「それが知られるようにしなさい」
The Fatima Crusader, Issue 39 Winter 1992より
ニコラウス・グルーナー神父
明らかにわれわれはこの仕事を、われわれの事務局並びにわれわれが国中から、そして世界中から得ている支持の両方で、多くの善良な人々の援助なしには為すことができないであろう。
そしてそれらの支持者の中に私はわれわれの立場を支持すると書いてくださり、そして教皇がファチマの聖母のまさに特殊的な要求に従ってロシアの奉献を為すために命令されるときはいつでも喜んで従うと指摘してくださった400人以上の司教に言及したいと思う。
われわれが勝利する側にいるということを理解することはわれわれにとって重要である。もちろん、勝利する側は「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と言われるファチマの聖母をまず第一に含んでいる。そしてそれゆえに、気を落とさないことがわれわれにとって重要である。
同時にわれわれは盲目であってはならず、そしてわれわれの頭を砂の中につっこまないようにすべきである。不幸なことに、今日公的、私的の両面において、われわれを欺こうとする多くの努力が存在している。そしてこれらの努力は、我らの主が悪魔についてそう言及されたように、虚偽の父によって最終的には鼓舞されている。
真理なしにはわれわれは勝利することができないがゆえに、真理を広める必要性を理解することはわれわれにとって重要である。もしわれわれが何に反対しているかを理解しないならば、われわれはそれについて何をなすべきか、そして聖母をどのように助けるかを知らないであろう。
聖マキシミリアノ・コルベが指摘したように、これらの最後の時はサタンによってますます多く支配されるであろう。そして祝福されたおとめだけが蛇の頭を砕くことができるということが、祝福されたおとめに取って置かれたのである。
同時に、聖マキシミリアノは、聖母がこの勝利において、われわれが聖母を助けることを望んでおられ、そしてそのことを期待しておられる、と指摘している。聖母はそのすべてを御自身でおできになるが、しかし、聖母は多くの手を持つことを選ばれたのでありそして多くの手がすべて必要とされているのである。
聖母を助けるためにはわれわれはまず何よりも知らされる必要があるということを思い出そう
祝福されたおとめはわれわれの助けを必要としておられる。聖母を助けるためには、われわれは知らされることが必要である。そしてそれが聖母がファチマに来られた理由である。聖母はまず第一にわれわれの祈りを求めるために来られ、そしてロザリオを毎日祈ることを求めておられる。
というのは、私がそれを絶えず表明しない、あるいはそれについて語らないということは私がロザリオの重要性を最小限に見積もっているあるいは小さくしているということを意味しないからである。そして確かに聖母はまたわれわれにスカプラリオをまとい、そしてわれわれ自身を聖母の汚れなき御心に奉献することをも求められた。
あなたたちはファチマのメッセージを二つの部分:信心に関する事柄に言及する部分と彼らが「政治」と呼ぶものに関わる事柄に関する部分、に分ける人々がいるということを知っている。
しかし、聖母は一人であり、そして聖母のメッセージは一つである。聖母の全メッセージのすべての局面はわれわれの霊魂の救いと神のより大いなる栄光に関わるものである。メッセージの信心的な局面とファチマの誤った信奉者たちが「政治」として言及するものの間には一つの実在的な統一が存在する。
われわれの霊魂の創造者であられる神は同様にまた人間社会そしてそこにおけるわれわれの場所の創造者でもあられるがゆえに、それらすべては関係づけられているのである。聖母御自身が政治と経済に関心を持っておられるように、神はそれに非常に関心を持っておられる。しかし、政治や経済が最も重要な事柄であるからではない。それらは確実にそうではない。われわれの救い、われわれの永遠の救いが最も重要である。
しかし、明らかにもし政治的、経済的そして軍事的な状況が、カトリック者が神と彼らの同胞である人間との平和のうちに生活することができるようなものであったならば、われわれの霊魂を救うことは遙かに容易なものとなるであろう。例えば、教会への彼らの忠誠のゆえに捕虜収容所で今日故意に傷つけられ、苦しめられそして殺されているクロアチアの人々にとって、もし彼らの敵が彼らをこの極端な試練にさらさなかったならば、彼らの霊魂を救うことはより容易であったであろう。彼らの(そしてわれわれの)うちのあるものはそのような迫害の下では忠実であり続けないであろう。
同じように、世界中の人々にとって、毎年ここ(アメリカ)で2千500万、そして世界中で5千万にも及ぶ赤ん坊をその母親の胎内で殺すような法律ではまったくない法律を擁護する政体よりもむしろ王たるキリストの王たることを公に承認する政体においての方が、世界中の人々にとって彼ら自身を救うためには容易であろう。
世界は背教の状態にある。しかしもっと正確に言えば背教は教会に侵入したのである。それが第三の秘密が関わっていることである。一つの短い話の中でなぜわれわれは第三の秘密が教会における背教に言及していると言うことができるかに関して、あなたたちにその諸理由を説明し、与えることは私にとって難しいことである。しかし、私はあなたたちがあなたたち自身で見ることができるいくつかの事実に言及するように努めようと思う。
一つはもちろん教皇自身がファチマで言われたことである。「愛のすべての力でもって、聖霊において育まれ、そしてすべての人の救いを望んでおられる御母が、その子どもたちの救いのまさに基盤が掘り崩されるのをご覧になるときに、黙ったままでおられることがおできになるだろうか?」そして彼は彼自身の問いにこう答える。「いいえ、聖母はおできになりません!」。
ところで、聖アタナシウスはわれわれの救いのまさに基盤はわれわれのカトリック信仰であるとわれわれに告げている。もっと正確に言うならば、聖アタナシウスに帰せられているカトリック信条はわれわれにこう告げている。「救われることを望む者は全体的にすべてのカトリック信仰にすがりつかなければならない。」第一ヴァチカン公会議はカトリック者にとって信仰を離れることにはどんな言い訳もどんな正当化も存在しないということをわれわれに告げている。
信仰は、聖ヨハネが聖書の中でわれわれに告げているように、世界に打ち勝つものである。教皇が、われわれを非常に愛しておられる御母がわれわれの救いのまさに基盤が掘り崩されるのをご覧になるとき、沈黙したままでおられることはできないとわれわれに告げるとき、教皇と聖母はわれわれが現在その中をくぐり抜けているわれわれの信仰の危険に言及されているのである。
われわれの信仰は危険のまっただなかにある
それが第三の秘密が関わっている事柄である。われわれはこのことを教皇のこのあまり明白でない指摘から知るばかりでなく、またヴィットリオ・メッソーリに対してあの有名なインタビューを許したラッツィンガー枢機卿からも知るのである。そのインタビューはイタリアの雑誌『イエズス』において公表された。そのうちの一語たりともラッツィンガー枢機卿がテキストを承認することなしには公表されなかった。ラッツィンガー枢機卿はこの中でこう尋ねられている。「あなたは第三の秘密を読みましたか?」「はい。」「それは何に言及しているのですか?」「第三の秘密はわれわれの信仰の危険に、そしてそれゆえにキリスト者の生命に、そしてそれゆえに世界の生命に言及しています。」ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密を読んだ少数の人のうちの一人である。そして彼はそれはわれわれの信仰に対する危険に言及しているとわれわれに告げているのである。
さて、もしあなたが聖書を読むならば、そしてもしあなたが反キリストが来るという預言を読むならば、例えば聖パウロによる「テサロニケ人への手紙」のうちに、反キリストは大背教までは、すなわち、信仰と実践における[カトリック]信仰からの大離脱までは来ないであろうということを読む。ところで、聖母は第三の秘密においてこの背教に言及しておられるのである。もしそれが大背教でないならば、ファチマの聖母がわれわれの時代のためにわれわれに警告に来られたのはそれに似た背教である。
第三の秘密はわれわれがまさに現在生きているこの瞬間に言及している。それは1960年以前のある時期に言及しているのではない。そしてそれは教皇がロシアを奉献する、聖母の勝利の後の時期に言及しているのではない。
われわれはそのことを再び、シスター・ルシアが他の人々の間で、オッタヴィアーニ枢機卿によってわれわれに引用した言葉からも知る。私はフレール・ミッシェルの書物、『第三の秘密』において参照するように私が注意を促した詳細な記述と典拠をあなたたちに示す。その書物において彼はこのことを説明し、そしてあなたたちに、私が短い話のなかでそうすることができるよりももっとよく、証拠書類と出典を与えている。
この書物は第三の秘密を明らかにしている。私は、この書物を読んだ後には誰でも第三の秘密が何であるかを知っていると確信を持つに違いないと信じる。彼は言葉そのものを知っているわけではない。しかし、彼は確かに第三の秘密が何であるかの核心を知っている。それは、フレール・ミッシェルが再三にわたって指摘しているように、われわれの信仰に対する危険に言及している。それ以上に、それはアロンゾ神父が指摘したように、今日の教会内部の背教の状態に対する高位聖職者、すなわち、司教や枢機卿たち-彼らのすべてではなく、彼らのうちのある者であるが-の罪に言及している。
われわれの洗礼はわれわれが知らされることを要求する
それがわれわれにとって知らされることが非常に重要である理由である。というのは、ご存じのように、われわれは、われわれの洗礼によって、そしてわれわれの堅振[の秘跡]によってなおいっそう、信仰に関する一つの義務を持っているからである。われわれの信仰はわれわれの救いの基礎である。そして逆にわれわれ一人ひとりはわれわれが能力と機会を持っている程度に応じて、そしてわれわれができる程度に応じて信仰を擁護する義務を負っている。
聖トマスはわれわれにこう告げている。われわれの信仰を擁護する義務は、もし必要ならば司教や枢機卿を、教皇をすら、公に正すことをわれわれに要求するほどの負担の重いものである、と。これは反逆的な、あるいは無礼なことであろうか?そうではなく、反対に、われわれは聖書によってわれわれに与えられた規則を持っている。それは聖ペトロをその面前で非難した聖パウロについてわれわれに告げている。
それは何かさほど重要でない事柄に関することではなく、むしろまさに信仰の本質に関することであった。聖ペトロは何ら異端的なことを言ったのではなくて、一つの誤った印象を引き起こしながら、あたかも一つの異端が真であるかのように行為したのである。明らかに聖ペトロはこのことを善意をもってしていた。しかし、にもかかわらず、彼は誤っていた。そして聖パウロは聖ペトロを正さなければならなかった。そして公に彼はそうしなければならなかったのである。
聖パウロが聖書において書いている教訓をわれわれが学ぶことができるように、少しばかりそのことを説明しよう。私がこれを読み、そしてこれを研究した最初はそれは私にとって驚きであった。それゆえ明らかにあなたたちのうちのある人々は聖パウロと聖ペトロのこの例によって憤慨するだろう。
しかし、その教訓は聖パウロがわれわれに告げているように、聖書のすべてはわれわれの学習のために、われわれの教授のために、そしてわれわれの慰めのために、霊感を受けてそこにあるということである。神は聖ペトロがこの誤りを犯すことを許された。それは、私が言ったように、善意をもって為された。彼は教会における平和を欲したためにそれをした。しかし、それにもかかわらず、それは誤りであった。
そのことの背景は何であったか?聖ペトロはエルサレムからアンチオキアへ下って行った。そしてそこで彼は、救われるためにはあなたたちは洗礼を受けると同様に割礼を受けなければならないと主張するキリスト者であるユダヤ化するグループを非難しなかった。
ところで、エルサレムの最初の公会議はすでに割礼は救いのために必要ではないということを決定していた。聖トマス・アクィナスはその『神学大全』の中で割礼を主張することは一つの背教の行為、信仰の否定の行為であるということを証明している。というのは、旧約聖書のあの秘跡は未来におけるキリストの到来を証言していたからである。
ひとたびキリストが到来されたらそのとき割礼はもはや必要ではなくなったのであり、そしてそれに固執することはイエズスがキリストであることを否定することであった。聖パウロは本能的にその危険を理解した。聖ペトロはユダヤ化する人々が正しいとは言わなかった。彼がしたことのすべては単に割礼を受けていないキリスト者たちとは会食しなかっただけである。こうすることによって彼は、モーセの律法が言ったように、彼らが清くないがゆえに彼らと会食することを彼が拒否しているという印象を与えたのである。
それゆえに、割礼を受けていない人と会食しないことによって、ユダヤ化するグループは他の人々にこう言うことができたのである。「見よ、あなたたちは誤っていて、私たちは正しい。」「教皇はわれわれと一致している。彼はあなたたちが割礼を受けていないがゆえに、清くないと考えている。それが彼があなたたちと会食しない理由である」。
