私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

不自由に気づく

2016年05月15日 17時52分29秒 | 悟り
このブログのコメント欄に自由に関する書き込みがあったので、その周辺のことをちょっと書いてみようと思います。


◇不自由に気づく◇

悟りを深めていく行程で自由に関する何らかの気づきや理解、あるいは自由な感覚になることがあります。
それは、自らを縛る拘りに対する気づきや受け入れに伴い、そのような気づきや感覚が起こるからです。
そして、多くの方はそこで有頂天になってしまいます。

そのような方は、自由に関する囚われや思い込みがある方です。
自由であることが本来であり、良いことだ等の思い込みがあるのです。

浮かれていないで、もう一度冷静に自らの姿をよく観て頂きたいと思います。
本当に自由と言えるのか、じっくりと確かめて頂きたいと思います。

自分の自由になることより、自由にならない、どうにもならないことの方が圧倒的に多くないですか?


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (57)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知的欲求の果て

2016年05月09日 14時37分11秒 | エッセイ
◇知的欲求の果て◇

根源的な欲として、知りたい、分かりたい、納得したいという知的欲求があります。
この欲は、私という存在にとって極めて本質的であり、根深いものなのですが、智慧と関係しており、悟りと密接に関係しています。

この欲が活発化する最初のうちは、外側の具体的な対象にその矛先が向けられることが多いです。
つまり、外側の種々の現象に対してそれを理解しようとする訳です。
種々の現象に対して、なぜそうなっているのか、なぜそのような有り様なのか等を追求し、原因や原理、根拠を求める訳です。

しかし、そういった根拠の追求には限界があるというか、終わりが無いことに気づくときが来ます。
つまり、一切のことがらに根拠がないことに気づくのです。

そのような気づきが起きても、それで終わりと言う訳ではありません。
それでも、「私」という存在が否応なくある訳であり、いずれ「私」という存在に向き合うことになります。
そして、知的欲求の矛先を自分自身に向けるようになります。
「私」とは何なのか、なぜ存在しているのか、という疑問に対して追求するようになります。

先回りして書いてしまうと、この「私」とは何なのかという問いに対する追求には、明確な終わりがあります。
これ以上先の理解は存在しないということを明確に悟る限界点があるのです。

その知の限界点を悟ると、根源的な欲である知への欲がすっと収まります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする