言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、
人間には沢山あります。よく、あの人は論客だ
という言葉を耳にします。たしかに雄弁な人の
言葉は、ちょっときくと耳にさわやかなものです。
しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた
思想や哲学でも、たとえば、人間やいのちという
ものを突きつめてゆくと、どうしても答えが出て
こなくなってしまうのです。
なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、
人間の存在というものを科学的に説明しょうと
するからであって、究極まで参りますと、
おのずから言葉にならない世界に突きあたる
のであります。
そこで、ここからが宗教の領域ということに
なるのでありますが、シュヴァイツァーが、
生命への畏敬といったあの言葉は、科学者として、
また、一人の人間として、実に真理の的を得た
言葉だと思うのであります。
人が、科学の究極まで人間というもの、いのち
というものを、それぞれの分野で追いつめた
その時に、生まれるものは、畏れをもった沈黙
でありますが、生命の畏敬という彼の言葉は、
この沈黙の前に、人間が発した尊い言葉である
と思うのであります。
ところで、ここまでのことではなくても、
人間には、いわくいいがたい思いというものが
ありまして、それは言葉では表わせない
ということがいくらもあるのであります。
目は口ほどにものをいうということは、我々が
日常に経験していることであります。こういう
ときには、我々は、言葉よりも、直接に、相手の
心にじかに、自分の心をぶつけてゆくことに
なるのです。
無言であっても、その無言であることが、
百万言をついやすよりも、その人の心を
あらわしているということです。
私ども、宗教にたずさわります者は、
こうした心、言葉を超えた人間の心
というものに敏感でなければなりません。
心というものを言葉でおおうことは
出来ません。言葉を心でおおうことを、
むしろ、私達は心がけるべきであります。
そして、自分の心と、人の心を大事にして、
ともに祈りの座につきながら、愛という、
人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
昭和61年8月29日
五井 昌久
人間には沢山あります。よく、あの人は論客だ
という言葉を耳にします。たしかに雄弁な人の
言葉は、ちょっときくと耳にさわやかなものです。
しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた
思想や哲学でも、たとえば、人間やいのちという
ものを突きつめてゆくと、どうしても答えが出て
こなくなってしまうのです。
なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、
人間の存在というものを科学的に説明しょうと
するからであって、究極まで参りますと、
おのずから言葉にならない世界に突きあたる
のであります。
そこで、ここからが宗教の領域ということに
なるのでありますが、シュヴァイツァーが、
生命への畏敬といったあの言葉は、科学者として、
また、一人の人間として、実に真理の的を得た
言葉だと思うのであります。
人が、科学の究極まで人間というもの、いのち
というものを、それぞれの分野で追いつめた
その時に、生まれるものは、畏れをもった沈黙
でありますが、生命の畏敬という彼の言葉は、
この沈黙の前に、人間が発した尊い言葉である
と思うのであります。
ところで、ここまでのことではなくても、
人間には、いわくいいがたい思いというものが
ありまして、それは言葉では表わせない
ということがいくらもあるのであります。
目は口ほどにものをいうということは、我々が
日常に経験していることであります。こういう
ときには、我々は、言葉よりも、直接に、相手の
心にじかに、自分の心をぶつけてゆくことに
なるのです。
無言であっても、その無言であることが、
百万言をついやすよりも、その人の心を
あらわしているということです。
私ども、宗教にたずさわります者は、
こうした心、言葉を超えた人間の心
というものに敏感でなければなりません。
心というものを言葉でおおうことは
出来ません。言葉を心でおおうことを、
むしろ、私達は心がけるべきであります。
そして、自分の心と、人の心を大事にして、
ともに祈りの座につきながら、愛という、
人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
昭和61年8月29日
五井 昌久