愛の賛歌
バーチャル継承 /2008
バーチャル継承
山城知佳子が新しい展開を見せている。「墓庭」シリーズ後となる本展は、四点の写真作品で構成されている。 高齢者の無数の手や腕に絡め取られた、うつろな表情の山城をとらえた作品は、視覚的なインパクトと濃厚な存在感で、見る者の感情を一瞬にして強烈に刺激する。パーソナルスペースを無にし、ほおをゆがませるほどに密着した身体は性的な暴力を連想させると同時に、身動きの取れない不安や閉塞感を抱かせる。一方同作品のモノクロバージョンは、柔らかい陰影によって、記憶に埋もれた情景のように美化され、慈しみに似た穏やかな空気をたたえる。
この両作品の間に、まるでハムレットのオフィーリアを彷彿とさせる16枚の連続写真が並ぶ。アーサ(ヒトエグサ)に覆われた浅瀬を、山城が浮きつ沈みつ漂っている。日没間際の柔らかな光と山城の穏やかな表情、水面とアーサの揺らぎが美しい作品である。流れに逆わらず、水面下に沈んで呼吸を奪われ、アーサに纏わりつかれた姿は、手と腕に絡め取られた先の作品と交錯しつつ、沖縄の姿を連想させる。
本展で最も印象に残ったのが、最後に配された作品だ。一見、記念写真のような何の変哲もない光景に見える。高齢者の方々が山城を囲み、明るく穏やかな表情をこちらへ向けている。対して中心にいる山城のうつろな表情に、最初違和感を覚える。周囲のほほ笑みと柔らかな光はまるで宗教画を思わせる静謐な空気をたたえ、人々の存在は過去の記号としてそこに描かれているだけだ。その中で、山城だけが、こちらを見ている。気づいた瞬間、違和感が明確な恐怖へと変わる。バーチャルな中に孤立する現実。うつろに見えた表情が、現実を前に愕然とする表情のようにも思えた。高齢者の記憶を真に継承できず、その存在のリアリティーを触覚に求めた山城。しかし、この作品の中でリアリティーの所在は反転し、山城のコンセプトを裏切っている。作家の意図せざるものの写り込みが非常に興味深い。
山城はこれまで、沖縄の精神文化の基層とも言える墓や、基地のフェンス、国会議事堂の前でパフォーマンスを行い、自らが沖縄の自画像を演じる事によって、美化され、自らの輪郭を見失い、消費されていく沖縄への痛烈な自己批判と皮肉を突き付けてきた。沖縄を解放したいという思いにとらわれ、場所に縛られて苦しんだという山城。だが「墓庭」シリーズが山城の中で完結を迎え、今回は新しい、自由な境地で制作に挑んだという。
失われつつある記憶、沖縄、沖縄人と自らの隔たりの中へ、山城は身体を飛び込ませ、肌を触れ合わせる事で、形のない何かを受け継ぎ、リアリティーをつかみ取ろうとする。山城は自身の行動を表現の手段とするアクティビストである。新境地に至った山城の、今後の活動に期待が膨らむ。
―大城仁美(県立博物館・美術館主任学芸員)
展評「バーチャル継承」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、沖縄市)
2008.7.28 沖縄タイムス文化面掲載
バーチャル継承
巷では相変わらず米軍の機影に怯える少年というのが沖縄のイメージらしいが、あるいは戦争はやらない方が現実的だと世界は経験しているはずなのに、軍隊を持つ方が理想的だという事にもなっている。
内在する自らの暴力に苦慮している人と、いざとなったら正義のために人殺しも辞さないという人と、暴力を行使するのにいささかの躊躇のない人たちがいる…。いずれにしても困るのは弱い人たちである。
写真に目が止まる。軽い戦慄を覚える。一瞬、複数の男性に襲われる女性に見えたからだ。それはしかし、にわかに何人の老人に顔を包まれている状況だとわかった。 画面左から出てきた手が彼女の顎を掴み、うつむいた顔を無理やり振り向かせようとしているように見えたのが、私の暴力を呼んだのだ。 内在する暴力を、いわば愛の形で現出させているように見えるこのような作品が身近にも出て来た事に感慨する。どこかで見たような気がしたのは暴力のそれであって、おばあさんたちの慈しみを見間違える私の男性性が曝け出されたのだ。
