私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

ツイート記事(20240905~)

2024年09月30日 11時54分02秒 | その他
◇ツイート記事(20240905~)◇

<9月5日>
◇今回の米騒動の関連
今回の米騒動は、裏で誰かが仕掛けたものだと考えています。
奴らがどこまで意図しているかはわかりませんが、今回の件はインフレと食糧危機の切っ掛けになるのではないかと考えています。
インフレは間違いないのではないかと考えています。
政府はカネを刷りまくり、市場に垂れ流しつづけてきてますから、インフレは必然であり、切っ掛けがあれば直ぐに起こります。
インフレが起きても、垂れ流したカネを吸い上げるのも無理ですし、金利を上げるのも無理ですから、どうしようもありません。
食料危機については、いずれ奴らが何か仕掛けてくるのではないかと考えています。
来年あたりか。

来年あたり国内が混乱するかもしれませんが、経済や人民統治が崩壊するのは、巨大地震でもない限り、日本が最初ではないと考えています。
主要国の中では、中国かアメリカが先で、その後、それが他の主要国に連鎖するのだと考えています。

<9月11日>
◇丁寧に生きる
私はブログで丁寧に生きてくださいなんて偉そうに書いていますが、自分はどうなんだろうと、今日ふっと我が身を振り返りました。
現在の私は日常生活では結構短気なところがあり、めんどくさがりで、結構雑というか荒っぽいところがあります^^;
ひょっとして、人には偉そうなことを言っておきながら、生き方も結構荒っぽいのかもしれないなぁと思ってしまいました。

それに、生き方の丁寧さってどう捉えたり、評価したらいいのかとも思い、難しい問題だなぁと思いました。
何か思い付いたら、また書くことにします。

<9月14日>
◇兵庫県知事の件と印象操作
兵庫県知事の辞職問題で騒がしくなっていますが、この件はおそらく奥があり、複雑な利害が影響しているのだろうと考えています。
実は私も、つい最近まで報道を殆ど鵜呑みにして兵庫県知事はしょうがいないヤツだと考えていました。
しかし、頑なに辞職をしない知事の様子や、核心的な情報が出てこない状況など、どうも不自然なところが多いなと思っていました。
そして、つい先日、ネットを見ていたらそれらしい裏側の情報が目に留まりました。

報道等では、知事はとんでもない問題人物とされていますが、おそらく真実は違っていて、
知事の言動にも問題は無いことは無かったのでしょうが、マスコミの印象操作が相当入っているのだろうと考えています。
知事はいくつかの利権問題の是正に取り組もうとしたいう情報があり、今回の騒動の根っ子はそこだろうと考えています。

で、何が一番言いたいのかと言うと、
マスコミ等による私たちの印象操作はかくも簡単に行われてしまうのだということです。
改めて、愕然とした次第です。

<9月16日>
◇心に刺さることを書きたい
私はこのブログを何年も熱心に書いているのですが、どうして書いているのかが自分でもよくわからいところがあるんです。
でも、やろうとしていることはそれなりにハッキリしていて、
一つは、悟り世界の地図のようなものを誰でもアクセスできるように、そして誰でもそれなりにわかるような形で開示することです。
もう一つは、心に刺さることを書きたいということです。
特に二つ目の心に刺さることを書きたいという気持ちは強いものがありまして、何をどう書いたらより心に刺さるのだろうと日々考えています。
この熱心さは何なんでしょうねw
人のことなんて放っておけばいいのに^^;
性分なのでしょうねぇ^^;

普通は一人で悟った人の多くはそのままひっそりと死んでいくのだと思うのです。
解脱に関する情報が文献等に殆ど残っていないのは、そういう理由もあるのではと思うのです。

最近、自分自身について気づいたことがありまして、
私はどうやら人が好きなようなのです。
むしろ、人が嫌いなのかと思っていたところがあるのですが、どうやら逆で、人が好きみたいなんです。
あと、動物や植物も好きみたいです。

その辺りのことも、私のこのブログ活動に関係しているのかなと思ったりもしています。

<9月17日>
◇骨折する
個人的なことなのですが、先週金曜日に農作業中に事故ってしまいまして、右足首の上を骨折してしまいました^^;
事故ったときに、足首からバリっと小さな音がした感じだったので、もしかしたら骨折もあるかと思って、今日になって、念のために病院に行ったのですが、見事に折れてました^^;
昨日は無理やりネギの土寄せ作業をしたのですが、痛いし、身体はしんどいしで、こりゃダメだと観念して医者に行くことにしました。
明日、総合病院に行ってCT撮って手術が必要かどうか診断してもらい、治療方法を決めることになります^^;
私としては、基本、手術はしない方針ですが、様子次第かなぁ。

農業の収穫作業が始まったところで、こんなことになってしまい、状況としてはかなり厳しい状況なのですが、
なってしまったものは仕方ない、出来ることをやっていくのみ、という具合に、とても落ち着いています。
普通の人とは大分違っているだと思います。

