私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りの階梯(3)

2014年02月28日 09時41分25秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(3)◇

さらに昨日の続きです。

第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えている段階です。
これが真我に完全に覚醒した段階です。
第二の段階で体感的に感じられていた、ハートの中心の「私」という感覚も消失します。
「私は在る」という感覚のうち、「私」という自我による要素が消失し、「在る」という感覚だけが残った状態です。

この第三の段階では、分別が極端に減り、自我が不在となる期間が長くなりますので、自我と真我が交互に顕在化してくるその推移を実感できるようになります。
まさに、真我を常に捉えた状態となります。

そしてこの段階で初めて、真我とは思考、又は思考の連鎖そのものであるという理解が得られます。
その理解のもとでは、主体と客体が統合され、見る者(主体)と見られるもの(客体)が一体となっています。
逆に言えば、この理解が得られると、真我に完全に覚醒したということになります。

またこの段階では、現実世界を含めたこの世界のすべてについて、ごく一部の例外を除いて執着が消失します。
その例外とは、その人が残りの人生で経験すべき最低限のカルマ(執着)です。
この段階に至った人は、残りの人生をその残りカルマに導かれるようにして生きていきます。
この人には、こうしたいとか、こうしようという積極的な意思出しは、その残りカルマに関連すること以外は、無くなります。
人によっては、その残りカルマに関連することでも、積極的に意思出しをすることも無くなっていくのではないかと思います。

但し、この段階では真我に対してそれが永久不滅のものである等の執着が残ります。
この執着は、まだ無明の迷いを生じさせます。
無明の迷いとは、私という存在の最も根源的な性です。
私という存在の根底には、不足感のような抽象的な否定的な感覚(考え)があります。
その根底にある否定的な感覚のため、私という存在は、楽、すなわち光を求めて連鎖的な考えを起こし、延々と彷徨っているのです。
これが無明の迷いです。
この無明の迷いは、次の第四の段階で消失します。

輪廻との関係については、肉体が滅ぶとき、真我に対する執着のみが残りますので、死後は梵天界に行きます。
そして、そこで途方もない時間を過ごし、真我に対する執着が滅するのに伴って、すべての存在要素が消滅します。

真我への完全な覚醒は、「私というゲート」を潜ることにより可能となります。
ここで言う「私」とは、私の個の意識である自我のことです。
「私というゲート」を潜る方法としては、一つは、自覚を通じて「私」に意識の焦点を当て続けることです。
それによって、「私」を解かし、消失させることです。
私が消失し、私というゲートの扉が開くのに伴い、真我としての私は思考そのものであるという理解が自ずと得られます。
もう一つは、私に起こる思考について、あるいは私と思考の関係について徹底的に洞察することです。
徹底的に洞察すれば、その過程の中で「私」も解かされていき、いずれ最終的な理解に行きつきいます。
この洞察の際、「私とは何か」を追求するのもいい方法だと思います。


<少し補足します(2014年3月12日)>
つい最近になって梵天界のことについて少しずつ分かってきたことがあり、輪廻との関係で改めて考え直しています。
上では、お釈迦さまが仰ったことをほぼそのままそうなんだと受け入れて、第三の段階に到達した存在は、死後は梵天界へ行き、その後真我への執着の消滅と共に消滅すると書きましたが、梵天界のことを理解するに連れて、ことはそう単純ではないように思い出したのです。
詳細は改めて書かせていただくつもりですが、梵天界は何も無い暗闇の世界なのです。
但し完全な暗闇という訳ではなく、あちらこちらと意識を展開させれば、遠くの方に微かに感じる光が見える場合があるのだろうと思います。
あるいは、暗闇に耐えかねて私という存在が考えにより光をつくり出す場合があるのだろうと思います。
そして、その光が、新たな迷い、つまり執着をつくり出してしまうこともあるのだろうと思うのです。
そしてさらには、その迷いによりこの現実世界へ再び生まれてくることがあるのではないかと思うのです。
このような迷いによりむしろ、梵天界を経て解脱に至るケースよりも、再び現実世界に生まれてくるケースの方が圧倒的に多いのではないかと思わないでもないのです。


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悟りの階梯(2)

