私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

希望と苦

2024年07月21日 10時42分47秒 | 悟り
◇希望と苦◇


私という意識は、どうして彷徨うのでしょう。
そこには、漠然とした希望があります。
何か素晴らしいことがあるのではないかという期待です。

ではどうして、私たちは希望や期待を持ってしまうのでしょう。
そこには、不足感や虚しさといった苦があります。

まず初めに苦があり、その苦をどうにかしようとする展開が起こります。
しかし、そうした展開もまた苦であり、止めどなく苦が連鎖し、拡大していきます。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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ツイート記事(20240701~)

2024年07月20日 08時03分18秒 | その他
◇ツイート記事(20240701~)◇

<7月1日>
◇悟りについてオープンに語り合う
 いつの時代も悟りは非常にマイナーで、しかも何となく秘められているような感じもあり、悟りについてオープンな場で情報が開示されたり、やり取りが行われることが余り無いようです。
 現代ではインターネットの普及により、それが可能になっているにかかわらず、その状況は余り変わっていないように感じます。
 私としては、残念であり、物足りなさを感じているところです。

 かと言って、何か良いアイデアがあるとか、何かそのような取り組みを始める予定がある訳でもないのですが。
 
 ネットという便利なものが普及しているのに関わらず、低調な状態が続いているというのは、必死さを持って取り組んでいる方がまだ少ないのでしょうね。
 あるいは、悟りはどの時代も常に極めてマイナーなもので、盛り上がらないものなのかもしれません。
 残念ですが、この今回の大きな時代の転換期においても、そうなのかもしれませんね。
 
 私は、悟りについて議論したり、互いの悟りを試し合ったりするような展開が、あちこちで、もっともっと、も~~~っとあればいいのにと思っています。
 今は全くという程ありませんが。
 例えば、私(慧空)の悟りを批判したり、否定するような方も、このブログのコメント欄や、ブログ付設の掲示板に来ていただきたいと思っています。

 悟りは、目で見える訳でもなく、何かで客観的に測れるものでもなく、捉えどころがないものです。
 だからこそ、本人が自分の悟りを確かめるという意味でも、また求道者が自らの道を探り当てる際にも、実際にやり取りを交わしたり、試し合う等の取り組みがもっとあってもいいのではないかと思うのです。

<7月2日>
◇ライトワーカー?
 ちょっとスピ系の人みたいなことを書きますと、
 12年程前に明け渡し体験があって頭のてっぺんのチャクラが活発になってしまいました。
 それと関係があるのでしょうが、エネルギー、あるいは何かのエネルギーのようなものに敏感になってしまい、周りというかその場のエネルギーが強いときには、ヘロヘロ、フラフラになってしまいます。
 以前住んでた神奈川県内の某所もそうなのですが、現在住んでいる東海地域の自宅周辺エリアも、地域一体がまるでパワースポットであるかのようにエネルギーの強さを感じてしまいます。
 今住んでいる地域のエネルギーの強さは、山間の小さな小さな盆地なのですが、盆地という地形や、地下にウラン鉱石があったり、温泉が出るような環境のせいかもしれません。
 また、標高も高いので、太陽光線も強く、晴れた日などは、ヘロヘロのまま農作業をしています。
 なんせ、四六時中、エネルギー風呂に入っているような感じでそれだけでしんどいのに、さらに上からエネルギーが滝のように降りてくる感じなのです。

 実は以前、明け渡しがあった直ぐ後にネットで「ライトワーカー」という文字を目にしたときに、これって自分かもと思ったことがありました。
 その後、直ぐに悟りの道に入っていったのでライトワーカーのことは忘れてしまったというか、卒業したつもりでいたのですが、最近、ひょっとしてまだやっているいるのかも、と思ったのです。
 もしそうなら、もうやめたいと思い、「もうやめたい!」と意志表示してみたりしているのですが、状況に変化がありません。
 
 しかし、そもそものところ、「ライトワーカー」なんていうものが、本当にあるのだろうか?

