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プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

娼館ナンバーナイン

1918-06-04 | 日本滞在記
1918年6月4日(旧暦5月22日)

 ストロークのところで昼食をとった。私にやけに媚びへつらう。このポーランド系ユダヤ人の興行師は、まともな芸術家だけを相手にすることに熱を入れている。彼は私と仕事をすることを大いに望んでいるが、アジアの国々で真の成功を収めるには、ペアでリサイタルを開いたほうがいいと言う。もし私が素晴らしい歌手(例えばコーシツか)と組むとなったら、彼は秋に日本、中国、はてはインド(!)で60回以上のコンサートを開きたいようだ。

 アメリカかインドか? コーシツを確保するのか? 夜、ピアストロとメローヴィチのコンサートに行った。印象は悪くない。聴衆は洋装でお洒落だし、演奏も悪くないし、プログラムもいい。メローヴィチは一流ピアニストとはいえないが、悪くない。ピアストロは素晴らしいバイオリニストだ。彼のために、バイオリン・ソナタを作曲したらどうか。

 夜、メローヴィチとストロークと一緒に、「ナンバーナイン」とやらを見に出かけた。メローヴィチは結局途中で脱落したが、私とストロークはたどり着いた。そこは何のことはない、日本人用とヨーロッパ人用の部屋がある娼館だった。我々を迎えてくれたのは年とったおかみで、私に言わせれば「ホッテントット」だった。それから四人の日本女性が姿を現したが、そのうちの二人はとても可愛らしかった。この四人の若く、とてもよく躾けられた女奴隷たちは、かしこまって入ってくるとお辞儀をし、壁際に並んだ。彼女たちに何かのシロップをご馳走し(しかも彼女たちはコップを手にして掲げると、我々の健康を祝して一口で飲み干し、テーブルの上に置いた)、十分後、我々はその場を去った。下心はなく、単なる好奇心だった。

 ペトログラードのA.N.ベヌア〔主に舞台美術を手がけた画家〕へ。

「敬愛するA.N.さま。〔絵葉書の〕表にある清水寺をご覧いただくとおわかりのように、ここまで無事たどり着きましたし、ここはいいところです。あなたとご家族の皆様に心穏やかにご挨拶いたします。コンサートを開き、何週間か滞在します。サーシャ-ヤーシャへの手紙は、近いうちに北京に行く人に託せなかった場合は、ポストに投函しておきます。心から愛をこめて。S.P.」

銀座を歩く

1918-06-03 | 日本滞在記
1918年6月3日(旧暦5月21日)

 横浜のヴィソツキー(メイエルホリドから手紙を託された)のところで朝食をとった。やはり船はまるでなかった。それにもし北米を経由するなら、北米のビザが必要だが、ロシア人がそれを手に入れるのは不可能に近い。

 ストロークとメローヴィチは、八月にニューヨークに行くよう薦めてくれた。ロシアの芸術家があまり受け入れられていないというのは事実ではない。ジンバリスト〔エフレム、1889~1985。ロシア生まれの著名なバイオリニスト。米国に亡命〕、エルマン〔ミーシャ、1891~1967。ロシア生まれ。アメリカで活躍した名バイオリニスト〕、アウエル〔レオポルト、1845~1930。ハンガリー出身、ぺテルブルク音楽院教授を務めた名バイオリニスト。米国に亡命〕はけっこうな実入りを得ている。もっとも、ここでコンサートで景気づけをしてから、ニューヨークに行くのもいいではないか。そもそもアルゼンチン行きを思いつく前は、そうしたいと考えていたのだから。

 夜、街の中心地、銀座を歩いた。華やかで賑やかで、たくさんの小さな灯りに照らし出されている。活気があって楽しいところだ。これで可愛い日本人女性がいたらいいのに。

横浜グランドホテル

1918-06-02 | 日本滞在記
1918年6月2日(旧暦5月20日)

