けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2014年02月19日 | Weblog

第三の秘密(続き)

The Fatima Crusader Issue 26, Autumn / Winter 1988より

ジョン・コロラフィ

第2部:ファチマ第三の秘密と教会における異端

私たちはファチマの秘密の最も苦痛な局面の一つに入って行っています。なぜなら、もし秘密が真に聖職者のある者たちによる裏切りを予告しているならば、もしそれが奉献された霊魂たち(すなわち、司祭や司教たち)の多くが誘惑に陥り、教皇に対する彼らの従順を拒否し、彼らの神学的な異議を通じて敵に仕え、教会の一致を弱め、その信仰を掘り崩しているということを予告しているならば、そして印象的な数のファチマ学者たちによって共有されている意見である、アロンゾ神父の意見によれば、秘密はまさに、なぜ諸教皇がそのようなメッセージを明かすことを嫌がったかは理解され得るものなのです。

しかしながら、もし私たちがメッセージのこの局面について論争を避けるということを口実にして、沈黙を守るべきであるとするならば、私たちは教皇、ローマの教皇と完全に一致している私たちの合法的な司牧者たち、司祭たち、司教たちに重大な害を与えることになるでしょう。聖トマス・アクィナスは彼自身の時代に、反キリストの世界的な支配に対する主要な障碍は教皇の強い霊的な権威、ローマの首位性であると指摘しました。* この霊的権威が司祭の独身制、あるいは宗教的な従順と清貧のような教会の長い間かかって確立されてきた規律に対する反逆によってか、あるいは教義的な秩序の諸真理に対する異議によってか、非常に多くの神学校や大学で教えられている反三位一体神学やアリウス派的キリスト論によってか、認可されていない典礼刷新を通じての恩寵の源泉を毒することによってか、そのいずれかで弱められるとすれば、サタンの王国の拡大に対する巨大な障碍が取り除かれてしまうでしょう。

黙示録の偽の子羊と淫婦

第三の秘密のその優れた研究において、フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテは一つのショッキングな問いを提出しています。すなわち、近代主義と「キリスト教的マルキシズム」の偽預言者たちは黙示録において非難されているか?という問いです。なぜなら、黙示録を通してずっと、私たちの神である主は「子羊」として言及されているからです。というのは、彼は私たちの真の救い主であり、大祭司そしてあらゆる秘蹟の不可視的な奉仕者であるからです。復活祭のための序誦が言っているように、「彼は真の子羊であって、世の罪を取り除き、死ぬことによって私たちの死を破壊し、復活することによって私たちの生命を回復された」のです。ところで、反キリストがキリストの反定立であるように、また黙示録は「偽預言者」(黙示録 19,20)、真の子羊たるキリストの地獄的戯画を記述しています。聖ヨハネが言っているように、それは子羊の角のような2本の角を持っていました。しかし、それは「竜のように」話しました(黙示録 13,11)。換言すれば、それは子羊、救世主になりすましますが、しかし実際にはサタンの働きをします。ところで、私たちがカトリックの聖職者たちがある場所で、姦淫は悪ではない、手淫は悪ではない、避妊は重大なことではないと説教しているのを見るとき、彼らは外面的にはキリストの使徒たちのように見えているが、実際には敵に仕えているこの「偽の子羊」に似ていないでしょうか?フレール・サント・ミッシェルは、「偽預言者」は教会内部の「キリスト教的マルクス主義者」や他の偽預言者たちを表すための集合的な用語であると考えています。黙示録の他のショッキングな像は女、聖なる著者が言っていますが、「聖なる人々の血とイエズスの証人たちの血に酔いしれている」(黙示録 17,6)バビロンの大淫婦です。私たちがミサの間に、聖体拝領の直後にさえ、神を汚す歌を許す司祭たちを見るとき、私たちが、聖なる典礼の間に、他の多くの人たちが教会において見てきたように、私たち自身の目で道化師の服装をした少女たちや司祭たちを見るとき、恐ろしいことに、彼らは「酔いしれて」、狂気になり、「聖なる人々の血とイエズスの証人たちの血に酔いしれている」のではないでしょうか?なぜなら、まさに忌むべきことがイエズス・キリストの聖人たちや殉教者たちの冒涜された聖遺物の上、聖所において犯されているからです。

