拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  ガイド10年、引越屋15年・・・

2024年04月29日 | 還暦録

  2017年の春に65歳で定年退職(スイスにて)したから、今年で7年目になる。

  

  日本にいた頃は、ほとんどアルバイト人生であったから、身体が動く限り死ぬまで働くんだろうなぁ…と、思い込んでいたので

  こちらスイスにきて自分が人並みに定年退職というような境遇を迎えることになるとは思わなんだ。

  まぁ、いくら働きたくても自由業でもない限り仕事がないのが現状であるから、私の場合選択の余地すらなかったのであるが

  貧乏でもそれなりに生活できている現在、悠々自適(辞書〜世間のことに煩わされず、思いのままに暮らすこと)の身分であることに感謝する今日此頃。

 

  というのは、この身分になってみて初めて、渡欧以来自分がやってきた仕事の案外キツかったことに思い至ったりするのだ。

  観光ガイド10年、引越屋15年・・・仕事自体のキツさ、それにヨーロッパという言葉も習慣も違う土地で生きていくというのは、それだけでストレスを

  否が応でも受けるわけで、私はそれを当たり前の事として、それを無視して前向きに生きてこられたが、今思うと『よく頑張った!』と自分でも思う。

  そこにはもちろん、相方の存在の大きい事にもあらためて思い至るわけだ・・・。

 

  何故、仕事がキツかったのかと思うのは、今現在のように、自分が重要であると思っている事柄を、その当時は掘り下げる余裕(時間)を

  まったく持つことが出来なかった事に、今更ながら思い至るからなのだ。 

 

  ガイドにしても、引越屋(海外引越)にしても、どこかイベント的要素の強い仕事で、通常のような心持ちではダメで、ある程度テンションを上げて

  立ち向かわなければ、良質な仕事を限られた時間内に完結することができない・・・そういった責任の重さを私は感じながら働いていた。

 

  特に引越しは、大きい引越しになれば、作業員も8人ほどになるので、引越屋に入社して1年半で、私は現場責任者にされ、毎回変わりがちな

  下請けのポルトガル人メンバーをなんとかまとめ、お客にもメンバーにも気持ちよく、納得できる作業環境、作業内容への配慮するなど

  気を配って疲れたが、それなりに満足感を得たことも確かだ。

  しかし、破損したり、紛失などがあってクレームなどがあると実に気が沈んだりするので、その意味でも現場責任者としては緊張感が常にあった。

 

  まぁ、そういった事は私に限らず、誰でも責任を持って仕事にたずさわった者は大なり小なりあるわけであるが、定年退職によって自由な時間を

  持つことが出来るようになった今、私は初めて本当にやりたかった事柄に、誰にも何の遠慮もなく、それこそ悠々自適に生きていける今の現状を

  有難い・・・とあらためて思うと同時に、65歳を越えても不本意な仕事をしなければ生活できない多くの年配の人々が、一刻も早く悠々自適といえる

  境遇にならんことを強く願っている。

 

                    

                  引越下請けメンバーと皿包嬢等と・・・大きな引越しが無事終了した図

                  海外引越しは、現場での梱包作業と倉庫でコンテナに入れる前段階の大きな箱詰め作業がある。

  

  


  私の昭和はこうして始まった・・・

2024年02月02日 | 還暦録

  先日、81歳になったポール・サイモンがギター弾き語りする動画にであって、その変わりように驚きながらも、

  懐かしい友人に再会したような不思議な気持ちと同時に、私の喉に刺さっていた魚の小骨のことを、思い出させてくれた・・・。

 

                 

 

  私を『道』に到らせた因縁に『観音』というキーワードがあることは、これまでこのブログに何度も書いてきているが、

  その『導(しるべ)』の一つとして、ポール・サイモン作詞作曲『Sound of silence』は、私の中でどうしても看過することの出来ないモノ・・・というか

  私の潜在意識にしっかり刻印された公案(禅問答)であったように思う。

 

  この曲との出会いは1968年、私が16歳のときに公開されたダスティン・ホフマン主演映画『卒業』のエンディングに流れていた時が最初だった。

  その後、自己流でギターを始めた時、自然とこの曲も練習したように思う・・・。

  ただ英語がよく解らなかったので、『静寂の音』と題する曲の内容については、『何か深い…』とは思いつつ、曖昧のまま私の喉に魚小骨として刺さったままだった。

    

                                                                                                        The Graduate - Sound Of Silence Music Video 

  歌詞の一節に『 When my eyes were stabbed by the flash of a neon light.  That split the night , And touched the sound of silence・・・』とあり、

  意訳すると 『 ボクの眼にネオンの光が飛び込んできた時、夜の闇が裂け、『静寂の音』に触れていたのだ・・・』というのだ。

 

