映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

裁きは終わりぬ (アンドレ・カイヤット 1950年 106分 フランス)

2012年12月05日 05時08分05秒 | アンドレ・カイヤット
『裁きは終わりぬ』 (1950年 106分 フランス)

監督  アンドレ・カイヤット
脚本  アンドレ・カイヤット
    シャルル・スパーク
撮影  ジャン・ブールゴワン
音楽  レイモン・ルグラン

出演
ヴァランティーヌ・テシエ
クロード・ノリエ
ジャック・カステロ
マルセル・ペレス
ジャン・ドビュクール
ディタ・パルロ
レイモン・ビュシェール
ミシェル・オークレール


農夫の男
農夫の男は裁判に出ているときに、イタリア人の若い手伝いの男に妻を寝取られた.陪審員を引き受けないと罰金を執るというから仕方なく出たのに、裁判なんか出たばっかりにこんなことになってしまった.それはさておき、この農夫の男、一度は出て行けとイタリア人を追い出そうとしたけれど、農作業が済むまでは居てもよいと、考えを変えてしまった.
彼にとって妻も大事だけど、農作業、仕事も大事だった?.否、裁判よりも、妻よりも、何よりも農作業が大事.妻を寝取られたことは済んだことと諦めよう.情けない奴.
ついでに補欠の陪審員の農夫.代わりをやれと言われて、彼は「豚の事ばかり考えてたから、裁判の事は分らない」と言った.
農夫にとっては、裁判なんてどうでも良くて、こりごりの出来事だったらしい.

貴族の男
金持ちの男と言っていいのでしょうか.この男、良家同士の縁談の結婚が決まって、それまで関係にあった女を捨ててしまった.結果その女性は自殺する.自分が捨てた女の自殺を、裁判が終わってから知ったこの男、自分で自分を裁く事になる.
『会って話をするだけでも、あの女は死ななかったかもしれない.あの女は自分のせいで自殺したのだから、自分が何とかすれば助けられたはずだ.助かりっこない人間の死に手を貸した被告の女は、訴えられ裁判で有罪になった.ところが自分は、助けようとすれば助けられる女性を、何もせず見殺しにしたのに、訴えられることもない.どう考えても、これはおかしい』

カフェのボーイ
ベルサイユの広場で、恋人の女性がこんな事を言いました.
「私達、この裁判を契機にして、幸せになれた.だからあの人も幸せにしてあげて」
そして、裁判で彼は、このように主張しました.
「人間、誰にでも間違いはある.ならば、人を幸せにする間違いは許されるが、人を不幸にする間違いは許されない」
恋人同士のこの二人、同じことを言っているのですね.

印刷屋の主人
この人は、ちょっと考えました.一見正しいことを言っているように思えるのですが、先のボーイの男の言葉を、彼女の言葉を考えれば、印刷屋の主人の言ったことは見えてくる.
『おれは不幸になったから、おまえも不幸になれ』

安楽死、この裁判自体はどうでもいい、難解な事件、出来事に際して、(勿論、すべての出来事に対して)幸せを願う心で考えて欲しい.と、カイヤットは言っているのですね.

宝石商のおばさんと、横恋慕の男は描かれた通り.
もう一人軍人の男が残っている.この男、どの様に考えても分らない.故意に分からなく描かれていると言うことで終わりにします



















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