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私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

何かを求める衝動に気づく

2015年03月27日 08時28分16秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇何かを求める衝動に気づく◇

私という存在である自我に関する表現の一つとして、それは衝動そのものである言うことができます。
衝動そのもの、あるいは衝動の連鎖そのもの、それが自我です。

私という自我は、常に何かを探し求め、追い求めています。
その何かを求める衝動が自我です。

そのような自我の変遷の過程で、これはという何かを手に入れることがあります。
そのときには、喜びも生じますし、思わずそれを誰かに伝えたくもなります。
「これだ」などと言ったりしながら、伝えようとします。

しかし、そうやって手に入れた「何か」も、自我がつくる考えであり、幻なのです。
やっと手に入れたという喜びの余り、それが幻だということに目が直ぐには向きませんが、いずれ気づくときがきます。
「これでもなかった」と。
そして、また探し始めるのです。

何かを手に入れる等の結果や結末にばかり目が行っていると、気づくことができません。
ヒントは、何かを探し求めているその衝動にあります。
あるいは、何かを「これだ」と掴むその自我の衝動にヒントがあります。

あなたの視線を、探し求めているその対象から自分自身に戻してください。
そして、何かを探し求める自分のその衝動に気づいてください。
延々と彷徨っている自分自身の姿に気づいてください。

気づくと、終わります。


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読んで頂いてありがとうございました。

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囚われの手放しの順序など

2015年03月09日 15時28分40秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇囚われの手放しの順序など◇

悟りの道は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)を手放していくことです。
そして、すべての考えを手放したら最終的な悟りである解脱の悟りとなります。
手放しは、100パーセント、完全である必要があります。

手放しを完全に行う上で、重要なことがあります。
それは何かと言いますと、手放しを完全に行うためには、手放しの順序がとても大切だということです。

その順序は、二つの行程からなっています。
最初の行程は、私という存在が考えをつくりだしている創造主であることを自覚するとともに、私以外のすべては私がつくりだしている考え、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。
次の行程は、私自身も考えであり、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。

この二つの行程のうち、特に重要なのが最初の行程です。
最初の行程で、すべては私がつくった考えであり幻だということがしっかりと附に落ちておらず、何か囚われが残っていると、次の行程で、私自身も考えであり、幻であるという十分な理解が得られず、それが附に落ちないのです。

自覚は、その最初の行程を実行するのに非常に有効な手段です。
また、その次の行程を実行する際にも、自覚はとても有効に作用します。
それまで、私がつくっている考えに向けていた意識を、自分自身に向ければいいだけなのです。
その気づきは一瞬です。
すべてが幻だと見極めたその視線が私自身に向けられた瞬間、私自身も幻であることが附に落ちます。

このような、私自身も含めた一切が考えであり、幻であるという理解を、小悟の悟り階層で得る方もおられるだろうと思います
私(慧空)自身もそうでした。
しかし、残念ならが小悟の悟り階層で得られるこの理解は、まだ浅いのです。
なぜなら、小悟ではまだそれなりの量の囚われが残っているため、その囚われが障害となり、私という存在である意識を的確に捉えられないのです。
一切は幻であるというより深い理解を得るためには、さらに囚われを排していき、私という存在が意識そのものであるということを体感できるところまで進む必要があります。

「観るものは観られるもの」という視点が得られる大悟に至り、さらに囚われを排していくと、私という存在が連鎖的に起こってくる意識の連鎖であることが体感できるようになります。
そして、その意識の連鎖が縁起であると理解できます。


ここから先は余談です。

縁起を体感できるところまでくると、おそらくもう、掴んでいる考え(囚われ)は、残り少なくなっているはずです。
多くても、五つくらいなのではないかと思います。
それでも、まだ行程は終わった訳ではありません。
さらに、その残った囚われを排していきます。
そのときも、自覚が役に立ちます。
おそらく、この段階までくると、そこからさらに先に進もうとすると、使える手段は自覚かそれに類似した方法しかないのではないかと思っています。

そして、一切の囚われを排したとき、にわかに表面に出てくるものがあります。
それが苦、つまり根本的な苦なのです。
何かの考えを握り締めているときは、多くの場合、その苦は隠れています。
考えを掴んでいること、あるいは考えを掴もうとすることは、その苦から逃げていること、あるいは逃げようとしていることであり、考えを掴んでいると、その苦に目が向かないのです。

私たちは、その根本にある苦から逃れようと、藁に縋るようにして考えを必死に掴んでいるのです。
藁(考え)に縋り付いているうちは、その根源の苦に目が向かないのです。

この根源の苦を実感したとき、はじめは、ジタバタと悪あがきするかもしれません(私もそうでした)。
しかしいずれ、そういうものだと理解し、観念します。
つまり、一切皆苦を理解することとなります。
そして、それに伴い、その根本の苦から逃れようと、衝動的に延々と彷徨っていた自らの姿に気づくことになります。
その気づきが生じた瞬間、その根本の苦から逃れようと延々と続いていた衝動がうそのようにピタリと止まります。

これが最終的な悟りである解脱の悟りです。


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リンゴを使った考察

2015年02月25日 09時37分52秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇リンゴを使った考察◇

以前にもリンゴを使って同じような文章(リンクはこれです)を書きましたが、今日はちょっと別の角度から書いてみたいと思います。

第一の考察として、まず徹底的にやっていただきたいことがあります。
それは、目の前にあるリンゴ(PCでも景色でもなんでもいいです)について、それが本当に実体としてそこにあるのかどうかという点です。

リンゴは本当にそこに有るのでしょうか。
絶対にあると言えるのでしょうか。

有ると感じるのは自分がそう思い込んでいあるだけなのではないか。
自分がリンゴを目で見て認識したらか、あると思ってしまうのではないか。
手でリンゴに触れたとき、リンゴの感触を感じているが、それはリンゴがあるのではなく、リンゴの感触に対する認識が起こっているだけなのではないのか。
実際にリンゴを食べたときも、リンゴの食感や味に対する認識が起こっているだけでないのか。

リンゴが実体として存在しているという証拠はどこにもないのではないか。
存在しているという証明は不可能なのではないのか。
それでもリンゴが実体として存在していると信じていいのか。


第二の考察。
リンゴがテーブルの上におかれていて、あなたはいま、それを見ています。
そのとき、あなたはそのリンゴを目を通して認識しています。
そして、あなたはおそらく、リンゴは実体として目の前にあるんだと思われることでしょう(笑)。

では、あなたがリンゴが見えないように、クルッと後ろを向いたとします。
もうリンゴは見えていないはずです。
それで、私はあなたに質問したいと思います。

いま、あなたにはリンゴが見えていませんが、リンゴは存在していると思いますか?
存在していると思われる場合、そう思う根拠はなにですか?
根拠もなく存在しているという結論を出されるのですか?


