宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

さやけき生命(2)

2021-02-17 05:42:59 | 祈り
       (前日からの続き)
ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済というものがあり
雑事があって、また、肉体を持っているから、
食べたり飲んだりしゃべったりしなくちゃ
ならなくて、雑事を片付けてるひまに、祈り
というのがどこかへ行ってしまう。
本体は祈ってるんですが、肉体の方は雑事を
優先してしまう。
本体は、肉体の我々がどんなに雑事にまぎれて
いようが何していようが、祈って祈って
祈り抜いているんです。
見えていないけれども、ずっと祈り抜いている
わけですね。
だからその祈り抜いているいのちというものが、
常に神様と出会っているし、神様と話を
しているし、神様といろんなことを語り合って
いる、呼び合っている。

そうでないと人間は生きてゆけないんですね。
我々のもとのもとは、神様の愛によって
生かされているわけで、その清(さや)けきいのち
というのは、自分の中にあるんです。
自分の中というのは、肉体の中という意味じゃなくて、
自分の本体、神様から分けられて来た光の中に
あるわけですね。

そのことを知っている人は少なかったんですが、
今はもうそんなことを言ってる場合じゃなくて、
いろんな人が印を降ろしたり、光を降ろしたりして、
実際に我々が神様のもとにある生命なんだと
わかってきた。
我々のいのちの親というものが神様であって、
その神様の大宇宙神の目指しておられるところは
大調和であり大愛であって、我々は大愛の子
なんですよね。
大愛の子というのは敵も味方もない。
大愛の子のみんなが、世界人類が手を取り合った
時には、真実の平和が築かれていかないと
うそになる。
そこで争いなんか起こって来たらこれはもう
うそになるんですね。

それでも起こって来ることがある。
つまりそれは、平和の祈りが足りないからだと。
足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。
ところが、そこに想いを向ける自分が足りない。
肉体が悪いわけではないけれども、何が
足りないのかというと、自分が肉体だけの
生命ではない、自分は神様の愛によって
生かされていて、神様から来たものであって、
その神様というのは、我々の大きな器を与え
光を満たして下さっている。
そういう時間が非常に少ない。
だから足りなくなって来る。

こんなんでいいのかと思う。
こんなんでやっていけんのかと思う。
月給が入って来ない、いろいろと
どうしようかなと思う。
これ全部消えてゆく姿ですよね。
たとえお金が無くても、光が入っていることに
気が付けば、お金なんてものはあとからついて
来るんだけど、人間というのは、やっぱり
生活してゆかなくちゃいけないから、お金が
無かったらやっていけるのかと思うことが
先にあって、光が入っていることには
気が付かない。
光を糧(かて)にしてゆくとお金が逆に入って
来る。
生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。
逆なのね。
皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。
         (つづく)