けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2014年02月15日 | Weblog

聖母は非常に悲しんでおられる
私たちは彼女を慰めなければならない(続き)

The Fatima Crusader Issue 53, 1996より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

聖ペトロと聖パウロの例

最も有名な事例は聖書そのものの中にあります。そこでは聖パウロがガラテアの人々に書きながら、彼自身と最初の教皇聖ペトロとの間に、アンティオキアにおいて起こったことを述べています。その例は、聖ペトロが最初の教皇として、決して異端を教えなかったのですが、しかしそれにもかかわらず、彼の行為によって異端を促進しましたから、説明に役立ちます。それはそのような言葉では、多分、あなたに示されてはいませんが、しかし、まったく正確な記述です。

そのとき聖ペトロと聖パウロとに何が起こったかを思い起こして見ましょう。

エルサレムの最初の公会議において、キリスト者、カトリック教徒は「割礼の律法」という言葉に要約されているようなモーセの儀礼上の律法に従う必要はないということが厳かに、誤り得ない仕方で決定されました。カトリック教徒は彼らがそう呼ばれていたような、ユダヤ化するグループが言ったように、救われるために割礼を受ける必要はありませんでした。使徒たちは紀元51年頃、最初の公会議を開催しました。彼らはそれを厳かに決定し、そして聖ペトロは最初の教皇としてそれを確認しました。

しかし、そのしばらく後に、聖ペトロがアンティオキアに行ったとき、そこには最初の公会議の教えを受け入れていなかったユダヤ化するグループの人々がまだいました。聖ペトロがそこへ行ったとき、彼は平和の人であり、騒ぎを起こすことを望まなかったので、それについて彼は何も言いませんでした。しかし、さらに、聖ペトロはただユダヤ人たちとだけ、あるいは割礼を受けた人々とだけ食事をしました。

聖ペトロは、救われるためにあなたは割礼を受けなければならないとは決して言いませんでした。しかし、彼がその行為によって為したことは誤った印象を引き起こすはずのものでした。あなたは教皇の任務がそのように影響を及ぼすものであり、そのように強力であって、教皇がすること、あるいはしないことでさえ、信仰に反してさえ、間違った印象を与えることができる、ということを見ます。この場合には、割礼を受けていない人々と食事をしないことによって、ユダヤ化するグループは言ったのです。「ご覧なさい、彼は私たちに同意しています。もしあなたたちが救われることを望むならば、あなたたちは割礼を受けなければなりません。それが彼があなたたちと交際しない理由です。というのは、もし彼があなたたちと交際したならば、モーセの律法は彼は汚れたものとなったと言うでしょうから。割礼を受けない人は皆汚れており、そして彼は自ら律法を破ることになるだろうからです。それが彼があなたたちと食事をしない理由です。」

ところで、聖ペトロが彼らと食事を共にしなかったのは単純に彼が対決をしたくなかったからだというのが最もありそうなことです。しかし、それはどうもよくないことでした。信仰は怠慢という教皇の行為によって危険にさらされました。聖パウロは立ち上がって、聖ペトロの面前で彼を公に非難しました。そしてここでの原理は何でしょうか?信仰が聖ペトロの沈黙によって危険に陥りました。そして聖パウロはそれを認めたのです。しかしながら、聖パウロは決してこう言いませんでした。「よろしい、あなたはよい教皇ではない。それで私はあなたを引き継ごう。私が教皇になろう。」あるいはまた彼はこうも言いませんでした。「あなたの座は今や空位である。あなたはもはや教皇ではない。」同様にまた聖パウロはただそこに座って、こう言ったのでもありません。「私は彼が間違っているのを知っている。しかし、私はそれについて何もするつもりはない。私はただ私の平和を維持するだけで、何もするつもりはない。」

聖パウロは抵抗しました。しかし、それは節度のある抵抗でした。彼は教皇を退位させませんでした。彼は、あたかも自分が教皇であるかのように教会に命令し始めながら、[教皇職を]引き継いだのではありません。しかし、彼は教皇が抵抗を受ける必要のある領域で抵抗しました。信仰が危険に陥りました。そして聖パウロは立ち上がって、そして信仰を明瞭に擁護しないことに対して教皇を公に非難しました。