  こうしたアメリカ音楽、映画との出会いは、多感だが無教養な私としては、砂漠のオアシスのように、乾きを癒すためには絶対に必要であっただろう。

  例えば、ポール・サイモン、ボブ・ディラン、ジョン・レノン・・・彼等の歌の意味はよく解らないなりに、私の心に何よりも強く語りかけてきた。

 

  私は、当時の自分のこういった傾向を『西洋かぶれ』・・・と若干コンプレックスに思っていた面もほんのちょっとあったように思うが

  今思えば、全くそうではなく『道』をそれぞれのやり方で、鳴り物入りで説く彼等の音楽に耳を傾けていた時代で、それが私の『昭和』であったのだと思う。

  『昭和』というと、一つの型にはまったイメージがあるが、一方で我々(昭和27年生)はアメリカン・ポップスに耳を傾けた世代でもあった。

  


   素朴な疑問

2023年11月13日 | 還暦録

  昨日、我がYoutubeのホームページに、『若年性認知症』をテーマにした動画が紹介されていて、一つ観ると次から次と様々なドキュメント動画が

  アップされ、身につまされる思いでいくつもの動画を観てしまった。

  65歳未満で発症する認知症を『若年性認知症』・・・と言うらしい。

  円満なご夫婦が、定年退職時期をねらったかのように、奥様が『認知症』になってしまった例があって、ご主人は健気に身の回り一切の世話をしていた。

  『立派!』…と、心の中で拍手喝采をしながら、果たして自分はどうなんだろう・・・という不安がもちあがったりして複雑な気持ちであった。

  もっと若い時期に『認知症』になった夫婦のことを思うと、『悲しい』・・・と同情するしか出来ない無力感を思い、

  我が夫婦の愚脳を活性化するべく、今日も『花札』に興じたりした。

 

  脳が萎縮して、記憶や言葉が奪われる・・・その前に、駄洒落であろうが、なんだろうが頭に思い浮かぶ事柄を書くが良い!・・・という

  仏様の御託宣(ごたくせん)を受けとめた時、以前より心の片隅にあったこのテーマは是非書かなければと、ここにいま書く次第。

 

  例の『還暦スキャン』よりずーっと以前から私の愚脳を時折刺激していたテーマであったように思うが、

  小学生高学年?・・・何歳頃であったかさだかではないが、『自分は、一人のときはいい子なのに、学校でクラスメイトと一緒だと嫌な自分になってしまう…』

  という『素朴な疑問』というか、悩みを抱いたことを覚えている。 71歳になった爺の回想としてはカワイイすぎるかもしれないが

  しかし、これはとても重要な『着眼点』であった!! ことをここに記録しておきたいと思う。

  たぶん、子供は皆、そのことに気がついていると思う。しかしその疑問の『掘り下げ』を後押しする『何か』(親や先生、友人などのアドバイス?)が

  欠けているために、大切な着眼点が見過ごされてしまっているのだ。

 

  『 幼子が 次第次第に 知恵つきて 仏に遠く なるぞ悲しき・・・』 この詩に出会った時、その疑問が解けたのかも・・・

              

             フォロンの『疑問符の像』・・・『?』は『!』への鍵である。


  あれは最初の公案だった・・・

2023年10月05日 | 還暦録

  29歳の時、新宿にある東洋鍼灸専門学校へ入学すると、一人黒い着物に袴という出で立ちのユニークな先生がいた。

  物凄いエネルギッシュな先生で、当時の鎌倉円覚寺の老師の鍼灸主治医をしていて、12月の接心には必ず参加する・・・という禅者でもあった。

 

  その先生が授業後、生徒を誘って近くの喫茶店でお茶にしようというので、同級生ら5,6人とお茶をした時

  この先生が私の顔を見るなり、『お前の部屋は汚いだろう…』と言われた。

  いきなりなんていう事を言う人だろうか!・・・と憤然とした気分と、その質問というか、決めつけと云うか、何故そんな事を言うのか??

  不思議で不思議で・・・だからその事は今でもよく覚えているのだ。

 

  その頃はまだ禅の『ぜ』の字も知らない時で、その後、まさか自分が禅の修行にハマるとは・・・この先生も思わなかったであろう?

