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プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

日本最後の日

1918-06-13 | 日本滞在記
1918年8月2日(旧暦7月20日)

 明け方四時、弱い地震があった。さほど恐ろしいものではなく、言ってみればキスロヴォーツク〔コーカサス〕の地震に比べたら優雅なくらいだ。心地よい揺れが、五分ほど続いた。

 徳川氏から電話があった。彼は私の作曲が間に合わなかっことを大層残念がり、私との文通を望んだ。彼のことはもういい。どうにもならないことは、わかっていた。おまけに私の最後の1500ルーブルは、375円で両替できるはずだったのに300円に。その結果、チケットを買ったあとポケットに残ったのはホノルル用の73ドルだけ。腹が立った。ミンステル一家が横浜まで見送りにきてくれた。「73ドルと真珠のピンで出発だよ」と私が笑いながら言うと、ミンステルは、今はいらないからと100ドル相当の5枚の金貨を持たせようとする。今やどこでも手に入らない金貨なんて、持っていきたくなかったが、彼はとても親切で、今は遠慮していてもホノルルできっと役に立つ、と言い張る。そこで、必ず金貨で返すと約束して、もらうことにした。
 それに正直に言うと、船に乗って、この金貨5枚があることでとても満足できた。
 二等クラスにもかかわらず、個室に入れた。

 肘掛椅子にもたれかかったいたら、静かに静かに岸から離れていくことさえ気づかなかった。グロチウス号はかなり大きなオランダ船で、8000トン、ジャワからサンフランシスコに向かう。夜通し、岸が見えていた。

 夜はよく眠れ、朝四時、明け方直前に甲板に出ると、素晴らしい光景が見えた。星々が消えて明るくなり始めた空に、欠けた月と木星と、晧々と光る金星が並んで輝いていた。<完>




*ついに最終回となりました。長い間、ご愛読ありがとうございました!
少々夏休みをいただきますが、折を見て追加情報や裏話もお届けしたいと思っております。
ご意見、ご感想などぜひぜひコメントをお寄せくださいませ。

訳者一同より


大阪

1918-06-13 | 日本滞在記
1918年6月13日(旧暦5月31日)

 急行電車で大阪に行った。活気のある真に日本的な街で、ヨーロッパ人には一人も出会わなかった。ことに珍しい光景は劇場、それも舞台ではなく、客席だ。全員が箱のような枡席に座り、弁当をほおばり、ものすごい早さで扇子をあおいでいる。興味深いのは、数千もの大小の灯りと、そぞろ歩く大群衆があふれた夜の大通りだ。わが国の床屋にはマニキュア部門があるが、ここには耳掃除部門がある。じつに面白い。わが国の耳の遠い音楽家連中を、こちらに送ってはいかがなものか。

京都へ

1918-06-12 | 日本滞在記
1918年6月12日(旧暦5月30日)

 朝八時半、メローヴィチと特急列車で京都に出発した。京都まで十一時間の旅だ。特急には小さいながらも優雅な展望車があり、かなり速度が速い。美しく、居心地がよく、非常によく整備された日本の旅に、私はおおいに満足した。メローヴィチはいいやつだ。展望車のデッキの肘掛椅子に腰を下ろしながら特急列車で日本を旅し、ドビュッシーの『花火』について語る日が来ようとは、エシポワ先生の教室で学んでいた頃は思いもしなかったと二人で笑い合った。

 私の日本円は確実に減りつつある。もしストロークが信用できなかったとすれば、私の立場は危機に瀕していたにちがいない。

スフチンスキーへの手紙

1918-06-11 | 日本滞在記
1918年6月11日(旧暦5月29日)

 メローヴィチとピアストロ、ストロークは、コンサートを開くために京都と大阪に出かける予定だ。メローヴィチが私にも来ないかと言う。どちらも歴史ある本物の日本の都市で、とても好奇心をそそられる。東京ではどのみち何も用がない。そもそもストロークが七月六日まで何も手配しないのであれば、私には丸一ヵ月することがないのだ。しかし彼が言うには、日本では東京の帝国劇場から始める必要があり、六日以前の帝劇はとれないのだそうだ。アメリカも八月末以前に行く意味はない。となれば、日本と仕事を楽しもうではないか。

 P.P.スフチンスキー〔ピョートル、1892~1992。音楽評論家・音楽史学者〕へ。

「親愛なる友よ。もう二週間も日本帝国の首都で生活を楽しんでいる。日本の美しい場所を見てまわるつもりだ。その後いくつかコンサートを開き……さらに遠く、もっと遠くへ! お元気で。S.P.」

ロシア大使館

1918-06-10 | 日本滞在記
1918年6月10日(旧暦5月28日)

 二度目のロシア大使館。今回は、私がそれなりの作曲家だと聞き知って、驚くほど親切に扱われ、ワシントンのロシア大使館宛ての紹介状をくれた。オボリスキーにこの紹介状とともに、マク・コーミク宛ての手紙と尽力の結果を知らせる電報代として20円を渡した。彼は一ヵ月後にビザが手に入るよう全力を尽くすと約束してくれた。

 ロシア大使館では、アリアドナ・ルマノヴァのことも知らされた。大使館の二等書記官ベール伯爵が少々悪意をもって述べるには、アメリカでは「ルマノフ」は「ロマノフ」と似ているので、皇族の、おそらくは庶出の子孫ではないかと思われているという。

