けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2014年02月16日 | Weblog

聖母はその勝利のために私たちの従順をまだ待っておられる

The Fatima Crusader Issue 42, Autumn 1992より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

以下の論考は司教平和会議のための準備としてニコラス・グルーナー神父によって為された最近の講演の写しに基づいています。
北アメリカからシカゴに集まった多くの関心を持ったカトリック司祭および平信徒に対して、グルーナー神父は彼らの質問に答え、教会と世界を取り囲む重大なそして緊急の諸問題への唯一の真の長期的な解決のための概略を与えました。

ある人々は私たちに、私たちは聖母に帰せられる平和の時期をすでに持っていると告げようとしています。しかしそれほど真理から遠いものはあり得ないでしょう。私たちのうちの誰一人、それが私たちに与えられるときに私たちは個人としてそこにいるでしょうと言うことはできませんが、彼女はそれを人類に約束なさいました。しかし、それはただ彼女の要求が従われるときだけです。

平和のこの時期はもちろん聖母が話された文脈において理解されなければなりません。彼女が平和について話されるとき、彼女は「平和」という言葉を世がそれを用いるようには用いておられません。彼女はその御子の平和について話しておられます。「私はあなたたちに平和を与える。しかし世がそれを与えるようにではない。」

もちろん、彼女が与えられるあの第一の平和は霊的あるいは内的な平和です。しかし、キリストの平和の十全性は単に内的なまた霊的なものであるだけでなく、また外的なものでもあります。それは単に個人のためばかりではなくて、また社会のためでもあります。言葉を換えて言えば、キリストの平和は個人としての人間に利益を与えるだけではなく、また共同体、社会に生きているすべての人間にも利益を与えます。キリストの平和の十全性はまた公共的、外的です。そしてそれは各々の、そしてあらゆる家庭、町、国、そして全世界のすべての成員に利益を与えます。

神が個人を創造されたように、また神は社会を創造されました。もし神が望まれたならば、神は私たちを隠者として生きるようにお作りになることもできたでしょう。しかし神は事実私たちを社会において生きるように創造なさいました。ですから神は私たち一人ひとりの作者であると同様に社会の作者です。

神は世界における秩序のために諸規則と一つ御計画を持っておられます。そしてその御計画に反対のものはサタンの計画です。私たちが平和について語るとき、私たちは、聖母がその御子がそれを用いられる意味において平和について話されるのであって、世がそれを用いる意味においてではないということを理解しなければなりません。

私たちはいわゆる共産主義の崩壊を見ています。しかし、教皇ヨハネ・パウロ二世が指摘されたように、無神論のある別の形式によって取って代わられたものです。1991年5月にファチマに行かれたとき、教皇はマルキシズムは無神論の別の形式によって取って代わられる危険にあると言われました。

彼らがロシアにおいてマルクス・レーニン主義的共産主義あるいは社会主義を持つか、それとも西欧自由主義を、あるいはもっと正確に言えば無神論的ヒューマニズム(それは確かに人間的でも自由でもありませんが)を持つかどうかは、究極的には問題ではありません。というのは、いずれの道も社会に対してサタンとその支配がなおそこでは王座につくからです。

社会における王たるキリストの支配はサタンとその追随者たちの支配の下でのそれらの社会や制度によって直接的に反対されます。このことは『ファチマ・クルーセイダー』第40号においてデニス・ファヘイ神父によって明らかに示されています。

もしあなたたちがロシア(そしてソビエト帝国の他の諸部分、「かつての」U.S.S.R.と鉄のカーテン諸国)において起こっていることはロシアの約束された回心であると考えることへと欺かれているならば、あなたたちはだまされたのです。ファチマの聖母の敵どもはあなたたちを欺くことに成功してきました。彼らはこのことを部分的に為すことができました。というのはあなたたちは王たるキリストの社会的な支配が本当には何を意味するのかについて適切な理解を欠いていたからです。

この欺かれていること、そして理解の欠如はあなたの過ちではないということはまったくありそうなことです。というのは、王たるキリストの社会的支配に適用されるあなたのカトリック信仰の部分が決してあなたに教えられなかったか、あるいはあなたに適切に教えられなかったかのどちらかであるからです。それは不幸にして多くのカトリックの司祭たちや教授たちが全然知らずにさえいるカトリック神学の一領域です。

あなたたちは単にほんの昨日あるいは昨年ではなく、あなたの成人の生活のほとんどの間、欺かれていたのです。あなたたちはまず第一に,少なくともそれが、どのように神は世界が組織されることを望んでおられるかということに適用されるようには、カトリック信仰を学ばなかったのです。世界平和のために一つの非常に明確な計画があります。そしてそれは過去百年間諸教皇によって明確に表現されてきませんでした。

聖トマスは平和を秩序の静けさと定義しています。聖アウグスティヌスは神は秩序の作者であると私たちに告げています。ですから、もし秩序が存在するようになるとすれば、それはキリストの計画、神の御計画に従っていなければなりません。

そしてもちろん、私たちは聖書の中ですべての事物はキリストにおいて新たにされるということを告げられています。教皇ピオ十一世はキリストは頭である、そしてそれゆえに、社会のすべてにおいてキリストは王であると指摘しておられます。

それは単に一つの敬虔な称号ではなくて、事実イエズス・キリストは合衆国大統領の王として世界平和の時代に認められるでしょう。彼はあなたたちが属しているあらゆる国の支配者の王として認められるでしょう。彼はあなたたち自身の議員あるいは上院議員の王として認められるでしょう。

そのことは、あなたたちの代表者が壁に王たるキリストの敬虔な御絵を掛けているからではないでしょう。それは非常にすばらしいことでしょう。しかしそれはそれ以上のことでしょう。それは、事実上院議員、議員が、よく知らされた良心をもって事実、神の意志であるものとして彼が認める事柄のためにだけ投票するということを意味するでしょう。

同様に、合衆国の大統領、あるいはカナダの首相、あるいは英国の女王、あるいはこれらの人々の後を継いだ人々、あるいは彼らが引き受ける職務が何であれ(問題になるのは政治の形態ではありませんし、あるいは彼らが属している政党ではありません)、は事実、言葉においてだけでなく、行為において神の側にいます。

教皇ピウス十一世が指摘されたように、国会議員たちは胎児を保護する厳かで積極的な義務を持っています。否定的な義務に対立するものとしての積極的な義務とは何でしょうか?私たちはどんな悪も為さないように告げられています。そして私たちは善を為すように告げられています。国会議員の積極的な義務が果たされるためには、「私は個人的に中絶には反対です。しかし、私は私の道徳性を押し付けたくはない」と言うことは十分ではありません。

一人の国会議員として、もし彼が中絶の罪に反対する適切な法律と制裁を制定することによって、胎児の保護をもたらすことができるすべてのことをする積極的な義務を果たさないならば、彼は地獄へ行くでしょう。それは一つの劇的な例です。というのは、2500万人以上のアメリカ人は胎児に対する戦争において過去20年間に彼らの生命を失ったからです。

しかし、それは確かに唯一の例ではありません。冒涜は王たるキリストの支配のもとでは一つの犯罪です。それはある人がそのために刑務所へ入れられるはずの一つの犯罪です。それは厳格に響くかもしれません。それは不合理に響くかもしれません。しかし、それはただ私たちがその程度にまで世俗化されてしまったからにすぎません。

私たちは、ファチマの聖母が私たちに約束なさった世界平和について話しているとき、それを真のキリスト教的な平和の用語において理解しなければなりません - そこではイエズスの支配が社会にあまねく真に尊重されており、そして王たるキリストに相応しい栄誉が生活のあらゆる場において社会のすべての成員によって与えられています。

私たちは教会の内部と外部の両方で、私たちの中にある世俗の新聞や世俗的なヒューマニストたちが私たちに押しつけた誤った観念やいわゆる理想から私たちの精神を空にしなければなりません。私たちはイエズスとマリアの基準によって事柄を判断し、世俗的ヒューマニズムによって汚染されている考えから脱しなければなりません。世俗主義は私たちをすっかり取り囲んでいます。そして私たちの大部分は私たちの発達のなかである点においてそれによって痛めつけられてきました。(毎日ロザリオの祈りをしなさい。それは私たち自身を世俗主義の幻想から解放する最善の手段の一つです。)祝せられたおとめによって約束された平和の君臨を私たちは持っていると私たちに告げる人々の欺瞞は一つの冒涜のようなものです。

ポーランドにおけるポルノショップとより西欧的(キリスト教ではなく、むしろメーソン的な)ヒューマニズムの隆盛を祝せられたおとめの支配 - 勝利に帰することは実際一つの冒涜です。

たとえ私たちがそのような宣伝によって欺かれていたとしても、私たちはなぜ私たちが欺かれていたのかということの霊的および教育的な、第一の諸原因に立ち戻るべきです。私が半分ペラギウス主義者であったと私が認めたのは私の二年目の神学[を学んでいた時]にしかすぎなかったということを私は告白しなければなりません。そしてあなたたちのうちのある人はこのように今日でもなおその影響を受けているかもしれないと私は思っています。

それは批判ではなくて、事実は私たちのうちの多くの者がペラギウス主義によって影響を受けながら、生活しているということです。タンクレーは今世紀初頭の有名な神学者でした。彼は霊性神学について一冊の書物を書きました。そしてペラギウス主義あるいはまたそうも呼ばれているように、自然主義は「今日の」カトリック思想の大部分を侵していると指摘しました。そして彼はそれを1920年代に書いていました!今日それはもっと悪化しています。

あなたがトレント公会議における恩寵についての小冊子を読むとき、あなたが恩寵なしによく生きることができるよりも、空気なしにもっとよく生きることができるということを認めるでしょう。私たちが持っているどんなよいものもただ神の恩寵のゆえにのみよいのです。そして私たちはファリサイ主義あるいは霊的高慢は単に自由主義者の没落ばかりではなく、また保守派あるいは正統派の没落でもあるということを認めなければなりません。

私たちは、たとえ私たちが何らかの光を持っているとしても、それは神の恩寵のゆえにであるということを認めなければなりません。この恩寵は、主としてそしてまず何よりも私たちがそれに値することなしに、私たちに与えられたのです。

聖パウロは私たちにこう言っています。「あなたたちが何か強さあるいは何かよいものをあなたたちのうちに持っているとしても、あなたたちはそれを神から以外にどこで得たのか?そしてもしあなたがそれを神から得たのであれば、あたかもそれがあなた自身から来たかのように、なぜあなたはそのことに高慢になるのか?」

そしてそのように、私はおそらくそう見えるでしょう。そしておそらく私は、事実、高慢なのでしょう。私はそうでないことを望みます。しかし、いずれにせよ、私が高慢であるにせよ、あるいはそうでないにせよ、問題はファチマの謙遜なおとめ、ナザレトの謙遜な乙女である聖母のメッセージは人間の権利ではなく、神の権利を認めるようにという私たちに対する一つの呼びかけであるということです。教皇レオ十三世は、私たちは人間の権利について十分に聞いた、今は神の権利について聞く時であると指摘されました。

神の権利は神が主権者であり、至高であるということです。私たちは、私たちが所有している車、あるいは私たちが住んでいる家に関して、もし私たちがそれのために支払ったのであれば、私たちが欲することをすることができると考えています。しかし、それが神に関わるときには、どういうわけか私たちは神の権利を神に属することでもって神にできることに限定します。事実は、何かあるものについての私たちの所有権はただ一つの制限された所有権にしかすぎません。しかし、神の所有権は絶対的です。というのは結局神は私たちを無から創造なさったからです。

そしてそのように、私たちが、私たちはこのことについてまだロシア人たちの議決権を持っていなかったのだから、神はロシアの奉献を要求なさることはできないということを聞くとき、神が御自身の被造物に対する支配権を持っておられないと言うことは冒涜することに等しいことです。私たちが神の意志を受け入れるか否かということは神が意志されること、あるいは神が最終的になさろうとしておられることを変えようとすることではありません。