第三の考察。
リンゴに視線を戻して、リンゴを見てください。
まずは、いつものように普通にリンゴを見てください。

次に、これ以上無いというくらいにリンゴに意識を集中しながら、リンゴを見てください。
徹底的に集中しながら、リンゴを見てください。

そのように集中しているとき、あなた自身に対する感覚や認識はありますか?
いま、あなたはどこにありますか?
リンゴに集中しているとき、リンゴに対する認識と、あなた自身に対する認識が共存できますか?

では、今度はあなた自身に意識を向けてみてください。
多くの方がそうであるように、あなたも、自分自身についてあまり疑うことなく何となく、自分はあると思っておられるのかもしれません。
あなたは、どういう点を根拠に、自分はあると思っておられるのでしょうか?
この機会に徹底的に、そこを追求してみてください。

自分があるとどうしてそう言えるのだろうか。

そもそも自分とは何なのだろうか。


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夢か現実か、絶対はあるか

2015年02月04日 23時23分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇夢か現実か、絶対はあるか◇

今日は、悟りに関係がなさそうで、実は悟り、それも深い悟りと繋がっていることがらについて書きたいと思います。

前置きは抜きで書いてしまいますと、次の二つの問いは、一見すると悟りのは何の関係もなさそうに思われるかも知れませんが、実は深い悟り、特に解脱の悟りに至る上で、とても重要な意味を持っています。

一つ目の問いは、この現実世界は夢か現実(実体)かという問いです。

二つ目の問いは、絶対と言えるものはあるのかという問いです。

私としては、悟り云々をやる前に、まずこれらの問いについて徹底的に考え、追求して頂きたいと思うのです。
ここをうやむやにしたままでは、解脱の悟りには決して至れないのです。
取りあえず悟りの道に入り、解脱の悟りに至るまでに追求するという方法も無いことも無いですが、多くの場合、それは成功しません。
なぜなら、悟りの道中では、如何にも絶対的に見え、又は感じる概念(幻)に触れることになりますので、上記の問いに対するしっかりとした追求を経ていない方は、それらの概念を絶対なものとして、信じ込み抱え込んでしまうのです。
そのような概念としては、ここで何度も書いていますが、真理、真我、根源、空、全体、ひとつのもの、神、涅槃、「私」などがあります。
そられの概念を絶対として抱え込んでしまうと、そこで悟りの行程は止まります。

上記の二つの問いについて、ぜひ考え追求してみて頂きたいと思います。
その上で、以下の文章をお読み頂きたいと思います。


まず、この現実世界が夢か現実(実体)かという問いについての答えを書いてしまいますと、この問いに対する結論は出ないのです。
多くの方は、この現実世界は本当に有る実体で、夜寝ているときに見る夢は単なる夢で、私という意識によってつくり出された幻だと、なんとなく思い込んでおられるのだと思います。
また、そう信じたいお気持ちも分かります。
しかし、この現実世界が実体であるという確固たる証拠は何処にも無いのです。
この現実世界が実体であるという証明も不可能なのです。
つまり、この現実世界の根幹は絶対のものではなく、揺らいでいるのです。

次に、絶対と言えるものはあるのかという問いについての答えを書いてしまいますと、上記のように、この現実世界が実体であると断言できないように、何一つとして絶対と言えるものなど無いのです。
そんなことはないよ、神こそが絶対だよと仰る方がおられるでしょうが、そのあなたの追求は甘いです。
絶対であると結論を出す前に、絶対であるとする揺るぎない根拠を見つけ出すべきです。
根拠も無いのに絶対であるという結論を出すべきではありません。
曖昧なまま安易に結論を出されるのなら、その甘さは、悟りの道を歩むあなたの足取りを簡単に停止させるでしょう。
突き詰めると、あらゆることがらに根拠がなく、絶対だと断言できることは一切無いことが分かるはずです。
これは、悟り云々をやる以前の問題です。


このように、一切のことがらに、実体性、絶対性が無いのです。

その一方で、この文章を読まれているあなたには、心の中に解決したい、あるいはスッキリしたい何かがあり、悟りを求める何らかの欲求があるのだと思います。
そして、あなたは、そのようなあなた自身の心を落ち着かせ、何らかの納得を得る必要があるという、あなた自身の課題に直面している訳です。

実体と呼べるものも、絶対と呼べるものも無い中、それでも、あなたはあなた自身の心を巡る課題に取り組んでいかなければならないのです。
どこから、どう取り組めばいいのか、ここが大いに問題になります。

そのような雲を掴むような状況の中、ひとつだけハッキリとしていることがあります。
それは、解決したい、スッキリしたい、あるいは悟りたいという課題を抱えた、あなたの心が「有る」ということです。
まさに、これについては、あなたが向き合い、取り組むべき対象としてしっかり「有る」のです。

だって、あなたの心はモヤモヤしていて、それをスッキリさせたいのでしょ?
悟りを求めてるのでしょ?

