第三の秘密
The Fatima Crusader Issue 26, Autumn / Winter 1988より
ジョン・コロラフィ
「大勢の反キリストが現われました」(1ヨハ 2:18)
第1部:ファチマの第三の秘密、終わりの時と教会における危機
「私の使命は、もし私たちが罪のうちに頑固にとどまるならば、永遠にわたった私たちの霊魂を失う差し迫った危険の中に私たちがいるということをすべての人に示すことです。」
ファチマのシスター・ルシア
1917年7月13日、ファチマでの第3回目の御出現の間に、聖母は三人の幻視者たちに大きな秘密を打ち明けられました。秘密の存在は最初から知られていましたが、しかし秘密のその部分が公式に明らかにされたのはシスター・ルシアが第三の手記を書いた1941年7月か8月になってです。
「その秘密は三つの異なった問題から成っています。そしてそのうちの二つを明らかにします。」と彼女は書いています。私たちが見るように、最初の部分は地獄の幻視と、私たち可哀想な罪人の救いのために神によって提供された至高の救済策としてのマリアの汚れなき御心の明示です。「あなたたちは地獄を見ました。そこへは可哀想な罪人たちの霊魂が行くのです。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心への信心を確立することを望んでおられます。」*
秘密の第二の部分はソビエト・ロシアの興隆に関係しています。ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤りを世界中に広めるでしょう。「さまざまの民族が全滅させられるでしょう」と聖母は警告されました。しかし、聖母は大きな救済策をお与えになりました。すなわち、教会位階に聖母がお求めになった彼女の汚れなき御心へのロシアの奉献、すべてのキリスト教徒にお求めになった償いのための5回の土曜日です。私たちは最後に、教皇が決定の言葉を述べられ、ロシアが奉献され、そして汚れなき御心が世界において勝利するであろうということを知っています。フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテがそのいつもの洞察でもってそれを表現したように、「グーラーグ[強制収容所]かそれともキリスト教か!」です。なぜなら、その間には何も存在しないからです....
「第三の秘密」
一般に「ファチマ第三の秘密」と呼ばれているものは、1917年7月13日に聖母が三人の子どもたちにお与えになった預言的秘密の最後の部分です。私たちは「第三の秘密」よりもむしろ「秘密の第三の部分」とそれを呼ぶことの方を選びます。というのは、正確に言えば、三つの異なった部分に分けられるただ一つの秘密だけが存在するからです。秘密の最初の二つの部分はすでに長い間公共の知識となっていました。
フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテによって報告された余り知られていない事実は、1944年1月2日に聖母御自身が司教の公式的な命令に従うようにシスター・ルシアに再び御出現になったということです。聖母はシスター・ルシアが今や秘密を書き下ろすことは実際真に神の御意志であるということを説明なさいました。聖母はまたシスター・ルシアに、ダ・シルヴァ司教は教皇ピオ十二世がそうできたのと同じようにそれを直ちに読むことができるとも告げられました。祝せられたおとめはまたファチマの秘密のこの第三の部分は1960年に信徒たちに明らかにされるべきであるということをも指示なさいました。
ダ・シルヴァ司教が秘密の入っている封筒を開けることを望んでいないということを確認して、シスター・ルシアは、カノン・ガランバの言葉によれば、「彼女の死か、あるいは1960年になるか、そのいずれかのことが最初に起こる場合には、第三の秘密は開けられ、読まれるということを司教に約束させた」のです。もしダ・シルヴァ司教が最初に死んだならば、秘密はリスボンの大司教である枢機卿に打ち明けられるということが同意されました。第三の部分は公式に決して明らかにされてきませんでした。
ラッツィンガー枢機卿の証言