教会史の中には他のいくつかの例があります。私は1111年から一つの例を挙げることにしましょう。これは稀な出来事ですが、1111年に教皇パスカル二世はすべての司教たちとすべての修道会上長たち、すなわちすべての修道院長たちに、辞表を提出するように命令しました。そしてなぜ彼は彼らが辞職することを望んだのでしょうか?X司教あるいはY司教が辞めるように求められるというそのようなことは信仰には反することではありません。

しかし、教皇がその命令を出したことの動機は何だったのでしょうか?その動機は彼が神聖ローマ帝国皇帝と平和のうちに生きることを望んだということ、そして皇帝は新しい司教たち - 彼の友人たち - を任命することを望んだということでした。そして1111年から1116年まですべての司教たちが一人の人間に対して従わず、抵抗しました。そして彼らは正しかったのです。なぜでしょうか?たとえそれが信仰の問題ではなかったとしても、教会が危険に陥っていたからです。もしすべての司教が皇帝によって任命されることになったとすれば - 明らかに皇帝は彼らを指名推薦したでしょうし、そして教皇は皇帝が望んだすべての人間に同意し、そして任命したでしょうが - 教会は国家の政策の道具となってしまうでしょう。教会はその超自然的な使命を失うでしょう。それは神がそれを取り去られるからではなく、事実、教会を管理する人間たちが何であれ世俗の支配者のアジェンダ[協議事項]に有利なものという見地から教会を管理することになるからです。

そしてそのように司教たちは抵抗しました。その結果、1116年に教皇パスカル二世は彼がその命令を与えた日を呪いました - そして彼はそれを取り下げました。しかし、それは司教たちからの抵抗の5年間を必要としました。不幸にして、今日私たちはたいていそのような司教たちを持っていません。むしろ、教皇が信仰を擁護しているときに、教皇に抵抗する司教たちの事例がもっと多くあります。

信仰が第一に来る!

私がここで強調したいことは第一の規則であり、そしてそのことは信仰は教皇の職務の基礎であるということです。信仰は司教の職務の基礎です。信仰は司祭の職務の基礎です。信仰なしには私たちは教会を持ちません。信仰なしには私たちは教皇の職務を持ちません。信仰なしには私たちは司祭あるいは司教の職務を持ちません。もし信仰を攻撃する教皇、あるいは司教あるいは司祭がいるとすればどうでしょうか。私は、それは一人の人間を身動きのとれない状態にするというふうに理解します。私たちは彼らが持っている職務のゆえに教皇、司教、司祭を尊敬しなければなりません。同時にこの職務を持っている人間が信仰を攻撃しているまさにその人なのです。

私たちはどうすればよいでしょうか?聖書は明快です。聖パウロがしたことをしなさい。エフェソの司教がマリアは神の母ではないという異端を宣言した紀元429年に平信徒がしたことをしなさい。司教座聖堂は司教たちと司祭たちでいっぱいでした。一人の単純な平信徒が立ち上がり、こう言いました。「それは異端です!」彼は教会を去りました。そして教会の半分が彼に従いました。紀元431年に、エフェソの公会議はまさに、一人の平信徒が教義の問題で彼の司教に抵抗したために召集されました。この教説を宣言した異端者であるネストリウスは公会議で破門され、そしてその平信徒は彼の抵抗のために擁護されました。

聖書は司教たちに警告している:悪しき司教たちよ、あなたの群を誤った教義から護りなさい

教会は諸々の例を持っています。教会史は神学の偉大な教師です。もしあなたが教会史と並んであなたの神学を知っているならば、それは非常に教訓的です。聖母は今日の危険は聖パウロが聖書において約2000年前に私たちの時代のために予言したことです、と私たちに告げておられます。聖パウロは司教たちに教えています(使徒行録 20:28-30)。「あなたがたは、自分自身に気をつけ、また、群れのすべてに心を配りなさい。聖霊は....神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者[司教]にお定めになったのです。....凶暴なおおかみがあなたがたの中に入り込んできて、群れを荒らす....また、あなたがた自身の中からも、よこしまなことをとなえ、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者が起こることでしょう。」このように、聖パウロはそれは聖職者そして司教たちから来るであろうと私たちに告げています。