2014年02月27日 10時21分59秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(2)◇

昨日の続きです。

第二の段階は、個の意識である自我と全体意識である真我の両方に目覚めた段階です。
大切な点は、「自我と真我の両方」に目覚めることです。
いずれか一方だけの目覚めでは、この段階に至っていません。

自我と真我の両方に目覚めることにより、自我の思考である分別がさらに減るとともに、分別が幻であることもさらに附に落ちてきます。
これにより、自我の活動である分別がさらに減り、いわゆる「自我が落ちた」という状態になります。

分別がさらに減りますので、起こってくる一つ一つの分別を認識し、必要に応じてコントロールできるようになります。
この段階で、分別に対する十分な主導権が得られ、分別に翻弄されることが殆ど無くなります。
分別が大幅に減ってますので、分別が起きていない無我の状態に入ることも容易になります。

またこの段階では、現実世界のすべての事象について私がつくった考えであるという理解が附に落ちてきますので、現実世界に対する迷いや執着が薄くなります。

さらにこの段階では、智慧の発現がさらに活性化してきます。
そして、真理への理解が自ずと進んでいきます。

但しこの段階では、自我が落ちても、私という個の意識や私という感覚は残っています。
これを言葉で表現すると、「私は在る」という感覚がピッタリと当てはまるのだろうと思います。
体感的にも、ハートの中心に「私」という感覚が感じられる状態です。

輪廻との関係については、肉体が滅んだ後は、天界に行きます。
ラジニーシさんによると、肉体転生を自ら強く望むような一部の例外を除いて、この段階で肉体への転生が無くなるとのことです。
しかし私としては、天界で個々に必要な時間を過ごした後は、再度(少なくとも一度は)肉体に転生する必要があるのではないかと考えています。
なぜなら、希薄ながらまだ残っている自我を手放す悟りを得るためには、肉体への転生が必要だろうと考えるからです。


続きます。


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悟りの階梯(1)

2014年02月26日 13時42分19秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(1)◇

<この記事は2月26日に書いたものを、翌27日に大幅に訂正しています>

先週、ラジニーシさんの「奇跡の探求Ⅱ」を読み、それが助けになって、悟りの階梯について理解がクリアになりましたので、書かせていただきます。
なお、ラジニーシさんの理解と私の理解は大凡は一致しているのですが、細部には違いも多々あります。
悟りに関する理解は、体験や内面から湧き起こる確信的な理解に基づく主観的なものですので、各自の理解に異なる部分が生じるのは不可避なのだと考えています。


悟りには、第一から第四の四つの段階があります。
第一の段階は、私という存在の個と全体の二面性のうちの個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です(見性又は真我の気づき)。
第二の段階は、自我と真我の両方を捉えた段階です(覚醒)。
第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えているようになった段階です(真我の完全覚醒)。
第四の段階は、真我も幻であると認識した段階です(実質的な解脱)。

各段階について、以下に簡単に説明していきます。

第一の段階の段階から順に説明していきます。
まず最初に改めて申し上げたいことは、私という存在の個と全体の二面性についてです。
私という存在は、個と全体の二面性を有していて、個の意識要素が創造主としての自我であり、全体の意識要素が真我であるということです。
この二面性を理解することにより、私に対する理解がより容易かつクリアになります。

第一の段階は、私という存在の個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です。
この段階は、悟りの道の入り口です。
この段階では、自我又は真我の一方しか捉えられていないため、アンバランスであり、自我の思考である分別に惑わされる傾向があり、まだ迷いの中にいます。
迷いから抜け出すためには、自我と真我の両方を捉え、次の段階に進む必要があります。

次に、この段階における自我を捉えられた場合と真我を捉えられた場合について個別に説明します。

まず、自我を捉えた場合について。

自我を捉えるとは、創造主としての自身の本性(仏性)に気づくことです。
これを見性と言います。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。
ここで言う「自我」は、創造主である個の意識のことです。

見性による最大の特徴は、創造主としての自我に目覚めるため、「私」という意識がしっかりし、意思をしっかり自覚して表現できるようになる点です。
このため、意思の実現性も大幅に向上します。
人によっては特殊能力が活性化される方がおられると思います。