もちろん、絶対に「有る」とは言いませんが、あなたの心の課題はしっかりと有る訳なのです。

それだったら、まずは、あなたの心のその課題に向き合い、取り組んで頂きたいのです。
現実世界のことや、神や真我や真理と言ったものに気を取られずに、まずは真っ直ぐに、あなたの心と向き合って頂きたいのです。

それでもし、そのあなたの心のモヤモヤがスッキリして解決できたら、他のことはもうどうだっていいじゃないですか。
そうでしょ(^^)


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最後に残る迷いは苦に対する衝動

2015年01月30日 20時40分58秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇最後に残る迷いは苦に対する衝動◇

大切なことについて、改めて書きたいと思います。

握りしめている考えが私という意識の連鎖や迷いを引き起こしていますから、握りしめている考えをすべて捨て去ることができれば、解脱の悟りとなります。
その手放しを進めていく過程で、どうしても最後に残るものがあります。

それが「苦」です。

私という存在の根本のところに「苦」があり、私という存在である意識の迷いは、すべてその「苦」を何とかしようとする衝動に伴って起こっています。
その「苦」についてもう少し具体的に表現すると、不足感、不自由さ、閉塞感、苦しさなどです。

私たちの意識には、その根底にある「苦」に対して、それを何とかしたいとか、それから逃れたいとか、あるいはそれを何とかできるはずだ等の衝動が常に働いています。
その衝動が意識の迷いを延々と引き起こしています。

その意識の迷いから抜け出すためには、その「苦」から生じる迷いの衝動を停止させる必要があります。
その迷いの衝動を停止させない限り、いくら握りしめた考えの手放しをしても、また掴んでしまいます。

そのためには、「苦」は、私の意識の中に何らかの態様で常に有るものであり、決して逃れられないことに気づくと共に、「苦」から逃れようと衝動的に彷徨い続けている自らの姿に気づく必要があります。

そこに気づけば、あなたの意識の迷いはきっと止まります。

どうか、自覚を続けられ、そこに気づいて頂きたいと思います。


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意識の焦点を「私」に絞り込む

2015年01月21日 22時51分41秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇意識の焦点を「私」に絞り込む◇

自覚とは、シンプルに言うと「私」に意識を向けることです。
私に意識を向けただけで、十分に自覚になるんです。

より正確には、自覚には、私に意識を向けることだでなく、起こってきた現象や、感情や思考を観るという要素も含まれているのですが、意識が私にしっかりと向けられていれば、観ることも自ずと伴ってきます。
どういうことかと言いますと、私にしっかりと意識が向けられていれば、起こってくる現象や、感情や思考に巻き込まれる割合が減りますので、自ずとそれらを冷静かつ客観的に観られるようになるのです。

そうやって、起こってきた現象や感情や思考を冷静に観られるようになれば、私という自我が握り締めた考え(囚われ)に自ずと気づいていきます。
また、高い集中度で「私」に意識が向けられれば、それだけで私という自我が握り締めた考えが解放されていきます(あるいは溶けていきます)。

ですから、自覚をされる方は、これ以上は無理だという程の強い集中度で、ご自分の意識の焦点を「私」に当てて頂きたいのです。
そして、気が向いたときにときどきされるというのではなく、できるだけ常に、高い集中度で意識を「私」に向け続けて頂きたいのです。
その状態を常に維持していただきたいのです。

どのくらい深い悟りを得られるかは、その「私」に当てられる意識の焦点の絞りの強さによって決まると言っても過言ではありません。
特に、大悟や解脱の悟りと言った深い悟りを得る際には、極限まで絞り込んで意識を「私」に当てる必要があります。
解脱の悟りを得る際は、針の先のような意識の集中度が必要になります。
最終的な局面では、私の意識の迷いがとても微細なものになっていきますので、そのような極めて高い意識の集中がないと、私の意識の迷いに気づけないのです。

具体的なやり方としては、例えば、まずは、身体の中心を通る直径10cmくらいの中心軸をイメージして、その中心軸に意識を集中してください。
なお、中心軸に意識を向ける際の上下方向の範囲については、例えばハートから頭の範囲や、丹田付近から頭の範囲など、ご自分で意識を集中しやすい範囲を決めて集中してください。
直径10cmの中心軸がイメージできるようになったら、さらにシャープに、例えば直径1cmかそれ以下のサイズの中心軸をイメージして、その中心軸に意識を集中してください。
あるいは、ハートの中心(コア)の位置が分かる方は、そのコアに向けて意識を集中されてもいいです。


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ハートを開くワーク

2015年01月18日 23時03分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇ハートを開くワーク◇

ハートを開くためのワークにはいろいろあるとは思うのですが、一つとてもいいワークがありまして、今日はそれを紹介したいと思います。
準備が出来ている方の場合、このワークをやれることで、ハートが開くだけでなく、明け渡しが起こってしまう方もおられるのではないかと思います。
なお、このワークはある有名なワークの本質部分をコンパクトに抜き出したものです。

<ステップ1>
あなたが、最も嫌いだと思う、あるいは否定したくなる、あるいは受け入れられないと思う対象を一つ選んでください。
好ましくは、その対象は、あなたと密接な関係性がある出来るだけ近しい人であるのがいいです。
例えば、一番望ましいのは家族(特に両親)で、次に望ましいのは関係の深い知人や職場の同僚や上司等だと思います。
その対象となる人の全体が受け入れられないというのでもいいですが、その人の一部であるここが受け入れられないというのでもいいです。
なお、対象は人が望ましいのですが、仕事や学校、社会の中の制度や取り決め等でもいいです。
あるいは、お金等のものでもいいです。

<ステップ2>
ステップ1で選んだ対象(ここでは人とします)となる人の、こういうところが受け入れられないと思うところを、言葉(単語)で表現し、紙に書き出してください。
少なくとも三つ以上書いてください(できれば五つ以上)。
例えば、ずるい、不真面目、自堕落、意志が弱い、傲慢、感情が激しいなど、いろいろあると思います。
まずはとにかく、その対象人物の受け入れられないと思うところをどんどん言葉にして書き出してください。

<ステップ3>
ステップ2で書き出した対象人物の受け入れられないと思う複数のところのうち、あなたが最も受け入れられないと思うところ、あるいは、それによってあなたが最も影響を受けた(嫌な思いをした)と思うところを一つ選んでください。

<ステップ4>
ステップ3で選んだその対象人物のあなたが最も受け入れられないと思うところによって、あなたが受けたマイナスの影響(デメリット)をすべて(できれば三つあるいは五つ以上)書き出してください。
例えば、父親の自堕落さによって、家庭が崩壊したとか、行きたい学校に行けなかったとか、惨めな思いをした等、思い付いたものをすべて書き出してください。

