けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2014年02月02日 | Weblog

「それが知られるようにしなさい」(2)

The Fatima Crusader, Issue 39 Winter 1992より

ニコラウス・グルーナー神父


聖ヨハネ・グアルベルトは公表する

7月12日が祝日である聖ヨハネ・グアルベルトは当時の教皇にフィレンツェの大司教がその職を買うことによって、すなわち、聖職売買によって得たということを告げようと努力した。教皇は、その時代の他の聖人、聖ペトルス・ダミアヌスがそうしたように、彼の言うことを聴いた。しかし、彼らは確信するに至らなかった。

それゆえ、聖ヨハネ・グアルベルトはヴァロンブローザ(私はイタリアで勉強しているときにそこを訪ねた)へと戻り、彼が言っていることが真実であるということを証明するための一つの奇跡をはたらくという神からの一つの特別の霊感をそこで受けた。それはあなたがあなたの霊感に確信をもたない限り確かに企てるはずのない、最も劇的な奇跡であった。

聖ヨハネ・グアルベルトは一つの大きな火を起こさせた。彼は町の人々すべてに来て、そして神が彼とフィレンツェの大司教の間を証言なさるのを目撃し、そして誰が正しいかを見るようにと呼び集めた。彼は人間が注意を払わないので彼の証人として神を呼び求めたのである。

聖ヨハネ・グアルベルトはフィレンツェの大司教は彼が持っていた高い職務に値しないというすべての人々に対する積極的な公の証明を約束した。彼は彼と悪しき大司教との間を判断なさるように神に呼びかけた。彼は彼の修道士たちの一人を彼が正しいという証明として、さもなければ確実な死から守るという奇跡を働いてくださるよう神に願った。

そしてそのようにこの火が起こされ、準備ができ、そして町の人々が集められたとき、聖ヨハネ・グアルベルトは兄弟聖イグナティウスに聖なる従順の下に、火を通って歩くように命じた。

今や神は巨大な篝火を通り抜けるこの人に奇跡を働かれた。彼はもし神が彼を守られなかったならば、明らかに死んでいたであろう。彼は反対側に傷を負わず、焼かれもせずに出て来た。そして人々は神が彼らに与えられたこの証言の前に彼らの義務を理解した。彼らは疑いのどんな影をも越えて、大司教が司教に任命されるために賄賂を使った悪い人間であるということを知った。

今やその大司教を町から追放することが彼らの義務であった。それが彼らがその同じ日に行なったことであった。

そしてそれゆえ、あなたたちに第三の秘密は重要ではない、あるいはそれはあなたたちに知らせるように宛てられたものではない、あるいはそれらの事柄についてあなたが為し得ることは何もないと告げる人々のために、聖ヨハネ・グアルベルトの時代のフィレンツェの人々が一人の悪い羊飼いから教会とフィレンツェの教区を救うために呼び出されたということを理解してほしい。

今日の教会にとっての危険は約千年前のフィレンツェの教区に降りかかったことよりもはるかに劇的であり、はるかに悪い。それが、まず何よりも危険が存在するということを理解することがわれわれにとってなお重要である理由である。われわれが危険に気づかないならば、われわれは何もしないであろう。そして第二に、われわれがすることが何もないとわれわれが考えるならば、われわれは何もしないであろう。明らかに、もし聖母がわれわれにとってすることが何もないと考えられたのならば、聖母はわれわれの信仰が危険に陥っている、そしてその危険はカトリック教会の内部から来ているということをわれわれに告げようとなさらなかったであろう。

第三の秘密は聖職階級を非難している

もしあなたたちがなぜ第三の秘密が明かされないのか、なぜシスター・ルシアが31年間にわたって沈黙させられているのか、なぜアロンゾ神父の14巻の書物が公刊を禁じられているのか、を知りたいのならば、それは第三の秘密が今日の聖職階級の多くの者の現在の方向を非難しているからである。そしてもしあなたたちがファチマの聖母があなたたちがそうすることを望まれなかったということを知ったならば、聖職階級に同調しないからであろう。それがわれわれにとってまず何よりも祈りと犠牲において聖母と我らの主へと立ち戻ることがなぜ緊急であるかの理由である。