また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという一応の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。

但し、意識の状態としては、まだ自我の思考である分別に忙しく、連鎖的に生じる分別に翻弄されやすい状態です。
分別に対する主導権はまだ不十分であり、迷いも多々あります。
分別に対する十分な主導権を得るためには、真我を捉え、次の段階に進む必要があります。

自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことにより、分別が減り、それに伴って自我が薄くなっていくとともに、断続的に起こってくる分別の隙間から、全体意識(真我)が少しずつ垣間見えるようになっていきます。
これが真我に目覚めるための準備になります。

次に、真我を捉えられた場合について。

真我に目覚めるとは、真我を捉えることです。
真我に目覚めることにより、分別が大幅に減り、自我が大幅に薄くなります。
この目覚めに伴って、すべては一つという理解が得られます。

分別が大幅に減ることで自我が薄くなり、それとともに、出来事に対して受け入れることが比較的無理なくできるようになりますので、自我に起因して起こってくる苦しみも大幅に減り、楽になります。

また、分別の減少に伴い、智慧が発現するようになってきます。
そして、その智慧の発現により、真理に対する理解が自ずと進んでいきます。

しかし、この真我の目覚めだけを得た場合では、自我が薄くなったとは言え、いわゆる「自我が落ちた」という段階には至っておらず、分別に惑わされる傾向が残ってしまいます。
また、まだ自我に目覚めていないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
すべての事象が考えであることに対する認識もない又は不十分ですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされ、迷いの状態から抜け出すのが困難です。

主体性と分別に対する十分な主導権を得るためには、自我を捉え、次の段階に進む必要があります。
但し、真我に目覚められた方で智慧の発現が活性化しておられる方の場合、智慧の導きにより自然と自我の目覚めに導かれていくこともあるのだろうと思っています。
私の場合も、明け渡しによる真我の目覚めの直ぐ後から智慧の発現がありましたので、マスターゲートさんのもとで自覚について学ぶ前に、智慧の導きにより見性の一歩手前のところまで達していました。

この第一の段階における輪廻との関係については、ラジニーシさんによると、この段階を進むに連れ、肉体へ転生する割合が減っていくとのことです。
しかし私としては、この段階では、仮に肉体転生から一旦離れて天界等に行ったとしても、いずれ再び肉体へ転生する必要があるだろうと考えています。
なぜなら、自我という執着を手放す悟りを得るには、肉体への転生が必要だろうと考えるからです。

自我への目覚めについては、そのためのワーク(技法)があります。
このブログ内に自我に気づくためのワークとして「自覚ワーク」を紹介してますので、興味のおありの方は、右端のブログカテゴリをご参照ください。

真我への目覚めは、自覚や瞑想等により、私という存在の「センター(中心)」を捉えることにより可能です(比較的短い時間でも、捉えられればいいです)。
「センター」とは、分別が生じていない自我不在の状態であり、「いまここ」の状態です。
あるいは、明け渡しによりすべてを受け入れることによっても可能です。
最初に「センター」を捉えたときは、多くの方の場合、至福感や静寂、笑い等の通常と違った感覚が起こってきますので、直ぐに分かります。
但し、この段階での真我に対する理解は、至福感や静寂、愛等の感覚的なものしか得られません。
なお、私は突発的に生じた明け渡しによって真我に目覚めたため、真我に目覚めるための具体的なワーク(技法)やその過程については、余り詳しくはありません。


続きます。


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悟りの道と仕事

2014年02月24日 16時09分39秒 | エッセイ
◇悟りの道と仕事◇

仕事や日常生活と悟りの関係について、明確になってきたことがありますので、書かせていただきます。

紆余曲折はあるでしょうが、悟りを深めていくに連れて執着が薄まっていきます。
これは間違いありません。

仕事や日常生活を維持する、あるいは維持したいという衝動も執着ですから、悟りが深まるに連れ、仕事や日常生活に対する執着が薄れ、それらがどうでもよくなってしまい、維持できなくなるということはよく起こることなのだと思います。
私自身のこれまでの経過からしても、まさにそうなのだと納得しています。

