私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

思い出ばなし(宇宙と虚無)(2)

2014年05月29日 16時54分34秒 | 個人的なこと
◇思い出ばなし(宇宙と虚無)(2)◇

前回の記事からの続きです。

宇宙やそれに含まれる事象の根本原因等について思索を巡らせ、その根本原因等には我々人間は到達不可能であるという理解を得たときには、私は受験勉強を含めたいろいろなことに対してすっかりやる気を無くし、どっぷりと虚無の中に浸っていました。
ひょっとすると、事象の根本に対する思索を巡らせ始めたときには、既に虚無の中にどっぷりと浸っていたのかもしれません。

そうして、私は高校3年からその翌年の自宅で浪人した年の暮れにかけて、自宅にほぼ閉じこもり、まるで鬱病者のような生活をしていました。
その間、受験勉強は全くと言っていいほど手に着きませんでした。

虚無感が深まるに連れ、引き寄せられるようにして死を意識するようになっていきました。
すべてのことについて意味が無いことはもう理解してましたから、生きることの意味を見出すこともできず、死に憧れるというか、死を求めるようになっていきました。

そして、それは浪人した年の暮れにピークを迎えました。

(どうも書きにくいし、書いてて気分も悪いし、自分でどうしてこれをここに書くのかが分からず、何度も中断しながら書いています、苦笑)

死ねるかどうか試してみようとして、よく研いだ包丁を首筋に押し当ててみたんです。

首筋に押し当てた包丁をぐっと引こうとしたのですが(引こうとしてみたと言った方が正確か)、引けませんでした。
引けそうにありませんでした。
奥底からこみ上げてくる恐怖心と、よく分からない抑制本能のような壁があり、私にはその壁を越えられそうにありませんでした。
数日くらいの間に、2度か3度やってみましたが、ほぼ同じような結果でした。

しかし、自分の首に包丁を押し当てるというその愚行は、私の心に転機をもたらせました。
その愚行により、人間、少なくとも私自身は簡単には死ねないんだと強く納得したのです。

「死ねない」ということは、「生きるしかない」ということを意味していました。
そしてそれは、生きていくしかないんだという覚悟に繋がりました。

私はこのとき生まれて初めて、生きることに対して積極的になれたのでした。
それはまるでボールが地面で跳ね返るような感じでした。
死を求めていた自分が嘘だったかのように、私の視線が生きること、自分の人生を展開していくことに移ったのでした。

そして、私は取りあえず大学へ行こうと思い、自分が受かりそうないくつかの大学を慌ててピックアップし、受験しました。
運よくある大学に合格することができ、その大学に入学しました。


当時の私の状態について、一時はいわゆる思春期鬱の一種かと思ったりもしていたのですが、いまは、そうではないのだろうと思っています。
青春時代のあの出来事は、その後に悟りを得るための途中の過程だったのだろうと思っています。
なぜなら、いまの私は、今回の自分の人生のテーマはいい大学に入ることやいい仕事に就くことではなく、私の内面を見つめ、悟ることだと知っているからです。


<補足>
極論というか、深い悟りの視点で観たとき、生きることに意味などありません。
意味は私たちの自我が考えている考えであり、幻です。
しかし、多くの方々は意味がないことを例え頭で理解したとしても、その幻である「意味」を握りしめ、追い求めてしまいます。
中途半端で無理に納得しようとせず、あたなに見える「意味」を、あなたが感じる「意味」をとことん追い求めてみて頂きたいと思います。


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思い出ばなし(宇宙と虚無)(1)

2014年05月28日 13時39分59秒 | 個人的なこと
◇思い出ばなし(宇宙と虚無)(1)◇

また一つ思い出ばなしを書いてみたいと思います。

私には、生来の特性として根本を追求するという強い衝動があります。
6歳のころには、不要となったネジ式の柱時計を分解したりしていました。
また小学校に入ると、真空管テレビを分解したりしていました。
根本を追求する衝動の他に、強い破壊衝動もあるようです。(^o^)