1960年以来ずっと、途方もない推測が秘密の内容をめぐって集中しました。その主題に関して公表されたもののほんのわずかのものだけが十分に信頼し得るものです。一般にそこには両極端があります。第一の極端は秘密をあらゆる種類の地殻の大変動や惨事と同一視する傾向のある途方もない推測です。この要素はさまざまな悪ふざけをする人々や無節操なジャーナリストたちが真のファチマのテキストとして前面へと押し出した「典拠の疑わしい」あるいは偽の秘密において特に傑出しています。もう一つの極端は「それがまだ公表されていないので、私たちは秘密については何も知らない」という言うことです。これは1917年においては真であったかもしれません。しかし、それは今日もはや真ではありません。
私たちは今、秘密の真のテキストについてかなり多くのことを知っています。ヨアキム・アロンゾ神父、フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテのようなさまざなのファチマ学者たちの仕事はこの文書に対する貴重な洞察を私たちに与えました。論証し得るものして、最も価値あるそして啓発的な証言はラッツィンガー枢機卿の証言です。というのは、彼は秘密を実際に読んだからです。1984年11月に公表された有名なインタビューの中で、イタリアのジャーナリスト、ヴィットリオ・メッソーリは枢機卿にこう尋ねました。「ラッツィンガー枢機卿、あなたは、シスター・ルシアがヨハネ教皇に送り、教皇が明きらかにすることを望まず、史料保管所に仕舞うことを命じたファチマ第三の秘密と呼ばれるものを読みましたか?」
「ええ、私はそれを読みました。」
「なぜそれは明らかにされてこなかったのですか?」
「教皇たちの判断によれば、それはキリスト者が啓示から知るべきものに何もつけ加えないからです。それは、回心への根本的な呼びかけ、歴史の絶対的な重大さ、キリスト者の、そしてそれゆえに世界の信仰と生活を脅かす危険です。そしてまた終わりの時の重要性です。」それから、枢機卿は意味ありげにつけ加えられました。
「もしそれが公表されないとすれば -- 少なくと当分の間は -- それは宗教的な預言を人騒がせなやり方と混同することを避けるためです。しかし、第三の秘密に含まれている事柄は聖書において告知されてきたことであり、他の多くのマリアの御出現によって 確証されてきたことに合致しています....」*
「回心への根本的な呼びかけ」
もちろん、ラッツィンガー枢機卿は教皇御自身がそれが明らかにされ得ると決断されないかぎり、秘密の明白な内容を明らかにすることを許されていません。しかし、みごとな遠回しの言い方を使うことによって、彼は私たちに秘密の尋常でない重大さを見ることを許しています。秘密が、教皇たちの判断において、他のマリア御出現から私たちが知っていることに、それらの知られた内容において、合致するということは重要なことです。これは第三の秘密の理解にとってその鍵の一つです。
「他のマリア御出現によって確証されている」
その書物において、枢機卿は世界至る所でのマリア御出現の報告が急激に増加していると私たちに告げておられます。これらの事例のあるものは教会の権威によって確証されました。なお他のものは見せかけのものとして退けられました。多くのものはまだ決定が出ていません。
これらのマリア御出現において繰り返されている一つの要素は、もし人類が悔い改めないならば、人類の大部分の上に落ちかかる恐るべき懲罰についての警告です。ここでは、もう一度、メッセージは楽しいものからはほど遠いものです。しかし、それは私たちがすでに福音書から知っていることを確証するものです。「あなたがたも悔い改めないと、皆同じように滅びる」(ルカ 13:3)。神は平均的な人間から異常な苦行をお求めになっているのではありません。神は比較的小さな犠牲を求めておられます。イエズスが要求なさっている主要な犠牲は神の律法に対する従順です。
秋田における恐るべき警告
ラッツィンガー枢機卿が言及しておられるマリア御出現の一つは日本、秋田の聖母です。私たちはそれが地方の司教、伊藤司教によって是認されてきたので、このメッセージを選びます。懲罰は誤り得ない言葉で予告されています。