  いや、果たして彼は私の禅修行突入を予想していたのだろうか?・・・

  というのも彼のあの『トンチンカンな問いかけ』は私の最初の『公案』であったと今にして解る・・・からだ。

 

  実際、円覚寺居士林で修行を始めるわけだが、坐禅している時以外はとにかく掃除、掃除、掃除で道場内外、境内の階段など掃き清める作務をやらされた。

  ある時、庭にある手押しポンプのある流し台で、食器を洗っている先輩格の学生居士が、ご飯粒が流れたと言って慌てて摘んで食べる光景に出会って私は驚愕した。

  飽食時代と言われているこのご時世に、米粒一つ流れたからと言って、目の色を変え一心不乱に米粒を追う学生居士の姿は決して忘れられない風景であった。

 

  そういった細々とした体験は、禅修行の三学『戒・定・慧』という段階を踏んで『般若の智慧』、つまり『悟り』へと誘う『行』であった。

  『戒』とは『戒律』のことで、『してはいけない事=戒』、『しなければいけない事=律』だそうで、とにかく『清静』という基本に全力で向かっていたわけだ。

 

         

         25歳ぐらいの時の私のアパートの『汚い部屋』の証拠写真・・・いや〜実に恥ずかしい写真で公開を憚りましたが・・・

  『清い』・・・ということが、解らなければ『汚い』ということが解らない。『色即是空・空即是色』もまた然り、『空』がわからなければ『色』は解らない。

  


  『チャンバラごっこ世代』から

2023年06月29日 | 還暦録

             

 

  私が5〜6歳の頃の写真?・・明らかに手作りの木刀を持っている。地面は雪解けで泥んこ状態であるから春5月頃であろう。

  北海道、北見の春は遅かった。写真の右手奥にポンプが見えるが、この当時は水をここから汲んでいたのだろうか?

  私が立っている後ろに木や枝を切った薪が積み上げられているが、石炭の前は薪ストーブで暖を取っていた時期があったっけ。

 

  私は自分をおとなしい子供だと思っていたが、あらためてこの写真をじっくり見ると・・・案外わんぱく小僧でもあったのかもしれない。

  この頃は、近所のガキどもとよく『チャンバラごっこ』をしたものだ。

  『チャンバラごっこ』にはストーリーが必須で、だいたいいつも私がその筋書きを決めていた記憶がある。

  敵味方に分かれ『チャンバラ戦い』が始まり、勝った方が捕虜をとるが、そういった夜は必ず祝宴がもうけられ皆ベロベロに酔っ払う・・・

  という定番シナリオがあり、敵が酔って眠りこけている隙に、捕虜たちが脱走する・・・という筋書きを今でも覚えている。

  酒がほとんど飲めない私のシナリオなのに『酒』が必須であったのは当時の東映時代劇映画の影響…ということになる。

  とにかく私の子供の頃は、時代劇全盛の時代で、『日本伝統文化の基本精神』は時代劇から学んだと言うことができるだろう。

 

  スマホもタブレットもちろんコンピュータも何も無い『チャンバラごっこ世代』の子供と『デジタルネイティブ世代』の子供と、

  そのあまりの隔たりに正に『隔世の感』ありあり。 あまりの違いにビックリ仰天!

  我ら『チャンバラごっこ世代』は70歳代・・・で、我々がいなくなれば『武士道』はどうなるのであろうか・・・

  せめて現代の格闘家・朝倉未来が主催する『Breaking Down』などで『喧嘩道』としてその精神を継承してもらいたいものだ。


  レマン・ブルーの空に

2023年06月28日 | 還暦録

  あの有名な映画『ショーシャンクの空に』を観た。黒人のモーガン・フリーマンと、白人のティム・ロビンスの二人の名優が演じた刑務所物語。

 

  この作品、監督脚本:フランク・ダラボンで公開が1994〜5年なので、私が観た一回目はスイスで、英語版・フランス語字幕であったろう。

  凄くいい映画・・・であることはわかったが、言葉が解らないので細かいところは理解できずにいたはず・・・。

 

  あれから29年ぶり、今回は日本語字幕で観たので、よ〜くわかって感動、感動。で、ウィキペディアで調べたら原作がなんとスティーブン・キング!

  自分のブログを検索したら2016年に彼のその原作小説『刑務所 リタ・ヘイワース』を読んでいたことが判明してそれにもびっくりした。

 

  理不尽がまかり通る刑務所内での過酷なストーリーであるが、最後には『希望』を実現させる友情物語で、ハッピーエンドなのが実に嬉しいかぎり。

 

  こういった『刑務所』物語を観ると私の場合、退職前に15年間勤めた『引越屋』勤務時代を思い出してしまう。

  『引越兼貿易業』の事務所は、空港に隣接する横に伸びた大きな建物の中にあり、沢山の事務所が横並びするそっけない長い廊下を歩くたびに

  私は映画やテレビでしか観たことのない『刑務所』をイメージしたものだ。

  今考えると『刑務所』という発想は、視覚的からくるイメージだけではなく、仕事上どんなに理不尽なことがあっても、

  この地(スイス)では自分には他に仕事がないという正に『背水の陣』的・・・悲壮的覚悟があったからでもあろう。

   (映画では喜怒哀楽を共有するムショ仲間がいるが、私の場合は下請けの引越仲間とは共有できない責任の重さもあった。)

