前々回のブログで絶望ストーリー、映画『ジョーカー』について考察して、
8月21日のブログ記事〜映画『ジョーカー』を再度観て・・・を書いた後、『なんでこうなるかなぁ〜』なんてボーっとしてると
『武士は食わねど高楊枝・・・』なんていう、私の愚脳のどこから出てきたのか? かって一度も使ったことのない諺(ことわざ)が浮いてきた。
『ジョーカー』とこの諺の『武士』と何の関係があるの?・・・と、自問してみると、確かに私は
この映画の主人公の、上半身ハダカの痩せこけて背骨が丸く曲がった背中のシーンに衝撃を受けたが・・・どうもそれが関係しているようなのだ。
私はこれまで、この諺『武士は食わねど高楊枝』について考えたこともなかったし、とくに『高楊枝』というのがピンとこなくて
この諺に、なんとなくなじめないでいたが、今回この『ジョーカー』のおかげで腑に落ちる気がしてきた。
禅をはじめ、東洋思想の基本は『身心一如』であるが、『武士が高楊枝』とは、すくなくとも『背筋を伸ばした、堂々とした様』であると解したとき
言下に、武士というものが、幼少期より『姿勢を正す』という基本教育の徹底を思い浮かべたのだ。
日本文化の根底に『武士道』というものがあり、『武士道』の根底に『禅』があった事実を考えると
こんにち、国際的な場で、我が国の『武士道精神』を称える意味で『サムライ』という呼称が使われる場面では、
『ジョーカー』のような人間の出現はありえそうもなく、そういった対比からふと、『武士は食わねど高楊枝』が出てきたのであろう・・・。
そして私のような素性のわからない馬の骨でも、一旦海外へ出てみると何故か『サムライ』という自意識が芽生える気がするのが不思議だ。
『 我こそは ラスト・サムライ 丸腰の 息で鬼滅の 大和魂 』 馬骨
伝統文化のない北海道の片田舎で育ったガキでも、チャンバラ映画の影響のもと、『武士道』の何たるかを直感した私は、
自分こそが本当に最後の『ラスト・サムライ』か・・・と思ってみたが、いやいや『鬼滅の刃』やらなんやかんやで、その『武士道精神』は
動詞の『last』(継続する)という意味で、後続の日本人若者達にあらゆる在り方で『ラスト・サムライ』は、以心伝心するものなのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます