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ロサンゼルスは、常夏ではないのよw

いつもありがとうございます。

7月9日お通夜、7月10日告別式

2018年07月12日 06時09分06秒 | 雑談 Misc.

父の移動が決まったのも結構ぎりぎりでしたが、無事近所の人への連絡もでき(最初は私が伝えていましたが、すぐに諦め、隣のおばちゃんに知らせてもらうことにしました)送り出し、そして7月9日の18時からお通夜。

京成津田沼で行いました。なんか遠方の人たちにしてみたら、交通の便が良くなかったかも??

今回、父が事前に購入していたお葬式のセットよりも、さらに60万くらいかかることになりました。まあ、父の思うのとちょっと違う形にはなりましたが、喪主の母が納得していれば良いでしょう。

今回父の遺言に従い、季節の黄色いお花をお供えしていったら、祭壇もアップグレード、お花も特注、棺の上に置く花束もアップグレード。みなさん、お葬式の打ち合わせの時に気が動転していてあまりたくさんアップグレードしないように注意しましょうねぇ。私が死守したのは、白装束やその上にかぶせる布のアップグレードを止めること(これだけでプラス12万になります)。まず、うちの父は着替えさせませんでした。普段、海外旅行に行くような服装で、その上に白装束(と白い布(セットに含まれていたので十分)を乗せるだけにしてもらいました。無理やり着替えるのは痛かろう、というのもありました。

喪主と親族一同の供花も事前に私たちで手配。父の実家の本家で2つ出してくれたのと、月曜日の朝一番で父の元職場に連絡をしたところ、そこの頭取とOB会からそれぞれ供花があったので、とにかくお花はすごかったです。近所の方が下さった枕花や、その他お花は棺に入れたので、最後の棺は本当に本当にきれいでした。

 

父は綿密に計画を立てていましたが、痛恨のミスも。生前戒名をもらっていたお寺(浄土真宗)と、遺言で言われていたお坊さんの宗派(真言宗)が異なり、葬儀屋に手配してもらったどの宗派でもOK!というお坊さんにお経を読んでもらったら、へたくそだった、というwww  私は途中から首を傾けたり眉間にしわを寄せながらお坊さんを注視したり、違和感が。後からみんな「あのお坊さんは何?」と話題に。真言宗のお経をあげてほしかったのですが、あのシンバルみたいなしゃりーんというのとか大きな数珠とか登場せず、なぜか使わないはずの木魚をぽくぽくしたり。父の実家は本当に信心深く、どっぷり真言宗なので、なんならいとこと私で「シャリーンとかジャラジャラとか口で言うたったらよかったな」と笑ったほど。ま、これもネタをくれてありがとよ、って感じです。

お葬式が終わってからネットで調べたら、そのお寺は宗派なし、僧侶希望者募集中!みたいなところで(笑)、いとこと「あれ、土地を持っていた農家が墓地をやることにして、俳優をトレーニングしてお経あげてるんじゃないの」と言っていた仮説もあながちはずれではないのかも。

 


最初の2日は、近所の人達が訪問

2018年07月12日 05時56分12秒 | 破産回避の記録

亡くなってからいったん家に戻ってきました。

 

葬儀屋さんは5年も前に父が自分で手配していたので、すぐに電話をし迎えに来てくれてすぐに家に連れて行ってくれました。自分で用意したのは、布団と座布団、末期の水を入れるカップくらい。

前日介護ベッドを引き上げていたので、なんか床が汚くて、私が慌てて拭く、という展開。皆さん、家族がなくなりそうな時は、戻ってくるときにどこに布団を置くのか、どの布団を使うのかを決めておくと良いかもしれません。私たちはわちゃわちゃして二階の押し入れから、真空パックで片付けてあった布団や座布団を無理やり引き抜いて袋をがさがさ開けてふーふー言いながら一階に運びました。そして葬儀屋が祭壇??みたいなのをセットアップしてくれ、末期の水を大きな綿棒であげて、お線香をあげて、その後、具体的なお葬式の打ち合わせです。

 

病院から家に父を運ぶ時に、葬儀屋の名前の入った車だったのでそれを目撃した近所の人たちが結構早めに電話してきたりいきなり訪ねてきたり、結構大変。私はお茶係。

 

今回、父は綿密な遺言を作成しており、出来る限りそれに従って葬儀などを執り行いましたが、それが無理なことも。

近所の人達には1週間後くらいに知らせること、との遺言でしたが、それは最初の10分で崩壊。その後2日間ひっきりなしに訪問がありました。それは、結果として良かったです。

なぜなら、これも遺言で家族葬と決められており、近所の人たちは誰もお葬式に呼ばなかったからです。父は、別に人と仲が悪かったわけではなく、ただ、大規模になってお葬式にお金がかかることを避けたかったので、人がたくさん来るといろいろな意味で母への負担が増えるので、最初から予防線を張っていたものと思われます。

