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百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

臥薪嘗胆

2013年01月29日 17時20分26秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  1月29日(火) 雪降ったり止んだり

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

17,590

12,313

 

今  月

29

476,920

333,844

16,446

今  年

29

476,920

333,844

16,446

2005年から

2,960

41,795,639

29,256,947

14,120

70歳の誕生日から

6,492

123,745,775

86,622,043

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 685,916m

 今日も十八史略にのめり込んでしまった。「臥薪嘗胆」に首を突っ込んだのが命取りになった。人物がやたらと出てきて、誰が呉で誰が越かよく区別がつかなくて何回も読み返してどうやら判ったような…わからないような・・・。

  それにしてもこの説話が紀元前六世紀の事とは驚いた。呉王夫差が「臥薪」までして越を破れば、越王句践は会稽の恨みを「嘗胆」までして復讐する。その間呉王夫差は忠臣の伍子胥の諫言を入れずに越王を許したり、子胥は梓の木を墓に植えて夫差の棺桶の材にしろ、私の目を抉り取って越に向けろと遺言したり、越に仇を取られた夫差は子胥に合わせる顔がないと袋を被って死んだなど大昔の話がつい最近の説話のように書かれていて熱が入った。どうやら何とかこんがらかった「臥薪嘗胆」の道筋が判ったような気がしてきた。

 呉王闔廬、挙伍員謀国事。呉伐越。闔廬傷而死。子不差立。子胥復事之。夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、「夫差而忘越人之殺而父邪。」周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。越王勾践以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。子胥言、「不可。」太宰伯嚭受越賂、説夫差赦越。勾践反国、懸胆於坐、臥即仰胆、嘗之曰、「女、忘会稽之恥邪。」挙国政属大夫種、而与范蠡治兵、事謀呉。

 呉王闔廬(こうりよ)、伍員(ごうん)を挙げて国事を謀らしむ。呉、越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差立つ。子胥(ししよ)復た之に事ふ。夫差讎を復せんと志し、朝夕薪中に臥し、出入するごとに人をして呼ばしめて曰はく、「夫差而(なんぢ)は越人の而の父を殺ししを忘れたるか。」と。周の敬王の二十六年、夫差越を夫椒(せう)に敗る。越王勾践余兵を以(ひき)ゐて会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。子胥言ふ、「不可なり。」と。太宰伯嚭(はくひ)越の賂(まいな)ひを受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。勾践国に反り、胆(きも)を坐に懸け、臥(が)するや即ち胆を仰ぎ、之を嘗めて曰はく、「女(なんぢ)、会稽の恥を忘れたるか。」と。国政を挙げて大夫種に属し、而して范蠡(はんれい)と与に兵を治め、呉を謀るを事とす。

 太宰嚭、譖「子胥恥謀不用怨望。」夫差乃賜子胥属鏤之剣。子胥告其家人曰、「必樹吾墓檟。カ可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。越十年生聚、十年教訓。周元王四年、越伐呉。呉三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。夫差曰、「吾無以見子胥。」為幎冒乃死。

 太宰嚭、「子胥謀の用ゐられざるを恥ぢて怨望す。」と譖(しん)す。夫差乃ち子胥に属鏤(しよくる)の剣を賜ふ。子胥其の家人に告げて曰はく、必ず吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟(か)は材とすべきなり。吾が目を抉りて東門に懸けよ。以つて越兵の呉を滅ぼすを観ん。」と。乃ち自剄す。夫差其の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)を以つてし、之を江に投ず。呉人之を憐れみ、祠を江上に立て、命じて胥山と曰ふ。越十年生聚し、十年教訓す。周の元王の四年、越、呉を伐つ。呉三たび戦ひ三たび北(に)ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成(たひら)ぎを越に請ふ。范蠡可(き)かず。夫差曰はく、吾以つて子胥を見る無し。」と。幎冒(べきぼう)を為りて乃ち死す。


炎帝農氏

2013年01月28日 16時58分44秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月28日(月) 雪降ったり止んだり

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,620

11,634

 

今  月

28

469,330

321,531

16,405

今  年

28

469,330

321,531

16,405

2005年から

2,9539

41,778,049

29,244,634

14,119

70歳の誕生日から

6,491

123,728,565

86,609,730

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 698,229m 

[炎帝神農氏]斲木為耜、揉木為揉、始教畊、以赭鞭鞭草木、嘗百草始有医薬。教人日中為市、交易而退。都於[陳]、徙[曲阜]。

 炎帝神農氏木を斲(けずり)て耜をつくり、木を揉(たわめ)て揉をつくり、始めて畊を教う。赭鞭を以って草木を鞭(むち)うち、百草を嘗めて始めて医薬有り。人に教えて市を為し、交易して退かしむ。陳に都し、曲阜に徒る。

