私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

否定されて怒っている自分に気づいてください

2014年12月29日 21時44分31秒 | 悟り
◇否定されて怒っている自分に気づいてください◇

人は普通、自分の考えを否定されると怒りが起こります。
そして、怒りが起こると、怒りに突き動かされるようにして相手に反論しようとしたり、感情や衝動的な行動が連鎖して収集が着かなくなったりします。

しかし、そのときこそ、怒りや感情に翻弄されるのではなく、一旦立ち止まり、冷静に自分に意識を向けて頂きたいのです。
自分の考えが否定されたことで、どうして自分に怒りが起こったのかを冷静に観て頂きたいのです。

あなたに怒りが起こるのは、あなたが相手に否定された考えを握り締めているからです。
自分の考えが正しい、相手が間違っていると思い込んでいるからです。

握り締めた考えに囚われ、怒り等の感情に翻弄されている自分に気づいて頂きたいと思います。


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涅槃と禅定に関する誤解について

2014年12月28日 22時02分29秒 | 悟り
◇涅槃と禅定に関する誤解について◇

今日は、以前から気になっておりました、涅槃や禅定やその周辺の誤解について書いてみたいと思います。

まず、涅槃に関する誤解について。
覚醒した等と仰る方の中に、涅槃の体験についてお話しされている方がおられます。
しかし、殆どの方は涅槃について誤解しておられるのです。

例えば、それは至福や歓喜、あるいは溢れ出る感謝だったと仰る方がおられますが、これは誤解です。
これは多くの場合、明け渡し系の体験であり、涅槃ではありません。
また、強烈なエネルギーの中に入ったような体験だったと仰る方もおられますが、これも誤解です。
これは、おそらく禅定等の何らかの瞑想状態が起こり、その中で神秘体験が起こったのだろうと思います。
瞑想中は、その方の囚われにより、各種の神秘体験が起こるようです(私の場合は、瞑想中にそのような神秘体験が起きたことは殆どありませんが)。

では涅槃とは何かと言いますと、私という自我の意識が完全に落ちた状態のことを言います。
分かりやすい言い方をすれば、気絶状態がそれに近いです。
それを完全な無我と言ってもいいと思います。
この状態のときは、意識が完全に落ちてますので、思考はもちろん、一切の感覚もすべて落ちます。
また多くの場合、呼吸も停止します。
これが涅槃です。
何かを認識する意識が少しでも残っている状態は、涅槃ではありません。

次に、禅定に関する誤解について。
禅定に関する一番多い誤解は、禅定を体験したことにより、自分は悟ったと誤解してしまうことです。
例えば、瞑想中や突発的に起こった禅定現象により、一見すると根源、無、空、全体等に関連したような体験(いわゆる神秘体験です)をされる方がおられるのです。
そのような体験をすると、その体験を握り締めてしまい、自分は悟ったんだ、あるいは覚醒したんだと誤解してしまう方が多いのです。

悟りと禅定の体験とは基本的に全く関係がありません。
関係があるとすると、深い悟りを得ている人は起こってくる考えも減っているので、深い禅定を体験しやすい傾向があるという点だけです。
まったく悟ってない人でも、深い禅定を体験する例はあり、禅定を体験したから悟っているとは決して言えないのです。

悟り、あるいは悟りの深さは、端的に言えば、その人が掴んでいる考え(囚われ)の内容や数によって決まります。
掴んでいる考えが多いほど、起こってくる考えも増え、自我も厚くなります。

ですから、瞑想中に意識がどうなっているかは、悟りとは関係がないのです。
むしろこんな言い方もできます。
瞑想や禅定は自我(エゴ)がやることなのです。
瞑想や禅定に拘っているのは誰なのか、瞑想や禅定を求めているのは誰なのか、そこに意識を向けて頂きたいと思います。

なお、これは余談ですが、禅定には深さがあります。
最も深い禅定が涅槃です。


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「無」について追求する

2014年12月27日 20時14分44秒 | 悟り
◇「無」について追求する◇

悟りを得られた方々の中に、「無」について話しをされる方がおられます。
中には、私は「無」を見てきたと仰る方までおられるようです。
その体験を得たことに有頂天になれる気持ちはよく分かりますが、冷静にその「無」について吟味して頂きたいと思うのです。
その「無」が本ものなのかどうか、徹底的に検討して頂きたいと思います。

特に、「無」を見た、あるいは体験したと仰る方に申し上げたいのは、「無」を見た言っておられるということは、「そこ」には、あなたが「無」と仰っている何らかの対象と、その対象を見ているあなた自身があったということです。
冷静に考えてみてください。
それを「無」と言うのは何かおかしいと思われませんか?