聖ペトロが牢獄にいたとき、あなたたちが使徒行伝のうちに読むように、全教会は日夜彼のために祈った。そしてそれゆえ、神は天使を送って彼の足かせから彼を救われた。彼は一日二十四時間二人あるいは四人の看守の間にはさまれて手錠をかけられ、また足かせをはめられていた。これは人間にとって逃亡不可能な状況である。にもかかわらず、神は聖ペトロを解放された。

教皇と教会は教会の初期の時代、ヘロデの時代における聖ペトロのように、言ってみれば足かせをはめられている。そして聖母がわれわれにするように求めておられることは教皇のために祈り、犠牲をすることである。

例えばフレール・ミッシェルの書物の中で、第三の秘密を読むと、彼は三人の子どもの大きな犠牲を指摘してる。ちょうど7歳であったジャシンタがそのいとこと兄弟と共に8月13日に誘拐され、死の脅しの下に一般の犯罪者と一緒に牢獄に閉じこめられたことを考えてみなさい。彼女は泣き始めた。彼女は、死にそうになったからではなく、母親をもう見ることができないだろうから、泣いたのである。

彼女を慰めるために、シスター・ルシアは彼女がジャシンタに大いに興味があることを知っていたあるものでもって気を紛らわせようと努めた。彼女はこう言った。「私たちはこのことを犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを罪人たちのための犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを聖母の汚れなき御心に対する償いにおいて捧げることができるでしょう。私たちはそれを教皇のために捧げることができるでしょう」。ジャシンタが彼女の犠牲をどの意向のために捧げるかを尋ねられて、彼女が「私はそれをそれらのすべてのために捧げます」と答えたということに注目することは興味のあることである。ジャシンタは教皇についての二つの幻視をした。彼女はこれら二つの幻視を見た唯一人の人間であった。

一つは「飢えのために泣いているそして食べるものを何も持っていない人々でいっぱいの道路と野原。そして無原罪の聖母の前で祈っている教会における教皇。そして彼と共に祈っている大勢の人々」の幻視であった(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 716を見よ)。

そして別の時にジャシンタはこう言った。「私は両手のなかに頭を埋め、テーブルの側に跪いて、泣いている、非常に大きな家にいる教皇を見ました。家の外には多くの人々がいました。彼らのうちのある者は石を投げ、他の者は彼を呪い、汚い言葉を使っていました。かわいそうな教皇、私たちは彼のために大いに祈らなければなりません」(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 715を見よ)。

教皇についてのこれらの幻視はジャシンタに永続的な印象を与えた。ジャシンタは繰り返し教皇のために祈る必要を強調し、そして繰り返し繰り返し彼女自身そうすることを約束した。彼女は教皇のために多くの祈り、苦しみ、犠牲を捧げた(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 717-720を見よ)。

教皇はファチマのメッセージにおいて初めから終わりまで、特に第二の秘密おいて、そして明らかに第三の秘密において、取り上げられていると言ってもよいだろう。最終的にはすべては教皇にかかっている。それは非常に大きな責任である。それはいかなる人の手段をも越えた一つの責任である。彼の名前が何であれ、彼が教皇ピオ十一世であれ、教皇ピオ十二世であれ、教皇パウロ六世であれ、教皇ヨハネ・パウロ二世であれ、そうである。

それにもかかわらず、神は彼にこの巨大な責任を果たすことを期待されるのである。

奉献は紅海の奇跡のようなものではない。旧約における神の民の偉大な指導者を考えてみよ。モーセのことを考えてみよ。彼はファラオに民を神を礼拝するために行かせるように確信させたがその後に、ファラオは心を変えて彼らに対して彼の軍隊を送った。そしてそれゆえ、彼らは砂漠を出て、逃れる場所がなかった。彼らの前には紅海が横たわり、そして背後には彼らを殺す準備を整えて彼らに襲いかかろうとするエジプト軍がいる。神の民は鎧甲もなく、武器も持たずに、行く所がない。