司祭たちと司教たちは彼らが聖パウロの忠告を忘れるほどに合議制になるべきではありません。あなたたちの群れを見張りなさい。聖職者のうちのある者はよこしまな教義によって信徒を彼らの方に引き込もうとするでしょう。聖パウロは次のように言うとき、自分自身をさえ含めています。「たとえわたしたち自身であれ、天からの使いであれ、わたしたちが宣べ伝えたものと違ったことを福音として宣べ伝えるなら、その者にのろいがあるように。」(ガラテア 1:8)

カトリック信仰は守られなければならない

信仰は守られなければなりません。信仰なしには私たちは教会を持ちません。あなたは洗礼を授けられなければなりません。しかし、あなたはまた信仰を持たなければなりません。あなたは洗礼を受けることができます。そして信仰を失うことができます。そしてあなたは教会の外にいます。あなたは信仰を失ったことのために神によって破門されます。ひとたび異端者となると、あなたはもはや教会の成員ではありません。これは神人であるキリストが設立された教会における会員であることのまさに本性そのものによってそうです。そしてそのように信仰は私たちの救いの基礎です。

アタナシウス信条における聖アタナシウスの最初の言葉に注意を払いましょう。「救われることを望む者はとりわけカトリック信仰に全体として完全にすがりつかなければならない。」よい働きの前に、秘蹟の前に、他のすべてのものの前に、救われることを望む者はカトリック信仰に全体として完全にすがりつかなければなりません。信仰だけではあなたを救うために十分ではありません。しかし、信仰なしにはあなたは救われることができません。

聖母は、私たちの救いの基礎は掘り崩されているという驚くべき事実について、教皇が私たちに、彼女が私たちに警告しておられると告げているように、私たちに告げておられます。その基礎は何でしょうか?それは明らかにカトリック信仰です。それは掘り崩されています。フレール・サン・ミッシェルはその著『第三の秘密』の中で、それは不幸なことに、司教たち - 彼らのすべてではありませんが、しかし、彼らの多くの者 - 、そしてまた司祭たち、そして枢機卿たちによって掘り崩されているということを論証しています。これは無差別に司教たち、司祭たち、あるいは枢機卿たちを攻撃しているものではありません。むしろ私たちの優先順位をひたすら守りましょう。私たちの優先順位は何よりもまずすべてのものに対してカトリック信仰にすがりつくことです。聖ロベルト・ベラルミンは、もしそのようなことが起こるならば、教皇をさえ含めるでしょう。

あなたは信仰を擁護しなければならない

あなたの信仰はあなたの救いにとって根本的です。そして堅振の秘蹟によってあなたができる程度まで信仰を擁護する義務を持っています。聖ヨハネ・ヴィアンネーはかつてあるパーティに行くということである人を非難しました。そのパーティはその中間に一つの会を持っていましたが、しかしこの人は参加しませんでした。聖ヨハネ・ヴィアンネーがこの人を見たとき、彼はこう言いました。「告解に行きなさい。」その人はほんの数日前に行ったばかりですと言いました。聖人は「告解に行きなさい」と繰り返しました。「私は何かしたでしょうか?」そのひとは訊ねました。アルスの司祭は会があるこのパーティに自分はいたと答えました。しかしその人は言いました。「いいでしょう。私はそれを期待していませんでした。」司祭はうなづきました。「あなたが期待していなかったことは知っています。」その人は力説しました。「しかし、私は参加しませんでした。」そして司祭は答えました。「そのことも知っています。しかし、あなたは抵抗しなかった - そしてそのためにあなたは告解に行かなければならないのです。」