農氏は木を削って鋤を作り、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤鍬の使用法を広めてはじめて耕作を教えた。赭鞭で草木を鞭打ち、百草を舐めて始めて医薬を作った。また日中に市を開き、物々交換して夕方に帰ることを教えた。はじめ陳に都をおき、のちに曲阜へ移った。

 私が初めて八百屋になった頃、青果商組合に「農講」という集いがあった。常盤に市場があって、大勢の女性が威勢よくセリをやって、リヤカーで飯山の街へ売りに来ていた。八百屋組合と常盤の市場の共催で、英岩寺で農講の祭りをしていた。飯山の薬屋の人達も「農講」をやっていると聞きた。神農大士が農業を教えたり、市を開いて作物を売ることを教えたりした縁と、また草木から薬を作り出したという縁から薬を扱っている人たちも農大士を祀っていたのだろう。

 神農講の日は神農大士の祠にお経をあげ、お御堂でお斎を頂いた。引き売りの女性が多かったので、賑やかで皆はしゃいで溶け合ってたいへん楽 しかった。長く続いた良い行事だったが、私が中野との合併で中野勤務となったこともあって、自然消滅になってしまったようだ。

 古き良きリーダーだった宮崎さんが市ノ口で店を開いたのを契機に農講の再興を図ったが、楽しい思い出をもった先輩は消え去り、引き売りの女性部隊も居なくなって、盛り上がりがなく、立ち消えになってしまった。何とも残念な話だ。

 

 


先ず隗より始めよ

2013年01月27日 17時38分30秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  1月27日(日) 雪後晴れ

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,986

11,890

 

今  月

27

442,710

309,897

16,397

今  年

27

442,710

309,897

16,397

2005年から

2,9538

41,761,429

29,233,000

14,118

70歳の誕生日から

6,490

123,711,565

86,598,096

19,062

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 709,863m 

 燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国、以雪先王之恥孤之願也。先生視可者。得身事之。」隗曰、「古之君、有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之、況生者乎。馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」於是、昭王為隗改築宮、師事之。於是、士争趨燕。楽毅自魏往。以為亜卿、任国政。已而使毅伐斉、入臨淄。斉王出走。毅乗勝、六月之間、下斉七十余城。

 燕人太子平を立てて君と為す。是れ昭王たり。死を弔ひ生を問ひ、辞を卑くし幣を厚くして、以て賢者を招く。郭隗に問ひて曰はく、「斉孤の国乱るるに因りて、襲ひて燕を破る。孤極めて燕の小にして以て報ずるに足らざるを知る。誠に賢士を得て与に国を共にし、以て先王の恥を雪がんこと、孤の願ひなり。先生可なる者を視せ。身之に事ふることを得ん。」と。隗曰はく、「古の君に、千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。死馬の骨を五百金に買ひて返る。君怒る。涓人曰はく、『死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。馬今に至らん。』と。期年ならずして、千里の馬至る者三あり。今王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」是に於いて、昭王隗の為に改めて宮を築き、之に師事せり。是に於いて、士争ひて燕に趨く。楽毅は魏より往く。以て亜卿と為し、国政に任ず。已にして毅をして斉を伐たしめ、臨淄に入る。斉王出でて走る。毅勝ちに乗じ、六月の間に、斉の七十余城を下す。

 【先ず隗より始めよ】という諺は前々から知っていた。その意味は何かを上司に進言した者に対して、上司は「それは良いことだ。先ずお前からやって見よ」というように使う言葉だと、解釈していた。

 十八史略を改めて読んで見て、全く違う場面で使っていることを知って驚いた。【もし王が優れた人材を燕に招致したいと思うならば、まず私、隗から優遇し始めてください。このことを聞けば、、私より賢いものが、どうして千里を遠いとして、燕に来ないでしょうか、いや来るにちがいありません。」と。昭王は郭隗の為に立派な御殿を改築し、彼に師事した。そうしたら、天下の賢士は争って燕にやって来た、という話だ。

 しかし今も「隗より始めよ]という言葉はこうした時に使っているのだろうか?

 

 


田単火牛

2013年01月26日 17時07分30秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  1月26日(土) 雪

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

17,186

12,030

 

今  月

26

425,724

298,007

16,374

今  年

26

425,724

298,007

16,374

2005年から

2,9537

41,744,443

29,221,110

14,117

70歳の誕生日から

6,489

123,694,579

86,586,205

19,062

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 721,753m      

                  

 

 田単身づから版鍤を操(と)り、士卒と功を分ち、妻妾は行伍に編す。城中を収めて牛千余を得たり。絳(こうしょう)の衣を為(つく)り、五彩の龍文を画き、兵刃を其の角に束ね、脂(あぶら)を灌(そそ)いで葦を尾に束ね、其の端を焼き、城に数十穴を鑿(うが)ち、夜、牛を縦(はな)ち、壮士其の後に随う。牛尾熱し、怒(いか)って燕軍に奔(はし)る。触るる所盡く死傷す。而して城中鼓譟(こそう)して之に従う。声天地に振う。燕軍敗走す。七十余城、皆復齊と為る。襄王を莒に迎う。單を封じて安平君と為す。