<7月12日>
◇苦について書く
 苦は悟りの本質なのですが、これまでの私は、それについて書くのを少し避けていました。
 私自身、苦について書くのが気が重く、骨が折れる割には書いても伝わらないだろうし、読者の方も気が重くなるだろうなどと考えていました。
 でも、その考えを変えることにしました。
 もっと苦について書いていくことにしました。

 理由は、やっぱり、苦が悟りの本質だからです。
 原点に戻り、苦について語ろうと思った次第です。

 それと、古今東西、苦について語られた文章が殆どない状況なのです。
 釈迦は苦について語ったようですが、余り残ってないのではないかなぁ(ご存知の方がおられたら、教えていただけるとありがたいです)。

 という訳で、自分でもどこで気が変わってしまうのかわかりまんが、苦について徹底的に書いてみようと考えています。

 繰り返しますが、苦は悟りの本質なのです。

<7月14日>
◇トランプ暗殺未遂?
 文明の崩壊期ですので、いろいろなことがおきますね。
 今回のようなことは、起こり得ることだとは思っていましたが、やっぱりでした。

 そもそもところ、こんな時代に政治をやろうなんて考えるのが幼稚であり、愚かなのですが、それをやろうとする人々にはわかりっこないことなので、しょうがないことですが。
 政治や行政を含めた統治システム、経済システム、別の言い方をすれば、民主主義的システムも、共産主義的システムも、もっと言えば、私たち人類の組織的なすべての活動が、行き詰まり、破綻しています。

 こんな世界に見切りをつけるべきだと思いませんか?

<7月20日>
◇日航123便事件
 実は私はつい最近まで、日航123便事件は何らかの要因で機体が破損したことによる事故だと思い込んでいました。
 一般的な報道により与えられた情報を鵜呑みにして生きてきた訳です。
 それがおそらく事故ではなく、事件だったんだということを最近知りました。
 それを知ったときは、我々人間の愚かさに愕然としました。
 
 日航123便事件について、よくまとまっている動画を見つけたので、貼っておきます。
 興味のある方はご覧ください。
 動画URL : 123便 関係者の新証言
 
 先日発生したトランプ狙撃事件と、2年前に起きた安倍元総理暗殺事件は、ネットで自分で調べるだけで客観的な多数の事実情報にアクセスすることができます。
 そうすると、どちらも合理的観点から見ると不自然な点が多数発見できると思います。
 表現は悪いですが、事件の背後の作為性に気づくのには、とてもいい題材だと思います。

 
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苦と反応

2024年07月14日 17時41分49秒 | 悟り
◇苦と反応◇


今回は、苦と反応という切り口で書いてみたいと思います。

まずは、わかりやすいところから。
あなたが痒みを感じて、それを手で掻いたとしましょう。
このとき、あなたは痒みという苦を感じ、それを解消すべく手で掻いた訳です。

では、あなたが何気なく手を動かすときはどうでしょう。
あなたは、その手をどうして動かしたのでしょう。
あるいは、あなたの手はどうして動いたのでしょう。
手に限らず、何気に脚を組んだときや、脚を組み替えたときは、どうでしょう。
そこに、何らかの苦があったのではないでしょうか。

目に映った映像や耳に入った音に対してあたなの意識が反応するときも、同様の展開が起こっています。
あなたが気になったその映像や音は、苦ではありませんか。
あるいは、あなたのその意識の動きも、苦ではありませんか。

苦は、日常のあらゆる事象や、意識の動きに見ることができます。


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食べることと苦について

2024年07月12日 14時08分04秒 | 悟り
◇食べることと苦について◇


暫く、苦について徹底的に書いていこうと思っています。
今回は食べるということを題材に、苦について書いてみようと思います。

空腹感に気づいたとき、空腹という苦が発生します。
この空腹という苦は、何かを食べることでそれが満たされるまで続きます。
その過程をさらに詳細に観察していきます。

空腹時に何かを食べているときは、素直に幸福感を感じやすいものです。
しかし、ことはそう単純なものではないのです。
食べている途中は、食べることによる味覚や満足感が生じていますから、感覚がそれなりにプラス方向に底上げされており、苦を感じ難いことが多いです。
しかし、食べながらも、もっと食べたいとか、もっと美味しいものを食べたいとか、お金のことが気になったり、と私という意識は忙しく活動し、それが苦を生じさせます。
そして、食べ終わるのに伴い、満足感は喪失感に変わっていきます。