神は紅海がどこにあるかを忘れておられなかった。また神はファラオの気が変わり、彼らを攻撃するために出発したということを忘れ、あるいは理解されなかったのでもない。しかし、むしろ、神はそれからより大きな善を引き出すために、言ってみれば彼らの歴史のこの頂点へと彼らをもたらされたのである。単にモーセの権威を再び言明するためばかりでなく、洗礼のシンボルや他の多くの事柄をわれわれに与えるためにである。

神はモーセの側での従順と信仰の行為を求められた。そしてこの従順の行為は人間的な知恵の光に照らせば非常に賢明であるとは思われなかった。(結局、神がもし語られなかったならば、彼らにとって逃げる、あるいは隠れる、あるいは散り散りになることがより賢明であったろう)。彼らは彼らの生き残りをモーセを通しての解放に依存するように求められたのである。

そしてモーセは信仰と従順のこの行為を求められた。モーセは彼が告げられたことをした。彼は紅海の上に彼の腕を伸ばした。そうすると海が開け、彼らは救われた。そして、歴史において実際に起こったその光景はわれわれが今日がおかれている現実のシンボルである。

新約聖書における神の民は、彼らがそのことを理解していようといまいと、取り囲まれている。そして彼らは大虐殺へと定められている。そしてわれわれは、教皇が最終的にロシアを奉献するというこの命令に従うとき、神のより偉大でさえある行為によって救われるであろう。

シスター・ルシアが説明したように、「聖母は何度も私自身に、そしてジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわれわれがその前にそのかわいそうな民の回心を獲得していないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具である、ということを告げられました。」

懲罰の道具を用いる神という観念に驚く人々のために、私はエレミヤの時代に言及しよう。エレミヤはエルサレムの聖なる都は捕囚において取り去られる、これら悪しき異教徒であるバビロニア人がエルサレムに対する戦闘において勝利するであろうと予言した。

ところで、その当時エルサレムに住んでいた人、ダヴィデとその子孫への約束を知っていた人にとって、預言者エレミヤによるそのような予言は異端と思われた。それはメシアの到来の約束、そしてエルサレムの都への約束と調和させることは不可能だと思われた。

ある人々は信仰を自分たちは知っていると考えるその無知において、エレミヤが言わなければならなかったことを拒否した。

彼らはそれを拒否し、その結果彼らは肉体的な危険に陥った。彼らは虐殺され、また補囚へと連れ去られた。神は預言者たちを通じて、神が神の民を彼らの罪のゆえに罰するためにバビロンを用いたと説明された。

ファチマはロシアが世界を再び奴隷化すると予言している。これは今日のカトリック教会の光景である。全世界が悪魔的な共産主義に従属するということは、我らの主が「世の終わりまでのすべての日を通じて」その教会と共にいる、と約束されたのだから、不可能であると考える考えるカトリック者がいる。

聖母は共産主義には言及されなかった。聖母はロシアの誤謬に言及された。そしてロシアは全世界の懲罰の道具であろうということに言及された。

1946年にアメリカの作家で歴史の教授であるウィリアム・トマス・ウォルシュはシスター・ルシアにインタビューした。そして彼は彼女にこう尋ねた。「われわれは今日預言のどの段階にいるのですか?」そして彼女はこう答えた。「私たちはロシアがその誤謬を全世界に広めつつある段階にいます」。彼は彼女に尋ねた。「それはロシアが世界中のあらゆる国を征服するという意味ですか?」そして彼女は言った。「そうです。」ウォルシュ教授は彼女がその質問を理解しなかったと考えたので、彼女に対する質問の言葉を換えて、今度はこう言った。「そしてそのことはアメリカ合衆国を含みますか?」そして彼女は言った。「そうです。」