その「無」は、あなたの誤解です。

「根源」や「空」に関する体験も、似たようなものです。

自分を誤魔化さないで徹底的に追求されることをお勧めします。


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自分の悟りを再検討する

2014年12月26日 21時44分08秒 | 悟り
◇自分の悟りを再検討する◇

何らかの悟りを得られた方の殆どは、その方が最初に到達した悟りの階層に留まり続け、そのまま死んでいかれます。
自分が得た悟りや真理をそれが究極だと安易に思い込んでしまい、安住してしまうのです。

私からすると安易すぎるのです。

どうしてそうも簡単に、自分の得た悟りや真理を信じ込んでしまうのでしょう。

もっと、自分の得た悟りや真理を疑って頂きたいと思います。

自分の得た悟りや真理について、それに関連する具体的な言葉(概念)が出てくるうちはまだ途中です。

ひとつのもの、根源、真我、実相と仮想、空、無、不変や不滅、あるがまま、それそのものなど(ましてや、愛や幸福などは二元の囚われの中です)。

あなたの口からそのような具体的な言葉が出るということは、あなたがまだその考えに囚われている証拠です。

そこを徹底的に検討し、追求して頂きたいと思います。


と言っても、それが簡単ではないことはよく分かります。
私(慧空)に対して、じゃあお前はどうなんだ、お前こそ自分の考えを掴んでるんじゃないのかと言われるのが目に見えています。(^o^)
それでも敢えて言います。
私は何も考えを掴んでないのです。
ですから、私は自分の悟りに対し、それを表現するために、具体的な言葉(概念)を言うことは決してないのです。


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自分の言葉を反芻する

2014年12月24日 20時36分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自分の言葉を反芻する◇

自覚をやられる方は、自分の発した言葉を反芻していただきたいと思います。
これは、自覚が深まるにつれ自ずとやられるようになっていくものだと思うのですが、ぜひ心がけてやって頂きたいと思うのです。

口から出る言葉だけではなく、書いた文章についても反芻して頂きたいのです(文章の方が書き表すときに自覚が入りやすいですし、形に残るので読み直すことで反芻も容易だと思います)。
頭の中に浮かんだ考え(言葉)についても反芻してください。
回数に制限はなく、何度でも反芻して頂きたいと思います。

どうして自分の言葉の反芻をお勧めするのかと言いますと、自分の発する言葉には自分が握りしめている考え(囚われ)が数多く含まれているからです。
もっと言えば、囚われた考えが連鎖し、迷いに迷っている自分の姿がそこに如実に現れているからです。

早い方は直ぐにでも、ゆっくりの方でも続けられるうちにきっと、自分の囚われに気づくときが来ると思います。


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真理を掴まない

2014年12月22日 11時01分16秒 | 悟り
◇真理を掴まない◇

悟りの道を進む過程で、真理に関する体験や理解を得られる方がおられると思います。
典型的な例としては、すべてはひとつ、根源、真我、実相と仮相などがあります。

そのような真理に触れられた方の多くは、これこそ真実であると信じ込み、握りしめてしまいます。
そして、この現実の世界は仮の世界であり、その奥に真の世界があるのだ等と仰います。
例えば、私たちはいま、個という分離を経験しているが、それは仮の姿であり、本当はひとつであり、みな最後はそこに帰っていくんだなどと仰います。

不意に訪れた体験等により、真理を信じてしまうお気持ちは分かります(私も真理を掴みかけていた時期がありました)。
しかし、敢えて申し上げたいのです。

そのように盲目的に真理を信じ続けるのではなく、一旦立ち止まって、あなたが仰るその真理について、一度じっくりと吟味して頂きたいのです。

この現実世界のことは、仮初めの世界だ等として見切られるのに、真理についてはどうしてそうも簡単に、それが絶対であり真実であると信じ込んでしまわれるのでしょうか。

その真理について、どうしてそれを絶対だと思われるのでしょうか。

本当にそれは絶対的なものなのでしょうか?

もっと言えば、絶対と言えるものなどあるのでしょうか?

その真理が絶対だと考えているのは誰ですか?

何か妙だと思われませんか?