また、遺言でお香典などはすべてお断りすること、とあったので、とにかく全部お断りしました。

失敗したのは、連絡しなかったのに噂を聞きつけてやってきた近所のOさん。故人の遺志よりも自分の意志、というタイプの方で「僕の気持ちはどうなるんですか」と主張して無理やりお供え物の下に押し込んで帰っていきました。そのせいで、母はお葬式の翌日にお礼の品を買いに行って届けたりしていて、私からしたら良い迷惑だ、と思いました。親しい人たちは、遺言で、というと、すぐに納得してくれてよかったです。

7月9日の午前11時に父が葬儀場に移動。2日間の間に会いに来てくれた近所の方たちには連絡をし、家の前で見送りしていただきました。


七夕の日に

2018年07月12日 05時28分36秒 | 雑談 Misc.

7月2日に電話があり、翌朝急遽日本に向かいました。水曜日、独立記念日の夕方に日本に到着し、すぐに父の病院へ。

台風の影響で着陸が大変困難で、着陸を試みるもほとんど着地の時点で水平飛行し、結局着陸できずに上空に上がってくるくる旋回する、という結構怖いフライトだったので、一瞬「まずい親より先に死ぬ」と思うことも・・・。

この日と、翌7月5日は、父はまだお話することができました。

7月6日からは目は開いているものの、ぜんぜん焦点が合わない感じで、ほとんど会話もできませんでした。

一度、夜11時くらいに意識が戻り、「めがね、めがね」と慌てて言うのでメガネをかけさせると、部屋の左上の方を見て、「え~??」と言い、その後私を見てはっとして「ありがとう」としがみついてきたので、おそらくお迎えが来たものと思われます。これまでの治療でせん妄になることは何度かありましたが、今度のは明らかに違ったので、お迎えは本当に来るのではないかという見解に至っています。

これはまずいかな、と思い、私は病院に泊まりました。結果、それが良かった。私も帰っていたら、おそらく、亡くなってから病院から電話がかかってくるパターンだった、と思います。看護師さんたちは、そんなに頻繁には来てくれませんから。今回、絶対に一人では逝かせない、と考えていたので、朝方母に電話をして起こし、急きょ駆けつけてもらい、母も間に合って、二人で声をかけながら手を握りながら、七夕の日の朝7時40分に父は5年9か月にわたる闘病生活を終えることとなりました。父も、そして母も、お疲れ様。その一言に尽きます。

ステージ4の肺癌で、5年以上生きる人は数%です。5年9か月生き、最期の4か月のみ本当に具合が悪くなってしまいましたが、その前までは普通に出かけ、洗濯をしたりご飯を作ったりしていたので、ものすごく頑張った、と思います。

そして、通常脳や骨に転移しやすい肺癌が、最期までどこにも転移しなかったというのがすごかった、と思います。だから最後の最後まで、頭は誰よりもしっかりしていたし、痛みはそれほどありませんでした。

何が効果があったのか、は分らない。

両肺なので、最初から手術はできませんでした。

抗癌剤は、何度かしました。

自分でも、フコイダンを5年9か月飲み続け、シイタゲンやブロリコ、自宅で作る人参ジュースなど、癌に良いと聞いたものは積極的に試しました。この5年9か月、毎月の医療費は30万以上でした。私は前から遺産は残さず、お金は自分で使ってね、と思っていたので、変な言い方ですがちょうど良かったです。

高額のオプジーボは、結局体に合わず、効果なし。

300万円の免疫療法も、まったく効果なし。これは、最後のほうにやったから、なのかもしれませんが、父曰く、逆に死期を早めた、とのことでした。

 

医者が来たのは8時50分だったので、死亡診断書に書かれた死亡時刻は8時50分でした。週末に亡くなったので、担当医ではなかったのがちょっと残念ですが、この先生は今後も母の呼吸器科の担当なので、またご縁はあるでしょう。

 

看護師さんと私たちで父をきれいにし、お化粧をしました。

ここでもネタを提供してくれて最後までありがとよ、という感じですが、まず、母が亡くなった後も手を握っていたので、そのままの形で固まってしまっていて・・・。

あと、最後呼吸が苦しくて口を開けて亡くなってしまったので、私が言って母に口を押えさせて閉めた状態にしたのですが、なんと!その後看護師さんが歯磨きをする時にちょびっとしかできない、という・・・本来は歯も磨いて、その後看護師さんなり医療関係者が閉じてくれる模様。

さて、着替えさせましょう、という時に、ベルトはあるのにズボンがなくて一度母が家に取りに戻りました。入院した時にはいていたズボンが一体どこに行ってしまったのかは結局謎ですが、看護師さんが「うーん、ズボンは重要なアイテムですよね・・・」と言ったのが可愛くて笑えました。

準備が整ってから、父の遺言で、一度家に帰りたいというので、一緒に帰りました。すると、近所の人が怒涛のように訪れることに・・・。