山城知佳子  プカリー水辺の物語 ー

  YAMASHIRO Chikako
水面に漂う水草物語

展評

2010年02月01日 | 山城知佳子作品集


展評:「貴方を愛するときと憎むとき」新城 郁夫
     挑発的試みとして
     欲望の運動具現化

 人が人に惹かれ、人に触れようとする瞬間に、人はほかなる存在となって私から遠ざかる。
愛することも、憎むことも、おそらくはこの埋めがたい距離において生成する欲望の運動と
言い得るだろうが、このとらえがたい欲望の運動を、アートはいかにして具現化することが
できるだろうか。そうした問いを開く挑発的な試みとして、『貴方を愛するときと憎むとき』
(沖縄県立博物館・美術館)という展示を見ることができるように思われる。
 
 山元恵一の「貴方を愛するときと憎むとき」を仮の源として、城間喜宏、大城皓也、稲嶺
成祚、真喜志勉、喜久村徳男、ファン・リジュン、シマブクロ・アデマール・カズミ、石川
真生、野村恵子といった作家たちの見覚えのある作品が、自在なつながりのなかで新たな相
貌をもって現れてくるさまにも心惹かれるが、ここでは、鷹野隆大の写真「おれと...」
と、山城知佳子の映像「沈む声、赤い息」という新作について特筆しておきたい。
 
 まず鷹野の新作だが、巨きな写真6枚のなかの、不穏なまでにくつろぎに満ちた裸体たちの
慎ましい距離とささやきのなかから、ゆるやかなエロスが生成されていく。特に、裸の男2人
の揺らめく身体を包みこむ皮膚の、そのすみずみを満たす繊細な皺や体毛の流れ、そして、
かすかに触れあいながらこちらをたおやかに見つめるまなざしには、私たちの身体を拘束し続
けているジェンダー規範の暴力性を揺るがす静かな力が潜んでいる。そしてまた一方の山城知
佳子の6分ほどの映像「沈む声、赤い息」は、1人の女性の聞き取ることの困難な呟きから始
まり、その不可知の出来する場所を求めるようにして海の深みのなかにカメラが沈められ、海
底に降り積もっていく幾多の声の揺らめきのなかに、その映像に触れようとする者を引き込ん
でいくのである。そして、ついには、深海のなかで、互いの息を吸い吐く男女とおぼしき2人
の、互いをかき抱く姿が海へと葬り返されていこうとする。

 こうして、鷹野隆大の写真が、無防備なまでにたゆたう男たちの身体の触れあいを通して、
他者を支配していこうとする力を解体し、そして、山城知佳子の映像が、私たちの身体に到来
する他者の不意なる声を通して、他者の所有不可能性を開示していく。私たちが他者に惹かれ
ていくのは、支配と所有が不可能なこの他者への絶対的な距離ゆえであり、この距離ゆえに、
私たちは私たち自身を含めた他者との、エロスに満ちた倫理的関係を生きていくことが可能と
なる。鷹野と山城の新作は、まさに、この倫理への渇望を鮮やかに身体化し、愛と憎しみという
相反する運動にさらされ生きていく、私たちの生を問い返しているのである。
                                   
                                   ー新城郁夫(琉球大学准教授)
                                    2010.1.30付 琉球新報文化欄掲載ー

「沈む声、赤い息」2009/VIDEO/5'55"

2009年12月23日 | 山城知佳子作品集
新作『沈む声、赤い息』(VIDEO/5'55"/2スクリーン)

 前作の「あなたの声は私の喉を通った」から連続する喉の底、声、証言、聞くことなど
の断片的なイメージを紡ぎ構成した新作です。
現在、沖縄県立博物館・美術館の『貴方を愛するときと憎むとき』にて発表中。

 TVモニター2台を使って身体の外の世界・体内の世界を視覚構成して展示しています。
海底は身体の奥深く底、沈む声、陸上から消された聞こえる筈のない声を拾い続けるマイク。
 耳を澄ますことは容易ではない。身体全体を使って喉の底、奥底へと声を拾う旅。