もし私たちが神の御計画をその全体性において受け入れるならばそれは私たちを大いに助けるでしょう。というのは、ひとたび私たちがそれを知的に受け入れるならば、私たちは第一歩を踏み出したからです。私たちの精神を用いることによって理解することは必要です。そこで終わることは十分ではありません。しかし、確かに私たちは理解しないかぎり、神があらましをお述べになったこと、神が私たちにお教えになることを受け入れないかぎり、どこにも行こうとしません。

これが救いのために信仰が必要である理由です。信仰は最大の徳ではありません。しかし、それは確かに、それなしには私たちが自分たちの霊魂を救うことができない不可欠のものです。信仰なしには私たちは光を持たないでしょう。そして私はさらに、ファチマの光なしには、私たちは私たちが生きている時代を理解しないであろうと言うでしょう。

私たちが信仰を理解するのと同じように、今生きている時代を理解しないならば、私たちは解決の部分ではなく、おそらく問題の部分であるでしょう。

1951年に教皇ピウス十二世は世界は今日 - (1951年)- 大洪水の前よりももっと悪い、そして人類は以前には決して見たことがないような懲罰のために身構えるべきである、と言われました。1951年について彼がそう言われたのであれば、1992年については何と言われることであろうか?

中絶は西欧世界においては立法化されてさえいませんでしたし、言うまでもなく、決して実行されてはいませんでした。しかし、それが今日ある程度に確かに立法化され、確かに制度化されてはいませんでした。

十分に理解されていない聖母の役割

私は、伝統的、保守的、正統的な神学のサークルの中で、そして彼らの実践的な適用の中で見過ごされていると私が考えているあることがらをあなたたちに表明したいと思います。そしてそれは祝せられたおとめマリアの役割です。

これは、カトリック者が聖母に捧げられていないと言うことではありません。しかし、私は、私たちが祝せられた乙女に捧げられるべきであるその程度を私たちが理解しているとは考えません。聖母は7月13日にファチマでこう言われました。「ただ私だけがあなたたちを救うことができます。」聖母の正確な言葉を欲する言語潔癖主義者たちのために、彼女は第三人称で話しておられます。そして彼女はロザリオの聖母について話されました。しかし、彼女はまだ御自身をロザリオの聖母として同定されませんでした。そして彼女はこう言われたのです。「ただロザリオの聖母だけがあなたたちを救うことができます。」

あるプロテスタントの人たち、そしてあるカトリック者たち、そして保守的カトリック者たちでさえ、このこと、すなわち、ただ祝せられた乙女だけが私たちを救うことが出来るということ、はどうも冒涜に近いように思われると言います。彼らは神はどうなのだ、と言うでしょう。

重要なことは、もちろん、絶対的に必然的な唯一の存在は神であるということを理解することです。残りの私たちすべては、もちろん、非必然的なものです。すなわち、絶対的に言うならば、それは被造物であることのまさに本性そのものです。神はその御意志によって、人類と世界を創造することを決定なさいました。そして神は、その同じ御意志によって、また救いのために何が必要であるか、そして世界に平和をもたらす御自分の方法をも確立なさいました。

これらの事柄の一つは神が王のうちの王、主のうちの主であるイエズス・キリストの私的な承認と同様に社会的、公的な承認を通じて以外には世界に平和をもたらすおつもりはないということです。

しかし、それはまた祝せられたおとめマリアがまた世界の女王、教会の女王であるということ、そして敬虔なしぐさとしてだけではなく、認められる主権者としてそうであるということをも含んでいます。

それでは、祝せられたおとめと教皇と教会の間の関係は何でしょうか?祝せられたおとめは教皇よりも上位であり、そして彼女は教会よりも上位です。彼女は女王であり母です。そしてそのようなものとして、彼女はただ敬虔をもってばかりでなく、また私たちの行為と従順において栄誉を受けるべきです。

