7月2日に電話があり、翌朝急遽日本に向かいました。水曜日、独立記念日の夕方に日本に到着し、すぐに父の病院へ。
台風の影響で着陸が大変困難で、着陸を試みるもほとんど着地の時点で水平飛行し、結局着陸できずに上空に上がってくるくる旋回する、という結構怖いフライトだったので、一瞬「まずい親より先に死ぬ」と思うことも・・・。
この日と、翌7月5日は、父はまだお話することができました。
7月6日からは目は開いているものの、ぜんぜん焦点が合わない感じで、ほとんど会話もできませんでした。
一度、夜11時くらいに意識が戻り、「めがね、めがね」と慌てて言うのでメガネをかけさせると、部屋の左上の方を見て、「え~??」と言い、その後私を見てはっとして「ありがとう」としがみついてきたので、おそらくお迎えが来たものと思われます。これまでの治療でせん妄になることは何度かありましたが、今度のは明らかに違ったので、お迎えは本当に来るのではないかという見解に至っています。
これはまずいかな、と思い、私は病院に泊まりました。結果、それが良かった。私も帰っていたら、おそらく、亡くなってから病院から電話がかかってくるパターンだった、と思います。看護師さんたちは、そんなに頻繁には来てくれませんから。今回、絶対に一人では逝かせない、と考えていたので、朝方母に電話をして起こし、急きょ駆けつけてもらい、母も間に合って、二人で声をかけながら手を握りながら、七夕の日の朝7時40分に父は5年9か月にわたる闘病生活を終えることとなりました。父も、そして母も、お疲れ様。その一言に尽きます。
ステージ4の肺癌で、5年以上生きる人は数%です。5年9か月生き、最期の4か月のみ本当に具合が悪くなってしまいましたが、その前までは普通に出かけ、洗濯をしたりご飯を作ったりしていたので、ものすごく頑張った、と思います。
そして、通常脳や骨に転移しやすい肺癌が、最期までどこにも転移しなかったというのがすごかった、と思います。だから最後の最後まで、頭は誰よりもしっかりしていたし、痛みはそれほどありませんでした。
何が効果があったのか、は分らない。
両肺なので、最初から手術はできませんでした。
抗癌剤は、何度かしました。
自分でも、フコイダンを5年9か月飲み続け、シイタゲンやブロリコ、自宅で作る人参ジュースなど、癌に良いと聞いたものは積極的に試しました。この5年9か月、毎月の医療費は30万以上でした。私は前から遺産は残さず、お金は自分で使ってね、と思っていたので、変な言い方ですがちょうど良かったです。
高額のオプジーボは、結局体に合わず、効果なし。
300万円の免疫療法も、まったく効果なし。これは、最後のほうにやったから、なのかもしれませんが、父曰く、逆に死期を早めた、とのことでした。
医者が来たのは8時50分だったので、死亡診断書に書かれた死亡時刻は8時50分でした。週末に亡くなったので、担当医ではなかったのがちょっと残念ですが、この先生は今後も母の呼吸器科の担当なので、またご縁はあるでしょう。
看護師さんと私たちで父をきれいにし、お化粧をしました。
ここでもネタを提供してくれて最後までありがとよ、という感じですが、まず、母が亡くなった後も手を握っていたので、そのままの形で固まってしまっていて・・・。
あと、最後呼吸が苦しくて口を開けて亡くなってしまったので、私が言って母に口を押えさせて閉めた状態にしたのですが、なんと!その後看護師さんが歯磨きをする時にちょびっとしかできない、という・・・本来は歯も磨いて、その後看護師さんなり医療関係者が閉じてくれる模様。
さて、着替えさせましょう、という時に、ベルトはあるのにズボンがなくて一度母が家に取りに戻りました。入院した時にはいていたズボンが一体どこに行ってしまったのかは結局謎ですが、看護師さんが「うーん、ズボンは重要なアイテムですよね・・・」と言ったのが可愛くて笑えました。
準備が整ってから、父の遺言で、一度家に帰りたいというので、一緒に帰りました。すると、近所の人が怒涛のように訪れることに・・・。