私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

もう一度悟りの階梯についてー自我を捉えることの意義ー

2023年03月12日 17時35分58秒 | 悟りの階梯
◇もう一度悟りの階梯についてー自我を捉えることの意義ー◇

悟りの階梯には小悟、大悟、解脱と三つの階層がありますが、どの階層に至るときも、私に意識を向け、自我を捉えることが重要な要になっているのだということが、なぜかここ1、2年くらいでより明確になってきました。
今日は、その周辺のことをまとめてみようと思います。

まず、小悟について。
小悟に至る際には、まずはその下準備として良い悪い等の二元的な囚われの手放しが済み、思考や感情が減っている必要があります。
この囚われの手放しは、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあります(私自身は、明け渡し体験に伴って手放しが生じました)。
しかし、多くの場合、これだけでは小悟には至り切れないのだろうと考えています。
小悟に至るには、日常的な私という自我のもう一つ深層にある意識要素である観照意識に気づく、あるいは観照意識を捉える必要があります。
観照意識とは、日常的な私という自我意識のもう一つ深い層にある意識要素で、ただ観ている意識です。
アドヴァイタの覚者たちは、これを真我と言ったりしています。

観照意識に気づくためには、私に意識を向け、私という自我を捉える必要があります。
その際に、自覚が大変役に立ちます。
自覚は、二元的な囚われに気づいて手放していく際にも非常に役に立ちます。

次に、大悟について。
大悟に至る際には、その下準備として握りしめた囚われの大半の手放しを終え、思考や感情が十分に減り、意識の集中度が十分に高まっている必要があります。
囚われの手放しは、主に外側に向けた囚われから順に生じていきます。
つまり、小悟階層に至る際は外側に向けた囚われ(他者や外側のものごとに対する囚われ)の手放しが主に生じ、大悟階層に至る際は内側に向けた囚われ(自分自身に対する囚われ)の手放しが主に生じます。
この内側に向けた囚われの手放しも、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあるのだろうと思います(私自身は自覚を行う中で手放が生じていきました)。

大悟の場合にも、このような囚われの手放しだけでは、多くの場合大悟に至り切れないのだろうと考えています。
大悟に至るためには、私という意識要素の本質的な部分に意識を向け、私という存在とは何かを捉え、知る必要があります。
これによって、私とは意識であり、世界そのものであると納得することとなります。
この大悟に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。

最後に、解脱について。
解脱に至る際には、その下準備として握りしめた囚われのほぼ全ての手放しを終え、何かの考えを掴もうとする、縋り付こうとする衝動が十分に小さくなっている必要があります。
囚われは大悟に至った後でもいくらかは残っているもので、解脱に向かう際にそれらのほぼ全てを手放し切る必要があります。
なぜ、ほぼ全ての囚われの手放しが必要なのかと言うと、何かの考えを掴んでいる間(あるいは、何かの考えに縋り付こうとしている間)はまだ厳密な意味で意識が外向きであり、私という存在の根本に意識を向けられないからです。
何かの考えを掴んでいる、あるいは考えに縋り付こうとしているということは、その考えに依存しているということであり、まだ根本苦に向き合える段階ではないのです。

解脱に至るには、私という存在の根本に意識を向け、根本苦と向き合い、根本苦に七転八倒している自らの姿に気づく必要があります。
それに気づけば、根本苦をどうにかしようとして常に右往左往していた衝動がすっと収まります。
この解脱に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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意識に関する考察(5)ー続々・自己認識と主客の問題についてー

2023年03月09日 10時12分37秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(5)ー続々・自己認識と主客の問題についてー◇

前回の記事「意識に関する考察(4)ー続・自己認識と主客の問題についてー」の続きです。

前回の記事では、我々が日常的に得ている主客の感覚や認識は、誤解であり幻想であろうと書きました。
今回は、これまで書いた一連の記事のまとめ的なものを書こうと思います。

まず、今回の考察での結論をまとめます。
何かを認識するという現象には、その何かに関する認識現象(例えば、目の前のパソコン画面を目で見たときの画像に関する認識)の他に、その認識そのものを認識する現象(これをここでは自己認識と言っています)が同時かつ一体に含まれている。
例えば、私(主体)がパソコン画面(客体)を認識しているというような、我々の日常的な主客の感覚や認識は、誤解あるいは幻想であり、本質的なものではない。
認識という現象の本質には、自己認識という現象が含まれており、それが私という自我の主体性に関する感覚や、この世界の物質的な存在感の源泉であり、核心部分になっている。

また、私を含むこの世界は、ひとコマ、ひとコマの意識(認識と言ってもいいです)が映画フィルムのように連鎖的に連なったようなものと捉えることができ、この意識の展開のひとコマひとコマにおいて、言わば主体的な要素に相当する自己認識と、その客体的な要素に相当する認識とが言わば表裏一体に統合された状態で常に生じている。

以前、「自我の二相性と主客の統合」という記事では、自我には二つの相があり、私(主体)と対象(客体)とが分離したように感じる相と、主客が統合しているように感じる相とがあると書きました。
上記の観点から、この記事の自我の捉え方は、私の理解不足のため、未熟で筋の良くないものとなっています。
すみません。
記事は、一応その時点では私の理解に沿ったものになっておりますので、削除せずに残します(後で、記事の最後に補足コメントを付けるかもしれません)。

主客の概念そのものが誤解であり、本質的なものではありませんから、主客の統合というような現象はあり得ないのです。
悟りが深まる過程で、意識の集中力の高まりに伴い、私という自我感覚の欠落感が生じることで、私が対象と一体になったかのような「観るものは観られるもの」という錯覚が生じているに過ぎません。
主体的な要素に相当する自己認識と、客体的な要素に相当する認識とは、意識の展開の中で、分離することなく常に一体に生じています。

これで、今回の一連の記事を終わりにしたいと思います。


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