しかし、事故を起こした13日の金曜日は、身体が限界を超えるしんどさの中、無理やり作業を続けていたんです。
自分でも、今日はもう作業をやめた方がいいんだろうなぁと思いながら作業を続けていたんです。
そして、朦朧としながら力の強い管理機の作業を始めたところで、機械の操作を誤ってしまい、機械に脚を敷かれてしまいました。
限界だと思ったところで、作業を止めるべきでした。
少なくとも危険を伴うような機械作業は止めるべきでした。
反省しています。

<9月19日>
◇骨折の件の続き
一昨日、先週金曜に足を骨折したことを書きましたが、その続きを書いておきますね。
昨日、総合病院に行ってCTを撮って診てもらったのですが、骨折した部分が少しずれてしまっているので、やはり手術を勧められました。
でもよく話を聞いていると、手術無しでギブス固定して様子を見るという選択肢も無くは無さそうだったので、手術をしないでそのままギブス固定してもらうことにしました。
但し、様子観察して途中で骨折部分がさらにズレるようなら手術するという方針になっています^^;
医者は、手術無しでお願いしますと言うと、えっというような意外そうな顔をしていましたw

上手くすれば、4週間程でギブスが取れるとのことでした。

余談ですが、
骨を折った直ぐ後から、軽い吐き気のような気持ち悪さが断続的に続いています。
骨折すると吐き気がするというのは、中学の頃に骨折した友達が二人いて、彼らから聞いていました。
管理機に足を敷かれたときに、足首からバキッという音がしたし、その直ぐ後から軽い吐き気も続いていたので、医者に行く前から、ひょっとして骨が折れているかもと思っていました。
骨折しているのに、病院に行かずに無理やり農作業をやってみたりしていた自分が可笑しくなりますw
折れてないと思いたかったのだと思いますw
いつまで経っても、子供っぽいというか^^;

<9月20日>
◇中国天津のUFO事件?
足を折って暇なので、ネットばかり観てますw
それで改めて気づいたのですが、ここ最近はUFOっぽい映像ってネットにいくらでも溢れてるんですね。
普通の人たちがスマホで撮ってネットにどんどん上げている感じ。
ひと昔よりも目撃情報等が大分増えてるんだなと思います。
本当にそれらがUFOかどうかは、ハッキリしないんですけどねw

そんな中、見つけたつい最近の凄いUFO事件があるんです。
この前の9月11日、12日の夜に、中国の天津空港上空に複数のUFOらしきものが飛来し、1時間程留まったため、飛行場が使用不可になり、多数のフライトの遅延やキャンセルが発生したとのことなんです。
都市部での事件なので、映像も多数ネットに上がっています。
二つ程、リンクを貼っておきますので、興味のある方はどうぞ。

日本人ジャーナリストらしき人の報告動画 : リンク
アメリカ人(?)がアップした動画 : リンク

これですが、どうなんでしょうねぇ?
本当なら凄いニュースですが。
もし本物だとして、彼らの狙いは何なんでしょうね?

ところで、実は私もUFOに間違いないだろうというものを観たことがあるんです。
もう10年くらい前のことで、このブログに付設の掲示板にも書いたんですが。

でもアレですね、もしUFOなんだったら、ちょろっと姿を見せるだけなんてまどろっこしいことせずに、
新宿の都庁ビルの真上に、デカデカと姿を現すというくらいのことはやってほしいところです。
中途半端なんですよ!w

<9月26日>
◇ヒマ過ぎて(T_T)
足を骨折して動けず、ヒマ過ぎて困っております。
まだ骨が繋がってこないので、下手に動いて骨折部分がズレると手術しないといけなくなるとイヤなので。
ネット観るのもすっかり飽きたし
ブログ記事も、今のところ書きたいこと無いし

先日書いた仏教に欠けているもの(1)で、釈迦の経典類は読んだことが無いと言うと、
noteのコメント欄で南伝仏教の経典を読んでみたらと言われたので、ヒマだから、どんなものかとネットで調べました。
分厚い本で70巻もあることがわかりましたw
ヤフオクで中古本70巻まとめて46万円で売っていましたw

そんなんじゃ、読むのは無理なので、核心部分を抜き出したいい本はないかと考えています。
もしご存知の方がおられたら、教えていただけるとありがたいです。

<9月27日>
◇南伝仏典の件
昨日ヒマなので、ネットで少し調べていました。
多数ある仏典のうち、より核心的な部分が含まれた仏典を探して、それだけを読めたらいいと考え、それを探すために、
釈迦から始まる部派の特徴と系図を調べたりしていました。
調べ始めて直ぐにわかったのが、釈迦の死後、直ぐにめちゃくちゃになり、カオスになってしまっていることでした。
例えば、釈迦の死後直ぐに、一切有部という部派が有力となり、その後も強い影響を残しているのですが、これが全然ダメなのです。
「有部」という名前からして、ダメなのは直ぐにわかるのですが、それが悲しくなる程のポンコツぶりなのです。
超かいつまんでどうダメなのかと言うと、輪廻転生を説明しようとして、転生を超えて存在が続いていくための不滅の要素(彼らは、それを梵と言ったりするようです)を考えてしまうのです。
そういう訳で、南伝仏典を読もうとするのは、止めました。