<ステップ5>
ステップ3で選んだその対象人物のあなたが最も受け入れられないと思うところによって、あなたが受けたプラスの影響(メリット)をすべて(できれば三つあるいは五つ以上)書き出してください。
このステップ5が最も重要なところですので、これまでのあなたが歩んできた道のり、あなたが得てきたもの、あなたが大切にしているものや思いなどに、あなたの意識を深く、そして全体に向け、あなたが得たものを探し出してください。
その対象人物の受け入れられない部分によって、あなたはきっと何かを得ています。
その対象人物のその部分に対して起こるあなたの感情が強ければ強いほど、その対象人物のその部分から、あなたにとって大きな大きな何かを得ています。
それを見つけ出してください。
そして、気づいてください。

<ステップ6>
このステップ6からステップ8は、補助的なものであり、それほど重要なものではありません。
ステップ3で選んだその対象人物のあなたが最も評価できると思うところ(長所)を一つ選んでください。
その対象人物に対する評価が低い場合、長所なんてあるはずがないと思われるかも知れませんが、どこかに長所は必ずありますから、注意深く探してください。
そして、その対象人物の長所によって、あなたが得たプラスの影響(メリット)について、思い付くものすべて書き出してください。
また、その対象人物の長所によって、あなたが得たマイナスの影響(デメリット)について、思い付くものすべて書き出してください。

<ステップ7>
あなた自身について、自分で最も優れていると思うところ(長所)を一つ選んでください。
そして、そのあなた自身の長所によって、周りの人にどのようなプラスの影響(メリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。
また、あなた自身の長所によって、周りの人にどのようなマイナスの影響(デメリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。

<ステップ8>
あなた自身について、自分で最も劣っていると思うところ(短所)を一つ選んでください。
そして、そのあなた自身の短所によって、周りの人にどのようなマイナスの影響(デメリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。
また、あなた自身の短所によって、周りの人にどのようなプラスの影響(メリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。


ワークの内容は以上です。

実は、私は知り合いの人からこのワークを受けたことがあり、それでこのワークのことを知りました。
私がこのワークを受けたのは、明け渡しと、自我を捉える悟りである見性を終えた後だったのですが、私がこのワークを受けた動機は、このワークについて知ったとき、このワークが中庸(ニュートラル)を徹底するのに使えるとピンと来たからでした。
結果は、私の思った通りで、私はこのワークを受けた後、悟りの道中の中庸(ニュートラル)のポイントを通過し、大悟に向かっていくことになりました。

最後に、参考になればと思い、私がこのワークを受けたときの対象人物等について簡単に書きたいと思います。
私は、私が小学五年のときに自死した父についてこのワークを受けました。
私が生まれた家は、父の実家だったのですが、諍いが絶えない家でした(母は、父が亡くなって直ぐ、私と弟を連れて父の実家を出ました)。
私は自覚を知って始めて、家の中のゴタゴタから逃げ、いつも夜遅くまで出歩いている父の弱さや無責任なところを受け入れられてないことに気づいたのです。
また、交通事故の後遺症(むち打ち症です)を苦に、あっけなく自死してしまった父の弱さが心のどこかでずっと受け入られてなかったのでした。
私に備わった粘り強さや責任感は、そう言った父の弱さの影響により得た部分があることが、このワークにより分かりました(そしてもちろん、その強さの裏側には弱さもしっかりあることも分かりました)。


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自分の考えに翻弄されていることに気づく

2015年01月17日 21時31分09秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自分の考えに翻弄されていることに気づく◇

みなさん、自分で考えをつくっておきながら、その考えに翻弄され、苦しまれる方が多すぎます。
これは、とても滑稽で悲しいことですが、事実です。
今日はそのことについて書いてみたいと思います。

例えば、あなたに何かを手に入れたいという欲望が生じたとします。
その対象としては、仕事だったり、何かの物だったり、異性だったりといろんな対象があると思います。
それが何とか手に入るものならいいですが、なかなか手に入らないものであるときは、心に激しい葛藤が生じることもあるでしょうし、大きな苦しみのもとになります。
少なからず、あなたの心はその対象により翻弄されることになります。
翻弄される余り、人生の貴重な時間を翻弄されたまま消費してしまう方もおられるのだと思います。

しかし、そうやってただ翻弄されるのではなく、一度冷静になって立ち止まって頂きたいと思うのです。

あなたが囚われているその対象に価値や意味を与えたのはあなた自身であることに気づいて頂きたいのです。

仕事や物や異性に、それがいいという価値を与えたのは誰ですか?

起こってきた現象に、それが問題だという考えを与えたのは誰ですか?

誰かの言動に対し、それが理不尽だ等の考えをつくったのは誰ですか?

その対象や、その対象に付与した考えに囚われるのではなく、一度立ち止まり、あなた自身に意識を向けてください。

そして、その対象に付与した考えをつくっているのはあなた自身であることに気づいてください。

自分のつくった考えに囚われ、翻弄されている馬鹿馬鹿しさに気づいてください。


厳しい言い方をすれば、何かの対象やそれに自らが付与した考えに翻弄される姿は、まさに奴隷です。
外側の対象に価値を付与しておきながら、自分自身に価値を見出せず、外側ばかりに価値を求めて翻弄されるその姿を、奴隷と言わずしてなんと言えばいいのでしょう。
残念ながら、多くの方は、自分がつくった考えの奴隷のように生きています。
そして、奴隷のまま死んでいきます。

どうか、外側の対象やそれに付与した考えをあなたの上に置かないでください。

それらを、あなたの足の下に踏みつけ、それらに主導権を与えないでください。

そして、創造主としての主導権をあなた自身にしっかりと保持してください。


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自分の言葉を反芻する

2014年12月24日 20時36分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自分の言葉を反芻する◇

自覚をやられる方は、自分の発した言葉を反芻していただきたいと思います。
これは、自覚が深まるにつれ自ずとやられるようになっていくものだと思うのですが、ぜひ心がけてやって頂きたいと思うのです。