 四時にメローヴィチ、ピアストロ、ストロークとお茶を飲んだ。私は最初、二流どころの芸術家二人と、当地でのコンサートの舞台で一緒にされ、彼らの助言や要望を聞かなくてはならないかと思うと何やら不愉快だった。しかし彼らは感じがよく控えめで、とにかく楽しく人のいい連中だったので、すぐに楽しく打ち解けた雰囲気になった。ストロークはぺこぺこして、一週間後にメローヴィチとピアストロとの仕事を終えたら、東京と横浜で私のコンサートを開く算段だと告げた。残念なことに、上海でのシーズンは終わってしまった。そうでなければ連続コンサートを開けたのに。夜はメローヴィチと彼のファンとその女友達――ひどくいたずら好きなご婦人二人――と一緒にカフェー・ライオンに出かけ、個室でえらくふざけた。

 ペトログラードのB.N.ヴェーリンへ。横浜にて。

「親愛なるボーレンカ。東京から電車で50分、横浜のグランドホテルのベランダに座っている。近くには澄んだ穏やかな太平洋が広がり、二、三万トン級の巨大な船が何艘か桟橋を飾っている。カフェーでは日本人が深々とお辞儀をし、私に敬意を表する。隣の席から『ダブル』と声がする。ロシア人亡命者達がブリッジをしているのだ。私の船は三日前にバルパライソに出発してしまったので、しばらくここにいる。コンサートを開く予定。抱擁を贈る。S.」

東京~横浜

1918-06-01 | 日本滞在記
1918年6月1日(旧暦5月19日)

 朝五時、東京着。東京ステーションホテルに部屋をとる。駅の真上にある、とてもいい洒落たホテルだ。しかし真っ先に私の目に飛び込んできたのは、東京汽船会社のバルパライソ〔南米チリの港町〕行きの船についての知らせだった。船は三日前に出航し、次は二ヵ月後だというのだ! なんてこった! 確かに出航済みの船は、サンフランシスコをはじめアメリカ西海岸の各港を経由するため69日間もかかるが、8月2日には着くだろうし、料金も500円ですんだのに。私にとって好都合で唯一の慰めだったのは、おそらく一週間前でもチケットは一枚もなかったことだろう! ここでは一ヵ月前に手配しなければならないのだ。そうこう考えながらだだっ広い東京を散策し、そのあと風呂に入り(蒸し暑い気候のせいで汗だくになってしまい、ミーレル式のマッサージができなかった)、電車で横浜に出かけた。

 ああ、横浜で太平洋の静かで澄んだ海面を初めて見たときの、深い感銘といったら! これは単なる海ではなく、まぎれもなく偉大なる太平洋だと痛切に感じた。
 我々は丁重でへつらうような使用人というものをすっかり忘れていた。ここ日本の従業員は、ブレックファストの席で何度もお辞儀をし、あれこれと気を使いながら天気が悪いことを詫び、私のお世話をさせていただく名誉に謝意を表する。スモーキング・ルームでは、両脇にクッションを置いてくれる。とても感じがいいし、どの国にもその国の流儀がある。だが、正直に言ってこれはやりすぎだ。

 横浜ではまず、新しい黄色い靴を喜び勇んで買った。その後、船会社をいくつもまわり、アルゼンチン領事館に行き、いつどんな船が南米に行くか調べてみた。けれども、どこに行っても結果は不愉快きわまりなかった。船旅は時間がかかるし、近々出る船の予定はないという。
 今日は土曜だったので、午後一時にはどこも閉まってしまい、月曜まで開かない。いい知らせが何もないまま、二日間手持ちぶさただ。
 その時、ポスターが目に入った。「メローヴィチとピアストロ演奏会、興行師ストローク」。〔当時の表記では、Merovichはミロウィッチ〕念ずれば通ず!
 ストロークは、東アジアやジャワ、シャムといったエキゾチックな国で最も活躍している興行師だ。彼の拠点は上海で、私はある意味彼がいるがために上海へ行こうと思っていたのだ。それが今、私も彼もここにいる。