それゆえ、われわれにとって、あなたたちが、テレビ・セットをつけ、あるいは新聞を読む時に得ているいわゆるニュース(もっと正確に言えば誤った情報)は常に真理であるのではないということを理解することはよいことである。まず何よりもわれわれにロシアは回心しつつあると告げる教会内部の人々に対して答えるために、われわれはゴルバチョフが全国的なテレビにおいて自分は無神論者であると語ったということを指摘する。彼はこのことを、私がもっと正確には「クークークー」と呼ぶであろういわゆる「クーデタ」の後で言った。

ロシアは回心しつつあるのではなくて堕落しつつある

ゴルバチョフ氏はこの国[アメリカ]から来た一人のカトリック司祭から、あなたの宗教的信条は何であるかと尋ねられた。そして彼はこう答えた。「私は自分が無神論者であることを一度も隠したことはない」。そして、ボリス・エリツィンは同じことを主張した。しかし、自分は少しばかり迷信家であるので、それでときどき教会に行くと言った。

迷信は信仰ではない。ロシアの回心は存在しない。キリスト者であるロシア人がいないとは言っていない。私はすべての男も女も最後のロシア人にいたるまで一人のよいカトリックのロシア人もいないということを示唆しているのではない。しかし、ロシアの国は回心していない。

さらに、われわれの「ファチマ・クルーセイダー」36においてわれわれが指摘したように、1989年以来起こってきた諸変化は堕落であって、回心ではない。ジョン・コッターは彼の論文の中で、「ニューヨーク・タイムズ」、「トロント・サン」、「ザ・グローブ・アンド・メイル」や他の信用のある新聞(世間によれば)から引用している。そしてロシアにおいて起こっていることはロシアの人々の道徳のより大きな堕落であると指摘している。

そして単にロシアにおいてばかりでなく、ポーランドにおいても、ハンガリーにおいても、その他の国々においても同じことである。

いわゆる小屋共産主義を持つこれらの国々は実際、それ以来プレイボーイ誌、セックス・ショップ等々の輸入を増やした。それゆえ、もしわれわれがただプロパガンダを単に聴いているならば、十分容易にそうなるように、われわれの精神において誤って解釈しないようにしよう。実際、ロシアにおける諸変化はロシア社会のある局面をより西欧社会に似たものとしている。すなわち、それらは西欧が世界中に促進した堕落と腐敗によりいっそう似ているのである。

私がジョンの論文から取り除かなければならなかった事柄がある。それはそれらが真実ではないからではなく、私の雑誌は成人によってばかりでなく、子どもたちによっても読まれているからであり、また私は彼の議論にすべて賛同することができなかったからである。しかし、それは圧倒的なものである。彼が提供している証拠はロシアにおける諸変化がそこの人々のより大きな堕落を生み出したということを証明している。

今日ロシアは戦争の準備を加速させている。

彼らが決して語らない、あるいはたとえそれについて彼らが語るとしても、あなたたちが実際に姿を得ることができないような奇妙な仕方においてである何かがあるということに注意することはあなたたちにとって興味のあることである。それは少なくとも彼らのある人にとって一つの真の試金石である。われわれがほとんど提供することができない穀物や食料(われわれの食料貯蔵水準はこの十数年最低の水準である)でロシアの人々を養うことに突進しているのに、ロシアの人々は、彼らの指導者たちを通じて、彼らの経済資源のますます多くのものを軍事支出に費やし続けている。

彼らは6週ごとに一隻の原子力潜水艦を建造した。そして彼らはその生産を今年、昨年そして一昨年と維持した。もし私の間違いでなければ、一隻の原潜は数百万ドルかかると思う。