聖母はあなたが第三の秘密を知ることを望んでおられる

要約しますと、聖母は私たちが第三の秘密を知ること、少なくともそれについて私たちにできるかぎり知るようになることを望んでおられます。そして次ぎに、どの方面からも、信仰を擁護すること、私たち自身の信仰、そして私たちの周りの人々の信仰を擁護することを望んでおられます。同時に私たちは今日の時代に注意深くあるべきです。今日はアリウス派の異端の時代と非常によく似た何かあるものです。ニューマン枢機卿が指摘しているように、司教たちの約85パーセントがアリウス派であったこの時期の間、教導職の光は、彼らのアリウス派教義への積極的な固着によってではないとしても、少なくとも彼らの沈黙によって、しばらくの間非常に暗くなりました。聖ヒエロニムスは教会史のこの時期についてこう書いています。「教会は一夜カトリックとしてベッドに行き、翌朝アリウス派として起きた。」

アリウス派異端の時代に、教皇たちが明瞭に語らなかったために混乱させられた多くの人々がいました。少なくとも明瞭でない文書にサインすることへと誤り導かれた教皇さえいました。ですから、信徒たちは彼らが司牧者たちから与えられることができ、あるいは与えられるべき指導を与えられなかったのです。

それでも、私たちは誤りに落ちている人々、私たちの仲間のカトリック者たちに対して裁く者であるべきではありません。彼らは実質的異端[4]に陥っています。しかし、同時に私たちは教導職の光の暗くなる時代において裁く者でないように非常に注意深くなければなりません。私たちは、同時にカトリック信仰の諸真理を擁護する一方で愛徳を持つ者であるべきです。私たちは私たち自身よりも情報を少なくしか得られない人々について裁く者でないように努力しなければなりません。しかしながら、私たちの時代には、今は教会の外に出ているマッシュウ・フォックスのような、まったくよく知られた、そして真理を知っているべき何人かの大異端者たち、作家、そしていわゆる「神学者たち」がいます。フォックスは彼の著作から明らかな異端者です。そして彼は彼の立場に対する無知を主張することはできませんでした。彼は決して唯一の人間ではありません。しかし、もし私たちが、誤りに陥っているこれらの人々のうちの何人かは善意の持ち主であるということを信じる理由をもっているならば、私たちは愛徳において彼らの意図について判断を差し控えなければなりません。それにもかかわらず、信仰はなお、たとえ誤りに陥っている人が真摯であるとしても、機会が要求するように明瞭にそして力強く擁護されなければなりません。

彼女の秘密が公式に明らかにされていないから....

聖母は特に、彼女の秘密が明らかにされなかったので悲しんでおられます。そしてその明らかにされないことがそのように多くの霊魂の喪失という悲劇の原因であるということ - というのは彼らは信仰を失ったからです - を悲しんでおられます。彼女は、彼らを救うための最善の努力にもかかわらず、これらの哀れな霊魂が永遠に失われたので、非常に悲しんでおられます。同じ原因のためにもっと多くの霊魂が失われるという過程は今なお続いています。このように、もし私たちが彼女を慰めたいと思うならば、私たちは私たちの周りの信仰の浸食に抵抗する私たちの役割を果たすべきです。そして聖ベラルミンが言うように、私たちは、それが教皇たち、司教たちそして司祭たちに来るときでさえ、抵抗する義務を持っています。単にそれに巻き込まれないだけでなく、抵抗する義務を持っています。聖人たちは私たちに抵抗のための規則を与えました。

私はあなたたちに、「私たちは自分たち自身の公会議によって教皇をたった今退位させました」とあなたたちに告げる教皇座を空位にする人々(Sedevacantists)の道を取らないように警告します。自分自身を教皇として選ばせた合衆国の一人の男について聞いたことがあります。彼の母親は彼と他の三人のカトリックの人々 - 彼らの考えによれば、彼らは全教会に残された唯一のカトリック者です - と共にコンクラーヴェにいました。この自己宣言をした教皇は自らを「教皇マイケル一世」と呼んでいます。現在約5ないし6人の反教皇がいます。私はあなたがあなた自身の教皇制を始めることを推奨しません。私が言っていることは、私たちはそれでもやはり、いかなる方面からの信仰の浸食にも抵抗しなければならないということです。