 

 田単は自ら板やすきを取って士卒と仕事を分担し、妻妾までも隊伍に組み入れた。城中の牛を集め千余頭に赤い着物を作り、五色の龍の絵を画いて着せ、角には刃物を結び、尾に油を染み込ませた葦を結わえて、夜に火をつけ、城から放った。兵士が後について打って出た。牛は尻尾が焼けて、怒り狂い触れればたちまち死傷し、兵士も太鼓ろ打ち、鬨の声を挙げて、牛の後から攻め立てた。その声は天地も揺るがすほどで燕軍はたちまち敗走し、七十余城は斉に戻った。田単は襄王を莒に迎え、単を安平君として、土地を与えた。

 田単火牛に似た話がある。源平盛衰記に拠れば、木曽義仲軍は加賀国と越中国の国境の倶利加羅峠で平家軍を狭い谷間に誘い込んで、牛の角に火の付いた松明をくくりつけて敵陣に放して平家の軍勢10万をたった5千の兵で打ち破った。この戦いで源平の勢力は逆転、義仲は入洛を果し、平家一門は都落ちすることなった。

                           

 事になっているが、田単は角には刃物を結び、尾に油を染み込ませた葦を結わえて、夜に火をつけ、城から放った。兵士が後について打って出た。牛は尻尾が焼けて、怒り狂い触れればたちまち死傷し、兵士も太鼓ろ打ち、鬨の声を挙げて、牛の後から攻め立てたのだが、義仲は牛の角に火をつけたことになっているが、果たして生きてる牛の角にどうやって火をつけたのだろうか。角に火がついた牛は敵陣目がけて突進して行くだろうか?。疑問だ。

 

 

 

 

 

 

 


風蕭蕭として易水寒し

2013年01月24日 17時30分07秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月24日(木) 快晴

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

17,226

12,086

 

今  月

24

392,271

274,590

16,345

今  年

24

392,271

274,590

16,345

2005年から

2,9535

41,710,990

29,197,693

14,115

70歳の誕生日から

6,487

123,661,126

86,562,788

19,063

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 745,170m

              
                  風蕭蕭分易水寒

荊 軻 入 秦

燕の恵王の後、武成王・孝王ありて、王喜に至る。喜の太子丹、秦に質たり。秦王政礼せず。怒りて亡げ帰る。秦を怨みて之に報ぜんと欲す。秦の将軍樊於期、罪を得て亡げて燕に之く。丹受けて之を舎す。丹衛人荊軻の賢なるを聞き、辞を卑くし礼を厚くして之を請ふ。奉養至らざる無し。軻を遣はさんと欲す。軻樊将軍の首及び燕の督亢の地図を得て、以つて秦に献ぜんと請 。丹於期を殺すに忍びず。

軻自ら意を以つて之に諷して曰はく、「願はくは将軍の首を得て、以つて秦王に献ぜん。必ず喜びて臣を見ん。臣左手に其の袖を把り、右手に其の胸をサさば、則ち将軍の仇報いられて燕の恥雪がれん。」

於期慨然として遂に自刎す。丹奔り往きて伏し哭す。乃ち函を以つて其の首を盛り、又嘗て天下の利匕首を求め、薬を以つて之をニラぎ、以つて人に試みるに、血縷の如くにして立ちどころに死す。乃ち装して軻を遣る。行きて易水に至る。

歌ひて曰はく、風蕭蕭として易水寒く 壮士一たび去りて復た還らずと 時に白虹日を貫く。燕人之を畏る。

  軻咸陽に至る。秦王政大いに喜びて之を見る。軻図を奉じて進む。

図窮まりて匕首見る。王の袖を把りて之をサすに、未だ身に及ばず。王驚き起ちて袖を絶つ。軻之を逐ひ、柱を環りて走る。秦の法に群臣の殿上に侍する者は、尺寸の兵を操るを得ず。左右手を以つて之を搏つ。且つ曰はく、「  王剣を負へと。」遂に剣を抜きて其の左股を断つ。軻匕首を引きて王にナゲウつ。中らず。遂に体解して以つて徇ふ。

秦王大いに怒り益々兵を発して燕を伐つ。喜、丹を斬りて以て献ず。後三年,秦の兵、喜を虜にす。遂に燕を滅ぼして郡と為す。

 昨年6月、緑化協力訪中団に加わって訪中して、最後の仕上げで易県を訪れた際の晩餐会で、茂木団長先生はお年にもにも関わらず、音吐朗々「風蕭蕭として易水寒く 壮士一たび去りて復た還らず」と吟詠した。中国をして緑化事業を大成させた歓喜の雄叫びを肚から叫んでいる男の雄姿だった。陪席して感動で狂喜したのを覚えてる。