「もし人々が悔い改めず、その生活を変えないならば、御父は人類全体の上に恐るべき懲罰を加えようとなさっています。それは大洪水よりもはるかに大きな懲罰でしょう....天から火が落ちかかり、人類の大部分を絶滅させるでしょう....」
第三の秘密は懲罰をほのめかしているのでしょうか?私たちは真正のテキストが公表されないかぎり、それが確かであると言うことはできません。しかしすでに明かされた秘密の部分は、聖母の警告が聞かれないならば、「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう」と警告しています。ラッツィンガー枢機卿の言葉によれば、「厳しい警告が支配的な浅薄さに対して発せられた。生活の、そして歴史の重大性に対する呼びかけ、人類を脅かしている危険に関する警告が出されている。」*
しかしながら、懲罰は、もし司教たちや司祭たちが悔い改めの力強いメッセージを説教し、信徒たちがその呼びかけに注意を払うならば、避けることができます。ヒステリーあるいは行き過ぎた警鐘の必要はありませんが、しかし、また自己満足にも理由はありません。
「キリスト者たちの....そしてそれゆえに世界の信仰と生活に対する危険」
「第三の秘密」の最初の行は聖母が三人の幻視者たちになさった慰めの約束で始まっています。「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう。」* 「聖マリアの土地」であるポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれると考えることは人を感動させるものです。しかし、このことは多くの他の国々が、おそらく全大陸でさえ、信仰の真の危機を経験するという真の可能性を高めます。1976年にすでにファチマの公文書保管人であるアロンゾ神父はファチマに関するさまざまの問題についてシスター・ルシアに質問した後に、その可能性を真剣に取り上げました。
「その節(すなわち、秘密の最初の行)は最も明白に、ポルトガルがその信仰を保つ一方で、他の国々が被るであろう信仰の危機的な状態、すなわち、信仰の危機を含意しています。」* 数ページ後に学識あるこの公文書保管人はこう続けています。
「もしポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれるならば、このことから、教会の他の部分においてはこれらの教義が曖昧になる、あるいはまったく失われるようになるということが明白に推定され得ます。メッセージが....カトリック信者たちの間での内部的な戦いと司祭や修道者たちの諸欠陥に具体的に言及しているということはまったくありそうなことです....それは教会位階の高位の段階の間でさえの諸欠陥を意味するでしょう。」*
「終わりの時の重要性」
これは秘密に関するラッツィンガー枢機卿の短い陳述の中の最も目新しい要素です。秘密は「聖書のうちに告知されたものに合致する」、そして特に、聖書が「終わりの時」について言っていることに合致します。もちろん、それは世の終わりが近いということを意味しません。それは論外です。というのは、私たちはロシアの回心をまだ見てしまったのではないからです。いいえ、枢機卿は、聖書が教会の聖人たちや博士たちと並んで、「終わりの時」のために告知している、教会と世界にとっての一つの危機的な時期に言及しておられるのです。そしてラッツィンガー枢機卿によれば、この教義の全体は「重要」です。それは重大です。それは研究に値します。
「第三の秘密」について質問されたとき、シスター・ルシアが「それは福音書の中に、そして黙示録の中にあります。それらを読んでください!」と言ったとフレール・サント・ミッシェルは報告しています。それから彼女は第8章-第13章を指示したとフレール・サント・ミッシェルは述べています。シスター・ルシアが問題を避けていたと私たちが考えないために、彼女の全生涯が完全な従順、教会当局が彼女に許可を与えないかぎり、彼女に秘密をあかすことを禁じる従順によって特徴づけられてきたということを思い出さなければなりません。ところで、彼女の確実なしるし、シスター・ルシアと今日の教会における多くの誤った神秘家たちの間の境界設定の明確な線であるのはまさにこの従順です。イエズス御自身と同じように、彼女は自分自身の栄光を求めずに、うるさく要求したり、扇動したりせずに、決定の言葉を話すように忍耐強く当局を待ちながら、「御父の意志だけ」を求めています。