それが、祝せられたおとめマリアが実践において十分に認められてこなかったすべての恩寵の仲介者であるという真理と同じように、この真理です。特に私たちの時代における救いの歴史において(そして救いの経済において)神によって与えられた聖母の位置の認識のこの重大な欠落、それは究極的に今日の教会におけるすべての諸問題の根にあります。それは世界的な中絶問題の根にあります。それは飢饉と戦争の問題の核心にあります。

救いにおける、そして歴史におけるマリアの唯一のしかし必要な役割についての教義的真理の理解のこの欠如は世界における、そして今日の教会におけるすべての問題の核心にあります。この教義的な真理、すなわち、祝せられたおとめが事実すべての恩寵の仲介者であるという真理、は教会の通例の、そして普遍的な教導職によって教えられています。

もしあなたが私がしたのと同じくらいそれを研究したならば、あなたは信仰においてそれを破門される苦痛の下に信じる義務を負うでしょう。しかし、あなたたちのうちのすべてがその機会を持っていないでしょう。そしてそれゆえに、その義務はあなたたちにとって同一ではないでしょう。

事実は、もし私がそうしたようにこの部屋の中へ入って来ることを望むならば、私は扉を通って来たのです。もし私が壁を通って歩こうとするならば、私はまじめであるかもしれません、私はよい意向を持っていて、一生懸命働いているかもしれません。しかし、私が壁を通ってこの部屋の中へ歩いて来ようとするならば、この部屋の中へ入ることは非常に困難でしょう。そしてどこに扉があるかの真理を認めることが私たちが行こうと望んでいるところへ行くことを助けるように、同じように私たちは祝せられたおとめマリアが救いのために必要な扉であるということを認めなければなりません。そして彼女は神がそれを望んでおられるがゆえに従われなければなりません。

神は絶対的な権利を持っておられます。私たちの主は聖ヤコブと聖ヨハネに言われました。「あなたたちは私の右に座ることを願った。しかしこれをお決めになるのは御父だけである。」そして御父は権力と権威においてその右に座ることを祝せられたおとめにお決めになりました。そしてそれを認めることが私たちの義務です。

これはあなたたちのうちのほとんどの人がこのことを認めていないと言っているのではありません。しかし、むしろそれは、私たちは実践的にそれを十分に認めていないということを指摘しています。そのことはそれが単にこの世代だけでなく、教会の歴史にとって、それが十分に認められてこなかった理由です。それは、聖母が、今までそれが確立されてこなかったという意味で、「神が確立することを望んでおられます」と言われたとき、ファチマの聖母の言葉を私が理解する仕方です。「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」そのように1917年まで、そして1992年まで、神が世界の中に確立したいとお望みになっている聖母に対する信心はまだ確立されていなかったのです。

神は一つの御計画、それについてその御決心を変えようとなさらない一つの御計画を持っておられます。それは実現されるであろう一つの計画、しかし私自身を含む私たち全てが、それが成し遂げられているということを見るために十分にはなされなかった一つの計画です。その計画は非常に簡単です。しかし、それが神の御意志でありますから、それは絶対的に必要です。他の何物も働くことはないでしょう。

その御計画とは何でしょうか?その御計画はファチマの聖母の預言的メッセージにおいて私たちに概略が示されました。

ファチマの公的預言的啓示

ファチマはある人々があなたたちに信じさせようとしているような一つの私的啓示ではありません。不幸なことに、保守的で正統的な、そして他の点では非常に学識のある人々でさえ、ファチマを一つの私的な啓示と呼ぶこの誤りを犯してきました。それは彼らがこの言葉を使っている意味において一つの私的啓示ではありません。それは一つの預言的啓示です。その違いは何でしょうか?