◇私を捉えずに悟れるのか?
私(慧空)自身は、私を捉えた上で、無我(一切に実体が無い)を悟り、それに続いて苦を悟ったので、私を捉えずに、無我、苦を悟ることができるのかがよくわからないのです。
例えば、龍樹は無我を悟っていたのかも知れないのですが、彼はどのようにして無我を悟ったのだろう?

◇龍樹について
10年くらい前のことで大分忘れてしまっていましたが、龍樹については、中村元氏の確か「龍樹」という本を読んで、彼の理解がどういうものかは大体知っていたのです。
その龍樹に関する本も、読んだ後直ぐに捨ててしまったので、記憶もかなり薄れてしまっていました。
今日の夕方、龍樹の中論についてネットで調べていて思い出したのですが、彼は、哲学者であって覚者ではないと判断したのを思い出しました。
残念ながら、彼は、無我を悟ってないのです(こんなことハッキリ言っていいのかw)。

彼が無我を悟ってないことは、ハッキリしているんです。
彼は、釈迦が説いた縁起に基づいて、一切無自性であり、空であることを論証しているのです。
これでは、論証になってないのです。
本当に論証するのなら、論理展開の土台になっている縁起についてまず論証しておく必要がありますから。

しかし、縁起を論証することは本質的に不可能なのです。
ですから、無自性や空、無我についても論証することは不可能なのです。
これらは、そもそも論証の対象となるものではなく、悟るものなのです。

それがわかっていない彼は、空も、無自性も、縁起も、無我も悟ってないのです。

中論のその他の内容も、改めてネットでちらほらと拾い読みしましたが、根っ子のところがわかってないので、間違いも多いし、本質的に言及不可能(不可知)なことについて断定的に言ってしまっている部分もあり、少し見ただけであちこちにアラが見えます。
例えば、滅苦のこともそうで、彼は苦を滅することができると思い込んでしまっています。
解脱後のことも、解脱したら何も無くなると決めつけてしまっているようです。
その他、あちこちにアラはありあす。

<9月28日>
◇釈迦が縁起をどう捉えていたか
本日書いた記事で、龍樹が縁起について誤解していることを指摘し、釈迦も同様な誤解をしている可能性を指摘しました。
足を折って動けなくてヒマなので、そこのところをネットの限られた情報を当たってみました。
どうやら今となっては、釈迦が縁起をどう捉え、どう説いていたかは、よくわからないようですね。
釈迦のボロを見つけてやろうかと思ったのに、残念でしたw


<9月30日>
◇仏教について
一昨日、仏教が縁起をどう捉えているかを調べていたら、南伝系も大乗系もその殆どが(ほぼ全部か)、縁起を誤って捉えてしまっていることがわかり、その余りの悲惨さに、力が抜けたというか、愕然としています。
もちろん、仏教にもいいところはあるんです。
それは、無常無我苦です。
ここだけは、間違い無い。

しかし、その無常無我苦も、本当にそれを悟っていたものはどれくらいいたのか、大いに疑問を感じています。
なぜなら、他の多くの誤った概念や誤解が訂正されることなく、そのまま伝わってきていますから。
苦は悟らずとも、無常無我を悟れば、仏典中の縁起等の捉え方について誤解があることはわかるはずなのです。

仏教がボロだらけだということがわかってしまったので、
叩き甲斐がないというか、力が抜けたというか、
仏教についてどうでもよくなってしまいました。

◇10月下旬の選挙
間違いなく、いろいろと急いでいるようですね。
おそらく、裏で計画に基づく指令が出ているのだろうと思います。
イスラエルもやる気満々だし。
奴らの意図としては、まずは戦争させたいのかなぁと見ています。
その後に、世界を管理社会に移行させたいのだろうと考えています。

しかし、私はその計画は途中で頓挫し、コントロール不能となり、崩壊するだろうと見ています。
果たして、日本が戦争を始めるところまでもっていけるかどうか。
種々の理由で、無理なんじゃないかと考えています。
イスラエルやウクライナは、バリバリとやっていますが、日本はそう簡単じゃないだろうと考えています。


 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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龍樹は縁起を誤解している

2024年09月28日 08時26分16秒 | 悟り
◇龍樹は縁起を誤解している◇


この記事は、昨日の記事の補足です。
龍樹が縁起を間違って解釈しているので、そこを指摘しておこうと思い、書くことにしました。
この縁起の解釈を間違っているのは、龍樹だけでなく、ひょっとすると釈迦もそうなのかもしれないと考えています(しかし、私にはそこまで調べる程、興味がありません)。