彼らは合衆国が費やす2倍の金額を費やしている。そして彼らは軍事支出に彼らの国民総生産のほぼ40%近くを費やしている。われわれが軍縮をしている間に彼らは再軍備をし、そして彼らの軍事力を近代化している。

彼らは戦争の準備をしているのである。そしてすでに彼らは、メディアが言うのとは反対に、あなたたちが告げられているのとは反対に、6倍から8倍強力である。現在の合衆国よりも6倍から8倍強力である。そして彼らは彼らの支出を倍加し、そして再倍加している。

彼らは愚かにそうしているのではない。合衆国はその金のほとんどを開発に費やしている。合衆国は約30%を賃金に使っている(私は兵隊たちに対して文句を言っているのではない)。一方、ロシア人たちは彼らの給料がはるかに低いので賃金に約10%しか使っていない。

しかし、第二に、アメリカ合衆国は研究と開発に費やしている。そのほとんどは決して展開されなかった。

ロシア人たちは苦にしない。彼らが自分たち自身で開発しないものを、彼らは西側から盗む。あるいはわれわれが彼らに与える。そしてそのとき彼らは複製し、大量生産する。

ところで、あなたたちが質問したこれらの事実、明らかにあなたたちは多くの嘘を告げられてきたが、一人の人間があなたに反対のことを告げていると信じることは難しい。私は、われわれが数年前に「クルーセイダー」においてそれらを公にしたように、あなたたちに参考文献を示すことができる。私はもっと多くの資料をあなたたちに示すことができる。

しかし、あなたはすべてあなた自身で、ロシア人たちの経済的なバスケットケースについて語っているすべてのこれらの事柄のうちに一生懸命に見ることさえなしに注意することができる。そしてわれわれがいかに彼らを援助しなければならないか、あなたにほとんど何のデータも与えられていないということを見出すであろう。この知識はまったく公のものである。それは隠されてでもいるかのようなものではない。それはこれらの新聞に利用できないものではない。それはまったく利用可能である。そしてあなたはそれをまったく容易に得ることができる。しかし、それは一般公衆に公開されているのではない。そのことが欺瞞の一部である。

私は軍事科学はまったく魅力的なものであると思う。私は数年前にそれに関して読み始めた。というのは、人々が私にロシアは回心しつつある、事態は良好である、等々と告げようとしたからである。しかし、聖母の言葉を知って、私はこれはそうであることができないと言った。そしてそれゆえ、私が世間がわれわれに提供するいわゆる事実を掘り返し始めたとき、私がそれらは嘘であることがわかった。

例えば、彼らがわれわれに、ゴルバチョフ氏は平和の人であると告げていたとき、彼がニコライ・オガルコフという名によって一人の人物をソヴィエト連邦において可能な最高の官職へと昇進させたということを知ることは興味のあることである。ニコライ・オガルコフは1982年に「祖国の防衛」という婉曲的に表題をつけられた小さなパンフレットを著した人物である。そしてその中で、彼はわれわれに、世界を打倒するための「プランB」を持っていると語っている。

私はそのプランをあなたたちに非常に簡単に概略しよう。ある晴れた日、何の挑発もなしに、彼は全開核攻撃を、告知なし、挑発なしに、要求する。その中で彼は1億3500万人のアメリカ人が戦闘の最初の30分間で死ぬだろうと見積もっている。すなわち、それは何らかの報復のための機会がある以前にということである。

そしてそれが、ほかでもないミハイル・ゴルバチョフがソヴィエト連邦における可能な最高の地位へと昇進させた人物である。それゆえ、ゴルバチョフのわれわれとの平和なんてまあそのようなものなのである。

われわれがロシアについてのこれらの事実や姿を信じようが信じまいが、重要なことはファチマの聖母がわれわれに告げておられることである。聖母はわれわれに、ロシアはわれわれがそのかわいそうな民族の回心を手にすることができないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具であろうと告げられている。ところで、聖母はロシアの民主化を手にするとは言われなかった。聖母は回心について語られた。それは一つのこと、悪魔的な共産主義あるいは無神論からの回心、そしてカトリック信仰への回心を意味する。

