユニークな先生がいた。

  物凄いエネルギッシュな先生で、当時の鎌倉円覚寺の老師の鍼灸主治医をしていて、12月の接心には必ず参加する・・・という禅者でもあった。

 

  その先生が授業後、生徒を誘って近くの喫茶店でお茶にしようというので、同級生ら5,6人とお茶をした時

  この先生が私の顔を見るなり、『お前の部屋は汚いだろう…』と言われた。

  いきなりなんていう事を言う人だろうか!・・・と憤然とした気分と、その質問というか、決めつけと云うか、何故そんな事を言うのか??

  不思議で不思議で・・・だからその事は今でもよく覚えているのだ。

 

  その頃はまだ禅の『ぜ』の字も知らない時で、その後、まさか自分が禅の修行にハマるとは・・・この先生も思わなかったであろう?

  いや、果たして彼は私の禅修行突入を予想していたのだろうか?・・・

  というのも彼のあの『トンチンカンな問いかけ』は私の最初の『公案』であったと今にして解る・・・からだ。

 

  実際、円覚寺居士林で修行を始めるわけだが、坐禅している時以外はとにかく掃除、掃除、掃除で道場内外、境内の階段など掃き清める作務をやらされた。

  ある時、庭にある手押しポンプのある流し台で、食器を洗っている先輩格の学生居士が、ご飯粒が流れたと言って慌てて摘んで食べる光景に出会って私は驚愕した。

  飽食時代と言われているこのご時世に、米粒一つ流れたからと言って、目の色を変え一心不乱に米粒を追う学生居士の姿は決して忘れられない風景であった。

 

  そういった細々とした体験は、禅修行の三学『戒・定・慧』という段階を踏んで『般若の智慧』、つまり『悟り』へと誘う『行』であった。

  『戒』とは『戒律』のことで、『してはいけない事=戒』、『しなければいけない事=律』だそうで、とにかく『清静』という基本に全力で向かっていたわけだ。

 

         

         25歳ぐらいの時の私のアパートの『汚い部屋』の証拠写真・・・いや〜実に恥ずかしい写真で公開を憚りましたが・・・

  『清い』・・・ということが、解らなければ『汚い』ということが解らない。『色即是空・空即是色』もまた然り、『空』がわからなければ『色』は解らない。