私とは意識であり、世界そのものなのです。
その意識の展開を微細に見ると、映画フィルムのコマのように断続的に分かれており、その最小単位のコマがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なり展開することで、意識の展開が起こっていることがわかります。
その意識の展開の最小単位のコマのことを、私は識と呼んでいます。
識と識の間の間隔は、私の体感で言いますと、短くて1000分の1秒から長くて10分の1秒程度です。
なお、識の展開は、意識の集中度を極限まで高めると、実際に体験することができます。

次に、識と縁起の関係についてです。
識は、一つ前の識が契機となって次の識が起こるという具合に連鎖的に連なって起こることが多いです。
つまり、全部についてではないすが、一部の識の連なりについては、前後の識の間に何らかの因果関係を持ち込むことは可能です。
言い換えれば、識の連なりについて、全部ではないが、一部については前後の識の間から何らかの因果関係を推測することは可能なのです。
例えば、車の運転をしていて、焼き肉屋の看板が目に入ったのを契機に、食べたいという食欲がわき、空腹感が生じ(あるいは、空腹感に気づき)、食べようと考え、車を操作して焼き肉屋に入る等の展開がそうです。

このように、識の前後において因果関係のようなものを推測できることがあるため、先人たちは、識の展開について縁起と呼ぶようになったのだと、私は考えています。
しかし、この縁起という呼び方は非常に危うく、誤解を呼びやすいのです。
起こっているのは、幻のような識の展開だけなのです。
識はただ起こって、消えていっているだけなのです。
識は、因果関係に基づいて起こっているのではないのす。
因果関係は、人が後から持ち込んだものなのです。

その証拠に、識と識の間には取り立てて因果関係という程の明確な関係性は無いのです。
確かに、上述したように識の一連の連なりの中に前後の識の間にそれなりの因果関係を推測できるケースがありますが、その場合でも、前後の識の間の関係は一義的に定まったものではなく、かなり不確定な部分が含まれていて、一つ前の識に対して次の識がどう転ぶかはサイコロを振るようなランダムな部分があるのです。
さらに、一連の流れとして識の展開が起こっているときは、不確定ながらも前後の識の間にそれなりの因果関係を当てはめることが可能ですが、識の展開はそのような一続きの流れのようなものばかりではないのです。
途中で、突然流れが変わってしまい、そのまま全く違う流れになってしまったり、識の内容がランダムにあちこち、飛び飛びになりながら、展開していくということも多々あります。
むしろ、後者のケースの方が多いかもしれません。
そのように、識の展開の流れが突然変わってしまうときなどは、識の前後において因果関係など全く無いのです。
例えば、何かをしているときに、急に別のことを思い付いたときなどがそうです。

このように、連鎖する識と識の間に因果関係があるというのは、百歩譲っても言い過ぎであり、誤りなのです。
識の連鎖は、因果関係に基づいて起こっているのではなく、ただ起こっているだけなのです。
一部の識の連鎖において、前後の識の間に因果関係があるかのように見えるだけなのです。

龍樹は、縁起に基づいて、一切無自生、続いて一切空を論証したとされています。
しかし、縁起の認定のところで大間違いをしているため、この論証は成り立っていないのです。
龍樹は、連鎖する識に着目するのではなく、識と識の間の関係性の方に着目し、そこに縁起があると誤認してしまったのです。
さらには、識はただ起こってきているだけなのに、識は縁起により起こっていると誤認してしまったのです。
着目すべきは、連鎖的に起こる一つ一つの識なのです。
この誤認は、龍樹だけでなく、釈迦もそうだったのかもしれないと考えています。


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龍樹は空を悟っていない

2024年09月27日 21時41分31秒 | 悟り
◇龍樹は空を悟っていない◇


龍樹の悟りはどういうものなのかと、ネットで中論を拾い読みをした結果、彼が悟っていない、少なくとも空を悟っていないことがわかりましたので、ここに書いてしまうことにしました。
もちろん、こんなことをぶっきらぼうに書くと、いろいろご意見やご批判はあるだろうと思います。
どのようなご批判もお受けしますので、遠慮なくコメント欄等にどうぞです。


彼は、釈迦が説いた縁起に基づいて、一切無自性であることを論証し、さらに一切空であることを論証しています。
しかし、これでは論証になってないのです。
なぜなら、縁起、無自性、空、無我の概念は、ほぼ同義といいますか、同列のものですから、論点を空から縁起にすり替えただけなのです。
本当に空について論証するのなら、論理展開の出発点になっている縁起についてまず論証しておく必要があるのです。
彼がどこまでそのことを自覚していたかは不明ですが、縁起は論証の必要のない正しいものとして論理展開の前提に置いてしまっているのです。