ですから、悟りの道を歩んでおられる方が仕事ができなくなってきた、又は仕事に興味を感じなくなってきたというのは、とても自然な成り行きなのです。
どうかあまり自分を責めることなく、また悲観されることなく、この自然な成り行きを受け入れていただきたいと思います。

私自身の場合も、二人の子供はまだ小さいし、お金もかかるし、本当に大丈夫なんだろうかなどと、薄くなっている残り自我が時折心配することもあるのですが、どうにもならない以上、覚悟を決めて受け入れることにしています。

しかし、例外的なケースもあるようです。
それは残りカルマ(執着)との関係です。
多くの方の場合、肉体が滅ぶまでの間に経験すべき最低限の残りカルマ(執着)については、変更が効かないようなのです。
ですから、その残りカルマに仕事や日常生活が含まれている場合は、所定の区切りまで否応無しに仕事や日常生活を続けることになります。
例えば、ブンジャンさんの例がその典型です。
ブンジャンさんは真我に完全覚醒された後、残りカルマに導かれるようにして、鉱山会社の社長職に就かれ、退職まで家族を養われました。
おそらく、プンジャンさんご自身には選択の余地はなかったのだろうと思います。

つまり、真我に完全覚醒するような悟りを得た場合、その人の残りの人生は残りカルマ次第なんだという話でした。

ちなみに私の場合は、いまのところ、残りカルマに仕事は入っていないようです。
いまは家族を続けること以外は、すべてどうでもよくなってしまっています。


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自我について

2014年02月21日 10時06分58秒 | 私の成り立ち
◇自我について◇

先日の記事で全体意識(真我)について書きましたので、個の意識(自我)についても書いてみたいと思います。
ちなみに、真我とは主体と客体が統合された思考又は思考の連鎖そのものであるということでした。
また別の角度から見ると、過去世で溜め込んだ考えである執着(カルマ)の反映活動であるというものでした。
念のため言っておきますが、この理解で間違いはないですから。(^^)
誰がなんと言おうと、間違いないです。
例え、私の師匠であるマスターゲートさんが「慧空、それは間違っているよ」と仰っても、ゲートさんへの説得を試みたいと思っています。(^o^)

自我とは、真我と対をなすものであり、真我を理解し、真我と自我を含めた私という存在を展開させる自由な活動体であり、いわばエンジンなのです。
真我を理解するのは自我であり、自我があるから真我があるのです。
また真我があるから自我があるのです。
まさに表裏一体の関係なのです。
そして、これらはすべて考え、つまり幻の世界のことなのです。

このような自我ですが、別の角度から見ると、自我とは「私(個)」という感覚の種と、その種に誘発された分別の連鎖とからなっているとも言えます。
私という感覚の種とは、分別の種であり、真我である無意識下の執着そのものとも言えますし、その執着に付随しているものといも言えると思います。
真我が存在する以上、分別の種は不可避的に存在します(天界の神々にもちゃんとありますし、梵天界の存在にもしっかりあります)。
そして、その種により断続的に分別が誘発され、自我が出現(顕在化)します。
種による分別の誘発は、例えば音等の外界からの刺激に対する感応により生じます。
自我が出現するとある期間の間、自我そのものである分別の連鎖が続きます。
これが自我であり、自我の活動です。

この分別の連鎖は、絶え間なく連続的に続くものではなく、途切れ途切れの断続的なものなのです。
自我(分別)が途切れている間の期間は、自我が不在となり、真我が顕在化します。
まだ悟りに至らない一般の方でも、自我(分別)の出現期間は断続的なものであり、実際には真我が顕在化している期間の割合が意外に大きいのです。

悟りに近づき、そして悟りが深まるにつれ、自我(分別)が出現する割合が小さくなっていきます。


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能力も個性も自分が選択したもの

2014年02月19日 14時01分15秒 | エッセイ
休憩中のつもりだったのですが、ふっと思いついたので書きます。(^^)


◇能力も個性も自分が選択したもの◇

多くの方は、あの人にはあんな優れた能力があるとか、あの人は人格者だとか、そういう言い方をされます。
そして、それらを比較することに余念がありません。

しかし、どんな能力も個性も、それらは「私」という存在が選択した考えであり、衣に過ぎません。
知識や経験についてもそうです。
どんなに優れた知識や経験であっても、衣に過ぎないのです。