教皇ヨハネ・パウロ二世は知っておられる

例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世は、今年ファチマに来られたときに、他の形式の無神論によって取って代わられたマルキシズムの危険について語られた。彼はそのことを1991年5月13日にファチマで言われた。教皇はロシアの回心が起こらなかったということは知っているということを公に間接的に認められたのである。教皇は彼が実際に言っている事柄のメッセージを受け取るに十分鋭い人々に告げるためにやや隠された仕方でお話しされなければならなかった。明らかに彼は公然と話すほどに十分に自由であるとは感じておられない。

ロシアの回心は一つの事柄を意味する。すなわち、それは単にロシアにおける2億の人々ばかりでなく、また同様に社会的諸制度もまたカトリック信仰に回心するだろうということである。国家が、公的な諸当局が、彼らの法律と制度がキリストの律法を反映しているということはまだ起こっていない。

もしわれわれがロシアの回心を手にすることがないならば、そのときわれわれはなお、われわれの方へと向けられた彼らのミサイルによって(今日までわれわれがそうであるように)脅威を受けるのである。われわれがここ[アメリカ]に持っているあらゆるサイロに対して、彼らはその一つのサイロに向けられた3発のミサイルを持っている。

聖母はわれわれに解決を与えておられる。しかしわれわれはこの解決が一つであり、そしてたった一つであるということを理解しなければならない。第二の解決あるいは二者択一の解決は存在しない。 われわれはあのかわいそうな民族の回心を手にしなければならないのである。

他の選択は存在しない

われわれはどのようにしてロシアの回心を手にするのか?確かに、われわれは、少なくともミサの終わりのロシアの回心のための祈りがなお必要であるということを理解しているあの司祭たちによってわれわれがミサの終わりにそうするように、祈ることはよいことである。家庭での、教会での、等々でのわれわれ自身のロザリオにおいてロシアの回心のために祈りなさい。確かに、祈りは最も効果的である。しかし、究極的に、そして最終的にロシアの回心はただ一つの仕方でみ起こるだろう。それは聖母がわれわれに与えられた手段、道具によって起こるであろう。

あなたたち誰もがある人に手紙を書いたことがきっとあると思う。あなたは聡明であるかもしれない、あなたは非常に文才があるかもしれない、等々。しかしあなたたちのうちの誰一人、それがタイプライターであれ、あるいはコンピューターであれ、ペンであれ、鉛筆であれ、書く道具なしには書くことができない。まさにわれわれの本性によってわれわれは制限されており、われわれは書くための道具に依存しているのである。

ある道具なしにはわれわれは書くことができない。そして聖母がロシアの回心のためにわれわれに与えらえる道具なしには、われわれはロシアの回心を手にすることはできない。この道具は一つであり、そしてただ一つである。われわれは、聖母が検証された奇跡と預言によって言われることを聖母がわれわれに告げ、確証されるということを知っている。

そして、それなしにはわれわれがロシアの回心を手にすることができないその道具は何であるのか?その道具は神がモーセに与え給うた道具、彼の腕を紅海の上に伸べるという命令に似た何かあるものである。ロシアの回心の場合における道具は特殊化された事柄におけるロシアの奉献である。

  ある人々は、不幸なことに司祭たちすら、これはまじないあるいは魔術あるいは何かそのようなもののように響くと指摘した。そのように聖なる事柄についてそのように語ることは冒涜あるいはそれに近いことである。それは確かに魔術ではないしまじないでもない。

そう言うことについての神学的背景をあなたたちに示したいと思う。まず第一に、聖アウグスチヌスはわれわれに、神はわれわれがそれに値しないことを御存知であるとしても、神がわれわれに与えることを望み給うある種の特別な計らいがある、と説明している。神は、それにもかかわらず、われわれに対する大いなる愛とその憐れみにおいてわれわれにこれらの恵みを与えることを望まれる。しかし、神はわれわれが高慢になり、われわれが幾分それに値すると考えるであろうということを知っておられるがゆえに、これらの恵みを諸聖人の功績と取りなしに取って置かれる。