そもそものところ、縁起、無自性、空、無我は、証明しようとしても不可能であり、証明や論証の対象となるものではなく、悟るものなのです。
それがわかっていない彼は、空も、無自性も、縁起も、無我も悟ってないのです。

彼はおそらく、覚者というより、哲学者だったのだろうと思います。



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アドヴァイタの悟りについて

2024年09月23日 18時12分09秒 | 悟り
◇アドヴァイタの悟りについて◇


今回は、アドヴァイタ(非二元)の悟りについて書いてみようと思います。
いつものように、肯定するのではなく、ここが違うよという批判記事なのですが、興味のある方はお読みください。

アドヴァイタの悟りは、二つの悟り階層があります。
一つ目の階層は、真我を悟る階層です。
真我とは、ただ観ている意識である観照意識で、気づきの意識と言ってもいいです。
観照意識は、良い悪い等の二元的な囚われが落ち、思考や感情が減ってくると、雲が晴れるようにして意識の表層部に現れてきます。
この観照意識に気づく、あるいはそれを捉えることで、真我の悟りとなります。

二つ目の階層は、梵我一如を悟る階層です。
我とは、私という個を構成する原理などという捉え方もあるようですが、簡単に言うと、私という自我であり、主体のことです。
梵とは、世界を構成する原理などという捉え方もあるようですが、これも簡単に言うと、世界あるいは対象である客体のとこです。
梵我一如を悟るとは、私である主体と世界である客体とが同一、つまり一体不可分であることを悟ることです。
この梵我一如の悟りは、主客の統合に関する悟りであり、一つ目の真我の悟りにより捉えた観照の視点、つまり主体的視点が脱落し、対象である客体と統合されることでそれに至ります。

この主客の問題について補足しますと。
常識的な日常の感覚では、私が目の前のリンゴを観るとき、私という主体とリンゴという客体は別個に存在しているように感じていますが、これは私たちの錯覚なのです。
リングに限らず、五感を通じて何か対象を認識するという現象について、それがどういうことなのか合理的に徹底的に追及していくと、主体と客体が別個に存在しているという錯覚が剥がれ落ち、主体と客体が一体不可分であると認識せざるを得ないところに必ず突き当たるのです。

次に、アドヴァイタの悟りについての批判です。
アドヴァイタの悟りには、大きな誤りがあるのです。
それは何かと言うと、絶対的なものに対する囚われ(執着)が手放せてないのです。

一つ目の悟りである真我の悟りでは、観照意識である真我について恒久不滅のものとして捉えてしまうのです。
恒久不滅のものなど何処にも無いのに、彼らはそれが受け入れられないのです。
二つ目の悟りである梵我一如の悟りでは、主体と客体に関する錯覚の剥落は一応あるものの、以前として、一体不可分であるとして捉えられた私(主体)である真我についても、対象(客体)である世界(あるいは、それを構成する原理)についても、それらが恒久不滅、絶対的なものとして捉えてしまうのです。

ここが彼らの悟りの誤り、即ち限界なのです。


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事実を悟ると言うのなら

2024年09月22日 14時50分21秒 | 悟り
◇事実を悟ると言うのなら◇


今日も、禅者の言うたわごとを叩きます。

彼らは、事実を悟るという言い方をします。
その悟りは誤っているのですが、どういうものかと解説しますと。
何も意図しなくとも(あるいは、元から意志や意図というものは無かったのだけど)、目は見えるし、耳は聞こえるし、手は動くし、ことは起こっていく、というところに気づくことなのです。
百歩譲って、確かに悟りの行程においてそのような感覚というか、錯覚が起こるポイントがいくつかあるんです。
その一つは、主客の統合体験が起こる「見るものは見られるもの」を体験するポイントの付近です。

しかし、彼らの言う事実を悟るというポイントは、悟りの行程の本筋から外れているのです。
どのように外れているのかと言うと、悟りの重点が物質的な現象に偏ってしまっていて、私というより重要な要素が抜けて落ちているのです。
つまり、私を捉えられておらず、私がまるっきりお留守になっているのです。
さらには、すべてに実体は無いなどと言いながら、その実は物質的な現象への囚われもまだ残っているのです。

事実を悟ると言うのなら、物質的な現象にのみ着目するのではなく、自らの思考や発意、そして身体の動きを自由に行っている自己の働きも紛れもない事実であるということに、もっと目を向けるべきなのです。
手は発意無しに自然に動いているところもありますが、意志により動かしている部分もあるのです。
その事実にも目を向けるべきなのです。

無我、即ち一切に実体が無いという悟りは、非常にシンプルであり、ハッキリしたものです。
ごちゃごちゃ説明する必要なんてないのです。
説明がごちゃごちゃ、曖昧になってしまうのは、まだ腑に落ちてないのです。

