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橋が繋ぐ

2021-07-09 11:39:36 | 自転車で神田川

 

 お茶の水橋から谷を覗くと、御茶ノ水駅でバリアフリー化に向けた工事が行われていました。


 完成予定は2023年だそうです。

 


 外堀通りを東へ進み、聖橋を抜けた場所で橋を見上げると聖橋は綺麗な放物線を描いていました。


 下流部に東京メトロの橋梁が架かり、今まさに地下鉄丸ノ内線の電車が走り抜けてゆきます。


 この電車は、霞が関から新宿を抜けて、荻窪まで走り続けます。

 

 

  
 外堀通りの相生坂を下りきった場所に昌平橋が架かります。


 御茶ノ水駅を出た総武線が、川の上に橋梁を架けて、秋葉原駅へと鉄路を伸ばしていました。


 川の対岸には中央線の前身となった、甲武鉄道の万世橋駅の一部だった赤レンガが見えます。

 


  昌平橋の説明が掲げられていました。


 そこに示された1850年(嘉永3年)の絵がとても興味深いので、拡大しました。


 説明文には

 「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1924~44年(寛永年間)に架けられたと伝わります。

 

 橋際から駿河台に登ると、一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。

 

 他にも、相生橋という呼称もありました。

 

 その後、1691年(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子生誕地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。

 
 少し下流にあった筋違門(すじかいもん)とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。」

 

 と記されています。

 

 

   
 上の絵に、下の現在の景色を重ね合わせ、何だかクラクラするような、不思議な感覚を味わいました。


 後100年もしたら、この景色はどう変わっているのでしょうか。

 


 そして同じ場所に、神田旅籠町を説明する一文が掲げられていました。


 「この周辺は、かって神田旅籠町と呼ばれていました。

 

 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。


 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。

 

 また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。

 

 こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです・・・


 街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。」 


 そうだったのですか!


 頭の中で次第に、江戸の街のジオラマが浮かび上がってきます。

 


 そんな昌平橋を支える石壁にヒメツルソバが花を咲かせていました。


 ヒメツルソバはヒマラヤ原産のタデ科の多年草ですが、園芸用に日本に導入され、今は野生化して、都内のあちこちで花を見かけます。金平糖のような花の形が人々に好まれます。


 そのうち、クローバーの花のように、日本の日常に定着すると思います。



 

 

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