食べるということについて、さらに追及すると、私たちは生きるためには食べなければならず、生きている限り、この「食べる」ということに付き合わざるを得ない訳です。
ここにも、食べるということの苦の側面を見つけることができます。


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禅の悟りについて

2024年07月01日 16時59分46秒 | 悟り
◇禅の悟りについて◇


今朝のブログツイート記事でも書いたのですが、悟りについて情報や意見の交換や、試し合い等も含めて、多くの方とやり取りが出来たらと考えています。
仏教系、非二元系、独覚の方など、系列にかかわらずオープンにやりとりができたらと考えています。

と言いながら、また禅の悟りを批判する記事を書くのはどうなんだろうと思うところもあるのですが、改めて禅の悟りについて批判してみようと思います。

つい最近、ある禅系の覚者の方のサイトを読む機会がありまして、そこには禅系の覚者の悟りや悟ったときの様子がいくつか例を挙げて書かれていました(この場では、そのサイトに関する具体的情報は伏せさせてください)。
それで、彼らの悟りがさらに明確にわかった部分がありまして、それをもとに今回の記事を書いてみようと思った次第です。

彼らの悟りには、なぜか共通する特徴があるようなのです。
どういう特徴かと言いますと、まずは頓悟であるということです。
次に、その頓悟が起きるときの様子です。
具体的には、座禅中や掃除など何かに取り組んでいるときに(このとき、思考や認識機能が抑制され、取り組みになり切っていることがポイントであるようです)、小鳥の鳴き声等の音や現象(実際は何かの音が多いようです)を切っ掛けに、悟るというものです。
悟ったときの様子を表す言葉としては、事実に気づくとか、ことが起こっているだけなんだとか、そのまんまとか、その他、自我の喪失、脱落等に関する言葉が用いられるようです。

このような悟り体験をどう捉えるかですが、私は以前から指摘している通り、やはり主客の統合体験の一種であろうと考えています。
通常の感覚や理解では、この世界について、私という主体と、その私が五感を使って認識している対象(客体)とが独立して存在しているように理解しています。
しかし、悟り体験をしなくとも、我々が事物を認識するという現象について、それがどういうことなのか突き詰めて見ていくと、そもそものところで、主体と客体が別個に存在しているかのように感じるのは、我々の錯覚であることがわかるのです。
ですから、悟りの行程を歩んで行くと、自ずと主客に関する錯覚に気づくようになり、それに伴う握り締めている囚われの手放しが起こるのです。
補足しますと、主客の統合という表現がしっくと来ない方には、何かを観ている観照の視点の脱落が起こるという表現の方がわかりやすいかもしれません。

個人的には、禅者の悟りが凡そわかったのではないかと思っています。
(このことを含めて、ご批判等がありましたらお受けしますので、ご意見や情報等、コメント欄等にお書きいただければと思います。)

それで、です。
問題は、彼らの悟りはそれで本当に決着しているのか否かです。
彼らは、すべてそのまんまなどと言い、何かを求める衝動もピタッと止まったと言ったりするようです。
私は、本当にピタッと止まったのか、あるいはそれが持続しているのか疑問だと思っています。
それなりに大きな悟り体験があった直後は、とてもスッキリした感覚になったり、納得した気分になったり、探求に対する衝動が止まったりするものですから。

むしろ、そんなことどうでもいいのです。
悟ってどうなった、こうなったなんていうことより、私は、彼らがその悟りで何を悟ったのかが重要であると考えています。

もったいぶらずに短刀直入に書くと、彼らはまだ苦を悟ってないのです。

苦を悟るには、もう一度、私という自我を捉え直し、未だなおもがき苦しんでいる自分自身と向き合う必要があるのです。



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ツイート記事(20240605~)

