◇悟りの階梯(3)◇
さらに昨日の続きです。
第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えている段階です。
これが真我に完全に覚醒した段階です。
第二の段階で体感的に感じられていた、ハートの中心の「私」という感覚も消失します。
「私は在る」という感覚のうち、「私」という自我による要素が消失し、「在る」という感覚だけが残った状態です。
この第三の段階では、分別が極端に減り、自我が不在となる期間が長くなりますので、自我と真我が交互に顕在化してくるその推移を実感できるようになります。
まさに、真我を常に捉えた状態となります。
そしてこの段階で初めて、真我とは思考、又は思考の連鎖そのものであるという理解が得られます。
その理解のもとでは、主体と客体が統合され、見る者(主体)と見られるもの(客体)が一体となっています。
逆に言えば、この理解が得られると、真我に完全に覚醒したということになります。
またこの段階では、現実世界を含めたこの世界のすべてについて、ごく一部の例外を除いて執着が消失します。
その例外とは、その人が残りの人生で経験すべき最低限のカルマ(執着)です。
この段階に至った人は、残りの人生をその残りカルマに導かれるようにして生きていきます。
この人には、こうしたいとか、こうしようという積極的な意思出しは、その残りカルマに関連すること以外は、無くなります。
人によっては、その残りカルマに関連することでも、積極的に意思出しをすることも無くなっていくのではないかと思います。
但し、この段階では真我に対してそれが永久不滅のものである等の執着が残ります。
この執着は、まだ無明の迷いを生じさせます。
無明の迷いとは、私という存在の最も根源的な性です。
私という存在の根底には、不足感のような抽象的な否定的な感覚(考え)があります。
その根底にある否定的な感覚のため、私という存在は、楽、すなわち光を求めて連鎖的な考えを起こし、延々と彷徨っているのです。
これが無明の迷いです。
この無明の迷いは、次の第四の段階で消失します。
輪廻との関係については、肉体が滅ぶとき、真我に対する執着のみが残りますので、死後は梵天界に行きます。
そして、そこで途方もない時間を過ごし、真我に対する執着が滅するのに伴って、すべての存在要素が消滅します。
真我への完全な覚醒は、「私というゲート」を潜ることにより可能となります。
ここで言う「私」とは、私の個の意識である自我のことです。
「私というゲート」を潜る方法としては、一つは、自覚を通じて「私」に意識の焦点を当て続けることです。
それによって、「私」を解かし、消失させることです。
私が消失し、私というゲートの扉が開くのに伴い、真我としての私は思考そのものであるという理解が自ずと得られます。
もう一つは、私に起こる思考について、あるいは私と思考の関係について徹底的に洞察することです。
徹底的に洞察すれば、その過程の中で「私」も解かされていき、いずれ最終的な理解に行きつきいます。
この洞察の際、「私とは何か」を追求するのもいい方法だと思います。
<少し補足します(2014年3月12日)>
つい最近になって梵天界のことについて少しずつ分かってきたことがあり、輪廻との関係で改めて考え直しています。
上では、お釈迦さまが仰ったことをほぼそのままそうなんだと受け入れて、第三の段階に到達した存在は、死後は梵天界へ行き、その後真我への執着の消滅と共に消滅すると書きましたが、梵天界のことを理解するに連れて、ことはそう単純ではないように思い出したのです。
詳細は改めて書かせていただくつもりですが、梵天界は何も無い暗闇の世界なのです。
但し完全な暗闇という訳ではなく、あちらこちらと意識を展開させれば、遠くの方に微かに感じる光が見える場合があるのだろうと思います。
あるいは、暗闇に耐えかねて私という存在が考えにより光をつくり出す場合があるのだろうと思います。
そして、その光が、新たな迷い、つまり執着をつくり出してしまうこともあるのだろうと思うのです。
そしてさらには、その迷いによりこの現実世界へ再び生まれてくることがあるのではないかと思うのです。
このような迷いによりむしろ、梵天界を経て解脱に至るケースよりも、再び現実世界に生まれてくるケースの方が圧倒的に多いのではないかと思わないでもないのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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さらに昨日の続きです。