ご自分の心の中に、何かあやふや部分がないか、誤魔化しているところがないか、徹底的に確認してみて頂きたいと思います。


とは言っても、真理は悪いものではありません。
真理は悟りの道を歩む際、いい導き手になります。
ただ最後はそれも手放すときが来る、そういうことなのです。


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自覚を始められる方へ

2014年12月13日 21時37分13秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚を始められる方へ◇

自覚に初めて取り組もうとしておられる複数の方から、コメントやメールでのアクセスを頂きましたので、いい機会だと思いまして、自覚のガイダンス的なことを少しご案内したいと思います。

自覚がどういうものかや、そのやり方の基本的なところにつきましては、このブログカテゴリの自覚ワークの紹介カテゴリに入っている下記の文章をご参照頂きたいと思います。
「自覚」という言葉を初めて聞かれた方は、何だかよく分からない感じとか、簡単には理解できない深淵な何かがあるのではないかとか、いろいろ感じたり考えられると思いますが、「自覚」とはとてもシンプルで簡単なことなのです。
「自覚」の基本は、まずは自分に関心を持ち、自分に意識を向けることなのです。
本当にそれだけなのです。
そうして、自分に意識を向けているうち、自分の意識の動きが見え始め、それを観察するようになっていきます。
そして、自分が何か考えを握りしめ、それに囚われていることに気づくようになります。
そうやって、握りしめている考えにひとつひとつ気づいていけば、自ずと悟りの道を進んでいくことになります。

それと、強く申し上げたいことは、自覚はひとりでも十分にできるということです。
確かに、既にある程度上手に自覚をやっている先人と会って、対面で直接教えてもらうと早く習得できる場合もあるかとは思いますが、ひとりでも十分にやれます。
現に、このブログや掲示板に来られる方々の中には、誰からも教えてもらうことなく独力で自覚を習得しておられる方や、このブログに書いた私の文章等を参考にして自覚を習得され、上手に自覚をやってられる方が複数おられます。

自覚ワークの基本的な内容や、やり方については、まずはこれらの記事からお読み頂きたいと思います。
「私に意識を向ける」
「自分を観るワーク」
「自分を愛するワーク」
「進捗の自己確認など」
「自覚のポイントやコツなど」
「改めて自覚ワーク(1)」
「改めて自覚ワーク(2)」
「自覚ワーク:創造主としての実感を深めていく」
「自覚ワーク:私を愛し、本来の私を取り戻していく」

そして、ある程度上手に自覚ができるようになられた方は、これらの記事を参考にしてみて頂きたいと思います。
「自分に意識を向けるワーク」
「「私」に意識を向け続ける」
「「判断」について吟味し、検証する」
「ハートの自覚ワークについて(1)」
「ハートの自覚ワークについて(2)」
「大悟を得る(天から梵天へ)(2)」

自覚に関するガイダンス的なことは以上です。

最後に、自覚に取り組んでいく上で実はとても重要なことがありまして、そのことについて書かせていただきたいと思います。
その重要なこととは、「集中力」なんです。
自覚を進めていかれるうちに自ずと集中力も磨かれていくのですが、私の周りの方々の例を見ておりますと、どうやら自覚を始める段階でどれだけ高い集中力を持っているかがとても重要であるようなのです。
集中力が弱いと、仮にある程度自覚ができるようになっても、自覚が弱いため、浅い自覚のままそれ以上進まなくなってしまうのです。

そのため、私としては、まだ集中力が不十分な方については、自覚と並行して呼吸瞑想等の集中力を養う瞑想をやられたらいいのではないかと思っています。
例えば、呼吸に意識を向けて瞑想する数息観等をやられたらどうかと思います。
あるいは、私が昔やっておりました呼吸瞑想のようなものでも結構です(私が昔やっていた呼吸瞑想はこの記事をご参照ください)。

それで、どの程度の集中力があればいいのかと言いますと、これもケースバイケースではありますが、集中力を高めて自分に意識を向けているときや、呼吸瞑想等により深い瞑想状態に入っているときに、少なくとも数秒程度はしっかりと思考が停止するようになっているのが好ましいと思います。
また、意識の集中が高まったときに、呼吸が停止するほど集中が高まっているようであれば、十分な集中力を持っておられると思います。

以上、ご質問等がありましたら、ブログコメント、掲示板、メール、なんでも結構ですから、ご連絡いただきたいと思います。


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私の体験談(解脱の悟り後のこと)(1)