2024年06月14日 08時20分12秒 | その他
◇ツイート記事(20240605~)◇

<6月5日>
◇多重人格と憑依の関連
 多重人格と憑依には関連があるケースが多いのではないかと考えています。
 精神分裂も憑依との関連があるケースがあるのではないかと考えています。
 遺伝的な脳を中心とした身体特性、生後の精神活動、憑依、これらの要素が関連しているのではないかと考えています。
 
 興味はあるのですが、積極的にさらに調べたり、掘り下げる程の興味はなく、そのままにしています。
 もし詳しい方がおられたら、教えていただけると嬉しいです。

 札幌ススキの事件に関する報道を見ていて、思い出しました。

 ちなみに、以前にも言及しましたが、チャネリング現象も、精神分裂や、憑依等と関連があると考えています。

<6月12日>
◇集団カルマ?
 人には世界的な規模で集団性のカルマのようなものがあるのかもしれないと、最近考えています。
 私は、昨今の世界情勢には、余りにも不自然かつ異常な状況が起こっていると考えています。
 例を挙げればキリがないくらいいくらでもありますが、例えば、流行り病と注射に関すること、各国の移民政策、妄信的な環境保護政策やエコ政策、昆虫食のことなど。

 これらの展開を作為的に起こしている極めて少数の存在と、その展開の中に身を任せている民衆。
 民衆の方は、なぜかその展開に余り違和感を感じることなく、皆もやっているからとその展開に追従していく。
 その展開を作為的に起こている少数の存在の側も、それ程明確な意志や意図がある訳ではなく、その展開の中の一つ一つの歯車のようにして展開に取り込まれているのだろう。
 
 驚くべきことに、展開の中に身を置く民衆も、展開を起こしている少数の存在たちも、その展開の異常さに全く気が付かず、違和感も感じないのです。
 その展開の異常さに気づいているものからすると、どうしてそれに違和感を感じないのか全く理解できず、不思議で仕方ないのです。
 
 その展開に違和感を感じない人たちと、展開の異常さに気づいている極一部の人たちは、同じ空間に存在しながら、あたかも別の世界にいるかのような状況なのです。

 私は、この状況に関して、展開の中に身を置く民衆と、展開を起こしている少数の存在を含めた人々に集団的なカルマのようなものがあるのかもしれないと最近思うようになっています。
 もっと言えば、そのような集団的なカルマのようなものが人類の歴史を動かしているのかもしれないと考えています。
 経済サイクル(振興、バブル、崩壊)や、社会サイクル(振興、繁栄、退廃、崩壊)など。
 人は学ばない、歴史は繰り返すなど。

 もしそのような集団カルマがあるとしたら、社会や文明の展開の節目となる崩壊期において、そのカルマ的な活動が最も顕著となるのではないかとも考えています。
 そして、今がその崩壊期なのではないかと。
 集団のあやゆる活動が崩壊に向かう方向に向き付けされていて、どうにもならない状況になっているのではないかと。
 まるで、ネズミの大群が川に押し寄せ大量死するかのように。
 
 もしかすると、大規模な天災などもそのような集団カルマとの関連があるのかもしれないとも考えています。

<6月13日>
◇世界の裏情報に関する動画の紹介
 この手の情報はネットを検索すればいくらでもあるのですが、下の動画は個人的に信頼性が高い方ではないかと考えています。
 動画が削除される可能性がありますから、視聴される方は早めにどうぞ。
  ① もぎせかチャンネルその一
  ② もぎせかチャンネルその二
  ③ もぎせかチャンネルその三

  (6月14日追記)
  上の3つの動画は、やっぱり削除されましたね。
  茂木さんによると、youtube当局により削除されたのではなく、youtube当局内の人間から茂木さんに危ない旨の連絡が間接的にあり、それに従って本人が削除したとのことです。        