 

       

         写真は、2017年5月の最後のご奉公(引越)の帰りのトラックからの自撮り。

         自分自身に『お勤めご苦労さまでした』・・・の気分は、私にとっての『ショーシャンクの空に』であった。

  


  小さな土俵

2023年01月13日 | 還暦録

  年頭にあたり、私の経験から若い人にできる話・・・ということを考えた時、例えてみれば『土俵』の話はできるだろうか。

 

  私の言う『土俵』とは、常に初心者から始めなければならない『場』を意味し、数年前に自分の『還暦録』のために

  これまでやってきた職歴(バイトも含めた)を数えてみると『21の職種』を数えた。

  自分的には50ぐらいは・・・と思っていたが、以外に少なくて驚いた。

  それは多分、職種は『21』でも北海道から東京、神戸、大阪、ニューヨーク、スイス・・・と『場所』を変えていたので

  自分としては、職種という『土俵』に土地柄という『土俵』が加わり、沢山の『土俵』を踏んだ気分になっていたのだと思う。

 

  思えば、私は生まれてから一歳になるまで、『7軒の里親を渡り歩いた』・・・と、7軒目に養母となった母から生前

  聞かされたが(夜泣きが凄く、誰も長続きしなかったそうだ)それが事実だとすれば、私は『土俵を渡り歩く』星の下に

  生まれたような者であったのかもしれない。

  その意味では、私は他の子供のように、木に根が生えたような絶対的な『土俵』の上にいるという気持ちには

  ならなかったのであろう。

  

  いろいろな『土俵』をいくつか経験すると、人間関係というものはどこへ行っても同じであると、痛感した。

  どこにも嫌な奴もいれば、良い人もいる・・・と。

  そういった経験の中で、腐敗物があると、金蝿がよってくる…という自然法則が、人間の心や社会にもあって

  凛とした清淨な質を持たない者には『金蝿』が寄ってくる…という事情も、世界中どこへ行っても同じであると良く解った。

 

  ただ、『人金蝿』は人に『清淨心』のある事を気付かせる重要な役割も果たしているのかもしれないが・・・。

 

  私が『悟り』を『郷里・サトリ』と読み替えるのも、『土俵』というとっかえひっかえできる『場』ではない

  本当の拠り所としての『郷里』を無意識にも求めていたからであろうか。

        

            『 我々の 東湖畔の 初散歩 風が起これば 波やや高し 』一撮

 

  

  

  

  


  馬骨版・・・ホテル・カリフォルニア

2022年12月19日 | 還暦録

    先日どなたかのブログを拝見していると、アメリカのロック・バンド『Eagles』の  Youtubeがアップされていた。 

  その曲は私のよく知っている曲ではなかったが、Eagles・・・といえば、何と言っても『ホテル・カリフォルニア』

  Youtubeで早速検索すると下の動画が出てきた。1977年というと、私が25歳の頃か・・・。   

 

 

  この曲『ホテル・カリフォルニア』は、当時日本でも凄い流行っていてラジオからは絶えず流れていた曲だった。

  今だったら、即ググってその歌詞や歌の内容などをチェックしただろうが、40年以上前の昔はいくら気に入っても

  即その曲について調べる…というわけには行かず、歌詞の意味もわからず、ただただカッコいいそのメロディと

  リードボーカルの彼の哀愁を帯びたかすれ声が切なく、心に響いたものだ。

  彼等メンバーの顔を見たのも今日が初めてで、ボーカリストがドラムを叩きながら歌っているとは知らなかった。

  この曲はアメリカでもマイケル・ジャクソンの『スリラー』に次ぐ売上だそうで、今更ながら、道理で・・・と思った。 

 

  この曲にはストーリー性があり、歌詞の解釈にも様々あることもこの曲が愛される魅力の一つなのだそうだ。

  私も改めて何回か下の動画で歌詞を見ながら聞いていると、馬骨流解釈『ホテル・カリフォルニア』が観えてきた・・・

  いくつかのキーワードを探って、それを解説したみたい。 原曲からはかなりぶっ飛んだユニークな解釈にはなっているが。

            

 

 

  私にとっての『ホテル・カリフォルニア』とは、砂漠の『道』半ばにポッンと建っている『禅寺』のようなもので、

 『郷里』に向かう『道』への一里塚であったと思う。

  25歳だった私はその5年後に『ホテル・カリフォルニア』に宿泊する事になるとは想いもしなかった・・・

  当時禅寺での私の心細い心境をこの曲は歌っている。(全歌詞ではなく、キーワードとなる部分だけを掲載して解説)

 

On a dark desert highway, cool wind in my hair  どこに続くのか、暗い砂漠のハイウェイ『道』を私は髪をなびかせてドライブしていた

