JUSSI SALMIAKKINEN (ユッシ☆サルミアッキネン)

フィンランド各地の日の出、日の入り時間の変化をウィークリーでご紹介します。

FILE-053 Timoおじさんの家に行く その8(最終回)

2006-03-26 16:55:00 | フィンランドぶらぶら紀行
【Timoおじさん家の近隣の風景】


【その7からの続き】


間が知らぬ間にゆるやかに過ぎて、陽もだいぶ傾いてきた。
周囲は森と雪原(たぶん畑だと思う)、そしてその先にはタンペレとトゥルクを結ぶ鉄道が走っている。時折、短めの編成の列車が通り過ぎて行く。やはり、ヘルシンキ発の列車と比べると利用者が少ないからだろう。

こSotkiaにもかつては鉄道の駅があったらしいが、合理化で廃止されたらしい。
今は、こちらに来る時に使ったToijaraが最寄り駅だ。バスもあるらしいが、1日2往復くらいしかない。来る時はタクシーを使えとTimoおじさんは言っていた。Kinnarin Kotimuseo って言えば大丈夫とも言っていた。7Km離れているのだが、タクシー代はいくら位かかるのだろうか。

Kinnarin Kotimuseoもようやく一巡りし、自宅に行こうということになったが、その前に一仕事あるらしい。冬の生活のお約束、除雪作業のようである。
Timoおじさんは、納屋へ行きトラクターに乗り込んだ。
ガァーッと大きな音をたて、自宅と公道を結ぶ取り付け道路の除雪作業を始めた。


煙をもうもうと立てている。豪快な除雪作業だ。その間約10分。
除雪を終え、ようやく家に入ることになった。
現在住んでいる自宅は、Kotimuseoから少しだけ離れている。
そして、玄関まで来たところで、ニヤッとしてしまった。


関の庇(ひさし)にぶら下がっているカタカナ?の表札。
どうやら、1998年の長野五輪に行った際に、誰かに夫婦の名前をカタカナで教わったようだ。

うやく、家に入ることが出来た。外の気温は氷点下15度。結構寒いのだ。
Timoさん夫婦は、現在二人住まい。息子さんが二人いるが、二人とも社会人となってよそに住んでいるそうだ。

間に通され、コーヒーを飲み、一息つく。
ぎこちない会話をする。こういう時は青木エリナさんの書いた「旅の指さし会話帳・フィンランド語」が頼りだ。
しばらくすると、Timoおじさんがサウナに入ろうと言う。自宅のほうには現在では一般的なsähkösauna(電気式サウナ)があるのだ。
私は、OK(オーコー)といい、サウナに向かった。Timoおじさんは、Lapinkultaを忘れずにもってきた。
サウナはまずまずの広さで5~6人は大丈夫そうだ。
Timoおじさんは、熱くなった石にかける水に何やらボトルに入った液体を混ぜ、石に掛けた。
舞い上がる水蒸気と共に、何やら香ってきはじめた。そして、鼻の通りが良くなってきた。
《これって、何て言うんでしたっけ?》
いったんサウナから出て、Lapinkultaを飲む、温いけどうまい! そしてまたサウナへ。

ウナから上がり、着替えていると、Timoおじさんは猟銃を取り出してきた。
ライフル銃だ。この銃で狩りをするのだ。
“おまえ構えてみろ”というような仕草をするので、銃を受け取り構えてみる。
ずっしりと重い。Timoおじさんは、構え方が悪いと言ってみたいだけど、分らないふりをしてごまかした。残っていたLapinkultaを飲み干し、居間に戻った。

とTimoおじさんがサウナに入っている間に、日も暮れ、外は暗くなっていた。
奥さんのRiittaさんはその間、夕食の準備をしてくれていた。

食は、ヘラ鹿のシチュー、茹でたジャガイモ、サラダ。ヘラ鹿は、自分たちで狩りをした時のものだそうだ。シンプルだけどおいしい。
フォークだけで料理を食べていたら、お行儀が悪い!というような事を言われた。気をつけなくちゃ!
そして、デザート。出てきたのは、生まれて初めての味覚 MÄMMI だった。フィンランド・オリジナルのデザートで、イースター前の期間に食べるのが習慣らしい。
クリームと牛乳を掛け、とりあえず胃袋に流し込んだ。(注:MÄMMIについては後日別枠で紹介します。)