2014年12月11日 11時28分59秒 | 私の体験
◇私の体験談(解脱の悟り後のこと)(1)◇

解脱の悟り後のことを書いてみようと思います。

まず最初に申し上げたいことは、解脱の悟りは皆さんが期待されるような凄いものではないということです。
おそらく、解脱の悟りを得られた方の殆どがなーんだと期待を裏切られたような気持ちになると思います。
そして思うのです。
「これって、普通やん(関西弁、笑)」と。
解脱の悟り後の意識の状態や感覚は、余りにも普通なのです。

そんな落胆を誘うような解脱の悟りではありますが、意識の本質的な部分では決定的な変化が起こっていたのです。
まずは、そのあたりから書いていきたいと思います。

私の意識に起きたその決定的な変化とは、一切の考えを掴まなくなったことです(掴めなくなった、と言った方が正確かもしれません)。
考えを掴まなくなったことで、一切の迷いが無くなりました。
またそれに伴い、自分の感情や思考が流れていくサラサラ感がより強くなり、自我がさらに薄くなったと感じています。
さらにそれと関連して、私の意識が定まったというか、不動になったと感じています。
私にはまだ自我があり、怒りや苦しみ等の感情や感覚もあり、あれこれと分別(思考)も起こします。
しかし、そのような動的な変化が絶えずありながら、私の意識は常に定まったままなのです。

解脱の悟りを得て一番良かったと思うことは、迷いが無くなったことです。
解脱の悟りを得る直前まで、私はああでもない、こうでもないと激しく迷っていて、モヤモヤとすっきりしないというか、とてももどかしかったのです。
そのモヤモヤ感やもどかしさが晴れてすっきりとしたことで、私の心は落ち着きました。
これはとても有り難いことだと思っています。

でも、期待外れというか、がっかりしたこともいろいろありまして(笑)、期待外れの一番は、依然として苦しみが続いていることでした。
私の場合、解脱の悟りの前後で苦しみは減りはしましたが、それ程減ったとは思っていません。
解脱の悟りを得ても、やっぱり苦しいままだったのです(笑)。
これは私だけがそうなのではなく、解脱の悟りを得た他の人もそうなのだろうと思っています。
なぜなら、苦には、病苦等に代表されるただ起こってくる苦と、その人が握りしめた考え(執着)に関連して起こってくる苦と、存在の根底にある苦の三つがあるのですが、解脱の悟りによって手放せるのは二つ目の執着に関連した苦だけなのです(この点については、近いうちに改めて記事を書きたいと思っています)。
解脱の悟りを得る人は、その直前の時点で既に握りしめた考えは殆ど無くなっているため、解脱の悟りに伴った体感的な苦の変化は余りないのです。

二番目に期待外れだったことは、解脱の悟り後も相変わらずものごとがうまくいかないことでした。
うまくいかないことは、家庭内のことや、仕事やお金に関することなどいろいろです。
解脱の悟りを得るといろいろなことがうまくいくようになるのではという淡い期待を持っていたのですが、その期待は無残に打ち砕かれました(笑)。
家庭内のゴタゴタやしんどさは減るどころか増えた感じだし、FX(為替)取引では大負けして取引の継続を断念することになったし、もしやと思って買った宝くじは当然のように当たらないし(ジャンボを1回、ロトシックスを3回買いました(笑))、余りいいことはありませんでした。(^o^)

とまあ、こんな具合でして、解脱の悟りは余りパッとしないのです(笑)。

次はまた、別の観点から解脱の悟り後のことを書いてみたいと思います。


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自分を許し、他を許す

2014年12月07日 21時58分01秒 | 悟り
◇自分を許し、他を許す◇

ふと自覚関連の文章を書いてみたいと思ったので、久し振りに書きます。(^^)


多く方は、他の人や起こってきた出来事に対して、それが許せないと言って怒ったり、批判したり、排除しようとしたりと、とても忙しくしておられます。
どうしてそのように、「許せない」という考えに衝動的に突き動かされてしまうのでしょう。
「許せない」という考えは、苦しみや否定的な考えの連鎖を生むだけなのに。

「許せない」という考えが起こってきたとき、衝動的にその考えに突き動かされるのではなく、少し立ち止まり、「許せない」と考えている自分自身に目を向けてください。

「許せない」と考えている自分自身に気づいてください。

「これが正しい道だ」、「こうあるべきだ」等として、基準や規定によって、他人だけなく、自分自身も縛り付けてきたことに気づいてください。

あなたはもう、十分に頑張っておられます。

どうかもう、あなた自身を許してあげてください。

基準や規定で縛り付けてきたあなた自身を解放してください。

そのような基準や規定は、あなたにはもう必要ないのですから。


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私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(5)