しかしながら、ペトロはそうは言わなかった。しかし、にもかかわらず、彼の行為によって彼は、彼らが正しく、そして彼らの教義を広めていると考える異端を引き起こしたのである。そしてそれゆえに、聖パウロは信仰に対する危険を理解して、そして教皇の威信に反してすら、信仰は擁護されなければならないという彼の義務を理解して、公に語り、そして彼を非難したのであった。彼は聖ペトロに言った。「あなたは真理のうちに立っていない。」
それが、彼が遠慮なく声を上げたのは聖パウロが使徒であったからだということばかりでなくて、実際それは洗礼を受けた、男であれ女であれすべての平信徒の義務であるということを理解することがわれわれに取って重要である理由である。
平信徒でさえわれわれの祝せられた信仰を擁護しなければならない
われわれは429 A.D.に教会史におけるこのことのもう一つ別の例を持っている。エフェソにおける大主教であったネストリウスは満員の大聖堂の中で説教をしていた。その中で彼は祝せられたおとめマリアは神の母ではないと言った。
これは教会がその教義を決定する以前のことであったことを思い起こして頂きたい。大聖堂の中で立ち上がって、そしてネストリウス、会衆、そしてそこにいたすべての聖職者にこれは異端であると告げたのは大聖堂の中にいた司祭たちではなく、そこに居合わせた他の司教たちではなく、一人の平信徒であった。
その平信徒の主張が正当であると立証されたのはそれから2年後、431 A.D.年のことであった。彼の信仰の擁護はエフェソの公会議を開催する原因になった。その結果として、431 A.D.年10月11日に-それは1560年前のことであるが-聖母はエフェソ公会議の荘厳な決定によって真に神の母であると宣言されたのである。
そして聖ロベルト・ベラルミンについてもそうである。彼は単に聖人であるばかりでなく、教会博士でもある。彼はわれわれに、信仰が危機に瀕しているときには、一人の司教、あるいは一人の枢機卿、あるいは一人の教皇(彼は含めている)のうちからでさえ、その人は誰であろうと、公に非難されるとわれわれに告げている。
ところで、カトリック教会には列聖された数千人の聖人がいる。しかし、カトリック教会にはただ32人の博士しかいない。博士はまず第一に聖人である。しかし第二に彼はまた聖人たちの間で学問のある人でもある。そして彼の教説はそれが模範的であるということ、そして聖人たちの間においてさえ最も教訓的であるということを見るために二重に検討されてきたのである。
聖ロベルト・ベラルミンはそのような一人の人、そのような一人の聖人である。そして彼の特殊性は彼が教皇制の擁護者であり、教会が神によって建てられたものであることの彼の擁護のゆえに博士であるという点である。聖ベラルミンの例は、もしあなたたちのうちの誰かが「新たにされた」集会に出席したとすれば、今日教えられているものとは全く正反対のものである。「新たにされた」集会においては、例えば、あなたは、もし誰かある人が異端をとうとうと述べるならば、声をあげるべきではなく、彼を非難すべきではなく、親切な、友情にあふれた微笑みを維持することになっている、等々と告げられる。
これらの人々の多くは必ず善意をもって誤りに陥っている。われわれは彼らを敵あるいは悪意のある人と考えるべきではない。しかし、それにもかかわらず、特に、ファチマの第三の秘密が、信仰が内部から掘り崩されているがゆえに、われわれは危険な状態にあるということを告げているこの時期には真理は弁護され、そして信仰は擁護されなければならない。
第三の秘密は明かされなければならない
それが、聖母が第三の秘密が信徒たちに明かされるべきだと望まれた、そして今もなお望んでおられる理由である。あなたたちが多くの他の場所で告げられた嘘と違って、第三の秘密は教皇だけに宛てられたものではない。確かにそれは教皇に宛てられたものであるが、しかし彼だけに宛てられたのではない。それは全信徒に宛てられているのである。
私は、あなたたちのうちの多くの人々が1960年にはわれわれが第三の秘密の開示に対して持っていた期待を思い出すと確信している。その期待は、ファチマの司教が遅くとも1960年には、あるいはもしシスター・ルシアが死んだ場合にはそれ以前に明かすであろうとシスター・ルシアに荘厳に約束したがゆえに、根拠のないものではなかった。
そしてリスボンの総大司教・枢機卿は公式的に約束した。彼は、もしファチマの司教、ファチマの最初の司教ダ・シルヴァ司教が1960年以前に死んだら、彼が個人的にそれを見る、第三の秘密は信徒に明かされる、と公式に約束した。これは公式の記録に属する事柄である。それは歴史的事実の問題である。
