えー、先日、道ということでお話しを致し
まして、多少、内容が混み入るものですから、
途中で結論的なことを申し上げて確か終わりに
したんですけれども、何を省いたかと
いいますとね、もっとも私の話は省いている
ようにみえて全部いっているんですが─。
それはともかく、この間、結論の中にすでに
含まれていると思いましたのでいわなかったこと─
それは人間、我々人間の救われ方ということに
ついてであります。
世の中には宗教なんかに頼らなくても十分自分の
気持ちだけでやってゆけるという、いわゆる宗教を
毛嫌いする人達をはじめとして、沢山の色々な
立場で生きている人達がおります。
で、この中には無神論者と呼ばれる人達もいる
のであります。この無神論者の人達は目に見える
もの、第一には自己ですね、自分自身を
先ず信じる。これは何と言ったってね、自分
というものが生きて働いているということは
信じざるを得ないことですからね。
逆にいうと、この人達は目に見えないものが
信じられないわけね。しかし、私達がもし目に
見えないものは徹底的に信じない生活を始めたら
どうなるか、空気、風、これらは見えないもの
ですよね、けれども、空気や風をこの世にない
なんて思って生きてる人は一人もいないでしょう。
なぜなら空気は私どもが生きてゆく為に是非とも
必要なものですし、風だってその空気の集まりで、
時には恐ろしいこともあるけれども、春風、
秋風ね、ほほに心地良いなんていいますね。
要するにこの二つのもの、何もこの二つに限った
ことではありませんが、この二つのものは我々の
生活の中で見えていなくても、我々の生命を支えて
いる大事なものだということを無神論者と呼ばれる
人達でさえ感じ、生きているわけです。
そこで、ここまで話してきましてわかったことは、
何も目に見えるものだけを事実、或いは真実
として生きているのが無神論を唱える人達やまた、
唯物主義者などという人々に限られないという
ことです。
我々にとって絶対必要なものは、つまり、目に
見える事実と同じ程、あるいはそれ以上の価値を
持つということをこれらの人々を通して、
私どもは知らされるわけなのであります。
さて、そろそろ話を展開していきましょうね。
いいですか、私の方をよく見て、よく見てっ
たってここには五井先生しかいないじゃないか
なんていう人がいたら、その人も唯物論者の一人
かも知れないね。
まあ、冗談はさておいて、必要ですから
もう一度だけくり返しますと、我々人というのは、
何も目の前にある物や会っている人や、事実、
私ははじめにこれらの人々が信じられる最大の
ものは自分自身だと申しましたけれども、しかし、
たとえば、空気や水や、そういう生きていく上に
これを失ったらどうにもならないものは、事実
以上として認めているわけですね。そう
しなければ生きていけない。
で、ね。
今日は先回の「道」の続き、それから、
その続きというのは、人間の救われ方について
説明をしなかったということを申しました。
ここで、くどい程目に見えるものと見えない
もの、見えていないけれども人が信じられるもの、
について述べたのは、ここから話がややこしく
なるんで、ここの所をはっきり覚えておいて
下さい。
それで、今迄の例で申しますと空気や水をある
と信じることによって、この今、私が言った
人達は救われているわけです。
ところが、この救われ方というのはあくまでも
自己の生存範囲というか、生活範囲の枠の中での
救われであるわけです。
こういう枠を設けて生きている人にとっては、
明日、地球が滅びて空気も水もなくなってしまう
ということが、もし事前に事実として分かったら、
それだけで目の前が真暗になるでしょう。
今迄信じてきた空気や水がなくなってしまう、
それどころか人間の存在そのものがなくなって
しまうわけですから。ということは、我々は何を
拠り所にして生きていったらいいのか─という
ことになるわけですが、もう少し誤解されない
ように、救われ、救いの範囲について説明して
いきましょう。
一体、救いとか、救われの範囲、というのは
これは、人間の側から出ていることです。
神様というのは、本来、枠のないもので、救う
ということについても、誰を救って誰を救わない
という方ではないわけです。ですから、神様側
からすると、救いの対象は無限大、救われ方は
無限定ということなんです。
この救われ方ですが、お金持ちになってそれで
よかったという価値感、それだけが幸福だと思って
いる人は、お金持ちになるということ自体で、もう
救われたと思うのかもしれませんし、又、それは
一面で幸福なことかもわかりませんけれども、
神様の側から見た救い方、あるいは救われ方
というものは、単なる事実、実際に、一つのことが
起こったとか、状況とか、それだけを指している
のではありません。なぜ人を救うのかというと、
それは、人間が本来一人一人神の分霊(わけみたま)
であって、大神様、宇宙神の輝きを現わす生き生き
とした生命の相(すがた)に帰す為であります。
そういう生命の相があるのだ、自分の中に内在
しているのだということを理解させる為
であります。
ですから、この世的にみれば、何と理不尽なと
思われるような運命を最後に受けて死ぬ人が
ありますけれども、それでもその人は神様から
みれば十分な救い、あるいは救われをすでに
受けている、なぜなら、神様は愛そのもの
だからです。
救われ、救いというものは、神様からみれば、