教会における異議と反逆の危機はますます先鋭になっています。背教はペトロの岩にさえ近づいています。教皇自身の国務省長官、カザロリ枢機卿でさえ、教皇のいないところで、近代主義者で偽預言者であるテイヤール・ド・シャルダンを敢えて称賛しました。クッランやボッフのような他の偽預言者たちは司教団の中に彼らの擁護者をもっています。さらに他の人々は彼ら自身の目で、ミルウォーキーの大司教がその大司教区の中で姦淫と猥褻を公然と教えることをどのように許したかを報告しています。証拠が聖座へ送られました。そして証拠のうちのあるものはミルウォーキーの公共テレビで見られました。そのことを公然と明らかに言うべき時が来ました。異議申し立てをする者たちと異端者たちは教皇および教皇に一致した司教たちに反対して、一つの新しい教会、教義、あるいは道徳あるいは恩寵のない教会、を建てたいと望みました。

この新しい教会は生ける反キリスト、バビロンの淫婦、絶えることのないスキャンダルの教会です。しかし、黙示録において言っているように、最後には火が天から降りかかり、淫婦を破滅させるでしょう。

危機についてのシスター・ルシアの見解

シスター・ルシアは、教皇御自身が都合のよい時と考えるまでは聖母の最後の秘密を明かすことを許されていません。他方において、何ものも原理的には、宗教的従順の範囲内で、個人として危機に関する彼女の意見を述べることを妨げません。シスター・ルシアはこのことを1969年から1971年の間に書いた一連の手紙の中でしました。その手紙はファチマの司教の印刷出版許可つきで2年後に公表されました。フレール・サント・ミッシェルは秘密に関する彼の書物の中でこれらの手紙の背景を述べています。ある神学者たちはよく知られた反対を繰り返しながら、ロザリオ反対のキャンペーンを張りました。いわく、「ロザリオは十分に典礼的ではない。ロザリオは第二ヴァチカン公会議の後には時代遅れである。ロザリオは単調すぎる。」

彼女の手紙の中で、シスター・ルシアはこれらすべての偽のテーゼに精力的に反対しました。それは彼女がこれまでの用いた最も強い言葉でした。彼女はロザリオ反対のキャンペーンを「悪魔的」と呼ぶことを躊躇しませんでした。彼女には司祭である三人の甥がいます。彼女はそのうちの一人に、1969年12月29日こう書きました。「....見当識をなくしてしまったある人々がロザリオに反対して言っていることは誤りです。太陽の光はロザリオを唱えることよりは古いです。しかし、彼らはそれでもなおその光から利益を得たいと望んでいます....詩編もまたより古いものです。(しかし、それは今もなお)聖なる典礼の一部です。」

「めでたし、天にまします、栄光唱は私たちを神のところにまで引き上げ、ちょうどパンをよく噛むことが私たちのうちの自然的生命を支えるように、私たちに神の生命への参加を与えながら、私たちを神に結びつける鎖ですから、誰もそれを時代遅れだと呼びません!」

「この方向を逸らすことは悪魔的です!欺かれてはいけません。」

彼女のもう一人別の甥に、ロザリオについて話しながら、彼女はこう書きました。

「神が私たちに教えてくださり、私たちにそのように暖かく推奨してくださった祈りがなぜ時代遅れなのですか?ここに、彼らに祈りを無視させることによって霊魂を神から離れるように導きたいと望んでいる悪魔とその弟子どもの計略を見ることは容易です....だまされてはいけません。あなたに委ねられた霊魂たちに対する一つの光でありなさい。そして彼らと共に毎日ロザリオを唱えなさい。」

「教会で、通りでロザリオを祈りなさい....もしできるならば、人々と共にロザリオを祈り、歌いながら通りを歩きなさい。そして教会で聖体降福式をもって終わりなさい。これは教会のために平和を求めるために祈りと痛悔の精神において為されるべきです....」

彼女は甥たちのうちの別の者にこう書きました。

「非常に多くの人々が世界中に押し寄せている悪魔的な波によって自らを支配させているのは悲しいことです!そして彼らは誤りを見ることができないところまで見えなくさせられています!彼らの主たる過ちは彼らが祈りを放棄したということです....」