 じきに横浜グランドホテルでメローヴィチとばったり出会った。彼はエシポワ先生〔1851-1914、著名なピアニスト、ペテルブルグ音楽院教授〕のクラスを、私が入るのと入れ替わりに優秀な成績で卒業している。私のことはほとんど知らなかったが、東洋に六年暮らしていれば、私の噂を聞くことなど稀だろう。ちょうど彼の兄弟から、上海で手紙を渡してくれと頼まれていたので、メローヴィチはすぐに手紙のことも私のことも喜んでくれた。メローヴィチも、私の古い同級生(音楽院の初等クラスの)であるピアストロも、東アジアで大きなキャリアと資産を築き、今はこちらで大金持ちになって暮らしている。メローヴィチいわく、ストロークは二人に頼りきっているが、二人が彼に頼っているわけではないという。メローヴィチは私に、日本と東洋でストロークの手配で、彼らの次に一連のコンサートを開くことを薦めてくれた(二人は二ヵ月休んでからジャワに行く予定なので、メローヴィチはもちろん喜んでストロークを紹介してくれるという)。彼らはアジアでは、上海で18回、ジャワその他で60回コンサートを開いていた。なるほど、アメリカの空を飛ぶツルより、アジア沿岸で確実なシジュウカラを捕まえたほうがいいというわけか? こんな熱帯の中心を旅するのも、アメリカに劣らず面白そうだ。いずれにしても、ロシアに別れを告げた時からすでに考えていたことでもあるし、南米行きの船がない今、ここでの興行の可能性があるなら考えてみる必要がある。もういいかげん、お金が足りるかどうか数えては節約するのがいやになった!

敦賀上陸

1918-05-31 | 日本滞在記
1918年5月31日(旧暦18日)

 朝、甲板に出ると、もう敦賀に近づいており、両側に高く険しい山並みが見えた。残念ながらこの日、日出づる国では、日は雲に隠れていた。緑豊かで険しい山々は、我々にとっては珍しく、山の下にはおもちゃのような小さな村々が見えた。敦賀では警察の取調べに長時間悩まされた。行き先は、目的は、身分は、父親の身分は、知り合いは、所持金は……等など。そのうえ君主制の原則で、まずは一等クラスから始め、次に二等だ(ロシアなら三等クラスから始めるのに)。そのため一等船客の数人だけが、東京行きの特急列車に間に合った。私はといえば、午後一時の郵便車両つき列車で行くはめになった。日本の地を踏んで、私は特別な満足感を抱いている。いつものことだが、外国に出ると新しい多くのことを期待する。今、監獄のようなロシアのあとで、戦争も革命もない、花咲き匂う国にやってきたのは、ヴァカンスのようなものではないだろうか?

 私は敦賀周辺の草木が生い茂る山を散策し、空想をめぐらせた。その後、日本人が引くリキシャという二輪車で駅に向かった。人に運ばれるのは恥ずべきことだが、その男は乗ってくれと懸命に頼み、私が乗ると大喜びしたので、20分走って40銭の稼ぎを得るのも当然に思えた。列車は最初、ロシア人でいっぱいだった。それから一時間後、東京行きの直通列車に乗り換えると、洒落た一等車は広々として乗り心地がよく、しかもこのおもちゃのような列車は、時おり本物のイギリスの特急列車のように猛スピードで走った。私は自分が日本に魅了されるとは思ってもいなかったし、シベリア東部を占領しようとする日本人に少し腹を立ててさえいた。しかし、日本のように素晴らしい国は見たことがないと言わねばなるまい。魅惑的な険しい緑の山々が、ちっぽけな四角に区切られ、かくも愛情こめて丹念に耕された田畑と交互に続いている。まったく、土地問題を抱える我ら同志諸君は、日本をひと巡りしたほうがよかろうに!

