拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  犬も歩けば『某』に当たる…

2024年08月26日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  『犬も歩けば棒に当たる』・・・の本来の意味というのを私は知らないが、そしていつもだったらググってみるのだけれど

  なんか面倒で、自分勝手な意味合いにして、この語呂感のいい『ことわざ』を使って、この出会いについて表現したいと思ったのだ。

 

  だから、『犬も歩けば』の『犬』というのは、私のことで、犬のように何の期待もなくただただ歩き回っていれば

  いつの日か『某』氏(素晴らしい人)に出くわすものである・・・。 というような心境にさせてくれる非常に稀な出会いが、昨日あった。

 

  相方の情報では、時折散歩に電車で出かける田舎、ゴマンモティェの町で、町のオーガナイズでアーティストの『オープン・アトリエ』が

  この週末にあるということで出かけたのだが、相方の昔からの友人アーティストが彼女アトリエで、友人のアーティストと合同展示を行っている

  というので一番最初に訪ねたところ、そこにその『某』氏がいたのだ。・・・

 

  しかし、ここまで書いてきて、私の筆力ではこの男の人となりを表現することは、無理がある・・・と、弱音を吐くのも我ながら情けないが

  まぁ、私の勝手なイメージでは、よくしらないのに中国唐代の風狂な詩人『寒山と拾得』的な風貌の男・・・ということになり、

  ちょっとこれはググってみたが

 

  『 中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。

    確実な伝記は不明。ただ寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,

    家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。

    既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩をのこした。

   その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,

   現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持(きようじ)を語っている。 』・・・とあって

 

  ここに書かれているような、ストイックな面はまったく無く、かの有名な彼らの風貌をイメージした『絵』が残っているが、

  そのぼうぼうとしたヘアースタイルと、ニコニコと楽しそうに話す様子や、もしも先日亡くなった松岡正剛氏が彼の作品を見たら

  両の手を打って泣いて喜ぶような『編集工学』丸出し、常人には思いもつかない『アルファベット方程式(私による仮名)』とも言うべき

  けったいな発想を、分厚い良質な紙を使った本に仕上げて展示してあり、彼の『ニコラ』という名前が見当たらないので、本人に聞くと

  その作品ごとに名前を替えているので、私の名前『ニコラ』は無いのです・・・とのこと。 で、その名前は幾つぐらいあるんですか?と聞くと

  『数えてないので、わかりません』・・・という返答に私は痛快に呆れてしまった。

  私もこれまで、『一撮』とか『馬骨』、昔は『写楽斎』なんていう名前を使い回して、それも遠慮気味な気分でいた自分を笑い飛ばすほど

  わけのわからないこの男は、ピアノ演奏も達者で、相方の友人アーティストによる花々のスケッチにオリジナルピアノ曲をつけた動画を見せてもらったが

  素晴らしい出来に、私は感嘆のため息をついていた・・・。

 

             

  風貌によらない、多彩な才能を持ちながら、その方向性は専一に『慈悲心』であるところが、洋の東西を越えて人間性を

  大いに発揮している人間様が、いるところには『居るものであるなぁ・・・』と、嬉しい気分に私のシッポは振れるのであった。ワン!

 



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