そうしているうち、私の興味は物理や宇宙に向かうようになりました。
そして、中学3年のころには、宇宙の仕組みや、宇宙がどうしてあるのか等について思考を巡らすようになっていました。
その方面の一般向け啓蒙書を読んだりしながら、時間、空間、物質とは何なのかとか、宇宙がどうしてあるのか等について、延々と考えていました。
なお、私のその疑問は余りに根本的なものであり、私の疑問に答えてくれる書物はありませんでした。

そしてあるとき、確か高校2年から3年にかけてのころ、私は自分の疑問に対する一つの解答を得たのです。
その解答とは、私はこの宇宙の構成要素そのものなのだから、その私がこの宇宙の根本を知り得るはずがないというものでした。
時間、空間、物質等の宇宙の構成要素の根本が何であるのかという疑問はもちろん、宇宙がどうしてあるのかという疑問も、その理解を私たち人間が得ることは根本的に不可能であることを確信したのです。
つまり、私たち人間にとって、宇宙発生の根本原因を知り得ない以上、その根本原因は存在しないも同然なのです。

このことは私にとって衝撃でした。
なぜなら、宇宙の根本原因が存在しないも同然ということは、宇宙があることの意義(意味)も存在しないも同然だということだからです。
そしてそれは、宇宙そのものや宇宙に含まれる各事象の存在意義(意味)も存在しないも同然だということだからです。
そして、その衝撃は直ぐに虚無感に変化していきました。

いまから思うと、そのときの感覚には衝撃の他に、やっぱりだとか、思った通りだという感覚もあったように思います。
なぜなら、私の中には幼少の頃から、何もかも意味なんて無いんだ、すべてはどうだっていいことなんだという漠然とした虚無感のようなものがありましたから。

高校3年からその翌年の自宅で受験浪人した年にかけて、私はどっぷりと虚無感に浸って生きていました。


上の文章を読まれて、宇宙の根本については興味を持ったのに、私という自意識(自我)については興味を持たなかったのかと問われそうですが、自意識については余り興味を感じなかったのです。
私は2012年の暮れに明け渡しが起こるまでは、ガチガチの現実主義といいますか、唯物論者だったので、神や霊魂のような非現実的な事柄については完全に否定的な考え方を持っていました。
それで、私という自意識ついても、頭の中の信号の何らかの関係性による生じる物理現象だと思い込んでいました。
このため、私という自意識についてはそれほど興味はなく、人工知能等の進展に伴っていずれ自意識についてもその原理が解明されるだろうと思っていました。
例外的に、「気」だけは何故かそれを感じるし、目でも見えるので、その存在を認めていました。
しかし、それも電磁波の一種に違いないと思い込んでいました。(^o^)


(続きは、またたぶん書きます^^)

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恐れについて

2014年05月23日 11時23分20秒 | 悟り
◇恐れについて◇

悟りの道を進むとき、その抵抗となる唯一の要素は恐れです。
まだ普通の感覚の意識で経験を続けたいからとか、まだ学びたいからとか、いろいろ理由を付ける方がおられますが、どんな理由を付けても、その抵抗となっている要素の根っ子には恐れがあります。

ですから、悟りの道を進む行程は恐怖心を克服していく行程でもあります。
恐怖心を克服し、私という存在の本質的な姿に向き合うことができれば、その克服した分だけ悟りの道を進めるようになっています。

まず最初に、病気になることや生活に困窮すること、そして死ぬこと等の一般的な恐怖心と向き合うようになります。

克服のやり方は、人それぞれですが、大凡のやり方は二通りです。
まず単純なやり方として、この現実世界で起こるすべての苦と死をただ受け入れてしまうことです。
もう一つは、死を含めたこの世界での出来事がすべて考えであり幻であることを理解し、その理解を通じてそれらを受け入れることです。
どちらのやり方でも大丈夫で、みなさん自分に合ったやり方で進んでいきます。