鳳山丸

1918-05-30 | 日本滞在記
1918年5月30日(旧暦17日)

 よく眠れなかった。船室が狭いからだ。なにしろ四人部屋にプラス子供二人鳳山丸は2340トン、速度12ノット。海は穏やかで、霧が深い。オホーツク海からの冷たい海流が、黒潮の暖流と交わり、そこから蒸気がたちのぼっているのだ。そのため気温が一日のうちに、冷涼から温暖へと瞬く間に変わった。夕方にかけての変化は素晴らしかった。暖かく、上天気になった。暖かい海に入ったのだ。

 気分がよく、夢見るようだ。夜は物語の結末を考え、星を眺めた。


出航

1918-05-29 | 日本滞在記
1918年5月29日(旧暦16日)

 船のキャビンは事前に割り当てられていたが、コネで二等クラスを手に入れた。三等クラスでもしかたがないと思っていたので、大層嬉しかった。しかし日本円がひどいことになり、乗る直前になって5ルーブル60カペイカ! つまり1ドルが11ルーブル20カペイカ……最悪だ。私が両替したのは2500だけ、残りは帽子の中にある。船上で検査されて逮捕されるのではないかと不安だったが、何事もなし――カバンも開けられなかったし、何ひとつ尋ねられることもなかった。おかげで船が岸を離れても、本当に困難を脱したとはまだ信じられずにいた。船の士官と話をしているうちに、もう3マイルだ。

 そんなわけで、さらば、ボリシェビキよ! さらば、同志諸君よ! これからはネクタイをして堂々と歩けるし、誰にも足を踏まれなくてすむのだ。

日本ビザ入手

1918-05-28 | 日本滞在記
1918年5月28日(旧暦15日)

 ビザが手に入った。新聞社の編集者が私のために明日の船の切符を手配し、円を両替してくれることになったが、円が高騰してなんと5ルーブルになってしまった。こともあろうに私が来たとたんに! そこでお金を半分に分けることにした。半分で円を買い、残りの半分は帽子の裏地の下に隠して、こっそり持ち込むのだ。税関の検査は厳しくないという話だから。
 小説は着々と進んでいる。今日書き終わると思ったが、頭が痛くなりそうな気配なので、最後の章で筆を置いた。

 タガンログの友へ。

「愛するボリス〔ボリス・ヴェーリン〕君、日本のビザも日本の円も、みんな手に入りました。明日の正午、鳳山丸に乗り、二日後に横浜に着きます。さらばロシア、さらば古き夢よ、新しい国よこんにちは! S.P.」

戦艦朝日とオリョール号

1918-05-27 | 日本滞在記
1918年5月27日(旧暦14日)

 今日は日本海海戦十三周年の日。それにしてもウラジオストックの港に戦艦朝日と、その朝日に拿捕された軍艦オリョール号が、今や両船とも日本の警備艇として並んで停泊しているのを見るのは妙なものだ(そのうちにウラジオストックを占領するのではないだろうか?)。

「夢」の話をかなり楽しんで書き、《Какие бывают недоразмения(誤解さまざま)》とタイトルをつけた。だいぶ前から、舞台はノルウェー、主人公は堅物の技術者……という設定で真面目な調子で書こうとしてなかなか書けなかったが、もっと冗談めいた調子をつかんでからは、たちどころに仕事がはかどった。

未来派の夕べ

1918-05-26 | 日本滞在記
1918年5月26日(旧暦13日)

 今日は自作の物語に取りかかった。「夢」をモチーフにした話を威勢よく書きだした。気分もじきにかなりよくなる。
 午後は競馬場に行った。バリモントの友人ヤンコフスキー夫人の馬が出場し、賞をとった。スタートの瞬間は面白かったが、一、二時間もすると、あとは退屈だった。

 地元の未来派の夕べに出席。彼らは本物の未来派のような活躍を目指しているが、その作品はずいぶん無邪気なものだ。私は地球議長、すなわち彼らの直接の指導部として喝を入れようとしたが(というのも本場イタリアの未来派には素晴らしい規律があるから)、はたして効果があったものか。