口から出る言葉だけではなく、書いた文章についても反芻して頂きたいのです(文章の方が書き表すときに自覚が入りやすいですし、形に残るので読み直すことで反芻も容易だと思います)。
頭の中に浮かんだ考え(言葉)についても反芻してください。
回数に制限はなく、何度でも反芻して頂きたいと思います。

どうして自分の言葉の反芻をお勧めするのかと言いますと、自分の発する言葉には自分が握りしめている考え(囚われ)が数多く含まれているからです。
もっと言えば、囚われた考えが連鎖し、迷いに迷っている自分の姿がそこに如実に現れているからです。

早い方は直ぐにでも、ゆっくりの方でも続けられるうちにきっと、自分の囚われに気づくときが来ると思います。


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自覚を始められる方へ

2014年12月13日 21時37分13秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚を始められる方へ◇

自覚に初めて取り組もうとしておられる複数の方から、コメントやメールでのアクセスを頂きましたので、いい機会だと思いまして、自覚のガイダンス的なことを少しご案内したいと思います。

自覚がどういうものかや、そのやり方の基本的なところにつきましては、このブログカテゴリの自覚ワークの紹介カテゴリに入っている下記の文章をご参照頂きたいと思います。
「自覚」という言葉を初めて聞かれた方は、何だかよく分からない感じとか、簡単には理解できない深淵な何かがあるのではないかとか、いろいろ感じたり考えられると思いますが、「自覚」とはとてもシンプルで簡単なことなのです。
「自覚」の基本は、まずは自分に関心を持ち、自分に意識を向けることなのです。
本当にそれだけなのです。
そうして、自分に意識を向けているうち、自分の意識の動きが見え始め、それを観察するようになっていきます。
そして、自分が何か考えを握りしめ、それに囚われていることに気づくようになります。
そうやって、握りしめている考えにひとつひとつ気づいていけば、自ずと悟りの道を進んでいくことになります。

それと、強く申し上げたいことは、自覚はひとりでも十分にできるということです。
確かに、既にある程度上手に自覚をやっている先人と会って、対面で直接教えてもらうと早く習得できる場合もあるかとは思いますが、ひとりでも十分にやれます。
現に、このブログや掲示板に来られる方々の中には、誰からも教えてもらうことなく独力で自覚を習得しておられる方や、このブログに書いた私の文章等を参考にして自覚を習得され、上手に自覚をやってられる方が複数おられます。

自覚ワークの基本的な内容や、やり方については、まずはこれらの記事からお読み頂きたいと思います。
「私に意識を向ける」
「自分を観るワーク」
「自分を愛するワーク」
「進捗の自己確認など」
「自覚のポイントやコツなど」
「改めて自覚ワーク(1)」
「改めて自覚ワーク(2)」
「自覚ワーク:創造主としての実感を深めていく」
「自覚ワーク:私を愛し、本来の私を取り戻していく」

そして、ある程度上手に自覚ができるようになられた方は、これらの記事を参考にしてみて頂きたいと思います。
「自分に意識を向けるワーク」
「「私」に意識を向け続ける」
「「判断」について吟味し、検証する」
「ハートの自覚ワークについて(1)」
「ハートの自覚ワークについて(2)」
「大悟を得る(天から梵天へ)(2)」

自覚に関するガイダンス的なことは以上です。

最後に、自覚に取り組んでいく上で実はとても重要なことがありまして、そのことについて書かせていただきたいと思います。
その重要なこととは、「集中力」なんです。
自覚を進めていかれるうちに自ずと集中力も磨かれていくのですが、私の周りの方々の例を見ておりますと、どうやら自覚を始める段階でどれだけ高い集中力を持っているかがとても重要であるようなのです。
集中力が弱いと、仮にある程度自覚ができるようになっても、自覚が弱いため、浅い自覚のままそれ以上進まなくなってしまうのです。

そのため、私としては、まだ集中力が不十分な方については、自覚と並行して呼吸瞑想等の集中力を養う瞑想をやられたらいいのではないかと思っています。
例えば、呼吸に意識を向けて瞑想する数息観等をやられたらどうかと思います。
あるいは、私が昔やっておりました呼吸瞑想のようなものでも結構です(私が昔やっていた呼吸瞑想はこの記事をご参照ください)。

それで、どの程度の集中力があればいいのかと言いますと、これもケースバイケースではありますが、集中力を高めて自分に意識を向けているときや、呼吸瞑想等により深い瞑想状態に入っているときに、少なくとも数秒程度はしっかりと思考が停止するようになっているのが好ましいと思います。
また、意識の集中が高まったときに、呼吸が停止するほど集中が高まっているようであれば、十分な集中力を持っておられると思います。

以上、ご質問等がありましたら、ブログコメント、掲示板、メール、なんでも結構ですから、ご連絡いただきたいと思います。


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読んで頂いてありがとうございました。

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「幸せ」という迷いからの脱却

2014年10月23日 21時23分36秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「幸せ」という迷いからの脱却◇

至福も含めて「幸せ」という感覚はまだ迷いの中なんです、ということをどうお伝えしたらいいのか、ここ暫くの間考えていました。
しかし、この「幸せ」というのはとてもデリケートで誤解も招きやすく、また迷いも深いため、それをお伝えするための上手い切り口が見つからないでいました。
いくら考えても、また妙案を待っていても何も出てこないので、今日は思い切って書いてしまうことにします。(^o^)


結論から先に書いてしまいますと。
歓喜や至福を含めた幸福感などの「幸せ」という感覚は、まだ迷いの中なのです。
「幸せ」は、幸不幸の言葉で表されるように二元の迷いの中なのです。

しかし、悟りの道を歩まれる方々の多くが、この「幸せ」の迷いから抜け出すことができません。
どうしても、「幸せ」を求めてしまうのです。
求めれば求めるほど迷いが深まるだけなのに、求めずにはいられないのです。
また、いま現在、「幸せ」を感じている人は、その幸福感や、それに関連した状況を握りしめてしまい、手放すことができません。
それほど「幸せ」とは魅力的であり迷いやすいのです。