2014年12月03日 22時29分11秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(5)◇

今回の記事では、私が解脱の悟りに至ったときの経緯等について書きたいと思います。

2014年1月23日の「一切皆苦」の悟りは、私にはとても大きな衝撃でした。
ひょっとするとこれで自分は解脱するのかとか、今度こそ解脱したのかと思ったりもしました(笑)。
また、私の中に常にある苦しみから解放されたのかと思ったりもしました。

しかし、それらはどれも私の誤解でした。
「一切皆苦」を理解して暫くの間は、これはちょっと凄いことが分かったぞと思い意識も高揚し、何だか晴れやかな気分になり、苦しみも忘れていました。
でも、それから一週間から二週間が経つ頃には、何だかもやもやした晴れない感覚や、苦しみが私の中に生じるようになり、それらに再び目を向けるようになっていました。
そして、解脱の悟りを得る2月11日の3日ほど前には、私の中のもどかしさや苦しみが大きくなっていて、それらに目を向けずにはいられなくなっていました。

そうしているうち、とても微妙な感触うまく表現できないのですが、私の中に、苦に対する不思議な感覚というか感触があることに気づいたのです。
最初は、ふっと感じる一瞬の感触でした。
私という存在そのものが「苦」であるというか、そんな感触がふっと瞬間的に起こったのです。
そして、その感触に意識を向けていくうち、2日くらいかけて段々と、その感触をより深く捉えられるようになっていきました。

そして、解脱の悟りを得る前日の2月10日には、その感触は、私という存在の根底に、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があるのだという確信になっていました。
そのような確信を得た私は、これはとても興味深いことが分かったと思い、明日職場に行ったらそのことをブログに書こうと思い、その日は寝ました。

そして、2月11日の朝、職場に到着し、パソコンを立ち上げ、昨日自分が得た確信をブログに書こうとした瞬間、解脱の悟りが起こりました。

そのとき、私という存在の根本的な性というか姿に対する理解が起きたのです。

私という存在の根底には、もどかしさや不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があり、私という存在は、その根底にある否定的な考えを起点として連鎖的に起こっている考えであるということがハッキリと分かったのです。

それと同時に、私は、その根底にある否定的な考えである「苦」を握りしめ、その「苦」をどうにかしようとして、あるいはその「苦」から逃れようとして延々と彷徨っていたんだということがハッキリと分かったのです。

そしてその瞬間、私が握りしめていた最後の考えである「苦」に対する手放しが起きました。

これが、解脱の悟りでした。


この2月11日の朝起きたことは、ほんの一種の出来事でした。
ハッとするような感触ではなく、意識が小さく「あっ!」と静止するような意外なほど小さな感触でした。

でもそこには、モヤモヤとしていた自分の意識がパッと晴れたようなスッキリした感覚とともに、うまく表現できない微妙な感触ではありますが、「終わった」、あるいは「終わったのかな? どうやらそういうことだな」という感触がありました。


それから1週間ほど経ったころ、ネットを散策していたら、お釈迦さまが仰った「無明」について書かれたサイトに偶然行き当たりました(どのサイトかは忘れました)。
そして、そのサイトに書かれた「無明」に関する文章を読んだとき、お釈迦さまが得られた悟りと自分が得たものが同じであると直ぐに確信しました。
なぜそんな確信が起きたのか自分でもよく分からないのですが、そのような確信が起きました。


以上が解脱の悟りに至るまでの私の体験です。

この後、解脱の悟り後の私の意識の変化や、どんな感じかについて少し書いてみたいと思っています。


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私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(4)

2014年12月01日 23時59分01秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(4)◇

前回の記事の続きです。

今回の記事では、前回の記事で書きました、私という自我が握りしめている考え(執着)が種となり、自我を誘起させているのだという理解等の導きにより、私(慧空)が解脱の悟りに近づいていく過程について書きたいと思います。

「私という自我が握りしめている考え(執着)が種となり、自我を誘起させているのだ」という理解に基づき、直ぐに私は、自我が握りしめている考えすべて手放せば解脱に至るに違いないという確信に至りました。
そして私は、これで解脱への道が得られたと思いとても高揚しました。