全く公平に与えられるものですが、その現われ方は
むしろ、人間の考える「救い」とは全く逆の形に
なる─そういう人達もおります。こういうことは、
生涯がいよいよ終わりという時に現われてくる時も
あれば、一生のいくつかの時期の中に救いようの
ない事柄、やり切れないものが盛り込まれたり
するわけです。
たとえば、生涯の終わりということで言いますと
それは、我々人間の死に方、死に様、ということに
なるわけですが、よく不慮の事故で死ぬとか、
まじめで誠実な人なのにとんでもない災難に
遭って死ぬとかいう死に方があります。
これなどは、神界の悟った高い魂を持った霊達が
降りてくるということと同時に、何生、何十生
かけて生き徹した本来の命の完成を
目ざすことを目ざして、そういう去り方を
する場合があるのです。
誠に生きている人間の気持ちからは、特に
残された遺族などはたまりませんけれども、大きな
神様の光の流れ、命の完成からいいますと、
そういうことは、常に行われて新しい命、世界を
作り上げていくわけなのです。
まあこれは生き死にに関したことで、極端に
きこえるかもしれませんが、これ程に神様
というのは人間を何生、何十生にわたって守り、
導き、遂にその命が究極の完成を果たすまで、
愛念という光を送り続けられるものなのです。
生命の流れには様々な支流があります。大河
と定められて、どんなに細くても悠々と豊かに
流れていく流れもあれば、流れを途中でせき止め
られて、遂に一本の草にすら生命の輝きを
送れなくなったものまで、実に様々です。
しかし、どの河も生命の本源という同じ源から
発したことは間違いのない事実なのです。本源は
枯渇することがありません。一旦は生命の河の
流れをせき止められたかのようにみえても、
その実、源の源である「生命」は輝きを失うことは
ないのです。
そしてこれは、理不尽なこの世での最期を
遂げるべく定められた人々の災難にもいえる
ことなのです。
この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に
終わったとしても、霊界、神界では悲しむ必要は
全くありません。なぜなら、本来の命に帰り
働く為に仮にこの世での死が用意されたに
すぎないのであります。
このように救い、救われというものは、神様の
側から平等に配分されたものなのでありますが、
現実世界の人間にはそれがみえない。
もっと申しますと、一時みえなくさせられて
いるわけです。それは、人が味わうべき愛別離苦、
あるいは歓喜といったものを十分に味わって、
そこで自らの中に起きる感情の波を経験し生きて
いくことが是非とも必要なことだからです。
この波の中に、真の救い、救われというものも
実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜
という風に真っ直ぐいかないのは、初めから
そこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な
修行というか、そういうものを全部素通りさせる
ことになるわけです。
これでは一人一人が持っている本来の光を
十分に輝かすことはできません、一旦、肉体を
通して浄めていくというのは、一見しますと真理
というものに遠いと感じられがちでありますが、
事実は全く逆なのでありまして、生まれてすぐに
亡くなるとか、人としての意識を持つ以前に
あの世に逝くといった人々は、まことに限られた
浄めの光というものを持って生まれてきた、
特別任務を帯びた人々であるということが
できます。
何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、
両親、家族はもとより、この世の波動の粗さを
光に近づけるという、世の中全体の浄めを行い、
同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている
人々の生命に、深く結びつけるための浄め
なのであります。
さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い
救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など
理不尽にみえるもの)は、それぞれ命に必要な
時期を選んで現われて参りますが、人間の
眼からはこれがそういうものだとわかるのに、
時間がかかるようになっておりますので、十分に
この世の波と闘う用意もでき、又その備えとして
先回申しました「拠り所」、道というものが準備
されているわけなのです。光に変えるための
生命の修行といっても、目に見えないこれらの
ものを肉体をまとった人間がただちに行じ、
行うにはこの世の構造は何段階にも分かれて
いるわけで、又、そうでなくては新しく生まれて
くる生命、又、この世を去って三界に新たに
生命を吹き込む人々を、送ることはとてもできない
のであります。このための道であり、生命であり、
これを支える拠り所であるわけです。
つまり道は、救い、救われを補助するもの
として、我々人間に与えられているものだと理解
されると一番わかりが早いわけです。
この道一つにしましても、一人一人の生命
によって全く違う現われをするのが、神様の芸の
細かい所でありまして、我々はこの神の働きの
細密さに助けられて、真理への道を歩いていると