聖母のメッセージを知らせなさい

これが聖母が第三の秘密において私たちに警告しておられることです。そしてこれが教皇ヨハネ・パウロ二世が聖母がこうおっしゃっていると私たちに告げていることです。「彼女が聖霊において培われた愛のすべての力をもった、そしてすべての人の救いに対する望みをもった御母、その御母は彼女の子どもたちの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されるのをご覧になって沈黙したままでいることがお出来になるであろうか?いいえ、彼女は沈黙したままでいることはお出来にならない。」あなたたちもまた沈黙したままでいるべきではありません。聖母を慰める単純な方法は償いの行いをすること、5回の初土曜日[の信心]を実行すること、そして罪人たちのために私たちの祈りと犠牲を捧げることです。聖母を慰めるために私たちはまた私たち自身を知らせることです。明らかに彼女は私たちに一つのメッセージを与えるために[天から]降られました。彼女はこのメッセージが何であるかを見出すように私たちに望んでおられます。それに注意を払うことを望んでおられます。

ファチマを軽んじてはいけない

フエンテス神父とのインタビューの中で、シスター・ルシアは知られた真理に抵抗することは聖霊に反する罪であるということを指摘しています。ファチマの御出現がそのような公的な奇跡によって、そしてそのようにずっと以前から為された多くの預言によって確証され、そして今多くの預言がすでに実現されたとき、聖母のメッセージに注意を払わないことは重大な結果を伴う重大な誤りです。このことは私の著書『世界の奴隷化か、それとも平和か』の中で説明されています。そこで私はファチマの聖母に従う教会の義務について話しています。私が教会と言うとき、私は教皇と司教たちを含めています。そこには聖パウロが私たちに告げている一つの義務があります。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」(1テサ 5:19-22)教会は一つの預言的メッセージを与えられました。教会によって確証されたメッセージを簡単に退け、「私たちはそれに注意を払わなくてもよい、それは私的啓示である、そして私たちはそれによって縛られていない」と言うことは霊の火を消し、預言を軽んじることです。

私はそれが、不幸なことに、今日教会におけるすべての問題が、少なくとも霊的なレベルにおいて、全部一つの事柄に基づいている理由です。すべては一つの事柄から来ています。教会のこの二十世紀の世代は、全体的に見て、ファチマの聖母の預言を無視し、軽んじてきました。私たちが、典礼、教義、道徳あるいはカテケージスに関して混沌のうちにあるにしろ、悪しき枢機卿たち、司教たち、あるいは司祭たちに苦しむにしろ、私たちは皆一つの共通の根に、霊的に言えば、ファチマの聖母のメッセージを軽んじていることに、帰着します。

完全なファチマ・メッセージを促進しなさい

ですから、私たち自身のやり方で、ファチマの聖母の完全なメッセージを促進することは私たちの義務です。フレール・サン・ミッシェルが先に挙げた彼の書物の中で指摘しているように、彼女のメッセージは1960年以来公に軽んじられてきました。少なくとも私たちは、私たちが彼女のメッセージを軽んじ、このようにして彼女の人格に傷をつけることにくみしないことによって私たちにできる程度に私たちの役割を果たすことができます。私たちは少なくとも聖母のメッセージを知らせるために私たちの役割を果たし、それを知らせ、そして私たち自身によって、そして私たちの周りの人々によってそれを生きるようにさせることができます。

脚注:

[1] この点に関して完全に確信を得るためには、Iota Unum という書物を読みなさい。

[2] 『明らかにされたファチマの秘密』、p.32

[3] この論考のコピーは$1.00 P&H で入手可能、あるいはWeb siteから無料で入手可能。

[4] 実質的異端は誤った教義あるいは真の教義の誤った解釈を無意識のうちに主張する行為です。


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