第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えている段階です。
これが真我に完全に覚醒した段階です。
第二の段階で体感的に感じられていた、ハートの中心の「私」という感覚も消失します。
「私は在る」という感覚のうち、「私」という自我による要素が消失し、「在る」という感覚だけが残った状態です。
この第三の段階では、分別が極端に減り、自我が不在となる期間が長くなりますので、自我と真我が交互に顕在化してくるその推移を実感できるようになります。
まさに、真我を常に捉えた状態となります。
そしてこの段階で初めて、真我とは思考、又は思考の連鎖そのものであるという理解が得られます。
その理解のもとでは、主体と客体が統合され、見る者(主体)と見られるもの(客体)が一体となっています。
逆に言えば、この理解が得られると、真我に完全に覚醒したということになります。
またこの段階では、現実世界を含めたこの世界のすべてについて、ごく一部の例外を除いて執着が消失します。
その例外とは、その人が残りの人生で経験すべき最低限のカルマ(執着)です。
この段階に至った人は、残りの人生をその残りカルマに導かれるようにして生きていきます。
この人には、こうしたいとか、こうしようという積極的な意思出しは、その残りカルマに関連すること以外は、無くなります。
人によっては、その残りカルマに関連することでも、積極的に意思出しをすることも無くなっていくのではないかと思います。
但し、この段階では真我に対してそれが永久不滅のものである等の執着が残ります。
この執着は、まだ無明の迷いを生じさせます。
無明の迷いとは、私という存在の最も根源的な性です。
私という存在の根底には、不足感のような抽象的な否定的な感覚(考え)があります。
その根底にある否定的な感覚のため、私という存在は、楽、すなわち光を求めて連鎖的な考えを起こし、延々と彷徨っているのです。
これが無明の迷いです。
この無明の迷いは、次の第四の段階で消失します。
輪廻との関係については、肉体が滅ぶとき、真我に対する執着のみが残りますので、死後は梵天界に行きます。
そして、そこで途方もない時間を過ごし、真我に対する執着が滅するのに伴って、すべての存在要素が消滅します。
真我への完全な覚醒は、「私というゲート」を潜ることにより可能となります。
ここで言う「私」とは、私の個の意識である自我のことです。
「私というゲート」を潜る方法としては、一つは、自覚を通じて「私」に意識の焦点を当て続けることです。
それによって、「私」を解かし、消失させることです。
私が消失し、私というゲートの扉が開くのに伴い、真我としての私は思考そのものであるという理解が自ずと得られます。
もう一つは、私に起こる思考について、あるいは私と思考の関係について徹底的に洞察することです。
徹底的に洞察すれば、その過程の中で「私」も解かされていき、いずれ最終的な理解に行きつきいます。
この洞察の際、「私とは何か」を追求するのもいい方法だと思います。
<少し補足します(2014年3月12日)>
つい最近になって梵天界のことについて少しずつ分かってきたことがあり、輪廻との関係で改めて考え直しています。
上では、お釈迦さまが仰ったことをほぼそのままそうなんだと受け入れて、第三の段階に到達した存在は、死後は梵天界へ行き、その後真我への執着の消滅と共に消滅すると書きましたが、梵天界のことを理解するに連れて、ことはそう単純ではないように思い出したのです。
詳細は改めて書かせていただくつもりですが、梵天界は何も無い暗闇の世界なのです。
但し完全な暗闇という訳ではなく、あちらこちらと意識を展開させれば、遠くの方に微かに感じる光が見える場合があるのだろうと思います。
あるいは、暗闇に耐えかねて私という存在が考えにより光をつくり出す場合があるのだろうと思います。
そして、その光が、新たな迷い、つまり執着をつくり出してしまうこともあるのだろうと思うのです。
そしてさらには、その迷いによりこの現実世界へ再び生まれてくることがあるのではないかと思うのです。
このような迷いによりむしろ、梵天界を経て解脱に至るケースよりも、再び現実世界に生まれてくるケースの方が圧倒的に多いのではないかと思わないでもないのです。
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読んで頂いてありがとうございました。
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