 
<6月14日>
◇悪との共存?
 ここ2、3日、悪党どもに対するこみ上げるような怒りが湧いてきていました。
 こんなこと、何十年ぶりかというような感じでした。
 ここに書くことは控えますが、悪党どもをどうにかできないかといろいろ考えたりもしました^^;
 なお、ここで言う悪党とは、この現実世界の存在だけではありません。

 夕べ、妙な夢を見ました。
 何か少し気持ち悪いワカメのような雑草のようなものを刈る夢でした。
 2、3回刈ったのですが、直ぐにまた元のように生えてくるのです。
 それで、夢うつつの中で思ったのです。
 これは、やってもやっても切りのないやつだと。

 朝目が覚めたときは、どうしようもないという諦めとともに、悪党どもに対する怒りも大分落ち着いていました。
 
 あの世も含めてこの世界は、集団の法則のようなものがあり、良い悪い等の二元的な要素については、善い存在から悪い存在までそれなりの割合で必然的に存在するものなのです。
 悪を駆逐するのは不可能なのです。
 仮に駆逐しても、直ぐに他の存在が悪として発生してしまうのです。
 残念ながら、悪と共存するしか仕方がないのです。
 
 私は、それなりの自我意識を持っている存在たちは、本来は善的な志向を持っているのだろうと考えています。
 にもかかわらず、悪事に嵌ってしまう存在たちとは。
 それもまた哀れなことだと思うのです。


 
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たったひとりの主人公

2024年06月12日 10時14分03秒 | 生きるヒント
◇たったひとりの主人公◇


みんな誰しも、たったひとりの主人公なのです。

あなたは、あなたが生きている世界の常に中心にあり、あなたの人生の主人公なのです。

あなたが、どんなに人と比べて自分を否定しようと、世界の片隅に追いやろうと、主人公という立ち位置からは逃れられないのです。

あなたという人生を生きている人は、あなたしかいないのです。

どんなに酷い状況になろうと、常に主人公であり、ヒーローなのです。

そうなのです。

あなたの人生において、あなたは常にヒーローなのです。

他にヒーローはいないのです。

そのことをわかっていただきたいと思うのです。


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無難な人生なんて

2024年05月16日 13時25分33秒 | 生きるヒント
◇無難な人生なんて◇


多くの方は、無難に行くように道を選択します。
人付き合いもそうですし、進路や仕事を選ぶときもそうだし、恋人や結婚相手についてもそうです。
悟りを求めるときもそうです。

無難に行こうとする余り、自分を制限してしまい、萎縮してしまいます。
あたかも、無難に行くことが人生の第一の目的であるかのような有様です。

人生の終わりに、それで果たして納得できるのでしょうか。

私は、人は皆、やりたいことがあって生まれて来ているのだと考えています。
しかし、多くの方は無難さを求める余り、自分のやりたいことが疎かになっているのではないかと考えています。

何が問題なのかと言うと、どのように生きるのかを決めるときの優先順位がおかしくなっているのです。
まず第一に自分のやりたいことがあって、それに取り組むことが大事であり、無難かどうかは次の次、むしろどうでもいいことなのです。

そもそものところ、自分のやりたいことと無難さは両立し得るものなのかどうか。
個人的には、多くの場合、無理だろうと考えています。

私などは「無難な人生なんてクソくらえだ!」と思うのですが、多くの方々はそうではないようですね。


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ツイート記事(20240507~)

2024年05月11日 08時45分04秒 | その他
◇ツイート記事(20240507~)◇

<5月7日>
◇世界の異変はまだまだ先か
 ここ最近の悟り、精神世界について気になっていたことについて一通り記事を書いてしまったのと、春になり農業が忙しくなっているのもあり、このブログ記事の更新が減っています。