  
Warm smell of colitas, rising up through the air  コリタスの温かい香りが漂う(*コリタスとはマリファナの意味もあるが
                         スペイン語で蕾の意味で・・・悟りの華の蕾と馬骨解釈)
 
  
I had to stop for the night     とにかく疲れ、一夜の宿を借りたいと訪ねると、門前に立っていた女(観音様だった)が鐘の音で歓迎したが…
There she stood in the doorway
I heard the mission bell
And I was thinking to myself         その宿のなんとなく妙な雰囲気は、極楽か地獄、いずれかに導かれる…思いがしたものよ。
"This could be Heaven or this could be Hell"
 
Welcome to the Hotel California        よく来なされた、北鎌倉の居士林(禅道場)に・・・
Such a lovely place (Such a lovely place)    こんな安楽な所は他になく、安穏な顔をした人々に出会える  
Such a lovely face               居士林は来る者拒まず、年中誰でも大歓迎!だよ〜
Plenty of room at the Hotel California
Any time of year (Any time of year)
You can find it here
 
She got a lot of pretty, pretty boys she calls friends    彼女(観音様)は可愛い坊主たちに囲まれている
How they dance in the courtyard, sweet summer sweat  寺の庭を 夏の甘い汗の作務に励む坊主たち
Some dance to remember, some dance to forget     ある者は想い出のため、ある者はそれを忘れるために・・・
 
So I called up the Captain               私は直日(雲水のリーダー)に甘茶を頼んだら
"Please bring me my wine."
He said, "We haven't had that spirit here since 1969"   1966年以降、(スズキ大拙の没年後)甘茶は無い…と言われた
 
They livin' it up at the Hotel California         この道場で過ごす貴方達はなんて幸運なのだ
What a nice surprise (what a nice surprise)       修行にいそしんだアリバイは、いつか驚嘆で腰を抜かすだろう!
Bring your alibis
 
Mirrors on the ceiling                 本来の自己を観よ!・・・と、天井にも鏡が張り巡らされ
The pink champagne on ice             (それを見た際には)紅いシャンペンが用意されているけど
And she said "We are all just prisoners here, of our own device" 『貴方達は皆、自ら望んでここに囚われに来ているのよ』と観音様が言う
 
Last thing I remember I was running for the door    いつしか私は恐ろしくなって、出口に駆け寄っていた
I had to find the passage back to the place I was before
"Relax," said the night man               そこで夜警をしていた男が、『オイオイ、心配するな』
"We are programmed to receive             『俺達はみんな、どのみちここに来るようにプログラムされているんだよ』
You can check-out any time you like       
But you can never leave!"                『お前たちは、いつでも好きな時にチェックアウトOKだけど
                               決してここから離れられない・・・からな! ヒヒヒっ…  』

 

                                                                                  

 

                           Eagles - Hotel California (Live 1977) (Official Video) [HD] 


  ピンポイントの記憶 〜 『ローソク出せ、出せよ〜』

2022年11月19日 | 還暦録

  先日と言っても10月31日の、いわゆるハロウ〜インの夜の事。

  我々夫婦が近所のカフェにいると、約30分ほどの間に市販のハロウイン衣装を身につけた子供達(4〜5歳)のグループが

  3組ほどカフェにやって来て何か叫ぶと、その子供達に店主がお菓子を配る…という風景を眼にした。

  主にアメリカで盛んなハロウイン祭りが、近年子供達のお祭りとしてヨーロッパにも流行りつつある、スイスではまだ新参の祭りだ。

 

  店主と子供達のやり取りを観ていた私は、『デジャヴュ』的な、なんだか懐かしい・・・気がしたのであるが

  その時はそれでまぁ帰宅し、しばらくその件は忘れていた。

 

  それがある時、ふと『ローソク出せ、出せよ。出さないと○○ぞ!』・・・と口からついて出て、それはハロウインの夜に触発されて

  蘇ってきた記憶で、はるか遠くからよみがえって来た、私の幼い時の記憶であった。

                                 

         

  『ローソク出せ、出せよ!』の一節しか思い出せないので、ググって見ると、なんといまだに北海道だけで行われている風習で

  まさに『ローソク出せ』…と称す、旧暦の七夕、北海道ではそれが8月に行われる行事で動画までアップされていた。

  

  私の『ローソク出せ』の記憶も4〜5歳の頃の記憶で、浴衣を着て提灯を持って近所の家に『ローソク出せ、出せよ』といいながら

  練り歩き、お菓子をねだった・・・記憶であった。私の記憶では4,5歳以降のこの行事の思い出が無いので、我が故郷北見では

  この行事があるいは廃止されたのかもしれない?(子供がローソクを灯すので、火事を誘発する恐れがあることは確かであった)