「私」という存在の本質に迫るとき、すべての存在に違いはなくなっていきます。

ですから悟りの道を歩むとき、例えどんな衣をまとっていても、それが障害になることはありません。

あなたの心の勉強が思うように進まないのを、衣のせいにしないでください。

いずれ最後はすべての衣を脱いでしまうのですから。

衣を比較するのではなく、また衣のせいにするのでもなく、この衣は私が選択したものなのだなと、自覚していただきたいと思います。


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少し休憩します

2014年02月18日 10時30分15秒 | その他
私という存在に対する理解は、まだ進んでいる感じなのですが、一区切りという感じもしますので、少し休憩したいと思います。

少し個人的なことを書きますと、最近は夢の様子も大分変化してきました。
夢の中でも覚醒している感じで、夢と現実の違いが薄れてきている感じです。
夢と現実の間に本質的な違いはないんだなと実感しています。
どちらも、幻なのです。

この肉体が滅ぶときも、夢から覚めるような、あるいは反対に眠りに落ちていくような、そういう感覚なんだろうなと思ったりしています。


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真我消滅の仕組み

2014年02月17日 11時54分42秒 | 私の成り立ち
◇真我消滅の仕組み◇

今日も真我についての私の理解を書かせていただきます。

全体意識としての私(真我)は、私という存在の無意識の活動なのですが、これはどうやら、過去(主に過去世)の執着(カルマ)の反映なのです(おそらくこの理解で正解です、もし間違っていることが分かったら、そのとき訂正させていただきます)。
つまり、真我は過去の執着の反映活動なのです。

私を中心としたこの世界は、真我による過去の執着の反映活動をベースとして、それに自我の活動が重量されることにより繰り広げられているのです。

そして、将来である死後の世界や来世の真我の活動内容は、過去の執着の反映活動をこなしながら、現時点での執着が同時並行で蓄えられていくことにより、その準備が進んでいるのです。

このため、肉体が滅ぶ瞬間に一切の執着が残っていない場合、死後又は来世での真我により反映すべき過去の執着が存在せず、真我は自我とともに消滅するのです。

これが、真我消滅の仕組みです。


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真我に関する認識と誤解について

2014年02月15日 23時18分06秒 | 悟り
◇真我に関する認識と誤解について◇

全体意識(真我)について、よりクリアになった視点で改めて書かせていただきます。

私という存在は意識あるいは意識の活動そのものなのですが、それは個と全体の二面性を有しています。
個と全体とは糾える縄のように交互に顕在化するようになっており、二つの面が同時に顕在化することはありません。

私の意識として個の意識が顕在化しているときは、主体である自我と、その客体(被造物)である思考が存在します。
自我はその活動により創造主として種々の思考をつくりだし、その思考により世界を展開していきます。

また、私の意識として真我が顕在化しているときは、意識の活動である思考、あるいは思考の連鎖そのものが私となり、その思考の連鎖の結果である世界の展開が生じていきます。
そのとき、通常感覚の私という主体とその客体である思考とは統合されており、自我は不在となっています。

この「真我としての私は思考そのものである」という理解が、どうやら真我に対する最終的な理解であり、これより先の理解は存在しないようです。
昨晩のネット散策で、ラジニーシさんやクリシュナムルティさんもこれが最終理解だと言ってるのを知り、改めて納得した次第です。

真我に対する理解(見え方)は、悟りの過程により種々に変化していきます。
このため、誤解も起こりやすいのです。

例えば、初期の過程では、真我に対して、至福や静寂等に代表されるように感覚的な理解しか得られませんので、そういった思い込みも生じてしまいます。
それも必要な過程なのかも知れませんが、できればそこで留まることなく、より的確な理解を目指していただきたいと思います。

他の起こりやすい誤解としては、真我と私との関係についてです。
あくまでも真我は、私という存在の一側面というか一要素なのです。
真我が私という存在よりも大きな存在だと誤解しておられる方が多いようですが、それは誤りです。
ですから、真我は自我と同じようにして、私たち一人一人に一つずつあるものなのです。