水中からしだいに顔を出した女性の口の周りには海藻が男性の口髭と見紛うかたちで付いている。それはしかし瞬時にオーラルな連想を呼び、ほほ笑みともつかない彼女の表情が私を困惑させる。海水だけでは赤くならない眼と、でもそのくっついた海藻と明らかに魅力的な彼女とが相まって、なぜか可笑しさがこみあげてもくる。我々は彼女をどうしようと言うのだ。これだけあからさまでありながら、水面に浮いた乳房は隠蔽され拒まれている。彼女は誘ってなんかいない、そう思ったのはこの私(たち)であり、さも当然のように視姦していく…。「攻めてきたらどうする」という男に「襲われるのはあなたの母ちゃんや姉妹だったらどうする」と聞けば、大概の男はそんな想定はしてないから口籠り、そのあげく質問をぶつけた方に逆上する。
作品は彼女の賢しらではないところの身体が、生理的意識へと高揚したときに現れるソレによって作品化出来るものなのではないだろうかと思った。それが情緒に流されないのは作家の「私にはわからないことはわからないという事実は変わらない、ということがわかった」という言葉にも表れていると思う。いい加減男は「かっこいい」から「恥ずかしい事」に気づく時が来ている。
間違えばセンチメンタルになってしまう直接戦争をモチーフにして平和を希求するのと違い、戦争そのものを語らなくとも愛(スキンシップ)を伝えることで平和を構築しているところに、アーティストとしての大きな資質と表現がここにある。
―青山英二(美術家)
展評「バーチャル継承」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、沖縄市)
2008.7.29 琉球新報文化面掲載
バーチャル継承
山城知佳子が新しい展開を見せている。「墓庭」シリーズ後となる本展は、四点の写真作品で構成されている。 高齢者の無数の手や腕に絡め取られた、うつろな表情の山城をとらえた作品は、視覚的なインパクトと濃厚な存在感で、見る者の感情を一瞬にして強烈に刺激する。パーソナルスペースを無にし、ほおをゆがませるほどに密着した身体は性的な暴力を連想させると同時に、身動きの取れない不安や閉塞感を抱かせる。一方同作品のモノクロバージョンは、柔らかい陰影によって、記憶に埋もれた情景のように美化され、慈しみに似た穏やかな空気をたたえる。
この両作品の間に、まるでハムレットのオフィーリアを彷彿とさせる16枚の連続写真が並ぶ。アーサ(ヒトエグサ)に覆われた浅瀬を、山城が浮きつ沈みつ漂っている。日没間際の柔らかな光と山城の穏やかな表情、水面とアーサの揺らぎが美しい作品である。流れに逆わらず、水面下に沈んで呼吸を奪われ、アーサに纏わりつかれた姿は、手と腕に絡め取られた先の作品と交錯しつつ、沖縄の姿を連想させる。
本展で最も印象に残ったのが、最後に配された作品だ。一見、記念写真のような何の変哲もない光景に見える。高齢者の方々が山城を囲み、明るく穏やかな表情をこちらへ向けている。対して中心にいる山城のうつろな表情に、最初違和感を覚える。周囲のほほ笑みと柔らかな光はまるで宗教画を思わせる静謐な空気をたたえ、人々の存在は過去の記号としてそこに描かれているだけだ。その中で、山城だけが、こちらを見ている。気づいた瞬間、違和感が明確な恐怖へと変わる。バーチャルな中に孤立する現実。うつろに見えた表情が、現実を前に愕然とする表情のようにも思えた。高齢者の記憶を真に継承できず、その存在のリアリティーを触覚に求めた山城。しかし、この作品の中でリアリティーの所在は反転し、山城のコンセプトを裏切っている。作家の意図せざるものの写り込みが非常に興味深い。
