映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

『有りがたうさん』 (清水宏)

2019年07月23日 22時36分49秒 | 清水宏
『有りがたうさん』
公開 1936年2月27日 78分

監督   清水宏
原作   川端康成
脚色   清水宏
撮影   青木勇
音響効果 斎藤六三郎
編曲   篠田謹治
音楽指揮 堀内敬三


出演
有りがたうさん........上原謙
黒襟の女..............桑野通子
売られゆく娘..........築地まゆみ
その母親..............二葉かほる
行商人................仲英之助
髭の紳士..............石山隆嗣
東京帰りの村人........河村黎吉
東京帰りの娘..........忍節子
行商人A..............堺一二
行商人B..............山田長正
猟帰りの男............河原侃二
田舎の老人............青野清
医者..................谷麗光
新婚の夫..............小倉繁
新婚の妻..............河井君枝
お通夜の人............県秀介
茶店の婆さん..........高松栄子
酌婦..................雲井ツル子
酌婦..................和田登志子
旅芸人................水戸光子
旅役者................爆弾小僧
旅役者................末永孝行
小学生................葉山正雄
小学生................飯島善太郎
旅役者................浪花友子
旅役者................小池政江


踊り子がでてきたりして、川端康成が『伊豆の踊り子』に書きたくて書かなかった、書けなかったエピソード、それらを纏めて作品にしたのではないでしょうか.
『伊豆の踊り子』は修善寺から下田へ、この映画は反対の方向、下田から修善寺方面へ向かうバスの話.作品の結末も反対で、『伊豆の踊り子』は悲恋に終わり、この作品は結ばれて終わる.

『伊豆の踊り子は』の映画はろくな作品がないので、原作を読んでみなければと思っています.
あの学生は、なぜ後になってから伊豆大島へ踊り子を訪ねて行かなかったのか、原作に書かれているのでしょうか?.彼は船に乗ってから慟哭してたはずで、そこに何かあったのかも知れません.

ま、それはそれとして、どんな理由があったにせよ、その後一度も会いに行かずに忘れ去ったとしたら、学生は実に不誠実な人間であったと思います.

学生が踊り子に興味を抱き=好きになり、踊り子もまた学生を好きになった.そして、学生は踊り子の気持ちを分っていたのに、その後、会いに行かなかったとしたら.....これほど無慈悲な行為はないのでは.....

この映画では、東京へ奉公に行かなければならない身の上の娘に想いを寄せた彼は、バスの購入を諦めて娘と一緒になることにしました.
『伊豆の踊り子』の学生に、学業を諦めろとは、それは誰も言わないでしょうが、けれども暇を見つけて会いに行くことは、彼に出来ることであったはず.
もちろん『伊豆の踊り子』そっくり同じではないでしょうが、若き日の川端康成によく似た出来事があって、彼一人の責任ではない、彼一人でどうにかなる出来事ではなかったのでしょうが、それでも自身に悔いを残す出来事があったのだと、思えてなりません.
人生を難しく考えることなく、『有りがたうさん』のように生きたかったのかも.....

それはさておき.
有りがたうさんは、バスを買うのを諦めて、売られて行く娘を買うことにした.酷い言い方かって、この方が分りやすい、売られて行く運命にあった娘を救ったのです.つまり彼は娘の幸せを買ったのではなく、娘を不幸な運命から救ったのです.この後、二人が幸せになるかどうかは、二人の努力、好き合った二人が互いに助け合って生きて行くことにかかっているのですから.






『古都』岩下志麻

2019年07月23日 01時40分14秒 | 邦画その他
『古都』
1963年1月13日公開 105分

監督  中村登
製作  桑田良太郎
原作  川端康成
脚本  権藤利英
撮影  成島東一郎
音楽  武満徹

出演
    岩下志麻
    吉田輝雄
    早川保
    長門裕之
    環三千世
    中村芳子
    宮口精二
    東野英治郎



双子の姉妹.
妹は、捨てられた姉が、捨てられたことによって辛い思いをしているのではないかと、それを案じて姉を探し求めていた.
他方姉は、彼女は自分が裕福な家に拾われて幸せになったが、妹の方は自分を捨てるような貧乏な家庭で辛い思いをしているのでは、と案じていたのだった.

姉は、幸せはお金だと、お金が重要だと思っていたのかもしれないが、妹には無用だった.綺麗な着物も、姉と自分を間違えた男もいらない.彼女は自分で働いて、自分で幸せを掴む女の子だった.
双子の姉妹であっても、それまで別々の暮らしをしてきたのであり、なおかつ、姉は姉なりの幸せを、妹は妹なりの幸せな生き方をしてきたのだから、これからもそれぞれの道で、それぞれの幸せを求めて行けば良いのだ.

幸せは、お金ではない.姉妹が互いに互いの幸せを願う、その心に有るはず.
その心を姉の元に残して、妹は帰って行った.
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もし姉妹のどちらかが愚れた生活をしていたら、愚れた当人が不幸なだけではなく、姉妹の他方も辛い思いをしなければならなかった、こう考えれば、二人共にそれぞれの生き方で幸せな生活をしていたとすれば、相手の幸せは自分の幸せでもあったはず.

誠実
妹を姉と勘違いしたのは仕方のない事だった.けれども、だからと言って姉から妹へ心変わりした織物屋の若者、彼は誠実な人間と言えるのだろうか.

親が子供を捨てることは、これ以上にない不誠実な出来事である.妹はその事実を、その不誠実を許すことが出来ず、姉を探し求めていたと言ってよいでしょう.
巡り合って姉の幸せを知った彼女は、それまでと変わらない自分自身の仕事を続け、そして姉の幸せの邪魔をしない生き方をすること、つまりは自分自身に誠実な生き方を望んだのだった.
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妹は片意地張らずに、姉の好意を受け入れて一緒に暮らしても良いのではないか、と、思えてならないのだけど.....
けれども、そうしたならば、それは、親が子供を捨てた行為を、肯定することに他ならない.
貧乏な家庭だったので、金持ちの家の前に子供を捨てたら、その子は幸せになった.子供を捨てて良かった、と言う話になってしまう.

子供が親に捨てられた不幸と、裕福な優しい両親の家庭に拾われた幸福とは、別のものである.
今一度書けば、自分自身に誠実に生きること、幸せはそこから始まるはずだ.