事が終わると、しばし居間で休息。TVでスポーツ番組を見始める。ちょうどクロカンのスプリント・レースが行われていた。さすが、クロカンを国技とする国だ。
羨ましい。
その間、Riittaさんはサウナへ。
Timoおじさんとプライベートな話をする。まだ彼の年を私は知らないのだ。
彼の地の人は、日本人よりも老けて見えることが多い。たどたどしいフィンランド語で年齢を聞く。年を聞いて、びっくり!
私は、てっきり彼はもう定年を過ぎた年齢だと思っていたのだ。それよりもはるかに若い。第一、自分の年とそう大きくは違わないのだ。おじさんが、おじさんをおじさんと呼んでいたのだ。以後はTimoおじさんではなく、Timoさんと表記する。

Riittaさんがサウナから上がり、日本から持って来た神谷バーの電気ブランを飲んだ。ちなみにフィンランド語で電気のことを sähkö という。彼らにこのお酒は、100年以上前の日本では電気という言葉が、とても新しい言葉だったのでそういうネーミングがなされた。と、説明したけど本当に伝わったかどうか?

Timoさんがアルバムをどこからか持って来て披露し始めた。それは、かつて訪ねたオリンピックや世界選手権の時のものだった。彼は20年くらい前から、世界を駆け回るようになったらしい。写真を見ながら、いろいろ話をした。何語でしゃべったか良く覚えていないのだが、お互いコミニュケーションが不思議と出来ていた。
写真に写っていた往年の名選手の名前を指しながら私が言うと、良く知ってるねえとでも言うような表情でニッコリ笑っていた。
スキーの写真を一通り見たあとは、Kinnari家の写真。若かりし頃の二人が写っている。
それから、出たのは2007年札幌で開かれる世界選手権の話。彼らは札幌に行くと言っていた。その時には、私も何かお手伝いできればいいなと思った。

話も盛り上がってきて?他の部屋も案内するといい。何部屋か廻った。
奥さんのRiittaさんは読書が趣味らしく、特にミステリーが大好きらしい。
日本でもベストセラーになったシドニー・シェルダンには、彼女もハマったらしく、Timoさんが、彼女が本を読み始めると、なかなか寝なくて困るとも言っていた。(これ何語でコミュニケートしていたのだろう?よく覚えていない。)

しい語らいも終わりを迎える時が来てしまった。
今回の訪問はお泊まりではなかったのである。翌々日に私はエストニアのタリンに行く予定があったので、準備の都合で日帰りの訪問にしたのだ。

び、防寒着に着替え、車で駅まで送ってもらうことにした。
時刻は、9時を過ぎていて駅に着いた時は、既に駅舎は閉じていて、駅舎の脇を通って直接ホームに向かった。
待つこと数分、遠くに列車のヘッドライトが見えてきた。お別れだ。
二人とハグをして、別れの挨拶をした。Nähdään taas!(またね!)、Kesällä!(夏にね!)の言葉が飛び交った。

その約束を早く果たしたい。

(長文失礼しました。)

【 Timoおじさんの家に行く・完 】

FILE-052 Timoおじさんの家に行く その7

2006-03-25 20:46:21 | フィンランドぶらぶら紀行
 
【その6からの続き】

家を出て、Timoおじさんは大きな納屋のようなところを案内してくれた。(注:写真なし)
馬橇(ばそり)のようなものや農具や何やらかにやら、説明をしまくる。

そして、次に案内してくれたの上の写真のような小屋だった。
中に入り、さらにその奥に行くとまっ暗な部屋があった。
壁にはすすのようなものがついて真っ黒け。
これが、噂に聞く「savusauna(煙のサウナ)」らしい。


記念にと思い、かまどの写真を撮る。
夏期などはこれを未だに使っているようだ。我々の知るサウナよりも全然いいらしい。
だから、Timoおじさんは『夏に来い』と言っているようだ。

