山城知佳子  プカリー水辺の物語 ー

  YAMASHIRO Chikako
水面に漂う水草物語

『鏡』 アンドレイ・タルコフスキー

2009年03月13日 | 映画
エピローグ-そしてはじまり [編集]
『鏡』は、父と母がまだ若く、高緯度地方の夏の白夜の夕暮れの中、田園の草のなか寝そべって、これから(の戯れにより)産まれる子は、男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年の作者と妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、(上記の)来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子等を逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、癇の鋭い若い母親もその事を垣間見、予感しているショットが入る。 十字架の前に赦しを請う、他の男(通りすがりの医師)に心を動かした多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母、を捨てて、もはや性の対象ではない安全な老母と、童年時代の美しい記憶に回帰している、という「エディプス・コンプレックス」的解釈もされている。しかし、映画史に残る名場面、宝石を売りに行った家で、ランプの明りに照らされながら、少年アレクセイが鏡を見つめている有名なシーンで、彼は母を許している(彼が許している、というより、鏡に映った自己の姿・深奥を観照するなかに、「神の赦し、彼らの営みを見守る神、が顕現している。」)という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える。

かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸が、枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出会い別れ、そして新しい未来へと進んで行く。


記憶と現在-永遠と鏡像 [編集]
タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。

『鏡』のなかで、父アルセニーの詩を繰り返し朗読するのは、作者タルコフスキーであるが、父と作者は鏡を通じて、互いに像となっている。母マリアと妻ナタリア(同じ俳優が演じている)も鏡像関係にあり、更に作者と息子イグナート(少年時代の作者とイグナートは同じ俳優である)も互いに鏡像となる。

タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、実は彼の映画の思想そのものが魔術的だと言える。遺作となった映画『サクリファイス (原題:Offret/Sacrificatio) 』においては、この「存在の魔術」が、具体的に描かれることになる。

-Whikipedia-

『さすらい』 ミケランジェロ・アントニオーニ

2009年03月13日 | 映画


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「わたし、もうあなたをあいしてないの」の一言を残して去ったとき「では、どうすればいいんだ?」と疑問を抱いた。最初の答として発表したのが『さすらい』である。ドキュメンタリー(記録)映画出身である彼は、自分のうつろな心の中をドラマに作るのではなく、そのままドキュメントした。
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 アントニオーニの作り方は人物の心の内面に関する映像、セリフと周囲の環境をデータとして並べ、観客に疑問を投げかけ考えさせる。「なぜそうなるか、なぜ愛はこわれていたか?」の理由は示さない。 

『夜と霧』語ること、過去を、現在として、どうつなげるかとして

2009年03月13日 | 映画
アラン・レネのドキュメンタリー映画。
人の記憶について考えている。
私は最近、映画ではどんな方法で「記憶」や「忘却」や「時間」が撮られているのだろうかと、集中的に見始めた。
このドキュメンタリーはアウシュビッツ強制収容所で行われたホロコーストから
10年後に撮影されたという。

アラン・レネが危惧したのは記憶が遠い過去になってゆくこと。10年でも過去になり、人間は忘れていくのか。と思うと驚くけれど、目の前に記念碑になってしまった風景から想像するのは難しい。

 「見かけは真実から遠い」。映画の語りがそう言う。

映像の中で過去と現在が交互にコラージュされる。ここにおいて、やっと時間が続いて見える。

 キュレーターの渡辺さんからお勧めされたアラン・レネ『24時間の情事』に衝撃を受けた。固有の名が消え、記憶されてゆく。細かいところが省略されてゆく。記憶の書き換え。

 
 映像が現実に飛び出してくる。には、。
Night and Fog 5/8



http://www.youtube.com/watch?v=pJcZz4pLGNc

夜と霧
Nuit et Brouillard
監督 アラン・レネ
製作 アナトール・ドーマン (Anatole Dauman)
脚本 ジャン・ケイヨールほか(解説台本)
出演者 ミシェル・ブーケ(ナレーション)
音楽 ハンス・アイスラー
撮影 ギスラン・クロケ
サッシャ・ヴィエルニ
配給 日本ヘラルド映画
(現・角川ヘラルド・ピクチャーズ)
公開 1955年
1961年10月
上映時間 32分
製作国 フランス
言語 フランス語
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『夜と霧』(よる と きり、仏:Nuit et brouillard)は第二次世界大戦中、ナチがアウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所でユダヤ人を虐殺した事実(ホロコースト)を告発したドキュメンタリー映画、記録映画。

題名は1941年12月7日に出されたヒトラーの秘密命令「夜と霧」作戦 (Nacht-und-Nebel-Erlass) に由来する。全32分という短い作品だが、撮影当時の映像のカラーフィルムと、戦時中のモノクロのニュースフィルム・写真が交互に往還するコラージュの手法でナチズムを告発した斬新な表現は、当時、世界に衝撃を与え論争が巻き起こった。日本の初公開時には残虐シーンが過激であるとされて数分のカットをほどこし上映された。監督をつとめたのは、本作で世界的に注目を浴びたアラン・レネ、音楽を担当したハンス・アイスラーはナチに抵抗した作曲家で、敢えて流麗なサウンドをつけている。