シスター・ルシアのこのコメントは他の重要な点を述べています。教会の内外両方のある人々はこう尋ねるでしょう。「<秘密> や封印された手紙についてのこのすべての神秘主義はなぜなのですか?」秘密は「福音書のうちに、そして黙示録のうちにある」ということを私たちに告げることによって、シスター・ルシアは私たちに一つの重要な真理を思い起こさせます。すなわち、秘密はすでに公的啓示の中に含まれている、それは聖書が教えていることに合致するという真理です。聖母は新しい教義を教えるために来られたのではありません。また彼女はそうできませんでした。彼女は公的啓示、福音書、そして教会の教えの中にすでに見出されるものを確証するために来られたのです。特にわれわれの時代に言及している黙示録のあれらの部分を明らかにすることによって、聖母はこの混乱の時代に私たちの信仰を保つように私たちを助けることを予定されている一つの特別の助けを提供しておられたのです。このように、「第三の秘密」は単にキリストと使徒たちの教えであるカトリック教会の教えを確証していますから、私たちが今検討しなければならないのは、教えのこの部分です。
「背教が最初に来る」(1テサ 2,3)
私たちの主はその説教の一つにおいて、終わりの時になると、そしてより特殊的に言えば再臨 -- キリストの第二の来臨 -- の前に、危機の時が教会に来るであろうと予告されました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見出されるであろうか。」(ルカ 18,8)それは、控え目に言って、一つの非常に挑発的な問い、使徒たちが確かに決して忘れない問いです。なぜなら、彼ら自身の書簡の中に、主のこの教えはそのしるしを残したからです。
その第二の手紙において、聖ペトロはこう書きました。「終わりの時、欲望のままに生活するあざける人たちが現われて、言うでしょう。主の来臨の約束はどうなったのか。父たちは眠りについたが、すべては創造の時からずっと何も変わっていない。」(2ペト 3,3-4)。
聖ユードはまさに同じことを言っています。「時の終わりにあざける人たちが来て、その不敬虔な欲望に従って歩むであろう。」(ユード v.17)
聖パウロ自身他の使徒たちの教えを確証しています。「終わりの日」には、困難な時が来る。このことを悟りなさい。そのとき、人々は自分だけを愛し、金銭をむさぼり、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を知らず、神を汚すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないもととなり、人を裏切り、無謀で、おごり高ぶり、神よりも快楽を愛し、うわべは宗教に熱心に見えるが、実際は宗教の力を否定するものとなるでしょう。」(2テモ 3,1-5)。
聖パウロはテサロニケ人への第二の手紙の中で他の重要な細部をつけ加えています。最初に彼は彼らにキリストの切迫した再臨あるいは第二の来臨を期待してはならないと警告しています。大きな危機あるいは逸脱が最初に来ます。もともとのギリシャ語のテキストはそれを「背教」と呼んでいます。
「だれにも、また、どんな手段によっても、だまされてはいけません。なぜなら、まず初めに、神への反逆が起こり、神のおきてに逆らう人、いわゆる<滅びの子>が現われ出なければならないからです。彼は、神と名の付くもの、あるいは、礼拝の対象となるものすべてに敵対して傲然と立ち、ついには自分自身を神であるとして神の聖所に座を占めるまでになります。」(2テサ 2,3-4)。
「次ぎに滅びの子が現われるでしょう」(2テサ 2,3)
聖パウロのこのテキストは預言の正しい評価と相互関係のために非常に重要なものです。最初に大背教が現われなければならない、と彼は私たちに告げます。そして次ぎに、おそらく、不正と無神論があらゆる限度を超えて多くなったとき、罪の人、滅びの子が現われるでしょう。この神秘的な個人は誰でしょうか?教会の教父たちや博士たち、そしてすべての神学者たちの著作においては、彼は一つの名を与えられています。彼は....反キリストと呼ばれています。