まずは、私という存在を捉えることが先なのです。
その次に、私という存在に実体が無いことが腑に落ちるのに伴って、一切に実体が無いことが腑に落ちるのです。


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知の限界点と無我、非有非無、無根

2024年09月19日 15時03分15秒 | 悟り
◇知の限界点と無我、非有非無、無根◇


悟りの道中の後半で、おそらく必ず通過するポイントがあります。
それが無我を悟るポイントなんです。
但し、ここで言う無我とは、私が無いという意味ではなく、一切に実体が無いという意味です。

実は、この無我という概念には、同義な別の意味があります。
それが、非有非無、無根です。
非有非無とは、一切は有るとも無いとも言えないという意味です。
無根とは、一切に根拠は無いという意味です。

これらの無我、非有非無、無根は、わかるということ、知るということの限界を表すものとも言えます。
認識の正しさの原点ということもできます。
つまり、無我、非有非無、無根に沿った考えは合っている、正しい考えであり、そうでない考えは間違っている考えでなのです。


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悟りの迷い道と無我

2024年09月19日 10時59分22秒 | 悟り
◇悟りの迷い道と無我◇


悟りの行程には、いくつかの袋小路のような迷い道があります。
その代表的なものが、私は無いという罠のような誤解によるものです。

明け渡しや禅の頓悟など、悟りの行程をそれなりの幅で一気に進むと、急激な意識変化や自我感覚の急激な希薄化が生じ、私という自我があたかも無くなったかのような錯覚が起こります。
そうすると、自我が無くなった、あるいは元から自我は無い等の誤った認識に陥りやすくなります。
そして、自身の自我が落ちた、悟ったと誤解してしまいます。

私という自我は、実体が無いということはハッキリしていますが、それが有るのか無いのかは断定不可能なのです。
自我に限らず、目の前の物質や頭の中に浮かんでくる考えも含めて、一切のことがらについて、有る無しは断定不可能なのです。
ですから、私が有ると言うのも間違いであり、私が無いというのも間違いなのです。
私が無いという間違った理解により悟るなんてことは、あり得ないのです。
私が無いと言っている方々は、悟っておらず、袋小路に迷い込んでいるのです。

しかし、私(慧空)がここで、そこは迷い道ですよといくら言っても彼らの耳には届きません。
嵌まり込み、間違い無いと掴んでしまっていますから。

最近、私は、それもまた長い行程の中で必要な経験なのかも知れないと考えるようになっています。
私自身もきっと、何度もそこに嵌まり込んだ経験を経ているのだろうと考えています。
おそらく、私は無いという迷い道は誰しもが嵌りやすい罠のようなポイントなんだと考えています。
そこを超えていくには、何度か嵌って身をもって学ぶしかないのだろうと。


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解脱者の入滅と他者との関連

2024年09月17日 15時43分55秒 | エッセイ
◇解脱者の入滅と他者との関連◇


今回の話題に関連して、大分以前に、ある思索(1)(2)という記事を書きました。
つい先日、その記事を読んで頂いていることがわかりまして、改めて自分も読んでみました。
当時に比べて私の中でいろいろ整理が進み、わからないなりにスッキリとした部分がありますので、今回それを記事にしてみようと思いました。
今回の記事のお題は、解脱者が入滅するときに、一切が消えてしまうのか、それとも何か残る、あるいは何が残るのかというところです。

まず初めに、今回の話の前提の部分について書きます。
実は本質的なところで、解脱や入滅ということがどういうことなのかは、誰にもわからないのです。
例えば、釈迦は解脱したと言われていますが、本当に彼が解脱していたのかは誰にもわからないのです。
そして、仮に彼が解脱していたとして、その死に伴って釈迦という存在がどうなったのかも誰にもわからないのです。
私自身についても、自分自身が本当に解脱しているのかどうか、実のところはハッキリしないのです。
これ以上先の悟りは無さそうだということと、これ以上はどうしようもない、ということがわかっているだけなのです。
このようなところを前提として、話を進めたいと思います。

まず、議論のお膳立てから始めたいと思います。
それは、他者の存在についてです。

悟りの行程を歩む過程で、おそらく多くの方(全員かも)が通過するポイントがあります。
それは、世界(宇宙)に存在しているのは自分だけ、あるいは、一人に一つずつ世界(宇宙)があると理解するポイントです。
この理解はそれなりに本質を突いているのですが、この理解に関連して、起こる疑問があるのです。
それは、自分自身はそれなりに存在しているように思うのだけど、他者は存在しているのかどうなんだろうということです。
他者が存在しているように感じるのは、自分がそう認識しているだけなんじゃないのかという疑問が起こるのです。

結論から言うと、その疑問はいくら追及しても答えは得られないのです。
いくら追及しても、自分自身のことさえ存在しているのかどうかわからないのですから、他者のことなんてもっとわからないのです。
しかし、この点について私(慧空)としては、自分自身についても他者についても、断定はできないけど、存在していると考えるのが妥当だろうと考えています。
ここからは、自分自身の他に、他者も存在すると考えて話を進めます。