1970年4月4日に彼女はこう書きました。

方向を逸れてしまった者の教義によって邪道に導かれないことが必要です....(ロザリオ反対の)キャンペーンは悪魔的です。私たちはそれに恐れずに立ち向かわなければなりません....私たちは霊魂たちに対して、今、これまで以上に、私たちに賛成する人々と私たちに反対する人々のために祈らなければならないと言わなければなりません!私たちは毎日ロザリオを唱えなければなりません。これは、悪魔的なキャンペーンが続けられている現在を予見して私たちに警告なさるかのように、私たちの主が最も推奨なさった祈りです!....御聖体を顕示し、そのみ前でロザリオを唱えることを恐れてはいけません。」

「これが典礼的でないと言うことは誤りです。というのは、ロザリオの祈りは聖なる典礼のすべての部分だからです。そしてもしロザリオの祈りが、私たちが聖なる犠牲[ミサ]を祝うように、ロザリオを唱えるとき神を不快にさせるものでないならば、同じように私たちが、主の現存において[御聖体の顕示の前で]、主が私たちの礼拝のために顕示されておられるとき、ロザリオを唱えるとき、その祈りは主を不快にさせるものではありません。反対に、これは神を最も喜ばせる祈りです。というのはそれは私たちがそれによって神を最もよく称賛する祈りだからです。」

シスター・ルシアは通常は決してそのような強烈な言葉を使いませんでした。彼女はほとんど、あたかも祝せられたおとめが秘密において、1917年に現在世界に押し寄せているこの「悪魔的な波」を明らかにされたかのように、話しています。最も悲しい部分は、シスター・ルシアによれば、そのように多くの奉献された霊魂たち、司祭、修道者、司教たちが混乱のうちに押し流されているということです。

「そのように大きな方向逸脱、そして責任ある地位を占めているそのように多くの人々のうちに、それを見ることは悲しいことです!....悪魔は善を装って悪の中に連れ込むことに成功しました。そして、主がその福音の中で私たちに告げておられるように、目の見えない人々が他の人々を導き始めています....」

私たちが、シスター・ルシアによれば、秘密は<福音のうちに>含まれているということを考えるとき、彼女がこの文脈において福音を引用する仕方は意味深長です....そして明白に不吉な輪を帯び始めます。第三の秘密に関する600ページの書物の著者であるフレール・サント・ミッシェルは彼の研究の諸発見を私たちに分かちます。

おとめマリアの腹心の友にとって、悪は単に私たちの世界のうちに退廃においてあるばかりでなく、不道徳と高慢の誤りの暗闇の中へと突入しています。悪はまた教会そのものの中にもあります。そこでは悪魔が彼の「追随者たち」と彼の「別働隊」を持っています。彼らは常に「大胆不敵さをもって前進しています」。彼らに直面して、反撃する勇気を持たない非常に多くの「臆病な人々」がいます。そしてシスター・ルシアは多くの司教たちが彼らの数の中にいると述べることを恐れていません。さらに、それは単に生ぬるさ、あるいは司牧的な怠慢の問題だけではありません。シスター・ルシアは攻撃されているのは信仰それ自身であるということをはっきり理解させます。彼女は「誤った教義」について、「悪魔的な混乱」について、「目の見えないこと」について話しています。そしてこれは教会において「大きな責任を持っている」まさにそれらの人々の間でのことです。彼女はそのように多くの司牧者たちが「世界に侵入している悪魔的な波によって自らを支配されるに委せている」という事実を遺憾に思っています。サタンがその主君である世界に自らを開いた教会の危機をもっとよく記述できる者がいるでしょうか?

しかし、シスター・ルシアはこう主張しています。「聖母はこれらの悪魔的な方向逸脱の時代が来るべきことをご存じでした。」幻視者のこれらすべての言葉と私たちが引用することができる他の多くの言葉は1917年7月13日に、彼女の第三の秘密において、もし聖母が、もし彼女の要求が従われなかったならば、教会を突然襲うであろうこの悪魔的方向逸脱を予告なさったならば、完全に説明され、大きな顕著さを帯びます。

