第一回
雅が寫眞撮影の順番を終へて控室に戻ると、そこに永と熊井と須藤が居た。
三人は、雑誌を覗き込み乍ら何やら談笑してゐた。
夏燒雅は女性歌手團體、ベリヰズ工房の一員で、今日は新曲のジヤケツト撮影の爲、寫眞スタヂオに來てゐた。
「絶對、此れだつて」。
小さな控室に、永の大きな聲が響いた。
「其れはあり得ないよ。此つちだつて」。
「あたしも此つちだな」。
須藤と熊井が言ひ返した。
雅は鏡の前の椅子に座ると、結はへてゐた髪を下ろし、輕くブラシをあてた。
「みや、みや」。
雅の背中に永が呼びかけた。
雅はベリヰズ工房の同僚から、「みや」と呼ばれてゐた。
「みやはどれが好いと思ふ」。
雅が振り向くと、永が先程から皆の言ひ爭ひの種になつてゐた雑誌を差し出した。
そこには、最近登場したばかりの、男性歌手團體が寫つてゐた。
どうやら、どの男性が好みかを、先程から談じてゐたらしい。
雅は雑誌を受け取ると、寫眞を眺めてみた。
どの男子も、當世風の、すつきりとした顔立ちに、風になびいたやうなさらさらした髪型をしてゐる。
いづれ劣らぬ美男子である。ただ、雅には、全て同じ顔に見えた。
「全部駄目」。
と言つて雅は雑誌を永に返した。
「ええ。何、其れ」。
永が不滿さうに言つた。
「みやらしいよ」。
須藤が言つた。
「みやはね、男なんか興味ないんだもんね」。
と、熊井は言つて、永から雑誌を奪つた。
「やつぱり此つちのほうが好いかなあ」。
雅は衣装から私服に着替へて、
「お疲れ樣、先に行くね」。
と言ひ、控室を出た。廊下を歩ひて行く途中、どの男が好いかで、三人の討論が再燃するのが聞こへた。
翌日、雅は販賣促進映像の撮影の爲、スタヂオに來た。
化粧室に入ると、菅谷だけが居て、鏡に向かつて忙しさうに手を動かしてゐた。
時計を見て、少し早く着き過ぎたことに氣づいた。
「梨沙子、お早う」。
と菅谷に聲を掛け、腰を下ろした。
撮影開始の時間まで、まだ暫く有つた。
雅は、昨日熊井が何氣なく言つた言葉を、ぼんやりと思ひ返した。
「みやはね、男なんか興味ないんだもんね」。
此れまで、同僚から幾度となく言はれたことだ。
以前は、
「さう。男嫌いだからね」。
などと言つて氣にしてゐなかつたのだが、最近は、男性の話題が出る度に、雅は暗い氣持ちになつた。
雅は十五歳になる。同級生の中には、男性と付き合つてゐる者も幾人か居る。
男に興味がないわけぢやないけど。雅は思つた。
昨日見た雑誌の男子は格好良いと思ふし、花嫁衣裳に憧れもある。
いづれは可愛いお嫁さんになりたい、と思ふ。
其れでも今迄に好きと思へる男性には出会つたことがないし、増してや付き合ふなど、遠い將來のことに思へて、全く現實味がないことだつた。
女友達と居るほうが樂しいし、落ち着く。
「みや、みや」。
氣づくと、菅谷が傍に立つていた。輪ゴムを口に銜へ、兩手は自分の髪を握つてゐた。
「かう、かう、くくつて」。
菅谷梨沙子はベリヰズ工房の一員で最年少の十二歳。
自分で上手く髪を結ふことが出來ず、いつも雅に助けを求めてくる。
雅は梨沙子を鏡の前に座らせて、後ろに立つた。
「もう來年中學生になるんだよ」。
と言つて、雅は、綿毛のやうな、輕い、軟らかい梨沙子の髪を指で梳ひた。
梨沙子と出會つたのは四年前になる。
人見知りの雅を、何故かよく慕つた。
何かあれば眞つ先に報告してくるし、困つたことがあれば必づ頼つてきた。
雅も、此の手のかかる妹の面倒を、細々と見てやつた。
もごもごと、梨沙子が何か言ひ返してゐた。
雅は、梨沙子の口から輪ゴムを受け取ると、手際良く髪をまとめ、くるくると輪ゴムで縛つた。
一瞬、梨沙子の體から、ほんのりと、甘く、良い馨りがした。
雅はおや、と思ひ、匂いの正體を確かめる爲、梨沙子のうなぢに顔を寄せた。
梨沙子の肌は、日本人とは思へぬ程白く、肌理が細かかつた。
無意識に、雅は、梨沙子の首筋に頬を當ててゐた。
触れないと氣づかないやうな、弱々しい産毛が、びろうどのやうに柔らかい。
良い馨りは、どうやら梨沙子の肌自體が発してるやうだつた。
暖かい。先程迄の暗い氣持ちが薄れていくのを感じた。
とても幸せな氣分を感じた。暖かい。
「みや?」
といふ梨沙子の聲に、雅は我に返つた。
顔を上げると、鏡の中の梨沙子が、心配さうに眉を寄せて、雅を見てゐた。
「好き」。
其れは余りにも自然に、雅の口からこぼれた。
自分で言つて驚くと同時に、雅は、今迄自分の心にかかつていた、薄暗いもやが一氣に晴れたのが分かつた。
なぜ好きと思へる男性に巡り会はないのか。鬱々と溜まつてゐた其の疑問の回答を見出したのだ。
自分は男性より女性が好きなのだ。
それも、梨沙子を。
きよとんとしてゐる梨沙子に、雅はもう一度言つた。
「好き」。