私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

大悟を得る(天から梵天へ)(2)

2014年10月11日 20時33分09秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟を得る(天から梵天へ)(2)◇

今回の記事は前回の記事の続きです。

前回の記事で書きました三つの事柄について大凡引っかかりがなくなると、何らかの形で自然と大悟に向かうことになります。

大悟に至るまでの経緯や使用した方法は人それぞれであり、多種多様な経過を辿られた方がおられるでしょうし、また何か方法を使われた方についても多様な方法があるんだと思います。
ですから、私がここで紹介します方法等はほんの一例に過ぎないとお考え頂きたいと思います。

ただ一つ確信を持って言えることは、意図して悟りの道を進まれている方の場合、大悟を得るときの要となるものは、燃えさかる炎ような強い意識の集中だと思います。
そのときに意識を向ける対象や具体的なやり方が異なるだけで、極度の意識の集中状態を経るという点では共通しているのだろうと思っています。

では、本題に入っていきたいと思います。
なお、今回の記事では私が実際に実践してよく知っている方法だけに絞って書きたいと思います。

私は二つの方法を実践し、知っています。

まず一つ目の方法は、「私」に意識を集中する方法です。
意識の集中度合いを極限まで高めた状態で、「私」に意識を集中してください。
燃えさかる炎のような激しさで、あなたの意識を「私」に集中してください。
この世界いっぱいに広がったあなたの意識を、「私」の中心である一点に集中してください。

そのとき、あなたが認識する世界には、あなたが意識を向けている対象である「私」しか存在しなくなります。
「私」以外の他の考えがある場合には、まだ意識の集中度が足りません。
あなたが認識する世界に「私」だけが存在するようになるまで、意識を集中してください。

「私」以外の他の考えが起こってくるときは、他の考えが起こってくるたびに丁寧に、その考えを私が起こしているんだなと自覚することで、無用な考えの連鎖が起こらないように消し去ってください。
そして、「私」への集中度を高めていってください。

「私」への集中度が高まってくると、自然と自我の意識が薄れていき、思考の無い無我(無心)の方に行ってしまいます(そのままいくと、無我や禅定に入ってしまいます)。
この方法はあくまでも「私」に意識を集中することが重要なのであり、無我に入ることが目的ではないのです。
ですから、安易に無我に入るのではなく、「私」という考えをしっかりと維持して、その「私」に意識を集中し続けてください。
そのときのコツとしては、例えば、「わたし、わたし、わたし、...」とゆっくりと声に出して、あるいは心の中で唱えながら、つまり「私」という考えを「私」の中心につくり続けながら、その「私」に意識を集中してみてください。

このように、「私」に意識を高い集中度で集中するすることで、私という自我が溶かされていきます。
自我が溶かされ、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、大悟となります。


二つ目の方法は、私という存在である自我が考えをつくりだす現場に高い意識の集中度で直面しつづけることで、私という自我を溶融させつつ、自我と自我がつくりだす考えとをいわば直接的に統合させようとする方法です。

(なお、私という自我を捉える悟りである見性を得ようとされている方の場合は、通常、私(自我)と考えとは別のものであるという両者の分離を確立する過程を経られる必要があるため、混乱されないようにご注意ください。見性を得ようとされている方は、このワークのことは読み流して頂きたいと思います。)

具体的なやり方は、「私」が何かの考えを起こす現場に高い集中度で直面し、その現場における「私」と、「私」がつくりだす考えとの関係性を徹底的に洞察し続けます。

「私」が何かの考えをつくりだした瞬間における「私」の意識の動きや変化を徹底的に観察し、「私」と考えとの関係を徹底的に洞察してください。
また、「私」が何かの考えをつくりだし、さらに次の考えをつくりだしたその瞬間における「私」の意識の動きや変化の様子を徹底的に観察し、洞察してください。

例えば、「私」が「いま何時?」とか、「雨が降ってる」とか、「電車だ」という考えをつくりだした瞬間の「私」の意識の動きや変化を観察し、洞察してみてください。
また例えば、「私」が「私」に意識を向けている状態から、「いま何時?」等の他の考えをつくりだした瞬間の「私」の意識の動きや変化を徹底的に観察し、洞察してみてください。

そうやってあなたがご自分の自我が考えをつくりだす現場や、自我がその意識を向ける対象が何かの考えから次の考えに移り変わる瞬間に直面し続けることにより、いずれあなたは、ご自分の自我という意識が、起こってくる考えそのものであることに気づかれるでしょう。
「私」という自我が、連鎖的に起こってくる考えそのものであり、その考えの連鎖に伴って移りゆく意識そのものが「私」であることに気づかれるでしょう。


あなたが大悟に至ったとき、それは直ぐに分かります。
あなたの自我がある閾値(臨界値)を超えて滅せられるのに伴って、あなたの自我の感覚が大きく薄れます。
それによって、あなたの自我(主体)と、あなたの自我がつくる考え(客体)との統合が始まります。
そして、あなたが何かの対象を見たとき、あなた自身の自我の存在感覚は欠落して無く、あなたが見ているその対象物のみが存在しているかのような感覚になります。
この感覚を「見るものは見られるもの」と言ったりします。

大悟に至れば(特にその直後は)、四六時中と言っていいほど、あなたは「見るものは見られるもの」になるはずです。
あるいは、四六時中とは言わないないまでも、あなたが意識をそこに合わせると、いつでも好きなだけ、しかもとてもたやすく「見るものは見られるもの」になれるはずです。

大悟の間近まで到達された方が、一時的に「見るものは見られるもの」になることがあります。
しかし、それが一時的である場合は未だなのです。
この点、ご注意頂きたいと思います。


上の一つ目の方法についてのより具体的な方法例として、このブログに「ハートの自覚ワーク」(1)(2)という文章を書いておりますので、ご参照ください。
また、二つ目の方法に含まれる具体的の一つとして、「私とは何か」を徹底的に追求する方法があります。

最後に私(慧空)の場合について簡単にお話しますと、上の二つの方法をほぼ同時並行してやっていたのですが、掛けた力の配分としては、一つ目の方法の方により多くの力を注ぎました。
なお、私の体験談については出来れば近いうちに文章を書こうと思っています。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (まる)
2014-10-11 21:18:23
二つ目の方法は、家に篭らないとむずかしいように感じられました。
返信する
まるさんへ (慧空)
2014-10-11 21:44:53
>まるさんへ
コメントありがとうございます。

そんなことはないと思いますよ。
人それぞれだと思います。
ただ、どちらの方法も生半可な意識集中ではないため、仕事をしておられる方は、ある程度仕事等に影響が出るかも知れませんね。
返信する
真善美の探究 (Unknown)
2014-10-12 05:09:54
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。

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Re:真善美の探究 (慧空)
2014-10-12 19:31:06
>Unknownさんへ
コメントありがとうございます。

せっかくコメント頂いたのですが、これはすべてUnknownさんの考えだと思います。
ご自分に意識を向けられて、それらの考えを握りしめているご自分に気づいて頂きたいと思います。
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