バーチャル継承

2009年02月17日 | 山城知佳子作品集
バーチャル継承 /2008

バーチャル継承
                           
 山城知佳子が新しい展開を見せている。「墓庭」シリーズ後となる本展は、四点の写真作品で構成されている。 高齢者の無数の手や腕に絡め取られた、うつろな表情の山城をとらえた作品は、視覚的なインパクトと濃厚な存在感で、見る者の感情を一瞬にして強烈に刺激する。パーソナルスペースを無にし、ほおをゆがませるほどに密着した身体は性的な暴力を連想させると同時に、身動きの取れない不安や閉塞感を抱かせる。一方同作品のモノクロバージョンは、柔らかい陰影によって、記憶に埋もれた情景のように美化され、慈しみに似た穏やかな空気をたたえる。
 この両作品の間に、まるでハムレットのオフィーリアを彷彿とさせる16枚の連続写真が並ぶ。アーサ(ヒトエグサ)に覆われた浅瀬を、山城が浮きつ沈みつ漂っている。日没間際の柔らかな光と山城の穏やかな表情、水面とアーサの揺らぎが美しい作品である。流れに逆わらず、水面下に沈んで呼吸を奪われ、アーサに纏わりつかれた姿は、手と腕に絡め取られた先の作品と交錯しつつ、沖縄の姿を連想させる。
 本展で最も印象に残ったのが、最後に配された作品だ。一見、記念写真のような何の変哲もない光景に見える。高齢者の方々が山城を囲み、明るく穏やかな表情をこちらへ向けている。対して中心にいる山城のうつろな表情に、最初違和感を覚える。周囲のほほ笑みと柔らかな光はまるで宗教画を思わせる静謐な空気をたたえ、人々の存在は過去の記号としてそこに描かれているだけだ。その中で、山城だけが、こちらを見ている。気づいた瞬間、違和感が明確な恐怖へと変わる。バーチャルな中に孤立する現実。うつろに見えた表情が、現実を前に愕然とする表情のようにも思えた。高齢者の記憶を真に継承できず、その存在のリアリティーを触覚に求めた山城。しかし、この作品の中でリアリティーの所在は反転し、山城のコンセプトを裏切っている。作家の意図せざるものの写り込みが非常に興味深い。
 山城はこれまで、沖縄の精神文化の基層とも言える墓や、基地のフェンス、国会議事堂の前でパフォーマンスを行い、自らが沖縄の自画像を演じる事によって、美化され、自らの輪郭を見失い、消費されていく沖縄への痛烈な自己批判と皮肉を突き付けてきた。沖縄を解放したいという思いにとらわれ、場所に縛られて苦しんだという山城。だが「墓庭」シリーズが山城の中で完結を迎え、今回は新しい、自由な境地で制作に挑んだという。
 失われつつある記憶、沖縄、沖縄人と自らの隔たりの中へ、山城は身体を飛び込ませ、肌を触れ合わせる事で、形のない何かを受け継ぎ、リアリティーをつかみ取ろうとする。山城は自身の行動を表現の手段とするアクティビストである。新境地に至った山城の、今後の活動に期待が膨らむ。
 
             ―大城仁美(県立博物館・美術館主任学芸員)            
             展評「バーチャル継承」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、沖縄市)
                             2008.7.28 沖縄タイムス文化面掲載


バーチャル継承

                                  
 巷では相変わらず米軍の機影に怯える少年というのが沖縄のイメージらしいが、あるいは戦争はやらない方が現実的だと世界は経験しているはずなのに、軍隊を持つ方が理想的だという事にもなっている。
 内在する自らの暴力に苦慮している人と、いざとなったら正義のために人殺しも辞さないという人と、暴力を行使するのにいささかの躊躇のない人たちがいる…。いずれにしても困るのは弱い人たちである。

 写真に目が止まる。軽い戦慄を覚える。一瞬、複数の男性に襲われる女性に見えたからだ。それはしかし、にわかに何人の老人に顔を包まれている状況だとわかった。 画面左から出てきた手が彼女の顎を掴み、うつむいた顔を無理やり振り向かせようとしているように見えたのが、私の暴力を呼んだのだ。 内在する暴力を、いわば愛の形で現出させているように見えるこのような作品が身近にも出て来た事に感慨する。どこかで見たような気がしたのは暴力のそれであって、おばあさんたちの慈しみを見間違える私の男性性が曝け出されたのだ。
 水中からしだいに顔を出した女性の口の周りには海藻が男性の口髭と見紛うかたちで付いている。それはしかし瞬時にオーラルな連想を呼び、ほほ笑みともつかない彼女の表情が私を困惑させる。海水だけでは赤くならない眼と、でもそのくっついた海藻と明らかに魅力的な彼女とが相まって、なぜか可笑しさがこみあげてもくる。我々は彼女をどうしようと言うのだ。これだけあからさまでありながら、水面に浮いた乳房は隠蔽され拒まれている。彼女は誘ってなんかいない、そう思ったのはこの私(たち)であり、さも当然のように視姦していく…。「攻めてきたらどうする」という男に「襲われるのはあなたの母ちゃんや姉妹だったらどうする」と聞けば、大概の男はそんな想定はしてないから口籠り、そのあげく質問をぶつけた方に逆上する。
 作品は彼女の賢しらではないところの身体が、生理的意識へと高揚したときに現れるソレによって作品化出来るものなのではないだろうかと思った。それが情緒に流されないのは作家の「私にはわからないことはわからないという事実は変わらない、ということがわかった」という言葉にも表れていると思う。いい加減男は「かっこいい」から「恥ずかしい事」に気づく時が来ている。
 間違えばセンチメンタルになってしまう直接戦争をモチーフにして平和を希求するのと違い、戦争そのものを語らなくとも愛(スキンシップ)を伝えることで平和を構築しているところに、アーティストとしての大きな資質と表現がここにある。

