引っ掛(かか)らず生きてゆくということは
非常にむつかしいんですね。
何もうまくゆかないとか、どうしたらうまく
ゆくだろうとか、そういうことばかり
考えるように人間というのは出来てる。
というか、そういう想いの習慣で
来てしまっている。
そうですね。
ところが、神様の世界の中では、うまく
ゆくもゆかないも、ちゃんともう備わって
いて、そのままゆくようになって
いるんですよ。
人間の方が、あれやこれや思い悩んで、
奥のものを見るということがだんだん
なくなって来てる。
そういう習慣をつけるということが、昔は
あったんだけれど、今は少なくなって来た。
そういうことで、なんかこう静か心という
ものが無くなって来た。
静かに自分の裡(うち)を省(かえり)みる
とか、自分という存在は何だろう
というようなことを見つめることが、
少なくなって来てるんですね。
ところが、そういうことが、人間の生命を
養うんです。
つまり、祈りというものが人間の生命を
養ってゆく。
静かに自分を省みて、静かに目を閉じてみる。
そういう時間が本当は自分を養ってゆく。
ところが今世の中はせわしくなっていて、
セカセカ動いている。
セカセカ動かないと、自分が置いて行かれる
ようなスピードで皆んなが動いている
ものだから、自分も動かないと置いて
行かれると感じる。
その繰り返しで、追い付け追い越せですよね。
ところが、神様の世界というのは、何も
しなくても必要なものは全部与えてもらえる。
その代わりに何が一番必要かというと、
神様に向かって素直に神様よろしくお願い
しますという心、それが一番必要なことに
なる訳です。
(つづく)
非常にむつかしいんですね。
何もうまくゆかないとか、どうしたらうまく
ゆくだろうとか、そういうことばかり
考えるように人間というのは出来てる。
というか、そういう想いの習慣で
来てしまっている。
そうですね。
ところが、神様の世界の中では、うまく
ゆくもゆかないも、ちゃんともう備わって
いて、そのままゆくようになって
いるんですよ。
人間の方が、あれやこれや思い悩んで、
奥のものを見るということがだんだん
なくなって来てる。
そういう習慣をつけるということが、昔は
あったんだけれど、今は少なくなって来た。
そういうことで、なんかこう静か心という
ものが無くなって来た。
静かに自分の裡(うち)を省(かえり)みる
とか、自分という存在は何だろう
というようなことを見つめることが、
少なくなって来てるんですね。
ところが、そういうことが、人間の生命を
養うんです。
つまり、祈りというものが人間の生命を
養ってゆく。
静かに自分を省みて、静かに目を閉じてみる。
そういう時間が本当は自分を養ってゆく。
ところが今世の中はせわしくなっていて、
セカセカ動いている。
セカセカ動かないと、自分が置いて行かれる
ようなスピードで皆んなが動いている
ものだから、自分も動かないと置いて
行かれると感じる。
その繰り返しで、追い付け追い越せですよね。
ところが、神様の世界というのは、何も
しなくても必要なものは全部与えてもらえる。
その代わりに何が一番必要かというと、
神様に向かって素直に神様よろしくお願い
しますという心、それが一番必要なことに
なる訳です。
(つづく)