もう一つ起こりやすい誤解としては、真我と自我の関係と、真我の絶対性についてです。
真我が自我の上位にある存在要素なのではなく、真我と自我は対を成す対等な関係なのです。
私という存在が解脱により消滅するとき、真我も自我と共に消滅します(肉体を離れたときに真我として存在が残るケースがあるようですが、その状態は解脱とは言わないようです)。
マハルシさん等も真我が永遠不滅の存在要素であると認識しておられたようですが、これは誤解なのです(断言します)。
誤解により執着が生じてしまうと、解脱の妨げに成りかねないのです。


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幸不幸と悟り

2014年02月14日 11時48分17秒 | エッセイ
◇幸不幸と悟り◇

幸せとは、それはそれで確かに素晴らしいものではありますが、それも一長一短なのです。
幸せな状態が永遠に続くことはありませんし、飽きも来ます。
いずれ変化や波を求めるようになるのです。
そこには、必ず苦しみが伴います。

また、幸せなときは心の勉強は殆ど進まないようになっています。
実際はむしろ後退することの方が多いのではないかと思います。
とても残念なことではありますが、幸せと心の勉強は両立しないのです。
幸せは、心の勉強の休憩時間という表現が最も当てはまっているのではないかと思います。

心の勉強は、苦しみの中で最も進むようになっています。

苦しいときは、無論のこと大変でしょうが、できれば翻弄されることなく、出来事や苦しみと向き合っていただきたいと思います。
とことん受けて立つ覚悟で、向き合っていただきたいと思います。

永遠に続く幸せが無いように、永遠に続く苦しみもありません。


<補足>
幸せと心の勉強が両立しないというと、疑問や反発を感じる方がおられると思うので、その点について少し補足します。
心の勉強の主要要素は自覚と受容なのですが、幸せなときは、自覚や受容をする必要がないため、多くの人はそれを止めてしまうのです。
また仮に、自覚、受容を行ったとしても抵抗なく容易にできてしまうため、切実さ等もなく、深い自覚等が得られないのです。
むしろ、緩慢になり後退してしまう方が多いのが実際なのです。


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次元上昇とその誤解

2014年02月13日 09時42分14秒 | エッセイ
◇次元上昇とその誤解◇

一昨日から昨日にかけて、私という存在の本質とその性について書いてしまいましたので、さらに補足として、次元上昇とそれに関する誤解についても書かせていただきます。

どうも、次元上昇のことを解脱だと誤解しておられる方が多いようです。
マスターと呼ばれる方の中にもそのような誤解をしている方がおられるようです。

私は次元上昇に対する実体験も記憶もないので、次元上昇がどういうものかハッキリとしたことは申せませんが、解脱とは全く異なるものであることは確かです。

解脱とは、一切の考えが消滅することです。
私という個の意識も全体意識(真我)も、それ自体が考えですから、それらも消滅します。

次元上昇は、意識の次元を上げて存在界の上層次元へと上昇していくことのようですが、上昇していく先は依然として、私という個の意識がつくりだす考えの世界なのです。
よって、そこには私という個の意識が存在しつづけます。
考えによってつくり出される世界は、無限に広がりますので、どこまで上昇しても切りがありません。

冷淡な言い方ですが、それは次元上昇への執着がそうさせているのです。
その姿は、実はここで暮らす私たちと本質的な違いはなにもないのです。
執着している考えの相違に過ぎないのです。


まだ断言できる段階ではないですが、おそらく、いくら上昇してもいずれまたここに降りてこなければならないのです。

なぜなら、解脱という悟りが生じるのは、おそらくここだけなのです。


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存在の根底にあるもの(2)

2014年02月12日 09時49分24秒 | 悟り
◇存在の根底にあるもの(2)◇

昨日の記事の補足的なことを書かせていただきます。

昨日の記事で、私という存在の根底には、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があると書きました。
そして、私という存在、すなわち私の考えの連鎖は、その根底にある否定的な考えが起点となって繰り広げられていると書きました。

今日は、この観点から思考についてもう少し書いてみたいと思います。

思考とは、存在の根底にある不足感等の否定的な感覚(考え)を満たそうする、あるいはその否定的な考えから逃れようとする衝動なのです。
そして執着(カルマ)とは、私が握りしめている、あるいは溜め込んでいる思考なのです。
あるいは、その握りしめている思考に対する依存心ということもできます。
また、おそれとは、その依存の対象を失うことに対する無意識の抵抗なのです。