           
―青山英二(美術家)
                展評「バーチャル継承」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、沖縄市)
                                  2008.7.29 琉球新報文化面掲載


ACUTE ANGLE

2009年02月17日 | 山城知佳子作品集
ACUTE ANGLE
ラムダプリント・アクリル、木製パネル/
Lambda print,acrylic,wooden panel
248×300cm


ACUTE ANGLE
                    
山城知佳子は絵画よりも自らの身ぶりで表現することにリアリティを感じ始め、原初的な、精神が身体において顕現される方法としての身体表現を目指した。
 自ら演技者となり、聖地や墓の前での踊りや、様々なパフォーマンスを行う。しかしやがて、米軍基地や国会議事堂前など象徴的な場所でのステレオタイプな行為を装うことによって、沖縄の置かれている状況への自らのわだかまりを外化しようとした。そこには揶揄やそこはかとないユーモアを漂わせたものがあった。しかしパフォーマンスそのものは生身の身体によってなされ、言葉や概念から溢れ出すものがある。それをビデオに撮り、編集を加えることにより、再構築したのである。
 VOCA展に出品された作品には、沖縄米軍基地司令部がある金網の前での女性同士の肉体的争いと、その後お互いにひざまずいて和解しているようなシーンが撮影されている。この喧嘩のストーリーは如何様にも連想が可能である。背景も美しくつくりものめいたものである。そこにリゾート風でない、砂浜の2点が組みあわされることによって、新たなイメージが生成されることを目指した。その操作を際立たせることによって、「作られた状況」を示しつつ、しかし、行為によって発生する意図せざるものに懸けたとも言える。今回の場合にも米軍による威嚇と禁止があり、また行為者の予期せぬアクシデントがあったという。
 今回のイメージはそのことの始終のレポートともいえるが、作家にとっては「溢れだすもの」、もっともリアリティのある写真を選んだという。作品には言いがたい静かさとリアリティが溢れているのではなかろうか。
                           ― 翁長直樹(沖縄県立博物館・美術館学芸員)
                               「VOCA2007」展図録より




『オキナワTOURIST』I like Okinawa Sweet

2009年02月15日 | 山城知佳子作品集
『オキナワTOURIST』
OKINAWA TOURIST
I like Okinawa Sweet
ビデオ /Video

オキナワ TOURIST
                              
「女体体操」なるイフーなことをやっている山城知佳子は、以前、亀甲墓の墓庭で真夜中?のダンスダンスをやってみせる『墓庭の女』をつくっていた。人づてに聞くところによると、何でも「聖なる場所を冒涜(ぼうとく)する」ものとひんしゅくを買ったという。だが、山城の試みは、常識や日常や無意識の裏にまわり、意表をつくように繰り出されるパフォーマティブな芸の力にあるといってよいだろう。
 『オキナワTOURIST』は、墓庭で、今度は夜ではなく白昼、白い袋をかぶった男女がエイサーを踊る「墓庭エイサー」、国会議事堂正門前で亀甲墓の写真を頭上にかざし、オキナワ観光PRする「にほんへのたび」、そして、フェンスの前でアイスクリームを与えられ喜々としてむさぼりつづける「I like Okinawa Sweet」の3つの掌編からなる。
 これらのショートショート映像は、観光化されたオキナワの現在への批評的レスポンスである。観光とは、差異の記号を売ることである。訪ねる人たちはその差異の記号を買い、作られたイメージや物語を消費する。年間600万人に達しようとする観光客は、いわば、生産された沖縄イメージの大量消費者たちである。この現象は厄介なことに、当の沖縄(人)自身が観光エージェントのまなざしや作られた沖縄イメージに同化し、ツーリズムの視線でこの土地やこの土地に住む人をまなざし、作られた沖縄イメージを演じることになるという、実に皮肉なことが起こってしまう。
 山城知佳子の『オキナワTOURIST』は、こうした観光オキナワの記号の体系とシミュラークル(構造)なオキナワを同時代として生きてしまっていることを引き受けつつ、その背後から異貌の〈何か〉を差し出してみせる。その〈何か〉とは、国会議事堂正門前で亀甲墓の写真をかざす女、フェンスの前でトロピカル衣装をまとい甘いものをむさぼる女、そう、山城知佳子自身のパフォーマンスに装てんされた異化のヴィジョンといえよう。
 あのフェンスの前の甘モノ過食症なトロピカルドールは、まぎれもないオキナワの自画像だが、そこに生じる裂け目やズレからもうひとつの別な声と視線の瞬きを、たしかに映像は際立たせている。
 
― 仲里 効(「EDGE」編集長)
展評「オキナワTOURIST」山城知佳子映像展(前島アートセンター、那覇)               
                                  2004年琉球新報文化面掲載