ドイツのグレイバー司教は神から来る三種類の啓示があるということを指摘しました。第一の種類は信仰の遺産のうちに含まれているものです。そしてそれは聖書あるいは聖伝のうちに見出されます。 信仰の遺産は神によって啓示され、すべての世代の信者たちによって、彼らの霊魂を救うために、信じられなければなりません。信仰の遺産は使徒たちあるいは彼らの後継者たちによって(あるいは教会における他の誰によっても)変えられることはできず、ただ次の世代へ全体的に完全に説明され、伝えられることができるだけです。信仰の遺産のうちに含まれているもののすべては、最後の使徒、聖ヨハネの死の時、紀元100年頃までに、神によって啓示されました。

第二の種類は私的な啓示です。もし私が聖母の幻視を受け、そしてあなたに私が幻視を受けたということを告げるならば、それは私に対する一つの私的な啓示であり、そしてあなたは、たとえ私があなたにそう告げたとしても、私がこの幻視を見たと信じる義務はないでしょう。

第三の種類は、公的な預言的啓示と呼ばれます。それは単に幻視者あるいはそのメッセージを受けた人ばかりでなく、また同様に教会に義務を与えます。これは聖書の中で多くの箇所に見出されます。私たちの義務はまた聖書のうちに言及されています。

私が気づいている最善の節の一つは『テサロニケの信徒への手紙 第一』の第5章第22節にある聖パウロのそれです。彼はそこにおいて私たちすべてにとって記憶することが非常によいと私が考える簡潔な仕方でそれをまとめています。「聖霊の火を消してはいけません。」それが彼の第一の命令です。

シスター・ルシアはファチマのメッセージの事実的な軽蔑について、それを聖霊に反する罪として言及しています。あなたはなぜ彼女が32年間以上にわたって沈黙させられてきたかを理解することができます。それは彼女が公に語った最後の時でした。彼女はあまりにも明らかに話しました。

ほとんどの人は、おそらく教会においても、彼女が言わなければならないことを本当に聞きたくはありません。しかし、私たちは彼女が私たち自身の危険に対して言わなければならないことを聞いていません。彼女が言ったように、「教会における私の使命は人々に、もし私たちが改めないならば、確かに起こるはずの物質的な懲罰について告げることではありません。」いいえ、彼女の使命は、もし私たちが罪のうちに頑固にとどまるならば、私たちは皆地獄に行く危険の中にいるということを私たち皆に告げることであると、彼女は言いました。

彼女はファチマのメッセージに聞かないことを聖霊に反する罪と呼んでいます。おそらくそれは彼女の言葉についてのあまりにも広すぎる一つの解釈であるでしょう。しかし、あなたはそれらを、フエンテス神父のインタビューに関するフレール・ミッシェルの書物の第3巻のうちに読むことができます。(504-508ページを見てください。また、『ファチマ・クルーセイダー』誌第19号をも見てください。)「聖霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」預言を軽んじることは聖パウロの頭の中では聖霊の火を消すことと同等です。ところで、もし私たちが、ファチマに関して、それは単に一つの私的啓示である、そしてそれゆえに、あなたはそれに注意を払わなくてもよいという明白な、あるいは暗黙の内の、そのいずれかのほのめかしという態度を取るならば、あなたはまさに聖パウロがあなたにしてはならないと言ったことをしたのです。あなたは預言を軽んじたのです。

私たちは信仰の遺産のうちにあるものに耳を傾ける義務を持っています。ファチマが信仰の遺産であるかどうかという問いに関心を持っている人々のために、私はただ、「あなたはファチマを信じなくてもよい」という議論によって私を攻撃していた、やり方において冷たい私の教授を途方に暮れさせた一つの知的な問いと共にあなたを残して行くだけです。彼は私がローマで神学の修士号を取るための最後の学年で勉強していたとき、私にこう言ったのです。私はこう言いました。「あなたはどうしてファチマの聖母が聖書の中にはいないということを知っているのですか?黙示録の第12章における太陽をまとった女が、シスター・ルシアによって太陽よりも明るい存在として記述されているように、ファチマで太陽をまとった女に他ならないということをあなたはどのようにして知るのですか?」彼はもちろんそれに対していかなる答えも持ちませんでした。というのは彼は知らないからです。