そうして恐れと向き合っているうち、私という存在が抱え込んでいる考えが徐々に剥がれ落ちていきます。

そして、いずれ虚無と向き合うようになります。


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根拠を追求する

2014年05月22日 09時51分28秒 | 悟り
◇根拠を追求する◇

悟りの道を進む一つの方法として、徹底的に根拠を追求する方法があるのだろうと思っています。

あなたに何か考えが起こってきたとき、その考えを盲目的に掴んで行動に移したり、主張するのではなく、その考えの根拠を徹底的に追求してみてください。

例えば、良い悪いや、こうあるべきという考えが起こってきたとき、その考えの根拠を徹底的に追求してみてください。

また、この世界があるという感覚、あるいは自分自身があるいう感覚についても、その根拠を追求してみてください。

そうやって徹底的に根拠を追求していくうち、タマネギの皮が剥けるように、私という自我による思い込みの幻想が剥がれ落ちていきます。


さあ根拠を追求してください。
何が見つかるでしょう。(^o^)


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個人的なこと(一切皆苦)

2014年05月21日 08時46分34秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(一切皆苦)◇

私の意識変化ももう終わったんだろうと思っていたのですが、今朝通勤途中に(ついさっき)、一切皆苦を改めて実感したというか、体得が深まったというか、そんなことがありました。

実は今朝も、「ほんま、しんどいなあ」と電車の中で思っていたのです。
私の仕事はめちゃくちゃな状態だし、お金は減っていくばかりだし、長男(重度の自閉くん)の調子が悪く(情緒不安定、問題行動)、その相手をするのが大変だし、家内も弱ってるし、家内は相変わらず感情的だし、私の内面の変化に対してちっとも理解も許容もないし、...。(^o^)

それでいつものように、「しんどいけど、どうしようもないし、しょうがないなあ」と思っていたそのとき、ふっと「一切皆苦」という言葉が頭に浮かび、「そうか、どんな状況であっても、何をやっても同じなんだ」と改めて附に落ちたのです。

どんな状況であっても、何をやっていても、その根っ子には「苦」があるのです。
幸せなとき、あるいは幸せに向かうときには、「苦」が裏側に隠れていて認識しづらいだけなのです。
なぜなら、幸せを求めることそのものが「苦」を掴んでることですから。

私はより深く平穏さの中に入った感じです。(^^)


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思い出ばなし(瞑想と呼吸)

2014年05月20日 10時37分33秒 | 個人的なこと
◇思い出ばなし(瞑想と呼吸)◇

瞑想と呼吸に関連して思い出したことがあるので、また私の思い出ばなしを書いてみたいと思います。
内容的には何も無いので、気が向かれた方だけご笑読ください。


まず瞑想との出会いですが、私が瞑想と最初に出会ったのは結構古いのです。
確か小学3、4年生のころ、亡き父からのほんの初歩の初歩の瞑想を少しだけ教わりました。
じっと静かに座り、心を落ち着かせ、無心になること等を教わりました。
父は過去に少林寺拳法の経験があり、その練習の中で瞑想をしていたようでした。

どうして父が私に瞑想の話をしたのか、また私がどうして瞑想に興味を感じたのか、今となっては分かりませんが、なぜか私は瞑想に興味を感じ、暫くの間、遊び感覚でときどき瞑想をしていました。
私が父に思考が収まらないと言うと、父は親指と人指し指の間に微かな隙間を空けて、その隙間に意識を持っていくんだなどの助言をしてくれたりもしました。
そうしたら、今度は指の間の隙間のことばかりに気が行ってしまい、困ったのを覚えています。(^o^)

それでも、暫くの間、不定期ながら時折瞑想をやっていて、自分なりに無心になれたような気がしたことがあったのです。
本当に無心になれたのかどうかは少し怪しいところですが、当時の私はそんな気がしたんです。
それで、父に無心になれたと言うと、父はそんなはずはない、お前が無心になれるはずがないと言って相手にしてくれませんでした。(^o^)
頭の中にほんまに何も無くなったんだってば、ほんまにそうなんだってば、などと父にしつこく訴えていた様子を覚えています。(^o^)