山城はこれまで、沖縄の精神文化の基層とも言える墓や、基地のフェンス、国会議事堂の前でパフォーマンスを行い、自らが沖縄の自画像を演じる事によって、美化され、自らの輪郭を見失い、消費されていく沖縄への痛烈な自己批判と皮肉を突き付けてきた。沖縄を解放したいという思いにとらわれ、場所に縛られて苦しんだという山城。だが「墓庭」シリーズが山城の中で完結を迎え、今回は新しい、自由な境地で制作に挑んだという。
失われつつある記憶、沖縄、沖縄人と自らの隔たりの中へ、山城は身体を飛び込ませ、肌を触れ合わせる事で、形のない何かを受け継ぎ、リアリティーをつかみ取ろうとする。山城は自身の行動を表現の手段とするアクティビストである。新境地に至った山城の、今後の活動に期待が膨らむ。
―大城仁美(県立博物館・美術館主任学芸員)
展評「バーチャル継承」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、沖縄市)
2008.7.28 沖縄タイムス文化面掲載
バーチャル継承
巷では相変わらず米軍の機影に怯える少年というのが沖縄のイメージらしいが、あるいは戦争はやらない方が現実的だと世界は経験しているはずなのに、軍隊を持つ方が理想的だという事にもなっている。
内在する自らの暴力に苦慮している人と、いざとなったら正義のために人殺しも辞さないという人と、暴力を行使するのにいささかの躊躇のない人たちがいる…。いずれにしても困るのは弱い人たちである。
写真に目が止まる。軽い戦慄を覚える。一瞬、複数の男性に襲われる女性に見えたからだ。それはしかし、にわかに何人の老人に顔を包まれている状況だとわかった。 画面左から出てきた手が彼女の顎を掴み、うつむいた顔を無理やり振り向かせようとしているように見えたのが、私の暴力を呼んだのだ。 内在する暴力を、いわば愛の形で現出させているように見えるこのような作品が身近にも出て来た事に感慨する。どこかで見たような気がしたのは暴力のそれであって、おばあさんたちの慈しみを見間違える私の男性性が曝け出されたのだ。
水中からしだいに顔を出した女性の口の周りには海藻が男性の口髭と見紛うかたちで付いている。それはしかし瞬時にオーラルな連想を呼び、ほほ笑みともつかない彼女の表情が私を困惑させる。海水だけでは赤くならない眼と、でもそのくっついた海藻と明らかに魅力的な彼女とが相まって、なぜか可笑しさがこみあげてもくる。我々は彼女をどうしようと言うのだ。これだけあからさまでありながら、水面に浮いた乳房は隠蔽され拒まれている。彼女は誘ってなんかいない、そう思ったのはこの私(たち)であり、さも当然のように視姦していく…。「攻めてきたらどうする」という男に「襲われるのはあなたの母ちゃんや姉妹だったらどうする」と聞けば、大概の男はそんな想定はしてないから口籠り、そのあげく質問をぶつけた方に逆上する。
作品は彼女の賢しらではないところの身体が、生理的意識へと高揚したときに現れるソレによって作品化出来るものなのではないだろうかと思った。それが情緒に流されないのは作家の「私にはわからないことはわからないという事実は変わらない、ということがわかった」という言葉にも表れていると思う。いい加減男は「かっこいい」から「恥ずかしい事」に気づく時が来ている。
間違えばセンチメンタルになってしまう直接戦争をモチーフにして平和を希求するのと違い、戦争そのものを語らなくとも愛(スキンシップ)を伝えることで平和を構築しているところに、アーティストとしての大きな資質と表現がここにある。
―青山英二(美術家)
展評「バーチャル継承」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、沖縄市)
2008.7.29 琉球新報文化面掲載