自我が大分薄くなっているはずの大悟者でも、この迷いから抜け出せない方がおられるようです。


どうしてそのように、迷いから抜け出すことができないのでしょう。

それには二つの要因があると、私は考えています。

一つ目は、無自覚のまま自分の自我の衝動に翻弄されているからです。
「幸せ」を求めるのは自我(エゴ)がやることですから、その自我の挙動に対する自覚がないことには、自分が翻弄されていることに気づきようがないのです。
この一つ目の要因に対しては、しっかりと自分を見る「自覚」をやっていただくことで対応できます。

二つ目は、「幸せ」を求める欲と、「幸せ」の対極にある「不幸」や「苦しみ」に対する恐れです。
欲と恐れは、根っ子は同じであり、同根なのです。

特に障害となるのが、この二つ目の要因なのです。
「幸せ」に対する欲を手放すことや、「不幸」等に対する恐れに打ち勝つことは簡単ではないのです。

しかし、より深く悟りの道を進んでいくためには、この壁を乗り越えていくしかないのです。

そのやり方としては、大凡二つの方法があるのだろうと思っています。

一つ目は、自覚を極めていくことにより、「幸せ」や「幸不幸」という考えの虚構性、無意味さを見破り、その迷いから抜け出すという方法です。

二つ目は、「幸せ」を捨て去ることです。
「幸せ」を求めることを放棄することです。
あるいは逆に、「不幸」や「苦しみ」を受け入れることです。


「幸せ」は、私たちのもとを時折気まぐれに訪れては、過ぎ去っていくものです。

そのような気まぐれで不確かなものを、求めないでください。

また、過ぎ去っていくものにしがみつこうとしないでください。

そこに得られるものは何もありません。

あなたの心は、いつまで経っても満たされることなく、虚ろなままです。

そのことに早く気づいてください。

あなたの意識を「幸せ」ではなく、あなた自身に向けてください。



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大悟を得る(天から梵天へ)(2)

2014年10月11日 20時33分09秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟を得る(天から梵天へ)(2)◇

今回の記事は前回の記事の続きです。

前回の記事で書きました三つの事柄について大凡引っかかりがなくなると、何らかの形で自然と大悟に向かうことになります。

大悟に至るまでの経緯や使用した方法は人それぞれであり、多種多様な経過を辿られた方がおられるでしょうし、また何か方法を使われた方についても多様な方法があるんだと思います。
ですから、私がここで紹介します方法等はほんの一例に過ぎないとお考え頂きたいと思います。

ただ一つ確信を持って言えることは、意図して悟りの道を進まれている方の場合、大悟を得るときの要となるものは、燃えさかる炎ような強い意識の集中だと思います。
そのときに意識を向ける対象や具体的なやり方が異なるだけで、極度の意識の集中状態を経るという点では共通しているのだろうと思っています。

では、本題に入っていきたいと思います。
なお、今回の記事では私が実際に実践してよく知っている方法だけに絞って書きたいと思います。

私は二つの方法を実践し、知っています。

まず一つ目の方法は、「私」に意識を集中する方法です。
意識の集中度合いを極限まで高めた状態で、「私」に意識を集中してください。
燃えさかる炎のような激しさで、あなたの意識を「私」に集中してください。
この世界いっぱいに広がったあなたの意識を、「私」の中心である一点に集中してください。

そのとき、あなたが認識する世界には、あなたが意識を向けている対象である「私」しか存在しなくなります。
「私」以外の他の考えがある場合には、まだ意識の集中度が足りません。
あなたが認識する世界に「私」だけが存在するようになるまで、意識を集中してください。

「私」以外の他の考えが起こってくるときは、他の考えが起こってくるたびに丁寧に、その考えを私が起こしているんだなと自覚することで、無用な考えの連鎖が起こらないように消し去ってください。
そして、「私」への集中度を高めていってください。

「私」への集中度が高まってくると、自然と自我の意識が薄れていき、思考の無い無我(無心)の方に行ってしまいます(そのままいくと、無我や禅定に入ってしまいます)。
この方法はあくまでも「私」に意識を集中することが重要なのであり、無我に入ることが目的ではないのです。
ですから、安易に無我に入るのではなく、「私」という考えをしっかりと維持して、その「私」に意識を集中し続けてください。
そのときのコツとしては、例えば、「わたし、わたし、わたし、...」とゆっくりと声に出して、あるいは心の中で唱えながら、つまり「私」という考えを「私」の中心につくり続けながら、その「私」に意識を集中してみてください。

このように、「私」に意識を高い集中度で集中するすることで、私という自我が溶かされていきます。
自我が溶かされ、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、大悟となります。


二つ目の方法は、私という存在である自我が考えをつくりだす現場に高い意識の集中度で直面しつづけることで、私という自我を溶融させつつ、自我と自我がつくりだす考えとをいわば直接的に統合させようとする方法です。

(なお、私という自我を捉える悟りである見性を得ようとされている方の場合は、通常、私(自我)と考えとは別のものであるという両者の分離を確立する過程を経られる必要があるため、混乱されないようにご注意ください。見性を得ようとされている方は、このワークのことは読み流して頂きたいと思います。)

具体的なやり方は、「私」が何かの考えを起こす現場に高い集中度で直面し、その現場における「私」と、「私」がつくりだす考えとの関係性を徹底的に洞察し続けます。

「私」が何かの考えをつくりだした瞬間における「私」の意識の動きや変化を徹底的に観察し、「私」と考えとの関係を徹底的に洞察してください。
また、「私」が何かの考えをつくりだし、さらに次の考えをつくりだしたその瞬間における「私」の意識の動きや変化の様子を徹底的に観察し、洞察してください。

例えば、「私」が「いま何時?」とか、「雨が降ってる」とか、「電車だ」という考えをつくりだした瞬間の「私」の意識の動きや変化を観察し、洞察してみてください。
また例えば、「私」が「私」に意識を向けている状態から、「いま何時?」等の他の考えをつくりだした瞬間の「私」の意識の動きや変化を徹底的に観察し、洞察してみてください。