そうしているうち、私の瞑想ブームが終わり、殆ど瞑想はやらなくなっていきました。
それでも、ごくたまに思い出したように、瞑想をしていました。

いま思うと、私の意識変化の下地はこういうところにもあったのかも知れないと思ったりもしています。


それで呼吸の話になります。^^

なぜ呼吸の話かと言うと、先週ここに書いた記事「受け入れの瞑想」で、三十歳過ぎのころ、気功教室に通って気功を習いながら、毎晩瞑想をしていたと書きましたが、それに関連して思い出したことがあったのです。

瞑想をやっていると、知らない間に呼吸が止まってしまうことがよくあったのです。
数を数えながら瞑想をする数息観をやっているときも、それはよく起こっていました。
それを思い出したのです。

どうやら、私は三十過ぎのころに既に、瞑想で無心に入ることができていたのだということが分かったのです。
(瞑想中に呼吸が止まるのは、深い瞑想に入ったときによく起こる現象のようです。)


だからなんだと言われそうな記事になり、ごめんなさい。(^o^)

なお、瞑想で無心になること自体に意味はありません(誤解しないでください)。
あくまでも、悟りとは自分を知っていくことであり、無心になることは関係ないです。
ただ、無心になれるということは、思考の量の少なさや、思考のコントロール能力のある程度の指針になるのかもしれないと思います。


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一瞬の気づきで十分です

2014年05月17日 12時07分02秒 | 悟り
◇一瞬の気づきで十分です◇

あなたが、どんな困難な状況にあろうとも。

あなたが、他の人や起こってきた出来事に対してどんな感情を抱いていようとも。

あなたが、過去にどんな行為をし、それに対してどんな感情を持っていようとも。

また今後、あなたに、どんな出来事が訪れようとしていても。


あなたは、あなたの視点をほんの少し変えるだけで、一瞬にして気づくことができます。

これがこの世界であり、この世界のありのままの姿なのだということを。

また、これがありのままの私の姿なのだということを。

それは一瞬の気づきです。

そして、それで十分なのです。


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気づいてください

2014年05月16日 14時33分06秒 | 悟り
◇気づいてください◇

この世界は多様性に満ちています。

多様な存在、多様な出来事、そしてそれらに起因して私の内面に起こってくる多様な考え。

これが私の世界です。

これが私という存在の姿です。

これがありのままの世界であり、私です。

世界とは私とは、多様で複雑なものなのです。


それなのに、私たちは起こってくる出来事や考えに対して、良い悪いなどの色づけや意味づけをしたがります。

そして、自分の視点に埋没し、自分に都合の悪いものは拒絶しようとします。


そのような色づけや意味づけをし、起こってくる出来事や考えを分別しているのは誰でしょう。

まさに私たち自身がそれをやっています。

それに気づいてください。


出来事や考えが起こってきたとき、感情や考えを走らせるのではなく、一旦立ち止まるようにして、自分自身をそっと振り返ってみてください。

色づけや意味づけをしている自分自身にきっと気づけると思います。

ちっとも難しくありません。


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大悟と解脱の悟り

2014年05月15日 10時32分45秒 | 悟り
◇大悟と解脱の悟り◇

今日は、大悟と解脱の悟りとその周辺のことについて書いてみたいと思います。
なお、大悟とは、真我(空)に完全に覚醒する悟りのことで、解脱の悟りとは、無明を理解することであり、一切の考えを掴まなくなることです。

大悟を得ると、ある部分で解脱の悟りと似た意識の変化というか理解が起きるため、大悟と解脱の悟りを混同しておられる方が多いです。
歴史上の著名な師匠と呼ばれる方々にも誤解が多いようです。
大悟の観点からは、自分の理解と解脱の悟りによる理解との違いが見え難いのです。
解脱の悟りを得ると、その違いをハッキリと認識できるようになります。