事実教皇パウロ六世はその回勅の中で、彼がファチマに行ったとき、ファチマの祝せられたおとめマリアが黙示録第12章における太陽をまとった女に他ならないということを非常にはっきりと示唆されました。

もしそれが真ならば、、そのときファチマにおける祝せられたおとめの御出現は神的な信仰の遺産に属するものです。キリストの時代のファリサイ派とユダヤ人たちはアブラハムと預言者たちを彼らの指導者および父たちとして主張することによってキリストへの信仰を受け入れることを拒否しました。そして私たちの主は、もしあなたたちが預言者たちとアブラハムを信じるならば、あなたたちは私を認めたであろう、というのは彼らは私について語ったからである、と言われました。

もし私たちが、聖書にあるあらゆることを信じるということを意味するカトリック信仰を主張し、そして聖書に預言された太陽をまとった女を信じることを拒否するならば、そのとき私たちはカトリック信仰が偽善的であるということを主張しているのです。それはほとんどのカトリック、そしてほとんどの保守派の人々、そしてほとんどの正統的神学者たちには強すぎます。それにもかかわらず、彼らは私の問いに答えることはできません。私はそれをあなたたちに一つの問いとして残しておきます。しかし、それが神的な信仰の遺産のうちにあることに依存しているにせよ、あるいは単に一つの預言的啓示であるにせよ、結果は実践的秩序においては同じです。

私たちはそれを信じなければならず、そしてそれに基づいて行為しなければなりません。聖パウロは私たちに「聖霊の火を消してはいけません、預言を軽んじてはいけません、すべてのものを吟味し、そしてよいものをしっかり保ちなさい。」と告げています。吟味するということによって彼は何を意味しているのでしょうか?あらゆる霊が神からのものではない、そしてそれゆえに、預言的メッセージを主張するあらゆる人が神からのものではないと彼は私たちに告げているのです。

そしてそれゆえに、私たちは吟味しなければなりません。教会はファチマのメッセージを吟味しました。そしてそれがよいものであるということを見出しました。それがよいものであることが見出されたからには、私たちの義務は明白です。それをしっかりと保ちなさい。

教会によって認可されなかった他の出現を私が促進しない理由は、聖母が他のところに出現することがおできにならなかったからではあありません。彼女はお出来になったでしょうし、そしておそらく御出現になります。しかし、彼女が他のところに御出現になっているにせよ、そうでないにせよ、それらはまだ吟味され、認可されてこなかったのです。

私が知っている最後の認可された御出現は1930年代のボーランあるいはバヌーでした。それゆえに、もし聖母が他のところに御出現になっているならば、彼女は、それがなおファチマを通じる道へ連れ戻すはずであるということをファチマのメッセージの中で十分に明らかにされました。彼女はここで平和への道はただ彼女がファチマでお与えになった彼女のメッセージに聴き、そして従うことによってだけであると私たちに告げておられます。

ヨシプ・テレリャは『証言』という書物の中で、聖母がフルシウにおいて御出現になっていると私たちに告げています。私はあるウクライナの司教に、私のテレビに出て貰いました。そして私は彼にフルシウについて尋ねました。そして確かにウクライナの司教たちは好意的であり、彼らは賛成して宣言はしませんでした。しかし彼らはそれに対して決定的に好意的です。

この御出現においてヨシプは、もしロシアが王たるキリストを受け入れないならば、ロシアは世界にとって不幸をもたらすものとなるであろうと私たちに告げています。それは第三次世界大戦を意味するでしょう。私がまだ認可されていないが、しかし好意的に受け取られているフルシウに言及する理由は、それにもかかわらずそれは今世紀にファチマ以後のどの御出現に対しても見ている一つのリトマス試験をバスしているということです。

聖母は、「私は他のところでロシアがどのように回心するかについて話しました」と言われましたが、それはファチマのメッセージにおけるロシアの回心への明らかな言及です。そしてフルシウにおけるメッセージなしに、人はシスター・ルシアが私たちに告げているように、簡単にロシアは懲罰の道具、全世界をその罪のために罰するために天によって選ばれた罰の道具であると言うことができるでしょう。(続く)


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