もう一つのお膳立てとして、自分自身の世界と他者の世界の関係について書きます。
悟りの行程の後半にて、私とは意識であり、世界そのものであると理解するポイントあるんです。
その悟りの観点から見て、自分自身の世界と、他者の世界とはどう関係しているのかというところが問題というか、謎なんです。
この謎は、おそらく本質的に解明不可能な問題なのだろうと思うのです。
それでも、その核心部分に少しでも触れられないかと思い、考えを巡らせているのですが、なかなか手強い問題なのです。
私のなんとなくの感触ですが、個々の存在の世界は、互いに重なり合いその多くを共有し合うように存在していてるのではないかと考えています。

さらにもう一つのお膳立てとして、個々の存在の発生と消滅についてです。
私は、存在(意識)には始まりと終わりがあり、その両端を繋ぐ成長の過程があるのだろうと考えています。
そして、その発生のタイミングや、成長の過程の長さや、終わりのタイミングは個々に異なるのだろうと考えています。
ちなみに、存在の終わりは解脱に伴う入滅というそれなりの原因のようなものを考えることができますが、始まりについては、それがなぜ起こったのかは残念ながら誰にも決してわからないことなのです。

次にやっと、本題についての話に入っていきます。
ちなみに、ここまでの話と同様、ここからもバリバリの想像と推測の話です。

存在が発生すると、先に発生している存在の世界との共用が始まります。
多くの存在にとって、その存在が発生したとき、その発生に伴って世界が発生するのですが、既に他の存在が先にあって、その存在たちと共有するような形で、その世界の展開が進んでいくだと考えています。
つまり、多くの存在にとって、その存在が発生したときには既に世界がそれなりに形成されており、その形成された世界を共有する形でその後の展開が進んでいくのだと考えています。
しかし、一番最初に一つ又はいくつかの存在が発生したときには、世界はまだ何も無い世界だったのではないかと考えています。
現在のような複雑な世界は、存在たちの途方も無く長い意識活動の結果、創り出されたのだろうと考えています。

そして、解脱に伴い存在が入滅するとき、その存在とともにその存在の世界が消滅するのだろうと考えています。
そのとき、消滅するのは滅人する存在の世界だけであり、他者の世界は継続して展開していくのだろうと考えています。
入滅する存在の活動により生じた世界に対する痕跡というか影響は、他者の世界に波及し、展開を続けていくのだろうと考えています。



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なぜ私を捉えることが大切なのか

2024年09月14日 09時39分58秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇なぜ私を捉えることが大切なのか◇


なぜ私を捉えることが大切なのかについて、改めて書いてみようと思います。

私とは、実体は無く、有るのか無いのかもハッキリしない、どんなに追及してもよくわからないものです。
しかし、最も身近な存在であり、逃れられないものです。
そのようによくわからない、やっかいな私ですが、この私が生きていく上で、また悟りの道を歩んでいく際にも、中心的な要素になっています。

私を捉えるとは、私に意識を向け、私を実感しながら生きることです。

私を捉えることで、生きて行く上でも、悟る上でも、軸がしっかりとします。
そうすると、自ずと世界の中心に私がしっかりと立つようになります。
それに伴い、主体性を持って人生を生きるようになります。

さらには、自分が最も大切している本心に向き合うようになります。
そして、本心に取り組むようになります。
それによって、悔いの残らない、納得のいく人生を歩めるようになります。

次に、悟りの行程について書きます。
悟りの行程においては、悟るという現象の主体そのものが私ですから、私というものの重要性がより際立って来るのです。
悟り世界にはあちこちに袋小路のような迷い道ありますが、そのような袋小路に迷い込んでしまう原因の多くが私を捉えられていないことに起因しています。
そのため、最後の解脱まで到達するためには、私を捉え続けている必要があるのです。



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仏教に欠けているもの(2)

2024年09月10日 08時10分14秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(2)◇


先日の記事の続きです。

最初に核心部分を書きますと、仏教に欠けているもう一つのものとは本心です。

私たちにとって最も大切なことは、悟ることではなく、生きることなのです。
まずは生きることへの取り組みがあり、悟りはその取り組みに含まれる一要素に過ぎません。

そして、生きる上で最も大切なのが本心なのです。
本心とは、自分自身にとって最も大切なもの、あるいは大切にしたいものです。
誰しも皆、この本心を持って生まれてきます。
しかし、仏教はこの本心に関する着眼が欠落しているのです。

本心には大きく分けて二つの要素が含まれています。
一つ目の要素は、こう生きたい等、生き方に関するものです。
この要素は、生まれてから死ぬまで余り変化ません。
二つ目の要素は、人生でやりたいことに関するものです。
この要素は、人生の経過に伴って変化していきます。
これら二つの要素のうち、より重要なのは一つ目の要素です。