最後の戦い:太陽をまとった女対黙示録の竜

シスター・ルシアは明らかに、その手紙の中で彼女が明らかにすることができたよりもはるかに多くのことを知ることができました。しかしながら、本質的なことに関して私たちは十分に知っています。明らかに、悪魔の戦略は教会を誤り導くこと、もちろん、そのようなことがもし可能ならば教会を破壊することです。それは奉献された霊魂である司祭、修道者、兄弟たち、そして実際教会の司牧者たち自身を誤り導き、方向逸脱させることによってではありません。もう一度、私たちは度外れにショックを受けるべきではありません。ここには新しいことは何もありません。これは常に敵の戦略でした。1517年にキリスト教世界の3分の1が大部分は堕落した司祭たちであった改革者たちによって教会から引き離されました。同じことはアリウス派の異端についても真です。それはそれが行ったあらゆるところで腐敗させる伝染性の病原菌のように、数世紀の長きにわたって教会を苦しませました。ですから、悪魔のこの戦略には新しいものは何もありません。それは福音....そして黙示録と同じように古いものです。

大きなしるし

黙示録の第12章において、福音書の著者である聖ヨハネは天に大きなしるしが現われたと私たちに告げています。「一人の女が太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いていた。」(黙示録 12,1)。その女は、もちろん、祝せられたおとめマリアです。フレール・サント・ミッシェルが私たちに告げているように、最良の解釈学者たちは常にこの事実を認めてきました。尊者アグレダのマリアはそれを祝せられたおとめの生涯についての彼女の幻視において確証しています。そして教会自身この女を、被昇天のミサおよび日課祈祷において聖母だと認めています。その女は竜、サタン、悪魔、古い蛇との死闘の中に閉じこめられています。大きな赤い竜はその尾で天の星の3分の1を地に打ち落としました。しかし、彼らは何を求めて戦っているのでしょうか?空にある生命のない小惑星を求めてでしょうか?いいえ、それは人間たちの霊魂、そして特に神の民の奉献された指導者たちの霊魂:すなわち、司祭、司教そして修道者たちの霊魂です。なぜなら、他の人間たちの霊魂のための戦いは大幅にこの第一の戦いにかかっているからです。なぜなら、シスター・ルシアが言っているように、「司牧者が正しい道において彼らをどのように導くかを知っているとき、羊は一般に従うからです。」

そこで、これは私たちが教会のまさに核心で目撃している大きな戦いです。それは宗教的生活において神に奉献したすべての人々の霊魂のためです。私たちは今、司祭たちと教皇のために祈る小さなジャシンタの没頭を理解し始めています。今また私たちはシスター・ルシアがなぜ次のように書いたかを理解し始めています。「私は喜んで、神の教会における平和のために、司祭たちのためにそしてすべての奉献された霊魂のために、私自身を犠牲にし、神に私の生命を捧げます....」

秋田の聖母は、意味深長にも10月13日に与えられたその最後のメッセージの中で言っておられます。

「教皇、司教たち、司祭たちのために毎日ロザリオを祈りなさい。悪魔の働きが教会の中へさえ侵入するでしょう....教会の中には妥協を受け入れる多くの人がいるようになるでしょう。悪魔は主への奉仕を離れるように多くの司祭たちと奉献された霊魂たちを圧迫するでしょう。悪魔は特に神に奉献された霊魂たちに対して怒り狂うでしょう。人間の霊魂の喪失を考えると私は気が狂いそうになります...」

「論争の的となる」秘密

際限のない論争を必ず引き起こす秘密についての最後の問いがあります。すなわち、それは公に明らかにされるべきか、それともされるべきでないか?という問いです。それを別の仕方で提出するならば、こうです。もしシスター・ルシアが祝せられたおとめの望みに従って、秘密は1960年には明らかにされるべきであったと指摘したとするならば、なぜ教皇たちはそうしなかったのでしょうか?私たちはそれについて間違いをしてはなりません。ファチマの秘密を明らかにすることは教会にとってより苦い薬となるでしょう。しかし、それは必要な薬です。それが苦いほど健康にはよいものです。それは楽しいことではないでしょう。しかし、それは28年間神秘的な身体を苦しめている傷を焼き、恐るべき熱を癒すことへ向けての第一歩となるでしょう。旧約聖書における預言者の声、「来て、主に立ち戻ろう、なぜなら、主は私たちを引き受けられたからである。そして主は私たちを癒してくださるであろう。主は打ち、私たちを癒してくださるであろう。主は二日後に私たちを生き返らせてくださるであろう。三日目に主は私たちを復活させ、そして私たちは主のみ前で生きるであろう」(ホセア 6:1-2)という声に耳を傾けるように、教会の子どもたち全てがそれに耳を傾けるものであればよいが。

* Huchede, History of Antichrist, TAN Books を見よ。