ところで、フレール・ミッシェルはそのことを彼の書物の第3巻465-479ページに記録している。われわれが言っているほとんどすべてのことがわれわれの敵対者たちによって問題視されているので、あなたたちが参考文献を知ることは大切である。われわれはまたFatima Crusader Issue No. pages 18,19および39にこれらの多くの参考文献を挙げておいた。それゆえに、私はわれわれの信仰を擁護することの重要性のゆえに、第三の秘密の重要性を強調しなければならない。
われわれ各自は神がわれわれに与え給うた恩寵の程度に従って、われわれの能力、そしてわれわれの機会の程度に応じて、ファチマのメッセージによってばかりでなく、堅振におけるキリストの兵士としての、そして洗礼における神の子としてのまさにあなたの義務によって、カトリック信仰を擁護する荘厳な義務を持っている。
誰も同じ程度に信仰を理解するのではない。誰も同じ能力を持っているわけではないし、教えられる同じ機会を持っているわけではない。しかし、われわれすべてが知っている信仰についてのある基本的な事柄がある。
聖トマスはわれわれにこう告げている。使徒信条の条項はあからさまに信じられなければならない。もし誰かがそれらを否定するならば、たとえ彼が聖なる神学における博士であろうとも、使徒信条あるいはニケア信条において述べられたカトリック信仰のある条項を否定するならば、彼は非難されなければならない。そしてあなたは、彼がその誤りの中を歩み続けることに固執するならば彼と共に歩んではならない。
愛の使徒である聖ヨハネはローマの通りでマルキオンを悪魔の子として公に非難した人であった。それゆえ、もしあなたが神を愛し、そしてあなたがあなたの隣人を愛するならば、それはわれわれがつまらないものであるということを意味しない。それはわれわれが神を熱烈に愛し、そしてわれわれが神の意志に従ってわれわれの隣人を愛するということを意味する。
もしわれわれが善を愛するならば、そのときわれわれは悪を憎まなければならない。そのことは詩編44において我らの主について言われているように、善を愛することのまさに本性である。「あなたは正義を愛し、不正を憎まれました。神、あなたの神はあなたの同胞たちを越えて、あなたに塗油なさいました」。
そしてそれゆえ、悪を憎むことはキリスト者のしるしである。われわれは罪人を愛しなければならないが、しかしそれにもかかわらず罪を憎まなければならない。
信仰に反する異端と誤謬が撃退されなければならないのはなぜか?
異端は殺人よりも悪い。現在、われわれの時代にはそのことはいささか奇妙に、あるいは一つの誇張と響くかもしれない。しかし、それは完全に真である。そしてまさに正確に真である。というのは、殺人はただ身体を殺すだけである。それが悪いことは悪いのであり、私はそのことを全然軽視しようとは思わない。しかし、身体を殺すことは霊魂を殺すことあるいは霊魂を永遠にわたって地獄へと宣告することほどには悪くない。そしてそれが異端がすることである。
ひとたびある人が異端に陥るとき、もし彼がこのことを知りながらするならば、彼はすでに大罪を犯したということを、あなたは知っている。そしてたとえ彼がこのことを故意にしているのでないとしても、矯正されても、自らを正すことを拒むならば、そのとき彼は大罪に陥る。
ある人が信仰を失うとき、あなたは彼は無防備であると言ってもよい。というのは、罪人、大罪にある人(しかし、異端の罪に陥っていない人)は少なくとも自分自身のために祈る力を持っているからである。しかし、信仰を失う人は祈りをする信仰を欠いているゆえに自分自身のために祈ることができない。
そしてそれゆえ、聖母は彼らのために祈り、彼らのために犠牲をする人が誰もいないので、地獄に堕ちる多くの霊魂がいると言われるのである。彼らは彼らのために祈ってくれる人を持たない。そしてそれが、教皇ピオ十二世が指摘しているように(それは一つの大きな神秘である、しかしそれにもかかわらず真である)、救われる霊魂の数がカトリック者が神の恩寵とどのようによく協力するかということに依存している理由である。
それがファチマの聖母が罪人たちのために祈り、そして償いをするようにわれわれに願われた理由である。そして聖母がわれわれが重大な危険、われわれの信仰のこの危険に陥っているのをご覧になられるがゆえに、われわれに警告するために来られたのである。
われわれは今重大な危険に陥っている!