まず、大悟の悟りについて改めて簡単に説明したいと思います。
大悟を得ると、私という自我がほぼ完全に消滅します。
このため、自我が積極的に新たな考えをつくったり、考えを握りしめて引き摺ったりすることがほぼ無くなります。
つまり、新たなカルマ(執着)をつくらなくなります。
その結果、大悟の後の残りの人生で、残っている残りカルマが消費されると、肉体が滅ぶのに伴って、カルマ(執着)がほぼ完全に一旦解消されます。

しかし、大悟の段階では、大悟に関連した概念、例えば真我(空)や大悟の理解を手放せてないのです。
真我や大悟の理解を掴んでいるのです。
何かの考えを掴むのは、私という自我がすることですから、自我もまだ完全には滅し切れてないのです。
また、考えを掴んでいますから、その掴んだ考えがカルマ(執着)となります。
なお、大悟の段階でも無明に関する限定的な理解が生じることがあるようですが、理解が不完全であるため、大悟に関連した考えを手放せないのです。

よって、肉体が滅んだとき、その存在は解脱せずに、その時点で掴んでいる考え(執着)に関連した何らかの存在が残ります。
この残った存在のことを梵天と言ったりするようです。
梵天には寿命があり、その寿命が尽きると、また地上に肉体を持って生まれてくるのだろうと私は理解しています。
つまり、大悟はまだ輪廻の中なのだと私は理解しています。

一方、解脱の悟りを得た存在は一切の考えを掴むことが無くなっていますから、私という自我も完全に滅せられています。
自我が完全に滅せられたから、考えを一切掴めなくなるのか、あるいは、考えを一切掴まなくなったから、自我が完全に滅せられたのか、ここは鶏と卵の関係、あるいはケースバイケースだと思います。
解脱の悟りを得た存在は、一切の考えを掴みませんから、解脱の悟りも掴まないのです。
よって、解脱の悟りを得た存在は、その後の人生で残りカルマを消費すると、肉体が滅んだとき、一切の執着(カルマ)が無いため、解脱するのです。
解脱せざるを得ないのです。


余談ですが、悟りの階梯は上に進むほど、悟りにより得られる理解や実感がシンプルかつ明解になります。
解脱の悟りでそれを最も顕著に実感できます。
誰かに教えてもらう必要などありません。
それに至ったことが自分でハッキリと分かります。


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<補足です(2014年5月23日)>
上で、大悟とは真我に完全覚醒することだなんて書いてしまいましたが、大悟のとらえ方にはいろいろのようですね。(^o^)
解脱の悟りのことを大悟という人もおられるようだし。
何分、業界のことをよく知らないで書いているものですから、多目に見てやってください。(^o^)

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解脱への二つの道

2014年05月14日 15時16分04秒 | 悟り
◇解脱への二つの道◇

私は、解脱へ至る道として大きく分けて二つの道があるのだろうと思っています。
一つは、理解の道です。
もう一つは、受容の道です。

理解の道とは、私という存在を知っていくことです。
私について行きつくところまでとことん知り、私という存在の根本的な性である無明について理解したなら、それが解脱の悟りとなります(「無明」については、ネット検索や、私の他のブログ記事をご参照ください)。
無明を理解したなら、その理解により私という自我が焼き払われ、積極的に何かをどうこうしようとする考えも行為も起きなくなり、考えを掴み取り引き摺ることがなくなります。
そうなるともう、その存在は解脱せざるを得なくなるのです。
この私に対する理解は、私の内面に意識を向ける自覚が有効です。

受容、つまり受け入れは、多くの場合、私という存在を通した実際の経験の中で進んでいきます。
そして、すべてを受け入れたとき、解脱の悟りが訪れます。
この「すべて」というのは、本当の意味で何もかも全部という意味です。
すべてを受け入れてしまえば、それに伴い、私という自我が溶け去り、積極的に何かをどうこうしようとする考えも行為も起きなくなり、考えを掴み取り引き摺ることがなくなります。