 

  私の子供の頃の記憶を考えると、案外『祭り』に関する記憶が多いことにあらためて気づく。

  そう考えた時、『神事』や『盆』にまつわる伝統行事はそれを執り行っている大人達自身は無意識であっても

  行事の中にしっかり秘められている郷里(悟り)は、大人になるいつの日にかに『悟り』として開花する種を子供達に

  記憶として埋め込む通過儀礼なのだろう・・・。

  『ローソク出せ、出せよ!』・・・と近所を練り歩く行事も、『自灯明法灯明』の仏陀の教えを知った今、

  その行事が単なる『ローソク集め』で無いことは明らかなように・・・。

            

             ハロウインの頃、スイス・フランス語圏の窓辺で見かけた風景

    提灯を灯した、洋の東西似通った行事も『道』は同じとしても、その深さに格段の差があるようだ。


  コーラル・プリンセス号 の旅 (1977)

2022年09月03日 | 還暦録

  先日、湖畔を散歩していた時、花壇の美しいのをたまたま前を歩いていた年配の男性に同意を求め話しかけた相方に

  愛想よく返答してきた男性は元町会議員だったそうで、町のことを褒められるとやはりうれしいらしいらしく

  町のことをあれこれ説明してくれた。最後に、『この秋に客船で3ヶ月かけて世界一周するんですよ…』と教えてくれた。

  私は貧乏性なので、咄嗟に『いくらかかるんですか?』という質問を投げかけたかったのをぐっとこらえた。

  一昨年はオーストラリアまで行った所で、コロナの為に中止になったそうで、今年は4000人乗船できる船で旅行するそうだ。

 

  私より少し年配のこの退職者は年金で悠々自適で生活し、夫婦で豪華客船世界一周・・・なのか。

  私は船が嫌いなので、どんなに豪華客船であっても別に羨ましいとは思わないし、老人ホーム如き客船旅行はちょっと抵抗がある。

  

  しかしそのあと、冷静に『還暦スキャン』してみると、私は25歳のとき、『兵庫県青年洋上大学』という企画に参加しコーラル・プリンセス号

  というイギリスの客船で25日間ぐらいの船旅を経験していた。

  20〜26歳までの男女400名、半額は県が持ち、半額は自分持ちだったと思う。職場の推薦も必要だったような気がする。

           

  若い男女が半数ずつ乗船しているのだから、まぁ、いまでいう県が企画する『でかい合コン』みたいなものであったろうか。

  神戸港〜パラオ〜マニラ〜ベトナム(ホーチミン市)〜神戸港・・・が主な寄港地であったと思う。

  洋上大学というくらいだから、テーマにそった議論などが行われ、私が参加したグループのテーマは『国際人になるには?』というような

  ものであったと思うが、話の内容はすっかり忘れてしまったが、グループの中で私一人がすっかり浮いてしまい、担当の教師が総会で

  私のことを批判したので驚いたことであった。以来あまり自分の意見を言わなくなったかもしれない。

           

  ガールフレンド探しを私なりに必死に(気持ちだけ)したが、まったくモテず、それよりもパラオという島に行った時

  グループの一人の男が英語が堪能で、彼の通訳で現地の人の案内を受けたが、その時の嫉妬というか羨望がもとで、

  その後、勤めていた芸術学院を辞め、車で弁当配達しながら、英会話スクールに1年半ほど通うことになった。

  今から思えば、どこにどんな動機は潜んでいるかわからないのが『青春』というものであろうか??

         

  こんなに素晴らしい企画で客船に乗せて頂き、実にありがたいものであったが

  事前にその国のことなどもっと勉強していたならより有意義なものになったであろうに(PCやipadeのない時代だった)

  私の25歳はボンヤリした馬鹿者だったようで、今思うと残念に思うことが多い。

  旅行記録など書いておけばよかったし、写真もバンバン撮ればよかったのに、ベトナムでは戦争が終了したばかりだから

  あまり撮らないように・・・という指導員の言うことを守ってしまってあまり撮っていなかった。

  

  

 

  


  バブルの寵児 (2)

2022年08月04日 | 還暦録

  『バブルの寵児』・・・っていうタイトル、どこが〜って思われただろうけど、『金』に関わる仕事とは無縁でいたいと思っていた私としては

  まるで『マネー・ゲーム』のような『クレジット』という仕事の一端に関わっただけではなく、『修行生活』を経済面で助けられた意味で『寵児』であった。

 