私たちの旅路は、幸福、すなわち「楽」を求めたものであるということができます。
私に起こる一つ一つの思考も、それらについてよく洞察すると、「楽」を求める衝動の一環として起こってきていることが分かります。

そうやって、私たちは「楽」を求めて延々と彷徨っています。
存在の根底の部分が満たされてないので、どういう思考が起こってどういう選択をしようと、やっぱり満たされず、彷徨い続けてしまうのです。


みなさん、この旅路の終わりが気になる方もおられるでしょうね(私も気になります、笑)。

この旅路は、私という存在がそういうものだと理解すれば、つまり受け入れれば終わります。


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存在の根底にあるもの(1)

2014年02月11日 11時37分29秒 | 悟り
◇存在の根底にあるもの(1)◇

今回の記事は、ここに書くべきかどうか少し迷いました。
でも、このブログの趣旨が「全部書いてしまえ」ですから、書くことにしました。


どうやら、私という存在の根底には、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があるようなのです。
根底にあるのは、喜びなどの肯定的な考えではなく、否定的な考えなのでした。

このことがハッキリと分かったのは今朝なのですが、分かったときは「やっぱりなあ」という感覚とともに、少し切ないような微妙な気持ちになりました。

私という存在、すなわち私の考えの連鎖は、その根底にある否定的な考えが起点となって繰り広げられているのでした。
思考とは、否定の連鎖そのものなのでした。

よって、私という存在は、その根底にある否定的な考えがすべて解消されたとき終わるのです。


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自覚と受容

2014年02月10日 11時36分27秒 | エッセイ
◇自覚と受容◇

心の勉強を進めていくとき、自覚と受容が両輪となって進んでいきます。

良いことも悪いことも、すべて私がつくっているだと自覚すれば、起こってくる出来事や、自分の感情、考えを自然と受け入れるようになっていきます。

またいくら自覚を深めようと、思い通りにならないことは次々と起こってきます。
最後は否応なく受け入れざるを得ないのです。

中には、強い意志により積極的に受け入れを進めてしまわれる方もおられるのかも知れません。
そうできる人はそれでもいいのです。

出来事や、自分の感情、考えに翻弄されるのも、それも経験というか過程なのでしょうが、できれば翻弄されることなく、自分をしっかりと持って向き合っていただきたいと思います。

向き合えるようになれば、自ずと進んでいきます。


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創造主としての責任と自覚

2014年02月07日 10時25分37秒 | エッセイ
◇創造主としての責任と自覚◇

私という存在には個と全体の二面性があります。
そして、個としての私が創造主なのです。

個としての私は、私自身を中心としたこの世界のすべてをつくり出しています。
私自身の人格等の個性も経験も、個の私がつくっています。

私から見れば、石ころも、草木も、動物たちも、あなたも私も、天界の神々も魔物たちも、すべて私がつくっています。
そして、あなたから見れば、あなたがそれらのすべてをつくっています。

ですから、私自身のことも、この世界のことも、すべての責任は私にあるのです。

私が何かの失敗をし、その失敗が他の人に良くない影響を及ぼしてしまったときの責任は、もちろん私にあります。
これは皆さん、言うまでもなく承知されると思います。

しかし、私に何の落ち度がないのに、他の人からの良くない影響を被ったときも、その責任は私にあるのです。
もっと言えば、この世界で起こる私に直接関係のない出来事についても、その責任は私にあるのです。
例えば、世界のどこかで常に繰り広げられている殺人や、戦争や、虐殺なども、そのすべての責任は私にあるのです。

なぜなら、それらすべてを私がつくっているのだから。
その責任からは決して逃れられないのです。

あなたに、その責任を取ってくださいと言うつもりは決してありません。
それらの悪行をやめさせてくださいと言うつもりもありません。
あなたがそうしたければ、別ですが。

私が言いたいのは、あなたがすべてのことを起こしているんだという自覚を持ってくださいということです。

ただそれだけなのです。


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