米国ビザ

1918-06-09 | 日本滞在記
1918年6月9日(旧暦5月27日)

 オボリスキーという青年を紹介されたが、彼は親切にもアメリカのビザの手配を世話すると申し出てくれた。あさってニューヨークに発ち、現地で大使館やロシアの然るべき要人たちに連絡してくれるという。私は喜んで彼にすがり、ビザのために尽力してくれるよう頼んだ。

『許しがたい情熱』をこつこつ書いている。
 バイオリン・ソナタは、はかどらない。

帝劇公演決定

1918-06-08 | 日本滞在記
1918年6月8日(旧暦5月26日)

 ロシアからの連絡(電報)が、もう十日も途絶えている。イルクーツクでボリシェビキとチェコスロバキア軍団が衝突したからだ。

 私の計画はかなり先が見えてきた。ストロークは七月六・七日に帝国劇場をおさえ、そのあとで一連のコンサートを予定している。そしてもし1700円(とビザ)が手に入れば、私はニューヨークへ行き、一ヵ月滞在するつもりだ。もしニューヨークで連続コンサートを開けることになったら留まるだろうし、もしそうでなければ十月までに上海に戻って、交響楽コンサートを開くことになるだろう。

 もし確実にコーシツかコハンスキー〔パーヴェル、1887~1934。ポーランド出身のバイオリニスト。ぺテルブルクとキエフの音楽院で教師を務めた〕が来るのであれば、アメリカを捨てて、東洋の残りのコンサートのために留まる意味があるのだが、ロシアと連絡がとれない状況とあってはどちらも当てにできない。となると、アメリカに賭けるしかない。それにもまして私にとっては、アジア人や半ヨーロッパ人より、理解のある聴衆の前でコンサートを開くことに大きな意味があるのだ(もっとも、アメリカの聴衆の理解力もさほどあてにしていないが)。

スケルツォ

1918-06-07 | 日本滞在記
1918年6月7日(旧暦5月25日)

 短編小説《Преступная страсть(許しがたい情熱)》を書き始めた。

 バイオリン・ソナタ。スケルツォが、つまらなく間の抜けたものになっていないだろうか? とにかく書くならいいものにしなければ。でなければまったく書かないほうがいい。昼はオセ・アイコ氏〔おそらく尾瀬敬止〕を訪ねた。バリモント〔コンスタンチン、1867~1942。銀の時代を代表する詩人〕から手紙を預かってきたのだ。彼はロシア語を話し、ロシアについての新聞を日本語とロシア語で発行している。バリモントに首ったけだ。まあ、さして面白くもなし。

 アリアドナ・ニコラーエヴナ〔知人のピアニスト〕、夫の名でルマノヴァは、最近、日本経由でアメリカに行き、あいも変わらず当地をひっかき回していったそうだ。マクス・シュミトホフと一緒に彼女に手紙を書いた頃、彼には想像できただろうか? 月日は流れ、あれから5年後、私が東京の大通りを二人の日本人ジャーナリストと歩きながら、「偉大なる窓」〔日本〕からアメリカに転がり出ていったアリアドナの話をすることになるなんて。マクスならきっとこう言っただろう。「そりゃすげえ!」と。アリアドナは当地のどこかで演奏したが、日本人に言わせると、指ではなく「顔」で弾いていたという。

 今朝、警官が訪ねてきて、船を降りた時と同様、またもや根ほり葉ほり質問された。職業は、目的は、出身は、父親の職業は、などなど。しかしこんなことを気にしても始まらない。みんな同様に扱われているのだから。警官が二十人ほどのリストを見せてくれた。アメリカ人もロシア人も、皆ホテルに泊まっている客たちだ。

日本女性

1918-06-06 | 日本滞在記
1918年6月6日(旧暦5月24日)

 午前中、ソナタを書いた。午後は、東京のヴィソツキー宅を訪ねた。東京の人たちは洒落ている。ストロークはメローヴィチのコンサートを開くために神戸に出かけた。私についての長い記事が東京の各新聞に載った。夜は日本女性。だが用心しすぎて満足できなかった。

バイオリン・ソナタ

1918-06-05 | 日本滞在記
1918年6月5日(旧暦5月23日)

 ストロークが私のところに朝食をとりにきた。彼はコーシツに電報を打とうとしているが、彼女が来るとしたら彼ではなく、私の呼びかけに応じてだ。しかし私が声をかければ、彼女はまったく別の意味にとるだろう。それに私はまだ北米行きの考えを捨ててはいなかった。

 バイオリン・ソナタを少しずつ書き始め、短編小説を引っぱり出した。夜は色とりどりの灯りがともる銀座を散歩した。カフェー「シンバシ」で夕食をとった。

 ストロークが私に、メローヴィチとピアストロは本当に偉大な芸術家だろうかと尋ねた。いい芸術家だが一流ではない、と私は答えた。ほかに言いようがあるだろうか? 彼はまた、二人はモスクワやペトログラードで成功するだろうかと尋ねた。私の答えは「いいえ」。はたして嘘をついて「はい」と言うべきだっただろうか? どのみち彼らはもうこの地で名声を築いたのだ。