エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

ジンギスカン

2020-07-12 08:35:20 | 日記

私は港町に生まれ育ったので、食卓に上る“”は昔から豊富にあったと思います。 しかし、魚に関して良いイメージはありません。 近くの港から漂う魚の腐敗臭は、子供の頃から嫌いでした。 また、祖母が作る煮干(イリコ)を山ほど使った味噌汁は、苦くて飲めませんでした。 そんな事で、今でも魚は好物ではありません。 私の栄養源は、昔から“”でした。 北海道と言えば、勿論 “ジンギスカン”です。 小学生から中学生までの成長期、羊さんには申し訳ありませんが何頭も食べてしまいました。(合掌)

 

昔は、町の肉屋で週に一度 新鮮な“マトン”を販売していました。 その日は、決まって“ジンギスカン・パーティー”です。 今なら、モヤシやタマネギなどの野菜を添えるのですが、当時は“肉のみ”・タレも“醤油のみ”でした。 それと“丼飯”、飲み物は“水”。 シンプルが良かった!
茶の間に新聞紙を敷き詰め、七輪の上にジンギスカン鍋を置いてマトンを焼くのですから、家中が煙に包まれます。 その中で、父と弟と私がジンギスカンを貪る様に食べるのですから、匂いを嫌う母と祖母は堪りません。 いつも、二階で焼肉パーティーが終わるのを待っていた様です。 そんなジンギスカンを、週一で何年も続けてきたのですから、家の中は油まみれでした。

昔話とは言え、近所迷惑を無視した田舎の“食文化”でした。 都会では、考えられない風景だと思います。 それゆえ、北海道だけで流行った? 現在は、火力の弱いホットプレートで“ジンギスカン鍋”を代用しています! 

◎ 道東・白糠町の“めん羊牧場”

また、にも思い出があります。 昔から 漁業にしろ農業にしろ、組合を通さない売買(闇取引)は禁止されていました。 しかし、米や魚など知り合いに安く売ってあげたいと言う人情が、田舎では色濃くあった様です。 私が小学校(低学年)の頃、正月が近づくと家から10キロ程の養豚場に、最終バスで手押しのソリを積み母と向かったものです。 目的は、で豚肉を買う為です。 警察の目を盗んでやるですから、解体した豚肉を買って帰ると言う訳には行きません。 真っ暗になるのを待って、解体作業が始まります。 その間、私と母はストーブのある作業員の休憩所で待機しなければなりません。 そこでは、豚の断末魔の悲鳴が聞こえてくるので、平常心ではいられません。 間もなく入口が開いて、家主が豚の頭を持って「これが今潰した(解体した)豚だ」と、私の前に置いていくのですから堪りません。 大人の悪ふざけにしても、度が過ぎます。 気の弱い子供なら、卒倒します。(笑)

豚の解体が終わり、厚い紙に包まれた豚肉を手押しのソリに乗せ家路を急ぐ訳ですが、やはり人の目が気になります。 人が来たら豚肉の上に乗る様に、母から言い渡されていたのですが、生暖かい肉にまたがるのは気持ちが悪いものです。 あの生首を思い出します。 そんな経験が、一学年下の弟と交代で何回かありました。 危険を冒して買ってきた30キロほどの豚肉は、全て我が家で食べる訳ではありません。 近所の方に量り売り(小売)し、僅かながら家計の足しにしていた様です。