いっていいのであります。
まして、多少、内容が混み入るものですから、
途中で結論的なことを申し上げて確か終わりに
したんですけれども、何を省いたかと
いいますとね、もっとも私の話は省いている
ようにみえて全部いっているんですが─。
それはともかく、この間、結論の中にすでに
含まれていると思いましたのでいわなかったこと─
それは人間、我々人間の救われ方ということに
ついてであります。
世の中には宗教なんかに頼らなくても十分自分の
気持ちだけでやってゆけるという、いわゆる宗教を
毛嫌いする人達をはじめとして、沢山の色々な
立場で生きている人達がおります。
で、この中には無神論者と呼ばれる人達もいる
のであります。この無神論者の人達は目に見える
もの、第一には自己ですね、自分自身を
先ず信じる。これは何と言ったってね、自分
というものが生きて働いているということは
信じざるを得ないことですからね。
逆にいうと、この人達は目に見えないものが
信じられないわけね。しかし、私達がもし目に
見えないものは徹底的に信じない生活を始めたら
どうなるか、空気、風、これらは見えないもの
ですよね、けれども、空気や風をこの世にない
なんて思って生きてる人は一人もいないでしょう。
なぜなら空気は私どもが生きてゆく為に是非とも
必要なものですし、風だってその空気の集まりで、
時には恐ろしいこともあるけれども、春風、
秋風ね、ほほに心地良いなんていいますね。
要するにこの二つのもの、何もこの二つに限った
ことではありませんが、この二つのものは我々の
生活の中で見えていなくても、我々の生命を支えて
いる大事なものだということを無神論者と呼ばれる
人達でさえ感じ、生きているわけです。
そこで、ここまで話してきましてわかったことは、
何も目に見えるものだけを事実、或いは真実
として生きているのが無神論を唱える人達やまた、
唯物主義者などという人々に限られないという
ことです。
我々にとって絶対必要なものは、つまり、目に
見える事実と同じ程、あるいはそれ以上の価値を
持つということをこれらの人々を通して、
私どもは知らされるわけなのであります。
さて、そろそろ話を展開していきましょうね。
いいですか、私の方をよく見て、よく見てっ
たってここには五井先生しかいないじゃないか
なんていう人がいたら、その人も唯物論者の一人
かも知れないね。
まあ、冗談はさておいて、必要ですから
もう一度だけくり返しますと、我々人というのは、
何も目の前にある物や会っている人や、事実、
私ははじめにこれらの人々が信じられる最大の
ものは自分自身だと申しましたけれども、しかし、
たとえば、空気や水や、そういう生きていく上に
これを失ったらどうにもならないものは、事実
以上として認めているわけですね。そう
しなければ生きていけない。
で、ね。
今日は先回の「道」の続き、それから、
その続きというのは、人間の救われ方について
説明をしなかったということを申しました。
ここで、くどい程目に見えるものと見えない
もの、見えていないけれども人が信じられるもの、
について述べたのは、ここから話がややこしく
なるんで、ここの所をはっきり覚えておいて
下さい。
それで、今迄の例で申しますと空気や水をある
と信じることによって、この今、私が言った
人達は救われているわけです。
ところが、この救われ方というのはあくまでも
自己の生存範囲というか、生活範囲の枠の中での
救われであるわけです。
こういう枠を設けて生きている人にとっては、
明日、地球が滅びて空気も水もなくなってしまう
ということが、もし事前に事実として分かったら、
それだけで目の前が真暗になるでしょう。
今迄信じてきた空気や水がなくなってしまう、
それどころか人間の存在そのものがなくなって
しまうわけですから。ということは、我々は何を
拠り所にして生きていったらいいのか─という
ことになるわけですが、もう少し誤解されない
ように、救われ、救いの範囲について説明して
いきましょう。
一体、救いとか、救われの範囲、というのは
これは、人間の側から出ていることです。
神様というのは、本来、枠のないもので、救う
ということについても、誰を救って誰を救わない
という方ではないわけです。ですから、神様側
からすると、救いの対象は無限大、救われ方は
無限定ということなんです。
この救われ方ですが、お金持ちになってそれで
よかったという価値感、それだけが幸福だと思って
いる人は、お金持ちになるということ自体で、もう
救われたと思うのかもしれませんし、又、それは
一面で幸福なことかもわかりませんけれども、
神様の側から見た救い方、あるいは救われ方
というものは、単なる事実、実際に、一つのことが
起こったとか、状況とか、それだけを指している
のではありません。なぜ人を救うのかというと、
それは、人間が本来一人一人神の分霊(わけみたま)
であって、大神様、宇宙神の輝きを現わす生き生き
とした生命の相(すがた)に帰す為であります。
そういう生命の相があるのだ、自分の中に内在
しているのだということを理解させる為
であります。
ですから、この世的にみれば、何と理不尽なと
思われるような運命を最後に受けて死ぬ人が
ありますけれども、それでもその人は神様から
みれば十分な救い、あるいは救われをすでに
受けている、なぜなら、神様は愛そのもの
だからです。
救われ、救いというものは、神様からみれば、