【その8へ続く】

FILE-051 Timoおじさんの家に行く その6

2006-03-24 13:17:00 | フィンランドぶらぶら紀行
 
【その5からの続き】

玄関先での諸道具の説明も一息つき、居間と思われる部屋に通される。
Kylmäkoskiのホームページで見た光景が広がる。
あれよりは、マシな写真に撮ってやると思い、シャッターを押した。(見比べるべし!)
特別な名品はないようだが、この時代の平均的な家庭の姿であることが、かえっていい感じだ。調度品やアクセサリーのどれもが時代を感じる。


壁に貼ってあるちょっと小さめのほうの写真は、よく見たらフィンランド独立時の名将「マンネルヘイム将軍」(のちの冬戦争の終戦処理時には大統領になる)の写真だった。
木製ケースのラジオ(写真左下)なんて久しぶりに見た。


《このストーブみたいのなんでしたっけ? 教えて下さい!》
そして、キッチンに移動。


ここは、いろんな時代のものが入り交じっている感じ。

ふと、天井を見上げると...

hapan(酸っぱい)を通り越し、カビの生えたhapanleipä(酸味のあるライ麦パン)がぶら下がっている。
何十年も経っているのだろうか? これはご愛嬌!

さぁ、次行ってみよう!

【その7へ続く】

FILE-050 Timoおじさんの家に行く その5

2006-03-23 21:48:10 | フィンランドぶらぶら紀行
【その4からの続き】

次の建物に移動した。
時代的には、さっきの建物よりも建築年代が新しい。



家に入るとすぐ、様々な道具が目に入ってくる。Timoおじさんの説明も絶好調だ。
手にしているのは、炭火式アイロン。


昔のスケート各種。日本にも下駄履き式スケートというのがあったそうな。


珍しい、折りたたみ式スキー。
狩猟などに用いたもので、必要ない時は折り畳んでおく、森の中でも邪魔にならない。
ちなみに、ソ連との戦争(冬戦争)当時は、戦闘機にこのようなスキーを積み込んで置き、
万が一不時着した場合は、このスキーを使って戻って来たそうだ。


天井に保管された木製のクロスカントリー用スキー群。
木製のスキーは、写真のように保管しないと、反り(アーチベンド)がなくなってしまう。
ちなみに、木製のクロカンの板は1970年代前半まで、第一線の競技者も使っていた。
グラスファイバー製の板の登場は1974年からで、1972年の札幌オリンピックの選手たちは、手前のような木製板で滑っていた。
そして、当時のポール(ストック)は竹製だった。
トンキン(東京)ポールと呼ばれ、日本の竹が使われている。
日本発の輸出品のひとつでもあった。


【その6へ続く】

FILE-049 Timoおじさんの家に行く その4

2006-03-22 22:14:07 | フィンランドぶらぶら紀行
 
【その3からの続き】

Timoおじさんは、目についたものはすべて説明するかのような勢いだ。
室内に案内された。ここは、昔のフィンランドの農家の典型的な例らしい。窓はない。そして天井は意外と低い。
それらは、厳しい北欧の冬を乗り切るための防寒対策だったらしい。
ベッドも思ったよりも大きくない。手作りっぽいカーペットやタピストリが、当時の暮らしを偲ばせる。

今でこそフィンランドは、デザインやIT技術などで世界をリードする先進国であり、高福祉国家なのであるが、第二次世界大戦までは貧乏な農林業の国だった。それは、お隣のスウェーデン、ノルウェーなども似たり寄ったりだった。そして、自国で生活が成り立たなくなった人たちを新大陸に移民として送り出していた。
ここは、その頃の質素でつましい暮らしをしていた頃のフィンランドの面影を残している。


Timoおじさんは、なおも雄弁に語り続ける。見れば、何となく分るのでフィンランド語はおまけ程度に聞いていた。
上の写真は、当時の生活道具である。中央においてある道具は、チーズかバターを作る時に使ったものらしい。


昔話の絵本でしか見たことがなかった糸繰り車もあった。

Timoおじさんは、昔のフィンランドの田舎の暮らしぶりを皆に伝えたくて、このKotimuseoを開いているようだ。もっとも、それだけのものを遊ばせておけるだけのスペースがあるからなのだが。

【その5へ続く】