  このブログを書いている時に、馬骨が顔を出して、謎に思っていた言葉『バブル』について『それって泡銭(あぶくぜに)のことかよ』と一言。

  辞書によると『あぶく銭〜苦労しないで、または不正な方法で得た金銭』・・・とあって、

  『バブル経済とは、実体経済から大幅にかけ離れて上昇する経済状況。金融引きしめなどをきっかけに市場価格が下落しはじめると

   投機熱は急速に冷め、需給のバランスが崩れ、資産価格は急落する(バブル崩壊)』と説明されていたが

  私にとってこれこそまさに『泡(あぶく)銭』だろう・・・よ、と思った。 株だとか、なんとか金融関係とは『無縁』の私ゆえに。

 

  夜間電話対応の仕事は、電話がだれよりも苦手だった私にとって、いい修行でもあったと思う。

  顔の見えない『音声』だけであるが、『声』による通信からうける『情報』の豊かさに気付かされた経験であった。

  カードを使うお客が、承認番号が出ず、拒否されたことに怒り心頭で『今からそっちに行くぞ〜住所はどこだ〜』…なんてゆうことは

  しょっちゅうあった。 一度などはしつこく管を巻く客に業を煮やした私は『般若心経』を唱えてしまった。

  会社は全会話を録音しているので、マズイとは思いながら・・・

 

              

                その頃住んでいた西小山と武蔵小山の間の八幡神社にて


   バブルの寵児

2022年08月03日 | 還暦録

  昨日は『太極拳習得』時期の話を書いて、あの頃の私の生活は『禅修行』『太極拳習得』『夜間バイト』に集約されていた…と。

  それでその時やっていた『夜間バイト』の事を急に懐かしく思い出し、その頃のことを『還暦スキャン』してみようと思う。

 

  スイスを経由してニューヨークから禅修行の為に帰国した私は、目黒に安アパートを借り、すぐできるバイトということで

  『チラシ配り』を始めた。2ヶ月ほどやってあまりにも収入が安いし、天候が雨だと中止になったりするし、相方ニコルが

  スイスから来日することになり、もっと収入が安定したバイトで、毎月一週間は『禅修行の接心』の為に休めるバイトはないだろうか・・・

  と新宿?か どこかニコルと歩いていたら、『英語のできる方時給 ¥1500円〜夜勤』というような張り紙を発見。

  応募してみたところ、FMラジオ英語の聞き取りテストをされ、『合格』となり、池袋のビルで夜22時〜翌朝9時?まで

  仮眠1時間だったような・・・で、週3日をベースとする勤務となった。

 

  しかし、その仕事は何んと!・・・私にはもっとも縁のない『クレジットカード』に対する承認番号を問い合わせてきた加盟店に

  電話で返答するという仕事であった。(結局、英語での問い合わせはほどんど無かったが、時給は英語対応であったので助かった)

  『クレジットカードって何?』という認識レベルの私が、その仕事をするというのだから笑い話であった。

  『バブル崩壊』のバブルの意味すら解らない私が、じつは、その当時にバブルの先端をゆく仕事に手を染めていたという皮肉・・・

 

   (*バブル時代〜1980年代後半から1990年代初頭にかけて起こった好況期のこと)…と、辞書にあって

  私がこの仕事をした時期(1987〜1991年)に恐ろしいほどピッタリと当てはまり、私こそが『バブルの寵児』であったことを

  今これを書いていて初めてそのことを認識し、我ながらそうであったのか・・・という感慨にひたっている。

 

  このバブル仕事のおかげを持って、禅や太極拳などに時間を費やすことができていた事を思うとちょっ複雑な気持ちがし、

  『バブル』の『バ』も知らない不況時代に生まれ育った今の若者たちが不憫な気がしてくる。

           

         

              夜勤あけで、38歳の誕生日を迎えた日の私(東京)

  


 遠くに在りて思う故郷・・・

2022年07月10日 | 還暦録

  時間的( 約60年)にも距離的(日本〜スイス)にも遠くになった故郷をいま思う時、小中学生時代、いわゆる義務教育という

  日本の教育体制による、当時の担当の先生方や同級生等と過ごした、7歳から15歳の9年間に学び培ったモノ・・・

  普段あまり省みることのないこの時期こそ、私という人間の基礎を築き上げてくれた期間であったと…

  海外在住しているせいか、日本という国に対して感謝の念が湧いてきたりする。

 

  6,7年に一回(?)ぐらいの割に小中学時代のアルバムや成績表などを観て、するともなく『還暦スキャン』をしては

  まったく無学な私に、一クラス45名という大所帯であるにも関わらず、目を配って世話をしてくださった先生方の思い出が目に浮かび

  通信簿に、各学期わずか一行ながらも伸びた点や注意点など記入があり、先生方の暖かな眼差しを読み取ることができる。

           

  このように私は故郷を省みる時に、日本という国を強く意識するのは、海外在住がその理由であることは間違いないと思うが

  そのような視点を持っている日本人の存在と意見は、日本にとっても大切ではなかろうか。

  私が何故そんなことを言うかというと、自国文化を継承するなかで義務教育が果たす役割の重要性を痛感していることだ。

 