そうやってあなたがご自分の自我が考えをつくりだす現場や、自我がその意識を向ける対象が何かの考えから次の考えに移り変わる瞬間に直面し続けることにより、いずれあなたは、ご自分の自我という意識が、起こってくる考えそのものであることに気づかれるでしょう。
「私」という自我が、連鎖的に起こってくる考えそのものであり、その考えの連鎖に伴って移りゆく意識そのものが「私」であることに気づかれるでしょう。


あなたが大悟に至ったとき、それは直ぐに分かります。
あなたの自我がある閾値(臨界値)を超えて滅せられるのに伴って、あなたの自我の感覚が大きく薄れます。
それによって、あなたの自我(主体)と、あなたの自我がつくる考え(客体)との統合が始まります。
そして、あなたが何かの対象を見たとき、あなた自身の自我の存在感覚は欠落して無く、あなたが見ているその対象物のみが存在しているかのような感覚になります。
この感覚を「見るものは見られるもの」と言ったりします。

大悟に至れば(特にその直後は)、四六時中と言っていいほど、あなたは「見るものは見られるもの」になるはずです。
あるいは、四六時中とは言わないないまでも、あなたが意識をそこに合わせると、いつでも好きなだけ、しかもとてもたやすく「見るものは見られるもの」になれるはずです。

大悟の間近まで到達された方が、一時的に「見るものは見られるもの」になることがあります。
しかし、それが一時的である場合は未だなのです。
この点、ご注意頂きたいと思います。


上の一つ目の方法についてのより具体的な方法例として、このブログに「ハートの自覚ワーク」(1)(2)という文章を書いておりますので、ご参照ください。
また、二つ目の方法に含まれる具体的の一つとして、「私とは何か」を徹底的に追求する方法があります。

最後に私(慧空)の場合について簡単にお話しますと、上の二つの方法をほぼ同時並行してやっていたのですが、掛けた力の配分としては、一つ目の方法の方により多くの力を注ぎました。
なお、私の体験談については出来れば近いうちに文章を書こうと思っています。


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大悟を得る(天から梵天へ)(1)

2014年10月08日 21時00分12秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟を得る(天から梵天へ)(1)◇

今回の記事では、天界の悟りから梵天界の悟りである大悟に向かうときに気を付けて頂きたい点等について書いてみたいと思います。
なお、天界の悟りとは、以前、悟りの階梯(1)(2)(3)(4)という記事でも書きましたが、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒が得られているとともに、私という自我を捉えられている状態です。

この天界の悟り階層は、複雑であるとともに厚みも大きいため、大悟に挑むための準備段階と、実際に大悟に挑む段階とに分けて書きたいと思います。
複雑だと言いましたのは、この悟り階層におられる方の多くがまだ多種多様な考えを握りしめた方がおられると言う意味です。
また厚みが大きいと言いましたのは、この悟り階層におられる方の多くがまだ多くの考えを握りしめておられると言う意味です。

今日は、この記事の前半部分である大悟に挑むための準備段階について書きたいと思います。

この天界の悟り階層は、まだ良い悪い等で代表される二元の迷いの中なのです。
この悟り階層に到達される方の多くは、これが正しい、これが良い、こうあるべきだ等の種々の二元的な考えを沢山掴んでいます。
ですから、そのような方はまず、掴んでいる二元的な考えを手放していく必要があります。
ではその手放しをどうやるのかと言いますと、それは多くの場合、日常的な体験の中でやっていくしかないのです。
出家等をして修行をされている方についても、その方の日常である修行生活の中でそれをやっていくしかないのです。
そうやって、二元的な考えの大半を手放すことができたら、この点については準備完了となります。

それと、もう一つ大きな要素としては、この悟り階層におられる方の多くは、悟りの道を真っ直ぐに進んでいくことよりも、まだ他にやりたいことや、やるべきことがそれなりに残っておられます。
深く自覚をやられ、自分に何かをやらせようとしている考え(執着あるいはカルマと言ってもいいです)に気づき、それを手放すことで、自分がやりたい又はやるべきと感じることを解放する方法もありますが、これは多くの場合難しいのです。
ですから、この悟り階層におられる方も、まだ悟りの道に入っていない一般の方と同様に、ご自分がやりたい又はやるべきと感じることをやられることで、その執着を解放していく必要があるのです。
ご自分ではその実感がなく、やりたいこともやるべきこともないと無いと感じられるかと思いますが、この悟り階層で留まって日常を送っておられることそれ自体が、まだそこでやるべきことがあることを物語っているとも言えるのです。
やり残した執着があると、大悟への発心が芽生えないのです。
そう言った執着を解放し、大悟へ向かう準備が完了することで、それに伴うようにして、大悟に向けた発心が芽生えてきます。

さらにもう一つ、この悟り階層を抜け出していく上で大きな障害となり得るものがあります。
それは真我の感覚による迷いです。
この迷いは、真我の第一段階の覚醒が得られることで生じるものであり、この悟り階層特有のものです。

真我の外縁は至福感、統一感、喜び等の感覚が強烈に前面に出て来やすいため、それを掴んでしまい、また酔ってしまい、延々と迷ってしまう方がとても多いのです。
意識のチャンネルを真我に合わせると、私という自我の意識が抑制され、それに変わって至福感や、愛で満たされる感覚に比較的簡単になってしまうため、これが究極の意識状態に違いない、あるいは、これが解脱の悟りだと誤解して、そこに留まってしまうのです。

「至福」、「愛」、「ひとつ」、「神」、「真我」、「根源」等の言葉(考え)が出てくるうちは、まだまだ迷いの中なのです。
「あるがまま」、「ただ在る」、「いまここ」も迷いの中です。
「愛」や「ひとつ」等の考えをそれがいいものだと思い、握りしめ、それらに意識を向けておられるのです。
それらの考えに囚われてしまっているのです。
「愛」や「ひとつ」に意識を向けるのではなく、「私」に意識を向けて頂きたいと思います。
そして、「私」がそれらの考えを握りしめていることに気づき、その迷いから脱して頂きたいと思います。