さて、私はこの危険は特に1960年に始まったということに言及することから話を始めた。われわれはどのようにしてこれがその年であるということを知ったのであろうか?よろしい、シスター・ルシアは「なぜ1960年にだけ秘密は明かされることになったのか?なぜそれを今明かさないのか?」と質問された。これはファチマ作家の一人、モンシニョル・バルタスが1946年にダ・シルヴァ司教のいる前で彼女にした質問であった。そして彼女は非常に興味のある答えをした。「そのときにはそれがいっそう明らかになっているでしょうから」。
1955年にオッタヴィアーニ枢機卿は第三の秘密についてシスター・ルシアに語った。そしてオッタヴィアーニ枢機卿は後で第三の秘密を読んだ。そして第三の秘密が一つの預言であるということを理解した。一つの預言がいっそう明らかになるということは、それが実現され始めるということ以外にはどう理解されるであろうか。そしてそれゆえ、第三の秘密は1960年に明かされ始めた一つの預言なのである。
われわれはまた同様に秘密のもう一方の別の終端を知っている。われわれがそれが止むということを知っている。それは聖母が「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう」と言われるときに、聖母の言葉が実現された時に終わるだろうということを知っている。そしてこのことはまだ起こっていないのである。われわれは1960年と聖母の勝利の時の間にいるのである。そしてそれゆえ、われわれの信仰が今掘り崩されているということを特に忠告されるということはわれわれにとってよいことである。
アロンゾ神父は沈黙した。その生涯の最後の16年間をファチマの公式記録保管者として過ごしたアロンゾ神父はシスター・ルシアと話す多くの機会を持った。彼の死の前に、彼はその著作のいくつかを公刊させることができた。しかし、彼の著作の大部分-それは14巻にもなるが-は今日まで公刊することを許されていない。しかし、フォックス神父のような異端者たちは異端的なことを書くことができ、それらを公刊することができる。そして誰もそれについて何もしないのである。
現在10年間にわたってアロンゾ神父の14巻の書物は葬られて来た。それらは教会当局によって公刊を許可されていない。われわれが繰り返し証明したように、シスター・ルシアが過去31年間にわたって沈黙させられてきたのと同じである。
アロンゾ神父は、彼が死ぬ前に、ある神学雑誌において一つの短い論文を発表した。その中で彼は、第三の秘密はわれわれの信仰に対する諸危険(ラッツィンガー枢機卿もまた完全に是認した一つの事実)に言及しているということを記録した。アロンゾ神父はさらに先へ進み、第三の秘密は今日の教会内部での背教の状態として高位聖職者の罪に言及していると言った。
ところでシスター・ルシアは過去に、彼女が別の時にいるときに、第三の秘密についての誤った理論を論駁するために呼び出された。シスター・ルシアは今日までいかなる仕方でも第三の秘密についてのアロンゾ神父の分析を決して否定したり、あるいは攻撃したことはなかったし、あるいは訂正しようとしたことはない。
実際、1970年代の彼女の手紙の中に書かれたものを読むならば(フレール・ミッシェルは彼の書物の中でさまざまの手紙を引用している)、われわれはアロンゾ神父がこの説をありもしないことからでっちあげたのではないということを見ることができる。シスター・ルシアは教会において大きな責任を持った人々でさえ感染している悪魔的な方向逸脱について語っている。彼女はこのことを一度ではなく、多くの異なった機会に言っている。(続く)