しかし、その高揚感は直ぐに覚めていき、閉塞感や焦りに変わっていきました。
自我が握りしめている考えを手放そうと思っても、当時の私の状況が大悟以降、考えの手放しが殆ど起きなくなっていたこともあり、自分が考えを掴んでいるという実感もなく、これ以上どうやったら考えを手放せるのかが全く分からなかったのです。
そして、私は、閉塞感と焦りを抱えながら、自分が掴んでいるはずの考えや、私という自我を何とかしないといけないと思い、ああでもない、こうでもないと、あがくようになっていきました。
2013年の12月中旬ころから翌2014年の1月中旬ころにかけて、私は毎日、激しくあがいていました。
あがいてあがいて、あがきまくっていました。

例えば、完全な無我から自我が誘起されていく過程で起きる分別が重要なファクターとなっていることが自覚を通じて分かると、分別を完全に放棄して滅することができれば、自我が掴んでいる考えも手放すことになるのではないか等と考え、自分の分別を放棄することに必死に取り組んだこともありました。
いまの私なら、分別を完全に放棄することなど不可能だし、無意味な努力だと分かるのですが、当時の私はがむしゃらにそれをやっていました(笑)。

またあるときは、無我(当時はそれを真我だと誤解していましたが)にダイブすれば何か分かるのではないか等と思い、あるいは無我に固執する余り、何度も何度も執ように無我にダイブしていました。
でも、いくら無我にダイブしても、そこから新たに得られるものは殆どありませんでした。

そうしてあがくうち、私は段々と疲弊し、どうしていいか分からず途方に暮れていきました。
途方に暮れる中、私は、自分の意識に対する理解、つまり私という存在が延々と続く意識の連鎖だという理解が誤りであり、肉体が滅んだときに私の意識も消失するのではないかと思い、あるいはそういう期待を込めながら、自分の意識を何度も何度も観察しました。
しかし、何度観察しても、私という存在の本質は肉体ではなく、延々と起こってくる意識の連鎖であるという認識に引き戻されるのでした。
そして、どうしようもないもどかしさや、苦しみが募っていきました。

そんな中、私は自分の中に常に苦しみがあることに気づいたのです。
私はそのとき、自分の中にある苦しみに初めて目を向けたのでした。
私はそれまで、あれやこれやと判断し、行動し、様々な感覚や感情を体験してきたのですが、そこには常に苦しみがあったのでした。

そして、その次の瞬間、なぜか「一切皆苦」という言葉が私の中に浮かんでくるとともに、そのことに対する理解が起こりました。
それとともに、何を選択しても、またどこにいこうと苦からは逃れられないのだから、苦を受けて立つしかないないんだという覚悟と決意が起こりました。
いま思うと、私はそのときやっと、自分の中にある「苦」に真っ正面から向き合えるようになったのだと思います。
それは、2014年1月23日のことでした。

そして、この「苦」に対する直面が私を解脱の悟りに導いていくことになりました。


上記のようにして私が「苦」と直面していくようになる中、いくつかの考えの手放しも起きていました。
その一つは、真我に対する手放しがありました。
私には、真我についてそれが自我の上位にあるものであるかのような考えや、自我を滅して真我になり切ることが究極の悟りであるかのような囚われが一部にあったのです。
それが、2014年の1月中旬に、真我も、私という自我の考え(認識)であるという理解が起こり、真我に対する手放しが起こりました。
そして、その理解は、真我は自我の考えなのだから、真我は自我と対等なものでもなく、考えの連鎖である自我の移り変わりの中に含まれる下位的な要素であるという理解に繋がっていきました。

もう一つは、解脱に対する考えの手放しがあったように記憶しています(ただこれについては、いまとなっては記憶が薄れてしまい、そういうことがあったかどうか定かでないところもあります)。
2014年の1月中旬ころに、「なんとしても解脱したい、解脱しなければ」等の考えを握りしめ、その考えに翻弄されている自分自身に対する気づきがあったような記憶があります。
そして、それに気づいたとき、解脱を求める余り、「解脱しなければ」等の考えを握りしめていた自分が可笑しくて、暫く笑っていた記憶があります。
(確かそのときのことを、いつもの内面ノートが見当たらなかったのでA4の裏紙に書いたと思うのですが、その裏紙が見当たらないのです。)


次回は、私が解脱の悟りに至るときの経緯等について書きたいと思います。


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