なお、上記の二つの道は独立したものではなく、実際には二つの道を同時進行される方が多いのではないかと思います。
強いて言えば、理解主導の方と受容主導の方がおられるのだろうと思っています。
ちなみに私の場合は、どちらかと言えば受容主導のようです。


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受け入れの瞑想?(^^)

2014年05月13日 16時17分01秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇受け入れの瞑想?(^^)◇

今日はちょっと毛色を変えて、私が昔やっていた受け入れの瞑想について紹介しますね。

実は三十歳過ぎのころ、カルチャーセンターの気功教室に通っていたことあり、そこで他の生徒さんと一緒に週一で短い瞑想をしていました。
また、その教室のI先生は内面世界に関するお話しがお好きな方で、「すべてを受け入れてください」等のキーとなるいくつかの言葉を口癖のように言っておられました。

それで、自宅でも毎日、30分程度、長いときで1時間くらい瞑想をするようになっていました。
瞑想自体は割と普通の瞑想で、まずはその大半の時間を、ちょっとアレンジした数息観と呼ばれる瞑想をやっていました。
例えば、「1、2、3、...」とゆっくり10とか20とかまで数えながら息を吸い、次にその同じ数だけ数えるまで息を止めて、最後にまた同じ数だけ数えながらゆっくり息を吐くという繰り返しを、15分か30分か、ときにそれ以上やっていました。
数える数を段々と増やしていき、最後は確か1分間に1息するくらいのペース(つまり20ずつ数えながら吸う、止める、吐くをやる)になっていました(最初から10まで数えるのは無理なので、5くらいから数えたのでいいと思います)。

その数息観に続いて、受け入れの瞑想をやっていました。
受け入れの瞑想というのは、私が勝手につくったオリジナルでして、すべてを受け入れるイメージと、瞑想を組み合わせたものなのです。
やり方は至って素朴なものでして、「すべてを受け入れるイメージ」というか、決断というか、ハートを開くイメージをするというか、あるいは、そういうイメージに入っていくような感覚で、瞑想するんです。

どうしてこんなことを思い付いたのかは自分でもよく分かりませんが、私は特性的に明け渡し系(受け入れ系)の存在なので、I先生が繰り返し仰る「すべてを受け入れてください」という言葉に強く反応したんだと思います。

今から思うと、この受け入れの瞑想は意外なほど私の意識に影響を与えていたのかも知れないと思っています。

と言いますのは、この受け入れの瞑想をすると、ハートが開かれるような感じになり、よく自然と涙が流れていたのです。
ときには、ハートが震えるほどの反応があったように思います。
そして、こんなこともあったのです。
受け入れの瞑想を始めてから暫くして、受け入れの瞑想中に、自分が自分の意識が変わる転換点に近づいて行っているような感覚が起こってきたんです。
そして私は、おそるおそるその転換点に近づいて行ったんです。

そしてついに、その転換点までもう後少しというところまで行ったんです。
でもその日は、怖じ気づいてしまい、瞑想をやめてしいました。
次の日、覚悟を決めて、またの転換点の寸前まで行ったんです。
そして転換点を越えようしたとき、また瞑想をやめてしまったんです。

そのとき、私はハッキリ分かったんです。
私にはまだ普通の感覚の意識でやりたいことがあることが。
だから転換点を超える気になれなかったし、超えられないことが分かったんです。
そのやりたいこととは、ごく普通のことで、結婚と仕事でした。
もちろん、転換点を超えても結婚も仕事もできるでしょうが、当時の私にはそれが出来なくなるような気がしたのと、何よりまだ普通の感覚の意識で生きたかったのです。

このことがあった直ぐ後に、不思議なくらい私の意識というか興味の対象が変わってしまい、気功教室もやめて、気功も瞑想もやめてしまいました。
そして、より日常的な感覚の中に入っていきました。