全く公平に与えられるものですが、その現われ方は
むしろ、人間の考える「救い」とは全く逆の形に
なる─そういう人達もおります。こういうことは、
生涯がいよいよ終わりという時に現われてくる時も
あれば、一生のいくつかの時期の中に救いようの
ない事柄、やり切れないものが盛り込まれたり
するわけです。
たとえば、生涯の終わりということで言いますと
それは、我々人間の死に方、死に様、ということに
なるわけですが、よく不慮の事故で死ぬとか、
まじめで誠実な人なのにとんでもない災難に
遭って死ぬとかいう死に方があります。
これなどは、神界の悟った高い魂を持った霊達が
降りてくるということと同時に、何生、何十生
かけて生き徹した本来の命の完成を
目ざすことを目ざして、そういう去り方を
する場合があるのです。
誠に生きている人間の気持ちからは、特に
残された遺族などはたまりませんけれども、大きな
神様の光の流れ、命の完成からいいますと、
そういうことは、常に行われて新しい命、世界を
作り上げていくわけなのです。
まあこれは生き死にに関したことで、極端に
きこえるかもしれませんが、これ程に神様
というのは人間を何生、何十生にわたって守り、
導き、遂にその命が究極の完成を果たすまで、
愛念という光を送り続けられるものなのです。
生命の流れには様々な支流があります。大河
と定められて、どんなに細くても悠々と豊かに
流れていく流れもあれば、流れを途中でせき止め
られて、遂に一本の草にすら生命の輝きを
送れなくなったものまで、実に様々です。
しかし、どの河も生命の本源という同じ源から
発したことは間違いのない事実なのです。本源は
枯渇することがありません。一旦は生命の河の
流れをせき止められたかのようにみえても、
その実、源の源である「生命」は輝きを失うことは
ないのです。
そしてこれは、理不尽なこの世での最期を
遂げるべく定められた人々の災難にもいえる
ことなのです。
この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に
終わったとしても、霊界、神界では悲しむ必要は
全くありません。なぜなら、本来の命に帰り
働く為に仮にこの世での死が用意されたに
すぎないのであります。
このように救い、救われというものは、神様の
側から平等に配分されたものなのでありますが、
現実世界の人間にはそれがみえない。
もっと申しますと、一時みえなくさせられて
いるわけです。それは、人が味わうべき愛別離苦、
あるいは歓喜といったものを十分に味わって、
そこで自らの中に起きる感情の波を経験し生きて
いくことが是非とも必要なことだからです。
この波の中に、真の救い、救われというものも
実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜
という風に真っ直ぐいかないのは、初めから
そこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な
修行というか、そういうものを全部素通りさせる
ことになるわけです。
これでは一人一人が持っている本来の光を
十分に輝かすことはできません、一旦、肉体を
通して浄めていくというのは、一見しますと真理
というものに遠いと感じられがちでありますが、
事実は全く逆なのでありまして、生まれてすぐに
亡くなるとか、人としての意識を持つ以前に
あの世に逝くといった人々は、まことに限られた
浄めの光というものを持って生まれてきた、
特別任務を帯びた人々であるということが
できます。
何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、
両親、家族はもとより、この世の波動の粗さを
光に近づけるという、世の中全体の浄めを行い、
同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている
人々の生命に、深く結びつけるための浄め
なのであります。
さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い
救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など
理不尽にみえるもの)は、それぞれ命に必要な
時期を選んで現われて参りますが、人間の
眼からはこれがそういうものだとわかるのに、
時間がかかるようになっておりますので、十分に
この世の波と闘う用意もでき、又その備えとして
先回申しました「拠り所」、道というものが準備
されているわけなのです。光に変えるための
生命の修行といっても、目に見えないこれらの
ものを肉体をまとった人間がただちに行じ、
行うにはこの世の構造は何段階にも分かれて
いるわけで、又、そうでなくては新しく生まれて
くる生命、又、この世を去って三界に新たに
生命を吹き込む人々を、送ることはとてもできない
のであります。このための道であり、生命であり、
これを支える拠り所であるわけです。
つまり道は、救い、救われを補助するもの
として、我々人間に与えられているものだと理解
されると一番わかりが早いわけです。
この道一つにしましても、一人一人の生命
によって全く違う現われをするのが、神様の芸の
細かい所でありまして、我々はこの神の働きの
細密さに助けられて、真理への道を歩いていると
いっていいのであります。