  ボンクラながらも、30年以上ヨーロッパに住んで、肌感覚で日本とヨーロッパとの相違点を感じているだろうし

  同じ日本であっても60年前の教育と現在のそれとでは違っている。(日本の良さを体験した身としては)

  

 

  今日は参議院選挙の開票日、今現在日本時間で23時30分。今回の投票率は51%になる見込みだそうだ。

  山本太郎氏の東京選挙区では6人枠のうち4人が当選確実(蓮舫、山添拓、竹谷、朝日、その後生稲)で現在山本太郎は5位。

  れいわ新選組の比例特定枠で天畠氏が当選した。

  追伸  山本太郎氏当選しました。 良かった。(日本時間0時すぎ)

 

  私が小学校6年生のとき、1964年で東京オリンピックの年で経済的に上り坂で全国民的に希望に満ちた時期であったし

  私の小学校には、6年生だけでクラス45名X5クラスで、225名もいて少子化の真反対な状況であった・・・。

  

  今回の選挙、自民党が大幅に議席を増やし、改憲勢力に勢いがつく見通し、日本はどうなることやら。

        

             我が街・モルジュのレマン湖畔からの本日の風景

  

  

  

  

 

  

  


  列車内禁煙の歴史・・・

2022年07月06日 | 還暦録

  『 ちょっと皆さん、聞いて頂きたいんですが。 この列車の中には、こんなに小さな赤ちゃんがいます。

    車内にはいま3人の人がタバコを吸っていますが、この煙すごいですよね。なんとかならないでしょうか?

    冬だから窓も開けられませんし、この列車には換気もなにもありません。

    ほんの数人がすっているタバコですが、吸っていない沢山の人が煙で苦しんでいます。

    吸っている方には申し訳ないんですが、ドアの外側で吸っていただけないでしょうか・・・ 』

 

  当時19歳?(1971年)だった馬骨は、北海道の田舎に帰郷し、本州に戻るときの列車内の効きすぎる暖房とタバコの煙に

  自分だけではなく、若いお母さんが赤ちゃんを抱いて、苦しそうにしているのを観て腹が立って訴えよう・・・と思って

  喉までその思いが上がってきたけど、言う勇気がでなくて、言えなかった・・・という思い出が還暦スキャンで出てきた。

  

  あの時、この一言が言えたら・・・もしかしたら私は政治家になっていたかも…と、ふと思ったのだ。

  60歳までノンポリを自認していた自分が、こんな若き日に政治との接点みたいなものが実はあったということを今になって反省。

        

          昨日散歩したレマン湖畔でみた美しい花

  ウィキペディアによる『列車内禁煙の歴史』をみると

  1976年〜新幹線初の禁煙車設置(こだま16号車)

  1980年〜『嫌煙権確立を目指す法律家の会』による嫌煙権訴訟。被告は国・日本専売公社・日本国有鉄道

  2006年〜JR北海道 道内完結列車を全車禁煙化

  ・・・と、大ざっぱに列車内禁煙化の歴史をみると、今現在当たり前のような禁煙化が、わたくし馬骨が少年の頃、

  祈願した『禁煙』の実現化に要した歳月の長さは(2006ー1971=)35年・・・ということになる。

 

  世の中の理不尽に立ち向かおうと、沢山の人達が7月10日の投票日である参議院選挙に立候補している。

  権力を持つ側に、改善のための変更を訴えるためには、多くの人の『一票の力』が必要だ。 

  もし、あなたが何か改善を望むことがあるのであれば是非、7月10日には 投票に行ってほしい。

 

       


  還暦の行く末は 『子供の日』

2022年05月06日 | 還暦録

  あと一週間で70歳になろうというに、『還暦』の話とは・・・と思われるだろうが

  私にとって『還暦』は60歳から最期のチャンス的に始まり、生涯が終わるまでの一種の『菩薩行』であると解している。

  『菩薩行』とは、『上求菩提下化衆生』という事。

  そういう意味では、自分ほどマジに『還暦』を大事にしている若爺は少ない。

 

  自分の人生を振り返り、反芻してよく味わえば、間違いなく『童心』にまで行き着いてしまう。

  『悟り』などという面倒くさいことを考えずとも『還暦』するだけで『童心=郷里(サトリ)』に帰り着くに違いない。

 

  年一度の『子供の日』の効用は、当事者の『子供』はもちろん、子供ではない世代の者が自己の『童心』を祝う日でもある。

  理屈はともかく、『子供の日』という名称で祝日にしている国は日本の他にありやなしや?

          

        今の戦争でロシア軍は子供を容赦なく殺している・・・