その後、結婚したり子供が生まれたり、いろいろな事がありました。
そして、転換点から引き返してから十数年後に、明け渡しを経験することになったのです。

受け入れの瞑想や、転換点のことはすっかり忘れていたのですが、明け渡しの後それを思い出し、あれは今に至る伏線だったんだと思った次第です。

なんだか、私の思い出ばなしがメインになってしまった感じですが、(^o^)
受け入れの瞑想、もしよろしければ試してみていただきたいと思います。
ぜひぜひ(^^)/


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少し休憩中です

2014年05月12日 15時34分31秒 | 個人的なこと
ここ数日、ここに書きたいものが出て来ません。

いま、仕事(私一人の個人事業です)を終わらせるための残務処理をしようとしているのですが、それもままならず、ぼーっとしています。

今日は、知り合いに本を書いたらどうかと言われて、自分ならどんな本を書くかなぁと思いを巡らせていました。(^o^)
でも、私が本を書くのは現実的じゃないと思っています。
困難はいろいろありますが、何より最後まで書き通すだけの意思を持続できそうにないです。(^o^)

余談ついでに余談をもう一つ。(^o^)
我が家には小学4年と2年の二人の息子がいるのですが、彼らは、いま私という自我をつくっていっている真っ最中なんですね。
一方の私(慧空)は、自我を放棄してしまった訳なんですが、一緒に生活している以上、息子たちの自我の形成のための経験は一緒にやることになるんです。
このブログでは、自由な感覚で好き勝手書いてますが、息子たちに対しては、ちゃんとご飯を食べて、歯磨きもして、学校に行き、それなりの経験をさせるべく、イライラもつくりながら(笑)、息子たちの相手をやっています。
正直なところ、かなり煩わしいと思うところもあるのですが、一応やっております。(^o^)


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すべてはこの瞬間にフォーカスされています

2014年05月08日 09時49分16秒 | エッセイ
◇すべてはこの瞬間にフォーカスされています◇

この瞬間に至るこれまであなたが行ってきた行為や起こってきた出来事など、すべてのことはこの瞬間にフォーカスされています。

過去のすべてのことは、この一瞬のみにフォーカスされています。

この一瞬にすべてのことが集約されています。

この一瞬だけを見て感じてください。

この一瞬だけと向き合ってください。

そして、受け入れてください。


ほら、感じませんか(^^)


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すべてのことは私です

2014年05月07日 10時32分39秒 | エッセイ
◇すべてのことは私です◇

私の中に起こってくる考えも、私を中心としたこの世界も、すべてのことは私という意識の現れであり、私そのものです。

私という存在以前のことについて根源等の概念をつくり、いろいろと考えを巡らす方がおられますが、そのような概念も、紛れもなく私が考えていることであり、それも私です。

例えどんな概念をつくろうとも、すべて私の範疇の中なのです。

私を離れて何処かに行こうとしてもそれは不可能です。

無理に私を滅しようとしても、それも困難です。

すべては私なのだと理解するようになれば、自ずと私は大人しくなり、溶けていきます。

そして、終わっていきます。


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解脱とは

2014年05月03日 12時55分02秒 | 悟り
◇解脱とは◇

解脱に対する現時点の私自身の理解(これも考えですね、笑)をまだハッキリと書いてなかったと思いましたので、書いてみたいと思います。
解脱について言葉で表現することはそもそも無理なことなのですが、敢えてやってみますね(笑)。


私としては、以下のように表現したいと思います。

「解脱」とは、すべての考えが消滅することである。

また「解脱の悟り」とは、一切の考えを掴まなくなることである。
あるいは、無明の迷いが晴れることである。


解脱の悟りを得て、一切の考えを掴まなくなると、あとは残りのカルマ(執着)を消費するだけとなります。
そして、そのカルマが尽き、それに伴って肉体が滅ぶとき、その存在は解脱します。


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