そしてそれゆえ、世界平和の恵み、ロシアの回心の恵みは祝福されたおとめマリアに、その取り次ぎに、その功績に取って置かれた。われわれはマリアの汚れなき御心を通じて以外にはロシアの回心を手にすることはないであろう。

真の平和はただ聖母を通じて

われわれはファチマのメッセージを通じて、世界の平和とロシアの回心はマリアの汚れなき御心に委ねられたということを告げられている。そのことはそれが他の誰にも委ねられなかったということを意味している。そのことは、神御自身はマリアの汚れなき御心を通じて以外にはロシアを回心させることを望まれない、世界の平和をもたらすことを望まれないということを意味する。

もちろん、このことは神がそれをお出来にならないということを示唆しない。神御自身は神の意志をこの仕方で宣言されたということであり、そして神はその決心を変えようとはなさらないということを示唆している。それが、聖母がご自分のことについて三人称で語られるときに、「ただロザリオの聖母だけがあなたたちを救うことができる」と言われる理由である。

聖母はファチマに御出現になった。そして三ヶ月後に御自身をロザリオの聖母と同一視された。そしてそれゆえ、神はこの恩寵がただ聖母を通じてのみわれわれに与えられることを望まれたのである。さらに、神は聖母が称賛を受けることを望まれる。神は聖母が御自身でそうなさることを望まれない。神はそれはただ聖母を通じてのみであるということを世界が認めることを望まれる。

ところで、なぜ神はそうされることを望まれるのであろうか?神はいくつかの理由でそうされることを望まれる。まず第一に、われわれはファチマのメッセージにおいて、7月13日に子どもたちに地獄の幻視を示された後に、聖母が「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。神が世界に私の汚れなき御心への奉献を確立しようと望まれるのは彼らを救うためです」と言われた、ということを告げられている。

そしてそれゆえ、神は聖母が称賛を受けることを望んでおられるのである。神は人々が、聖母の功績とその取り次ぎの力を認め、その結果われわれが聖母に献身するように、この時期にわれわれの最善の者でさえますますそうであるように、望んでおられるのである。

神はロシアの回心のこの劇的な瞬間、歴史のこの絶頂の瞬間を、マリアの汚れなき御心に属すべきものと見られるために、留保されたのである。それが、神がロシアの回心を従順のこの行為、教皇と司教たちによる奉献のこの行為に留保された理由である。それは一つの荘厳なそして公の行為でなければならない。

いかなる奉献がなされなければならないのか?

ある人は私に、教皇がある日、彼のチャペルの私室でそれをしたということを告げようとした。私は彼がそのチャペルの私室で何かあることをすることを非常に喜ぶが、しかし、それは確かにファチマの聖母が求められたことではない。それは一つの荘厳な公の行為でなければならない。それゆえに、それは聖なることで、またよいことであると私は確信しているけれども、そのチャペルにおけるどんな私的な行為もファチマの聖母の要求を満たすものではないのである。それはもっぱらロシアだけでなければならない。

さて、ある人々は再び、余りにも細かいくだらない区別だてあるいは律法尊重主義あるいは彼らがわれわれを告発したい何であれあるものという点でわれわれを非難するであろう。しかし、一般的な奉献と特殊的な奉献との間には非常に大きな相違がある。

まず第一に奉献とは何であるか?

何かあるものを奉献するということはそれを取って置くこと、それをもっぱら神への奉仕のために捧げることである。それは奉献されていないものから区別される。それゆえ、ある特別の国を奉献するためには、われわれはそれを名を挙げて奉献しなければならない。世界を神への奉仕のために取って置くことは特殊的な奉献の行為をすることではない。(続く)