私たちの古い読者たちの多く、特に司祭や司教たちは少なくとも反キリストに関する教義のある種の最小のものを教えられたことを思い出すでしょう。聖ヨハネ・ダマスケーヌスがこう言っているように:
神の御子の受肉を否定するすべての者、そしてイエズス・キリストが真の神であり完全な人間であるということを否定するすべての者、そのような人間は反キリストです。しかし、もっと特殊的なそして主要な仕方では反キリストは世の終わりころに来るでしょう。*
反キリストは教父たちに従えば、滅びの子、「獣」(黙示録 13)、666(黙示録 13,18)であり、ペテン、暴力そして偽の驚嘆すべき行為を通じて全世界を支配しに来るでしょう。
「この獣には、すべての種族、民族、言語の異なる人々と国民とを支配する権力が与えられた」(黙示録 13,7)。
反キリストは冒涜の者でしょう。彼は聖あるいは神的と考えられているすべてのもの嘲笑うでしょう。彼は自分自身神であると主張するでしょう。そしてすべての人々によって礼拝されることを望むでしょう。彼は黙示録に従えば、3年半の間支配するでしょう。
「この獣には大言と冒涜の言葉を吐くことが許され、四十二か月の間活躍する権力が与えられた。そこで、獣は口を開いて神に対して冒涜の言葉を吐き、神の名と、その幕屋、また天に住む者たちを冒涜した。この獣は聖なる人々に戦いをいどんで、これに勝つ力を与えられ....」(黙示録 13,5-7)。
「多くの反キリストが現われた」(2ヨハ 7)
次ぎに、これは「滅びの子」の短いスケッチです。彼は教父たちに従えば、すべての不正の一種の集計(recapitulatio universae iniquitatis)である不幸な個人です。それはちょうど私たちの主がすべての善の充溢を含んでいるのと同じです。彼は、私たちの主イエズス・キリストが御父の御意志を行われるのと同じように、サタンの意志をいつも行うでしょう。彼はキリストの正反対のものでしょう。ですから、その名は反キリストなのです。
すべての教父たちや神学者たちは一人の個人を反キリストとして記述することにおいて一致していますけれども、この名前が一人の個人に限定されない別の意味があります。私たちはこのことを神の啓示からはっきりと知っています。
「愛する子どもたち、今は終わりの時です。そして反キリストが来ているとあなたたちが聞いたように、今は多くの反キリストが起こっています。そのことから私たちは今は終わりの時であるということが分かります。」
「父と子を否定する人は反キリストです。そしてイエズスを分けるすべての霊は神からのものではなく、反キリストです。彼についてあなたたちは彼が来ているということを聞きました。そして今はすでに世にいます。」
「イエズスを肉において来られているキリストとして告白しない多くの欺く人々が世に来ました。これは欺く人であり、反キリストです。」(2ヨハ 7)。
聖ヨハネのこの教えの光に照らして見れば、非常に多くの神学者や聖職者たちが今日キリストの神性を明白に受け入れていないというラッツィンガー枢機卿の報告を聞くことはいよいよ憂慮すべきことです。枢機卿自身の言葉によれば、私たちは「まさに基礎そのものに関わる危機...三一神への信仰....イエズスの人間性が一面的に強調され....神的なものが曖昧にされる....創造主たる神の観念もまた曖昧にされる」危機を持っています。ラッツィンガー枢機卿の書物、ラッツィンガー報告はそれが現れたとき大変なセンセーションを引き起こしました。それは決定的に論争の的になるものでした。しかしながら、もし私たちが彼の証言(多くの神学者がキリストの神性と神の真の父性を否定している)を聖ヨハネの証言そして聖書の証言(御父と御子を否定する人は反キリストである)と比較するならば、その結果は呆然とさせるものです....比較によって、枢機卿の言葉を過小評価の見本のようなものにする結果です。
* フレール・サント・ミッシェル、第1巻および第2巻の至る所に(続く)