古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

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戦国期の武将気質  清田五郎太夫のこと

2018-07-27 19:44:14 | 日記

 熊本市指定文化財「清田家住宅」の12代当主清田泰興氏から清田家の先祖附きを見せて頂きました。コピーをいただいて一読したのですが、これがなんとも面白い古文書でした。以下に一文を記載します。

 文中2行目「義統(よしむね)落去之刻一同ニ落去仕候」の一節があり、これは文禄2年(1593)朝鮮の役の時大友軍に重大な失敗があって秀吉の怒りを買い改易になった事を指しています。この事件を境に大友一族の流浪が始まり、清田五郎太夫も牢人の境涯を余儀なくされます。

 
 主家が滅べば家臣たちは仕官の口を求めて奔走することになりますが、ある年のこと五郎太夫の目覚ましい働きが黒田如水の目にとまりました。4行目から5行目にかけて「人を誤り欠落仕候者御座候に付御城下にて首尾よく討ち放ち申候」とあり、これは奴隷商人に売り渡されようとしていた日本人奴隷を五郎太夫が見事に解放した働きと思われます。その働きを城内から如水が見ていたというのです。ちょっと芝居がかった話なのですが、そのくだりが古文書にしてはおもしろいのです。

 
 ここで我が国における奴隷貿易について簡単に説明をしておきます。鉄砲伝来以来ボルトガル商人には西洋文物の持ち込み等肯定的評価がある反面、同時に「雑兵狩り」といわれる否定的な裏面のあったことが近年の研究で明らかとなりました。つまり雑兵として戦場へ駆り出された農民が負け戦の結果奴隷としてポルトガル商人などに売りつけられていたことが明らかとなったのです。
 
 雑兵狩りをするのは勝者側の雑兵でその楽しみがあるので戦場に出て来るのですが、負け戦となれば自分が雑兵狩りに合う訳ですから、雑兵にとっても、それは賭けであったわけです。また、領主の側はその事をけして良しとしていたのではありませんが、それを禁じたら雑兵が集まらないという事情があつたようで、見て見ぬふりをしていたのでしょうね。

 
 豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じていますが、これくらいのことで奴隷貿易がなくなるはずはなく、それが消滅するのは我が国の鎖国制度が完成するまで待たねばならなかったのです。

 
 城内より使者が来て五郎太夫は如水の許へ召し寄せられ、盃を賜り仕官の約束も取り付けて己れの幸運を喜んだことでしょう。下がって沙汰を待つようにと言われ、連絡を待ちますが、五郎太夫のところへ如水からの使者は来ませんでした。「はて面妖な・・」と訝しみながらも、仕方なく豊前手拭町の住居へ帰ります。五郎太夫の面白いところは自分の方から催促がましい事を一切言わなかったことです。こういう潔さが戦国武将の気質なのでしょうね。
 
 終わりの5行にその顛末の説明があります。なんと如水は五郎太夫との約束をすっかり忘れていたというのです。後日そのことに気付くのですが、そのとき五郎太夫は既に城下を立ち去っていました。逃がした魚は大きいと言う、「探せ・・!」ということになったのでしょう。やがて、森与三兵衛という武士が「千石之折紙と白銀拾貫目」を携えて五郎太夫を尋ねて来ました。その時の会話の遣り取りを想像すると一席の講談を聞くような心地良さを感じますが、意外にも五郎太夫はこの仕官の口を断ってしまうのです。ここがまた講談めいて面白いのてす。


※ 「千石之折紙と白銀拾貫目」について少し説明します。「折紙」というのは手紙のこと、千石というのは当時博多の町に「千石屋」という紙問屋があったと言われ、そこの和紙に書いた手紙と解釈されています。また、白銀拾貫目というのは銀貨の事で贈答に遣う場合は銀と言わずに白銀と言ったようです。拾貫目というのは銀の重さで、37.5Kgあります。これを金貨に換算すると200両になります。金200両は懐へ収納できますが、銀貨の場合は袋に入れて馬にでも載せて運んだことでしょう。

  
 黒田如水召し抱えの良縁を蹴った剛勇の武士がいるという噂は豊前城下にも伝わり細川忠興の耳に入りました。細川家と黒田家、いずれも関ヶ原合戦の論功行賞で領地の大加増を果たした大名家です。細川忠興は丹後田辺18万石から豊前国一国と豊後杵築を合わせ39万9千石に、中津藩黒田家は12万3千石から筑前53万9千石にこれまた大加増。両家とも急増した領地経営のために家臣団の補充が必要でした。五郎太夫のような豪傑は両家にとって垂涎の人材だったのです。

 
 細川忠興と黒田長政はともに東軍として働いた同僚武将でしたが、長政は忠興の恨みを買う事を仕出かします。国替えの時長政はその年の年貢を持ち去ったのです。そのためにあとから入国した忠興には年貢の徴収ができなかったのです。食い物の恨みは深いといいますが、両家の仲が悪かったのはそのためだと言われています。忠興には長政の鼻を明かしてやりたいという対抗意識があって、そのためにも五郎太夫を意地でも召し抱えたかったのでしょうね。 

 
 寛永9年(1632)細川忠利は加藤家改易の跡を襲って熊本藩54万石の太守となりますが、清田家も主家に従って肥後に来ました。

 五郎太夫は正保5年(1648)病死しましすが、その時何歳になっていたか文中に記載がないので分かりません。第12代当主の清田泰興氏にお尋ねしましたが、70歳代の高齢になっていただろうと言われるだけで正確な年齢は分かりません。墓所は坪井流長院にあります。