しかし、多くの方々は本心から目を背けたまま生き、死んでいきます。
それでは、納得できず、後悔が残るのです。

どうか、賢明な方々は、自身の本心に向き合い、出来る限り取り組んで頂きたいと思います。
上手くいったかどうか等の結果は問題になりません。
向き合い、取り組むという過程が重要なのです。

人生における自らの言動や取り組みについて、本心に照らして納得できているか、後悔は無いかを常に確認しながら、慎重かつ丁寧に生きていただきたいと思います。



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仏教に欠けているもの(1)

2024年09月06日 08時47分48秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(1)◇


これまでは、このような直接的な言及は控えてきたのですが、考えが変わりまして、ダメなものはダメと言っていくことにしました。

仏教に欠けているものとは、解脱です。
(ご意見やご批判等はお受けしますので、コメント欄等ご遠慮なく。)

今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。
ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。
南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。
アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。

その理由は、仏教全体として苦に対する着眼が浅く、弱いのです。
大乗系は全くという程欠落しています。
南伝系も一部で薄っすらと残っているのかもしれませんが、大半の系統で欠落してしまっているのではないかと見てます。

この仏教の不甲斐なさの一番の原因は何か。
それは、私を捉えることの大切さをわかっていないのです。

実は、悟りの行程を歩む際、私を捉えることが最も大切な要になっているのです。
仏教はそれをわかっていないのです。
釈迦が何を語ったのか、実は殆ど知らないのですが、「私を捉えろ」等の話は聞いたことがありません。
(この点、もし釈迦が語っていたという文献があれば、教えていただきたいと思います。)

私とは、肉体も含めた私という存在そのもののことです。
もちろん、私には実体は無く、あるとも無いとも言えない、いくら追及しても本質的によくわからないものです。
しかし、この私こそが悟り行程の節目節目において要になっているのです。

例えば、小悟では私とは真我(観照意識、気づきの意識)であると悟るのですが、それなりに私を捉えていないと、この悟りは起こりません。
また、大悟では私とは意識であり、世界そのものであると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
さらに、解脱では私、即ち世界とは苦であると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。

釈迦も含めて仏教は、私を捉えるという観点が余りに弱かった、あるいは欠落していたのです。
そのことは、釈迦が語った言葉にハッキリと表れています。
釈迦は無我という言葉を使いました。
一切に実体は無いという意味で無我という言葉を使ったようですが、文字を素直に読めば、自我が無いかのように読めてしまい、そのような誤解も生じてしまいます。
釈迦はどうしてそのような中途半端な言葉を使ったのか。
彼は私を捉えることの大切さを理解していなかったと考えざるを得ないのです。


<追記>
仏教に欠けている大変重要な要素がもう一つありましたので、後日続きを書くことにしました。



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「禅系覚者の認識が止む」について

2024年09月04日 10時54分06秒 | 悟り
◇「禅系覚者の認識が止む」について◇


今日もまた、禅の悟りに対する批判記事を書きます。

彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。
悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。
しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。

彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。
認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。
少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。
さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。

悟りはそのような手法では表現できないのです。
悟りは悟りで表現するしかないのです。
つまりは、何を悟ったかということです。

では、「認識が無い」や「私が無い」は状態ではないのではないかという意見が飛んで来そうです。
「認識が無い」や「私が無い」は、悟りの行程の中でよく生じる感覚です。
しかし、残念ながら、これらの悟りというか理解は、誤っているのです。
なぜなら、そもそものところ、一切のことがらについて有る無しの問題は断定不可能であり、「ある」とも「ない」とも言えないのです。
ですから、認識や私について、有るというのも間違いであり、無いというのも間違いなのです。
間違った理解によって悟るなどということは、あり得ないのです。

話を元に戻します。
彼らは「認識が止む」と言っておる訳ですが、そう言うからには、何らかの形で自らの認識が止んだということを考えたり、それに関連した認識(本人の誤認ですが)しているに違いないのです。
つまり、彼らの認識は依然として続いているのです。
彼らはそれに気づけないのです。

さらにです。
彼らに言いたいのは、「認識」というものをどのように捉えているのか、ということです。
「認識」というものの捉え方が余りに浅いのです。
鳥の声が聞こえるとか、目の前の景色が見えるとか、何かの思考が浮かんだとか何でもいいですが、そのように何かの現象が起こって来たとき、それらの現象を認識するという働きがどのように起こっているのかについて、彼らは追及が足りないのです。

答えを書いてしまうと、
現象とそれを認識する働きは、一体不可分に同時に生じているのです。
現象が起こっているのに、認識だけが止むなんてことはあり得ないのです。

彼らは、幾人もの偉大な先人の悟りが自分の悟りと合っているなどとたわけたことを言います。
挙句は、釈迦もそう言っているなどと言い出す始末です。
そんなこと何の頼りになりません。

釈迦も含めて、頼りになるものなど何処にも無いのです。
何かに頼ったり、安易に納得しようとぜず、徹底的に追及していただきたいと思います。
何かに頼っているうちはどうにもなりません。



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