あなたの自我は決して滅せられてはいません。
そもそも、存在が残っている限り、自我が滅せられることはあり得ないのです。
例え、最終的な悟りである解脱の悟りを得ても、まだ存在が残っている以上、最低限の自我は残るのです。
自我が残っているのですから、いろいろな感情も欲求も、分別等の思考もそれなりに残ります。
自分の自我は滅せられたんだなどと早合点されずに、もう一度改めて、ご自分の意識とその動きをしっかりと確認して頂きいと思います。

これは私(慧空)の体験に基づくものですが、二元の迷いから抜け出していくとき、自分が普段何気なく行っている判断や選択についてそれを自覚し、検証、追求していくという作業がとても有効です。
この点について、このブログに記事を書いておりますので、どうぞご参照ください。
これです、「「判断」について吟味し、検証する」。


次は、実際に大悟に向けて挑むときのことについて書きます。
(つづきます)


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自覚と主体性について

2014年10月07日 20時45分38秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚と主体性について◇

自分に意識を向けさえすれば「自覚」なのですが、このように簡単に言ってしまうと、自覚の大切な要素が抜け落ちてしまわないかと心配になります。

その大切な要素とは、私という存在の「主体性」に対する認識です。

ただ自分に意識を向けるだけだと、他の内観手法と余り変わらないものになってしまいかねないのです。
ですから、「私が」それをやっているんだとしっかりと意識しながら、自覚をやって頂きたいのです。

自覚をやられるときは、「私が」自覚をやっているんだとしっかりと意識してください。
また、私に意識を向けるときは、「私が」それをやっているだとしっかりと意識しながら、私に意識を向けてください。

そして、そうやって自覚をやろうとしている自分の意思をしっかりと認識し、自覚して頂きたいと思います。
そこに、あなたの意思(自由意思)があり、主体性(主導権)があります。

ぜひ、そのことに気づいて頂きたいと思います。
また、気づいていて頂きたいと思います。


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大悟から解脱の悟りへ

2014年10月01日 21時20分36秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟から解脱の悟りへ◇

今日は、大悟から最終的な悟りである解脱の悟りに至るときの手掛かりについて書いてみたいと思います。

なお、大悟とは自我の大半が滅せられることによって生じる悟りであり、自我である主体と客体である考えとの統合は始まる段階です。
大悟の特徴的な感覚や理解としては、「見るものは見られるもの」という感覚や理解が生じたり、ハートに私という自我の感覚が消失することなどが挙げられます。


大悟から解脱の悟りに進むときの方法は、基本的には自分を見つめる内観的な手法しか無いのだろうと思っています。

私という自我にしっかりと意識を向けて、私をしっかりと捉えつつ、私に起こってきている考えを逐一観察して頂きたいと思います。
そして、私という自我が何かの考えを握りしめ、その握りしめた考えに関連して起こってくる考えにより突き動かされるように、右往左往して彷徨っている自分の姿に気づいて頂きたいと思います。

何か考えを握りしめているから、それに関連して不足感等が生じ、それをなんとかしようとして、衝動的に意識が彷徨ってしまうのです。
だから、心の中で何かハッキリしないものがあり、スッキリせず、意識も定まらないのです。
そのような自分の意識やその動きに気づいて頂きたいのです。

自分が掴んでいる考えをわざわざ探す必要はありません。
多くの場合、探そうとしても対象とする考えをなかなか見つけられないことが大半ですし、探そうとするとどうしても意識が私からずれてしまい、ぐるぐると空回りすることになります。


大悟に至ったあなたは、起こってくる展開に身を任せる「あるがまま」や「それそのもの」という意識状態を選択することもできるでしょう。
その状態は確かに楽で平穏でとてもいいものかもしれません。

しかし、あなたはその「あるがまま」等の意識状態を、その都度選択しています。
無意識のうちにその選択をやっておられる方も多いのだろうと思いますが、間違いなく、あなたはその意識状態をご自分の自我(エゴ)で選択しておられるのです。
どうしてそれを選択するのでしょう。
それがいいものだと思っておられるのです。
そこに、あなたの自我の判断と迷いがあります。
まずは、そのことに気づいて頂きたいと思います。


私(慧空)の例を書かせて頂きますと、私は自分に意識を向ける自覚を通じて、解脱の悟りを得る確か3週間ほど前に、解脱したいとか、解脱の悟りの実感がほしいという考えを握りしめ、右往左往している自分に気づきました。
そして、解脱の悟りを得るときの最後の気づきは、「苦」を握りしめ、その苦しみをどうにかしたいと右往左往している自分に対する気づきでした。


できるだけ高い集中度で絶えず自分を見つめ続けることで、そう言った自分の意識の囚われや迷いに気づいて頂きたいと思います。

自分が握りしめているすべての考えに気づいて手放せば、その時点で解脱の悟りとなります。
その最後の気づきの瞬間、それまで右往左往して揺れ動いていた自分の意識がすうっと一点に定まり、静止します。
そのとき、何らかの形で「終わった」という感触を得られると思います。
それを誰かに確認してもらう必要などないのです。
自分で「これか」とハッキリ分かります。(^^)


また、他の補足的な手法として、瞑想等により涅槃に落ち、涅槃から通常の意識に帰ってくるときの自分の意識を観察するという方法があります。
涅槃とは完全な無我の状態のことであり、涅槃に落ちると、感覚を含めたすべての意識が落ち、気絶状態となります。
涅槃から通常の意識に帰ってくるときは、五感と意(意識)の六根のいずれかを通じた認識が起こるのと同時に帰ってきます。
よくあるパターンとしては、耳から入る音に対する認識と同時に通常の意識に戻ってくることが多いです。

そしてまずは、六根を通じた認識と同時に戻ってきた瞬間の自分の意識を捉えて観察して頂きたいのです。
さらには、その六根を通じた認識そのものとして帰ってきた自分の意識が、連鎖的に他の意識(考え)へと展開していく様子を観察して頂きたいのです。
そうやって、私という意識の成り立ちについて知っていかれるうち、自然と私という存在の姿について理解が深まり、掴んでいる考えや、囚われが解放されていきます。
なお、この方法はあくまでも補足的なものであり、無くても大丈夫です。


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