 スピ界隈では、相変わらずこの4月頃から来年にかけて大きな異変が起こると言っているようです。
 この連休中にも何か起こるのではないかという言われていました。
 
 そもそも、未来のことはそう簡単にはわかりません。
 どのような存在であっても、そうです。
 神々だって決してわからない。
 そういうものです。

 個人的には、大きな異変はやっぱりいずれ起こるのだろうとは考えていますが、未だ数年くらいは先だろうと考えています。
 社会の様子は、世界的に歪みの蓄積、民衆の幼稚化、混乱が進行していますが、おそらくこれはまだ序の口であり、もっともっと酷くなってから、何らかの切っ掛けで弾けるのだろうと考えています。

<5月11日>
◇釈迦にまつわる諸々
 今日は釈迦やその周辺のことについて、いくつか書いてみたいと思います。

 釈迦という人物が存在したらしいことは現存している資料からそれなりに納得できるのだけど、
 釈迦の悟りがどういうものだったのかについては、そもそもところハッキリしないのです。
 釈迦の経典類は全く読んだことがないので、詳しいことはわからないのですが、縁起と苦に関するそれなりの言及があるようであり、釈迦が解脱していた可能性はあるのだろうと考えています。
 釈迦が解脱していたというそれなりの根拠を提示できる方がもしおられたら、教えていただきたいと思っています。
 
 解脱の成否判別の件。
 釈迦は他者の解脱の成否について口頭での簡単なやりとりで判別できたように文献に書かれているようですが、この点について私は疑問を感じています。
 正直なところ、私自身、自分の解脱もよくわからなくなってしまっていて、これは解脱という悟りの特徴のひとつなのかもしれないと考えています。
 そのような状況で、他者の解脱の成否についてそう簡単に判別できるものなのかと考えています。

 雑多な阿羅漢(解脱者)の存在の件。
 文献によると、釈迦の周りにはいろいろなタイプの阿羅漢がいたようです。
 中には簡単にウソを言ったり、人を傷つけたりするような人格的に問題のあるものもいたようです。
 私はまだ自分以外の解脱者に会ったことがなく、解脱者がどういうものなのかを判断するためのサンプルが無いので、余りハッキリとしたことは言えないのですが、人格的に明らかな問題があるような人物が解脱し得るものなのか、大いに疑問を感じています。
 解脱者が多数いたという点(五百羅漢等)についても、本当にそのようなことが生じ得るのか正直疑問を感じています。

 ちなみに、天眼通でしたっけ、特殊能力により来世の有無を観て、解脱の成否を判断したと言うのは。
 釈迦に関する話には創作が多いのですが、これは間違いなくウソです。
 来世の有無なんて誰であっても観れるものではありません。
 仮に何か観れたとして、それが本当にその人の来世のことだという根拠がありません。


 
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無常の誤りについて

2024年04月22日 19時32分46秒 | エッセイ
◇無常の誤りについて◇


今朝のツイート記事に書いたものを単独の記事として書いてみようと思います。

無常、無我について(特に無常について)、これまで何となく違和感を感じたままほったらかしにしていたのですが、その違和感の内容がハッキリしたので記事にしておきます。

まず最初に、無常、無我の意味の確認から。
無常とは、一切のことがらは常に変化するものであるという意味です。
無我とは、一切のことがらに実体が無い、あるいは絶対が無いという意味です。

無常とは何を言っているのかというと、ことがらの本質的な性質について常に変化するものだと言っている訳です。
これに対し、無我には、ことがらの実体の有無に関する意味合いだけでなく、ことがらに対して何らかの言及を行う際のその言及そのものに対する意味合いも含まれている訳です。
つまり、無我の矛先は、ことがらに対して無常であると言うその言及にも向けられるということなのです。

無我の観点からすると、一切のことがらに絶対はありませんから、言い切りや断言は一切できないのです。
無常の言う、一切のことがらは常に変化するものであるというのは、言い過ぎであり、厳密に言えば誤りなのです。
なお、一切は常に変化するの「一切」を言わないとしても、変化するものであると言い切っていることには変わりありません。

無常という考えは軽く、どうでもいいのでないかと考えていましたが、誤りであるというのは、私自身、意外でした。
悟りの理解に、無常という考えは必須ではなく、むしろ無用であると結論する次第です。


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