人間は本来、霊であり、光そのものなのです。
宇宙神の奥の奥から流れてくる愛によって、
私達は日々瞬々を生かされているものなのです。
だから、この心が、どんなにかなしんでも、
寂しがっても、本体の、光につつまれた光
そのものの自分は、かがやいているんだ
と思うことが、神様と共にいることであり、
いつの間にか、神様の深い深い愛にいだかれる
ことになり、その時、私達は、本当に無邪気に、
神様のふところでやすらがせていただくことに
なるのです。
すべて自分がやるんじゃない。神様がさせて
下さる。我々は、唯、神のみふところの深さを
おもって、どんな時にもやすらいでいればいい。
泪がながれる、ながれるままでいいのです。
淋しくて淋しくてたまらない、そのままの
孤独なたましいを、ありのままで、世界平和の
祈りの中に放り込む時、私達の本体は
光りかがやくのであります。
天の私と、地の私が合体するというのは神様の
みこころのなかに入り、いつのまにか
入らせていただいて、自己という意識もなく、
唯、あるがままにながれる生命そのものをいう
のであります。
その時、人は、姓名などという個々のものを
超えて、神様の愛とともにあり、神様と一体に
なるのであります。そうしますと、いわゆる
想念の波によって、動かされる肉体の心、
肉体波動というものは、全く消えて、肉体に
いながら霊身、神体となり、天と地をつなぐ、
本来の人間の姿となるのであります。
生命というものは、本来明るく、さわりなく、
むじゃきに、神をよろこび、神とともに
生きることを日常とするものであります。(日常
というのは、いわゆる肉体身の、我々の日常では
ありません。)そのことを信じて、素直に明るく、
世界平和の祈りを行じて参りましょう。
宇宙神の奥の奥から流れてくる愛によって、
私達は日々瞬々を生かされているものなのです。
だから、この心が、どんなにかなしんでも、
寂しがっても、本体の、光につつまれた光
そのものの自分は、かがやいているんだ
と思うことが、神様と共にいることであり、
いつの間にか、神様の深い深い愛にいだかれる
ことになり、その時、私達は、本当に無邪気に、
神様のふところでやすらがせていただくことに
なるのです。
すべて自分がやるんじゃない。神様がさせて
下さる。我々は、唯、神のみふところの深さを
おもって、どんな時にもやすらいでいればいい。
泪がながれる、ながれるままでいいのです。
淋しくて淋しくてたまらない、そのままの
孤独なたましいを、ありのままで、世界平和の
祈りの中に放り込む時、私達の本体は
光りかがやくのであります。
天の私と、地の私が合体するというのは神様の
みこころのなかに入り、いつのまにか
入らせていただいて、自己という意識もなく、
唯、あるがままにながれる生命そのものをいう
のであります。
その時、人は、姓名などという個々のものを
超えて、神様の愛とともにあり、神様と一体に
なるのであります。そうしますと、いわゆる
想念の波によって、動かされる肉体の心、
肉体波動というものは、全く消えて、肉体に
いながら霊身、神体となり、天と地をつなぐ、
本来の人間の姿となるのであります。
生命というものは、本来明るく、さわりなく、
むじゃきに、神をよろこび、神とともに
生きることを日常とするものであります。(日常
というのは、いわゆる肉体身の、我々の日常では
ありません。)そのことを信じて、素直に明るく、
世界平和の祈りを行じて参りましょう。