ジョルジュ・サンド George Sand

19世紀フランス女性作家 George Sandを巡って /日本ジョルジュ・サンド学会の研究活動/その他

L'amour 愛

2005年08月13日 | G.サンド研究
Michel de Bourges への手紙より

O magique puissance de l'amour !

O philosophie, tu n'es qu'un reve de l'orgueil. Religion, tu n'es peut-etre
qu'un leurre de l'Esperance. Amour seul tu es poesie et charite, desir et
jouissance, espoir et realite.

A certaines heures, l'amour est si bien supreme, d'autres heures, c'est le supreme mal.

L'amour seul me parait assez chaud, assez lumineux, assez digne des cieux
pour croire qu'il en est descendu et qu'il doit y retourner.

George Sand

息子モーリスのフランス語 langue

2005年08月13日 | G.サンド研究
Lettre de G.Sand a son fils Maurice

A dix ans, je ne faisais pas une faute, mais on se depecha trop de me faire quitter la grammaire, j'oubliai donc ce que je savais si bien et au couvent on m'apprit l'anglais, l'italien, et on negligea d'examiner si je savais bien ma langue. Ce ne fut qu'a seize ans qu'etant a Nohant, ayant honte de si mal ecrire en francais, je rappris moi-meme la grammaire. Eh bien je n'ai jamais pu la retenir tres bien et souvent je suis embarassee, et je fais des brioches. Apprends donc bien maintenant. C'est le bon age, ce n'est ni trop tot ni trop tard. J'etais bien contente de ton avant-derniere lettre : mais cette fois-ci, tu as mis des s partout*.

Lettre a son fils Maurice

* Exemples : Ca m'a etonnes... je n'en avais pas ete avertis... je suis sortis

十才のとき、母さんはひとつも間違いをしませんでした。でも、文法の勉強からあまりにも早く引き離されてしまったの。だからよーくわかっていたことを忘れてしまったし、修道院(寄宿舎)では英語とイタリア語を教えてくれたけれど、母さんが自分の国の言葉がよくできるかどうかをちゃんと調べてくれなかったのです。ノアンに戻った16才になって、やっと、ひどいフランス語を書いていたことを恥ずかしく思って、自分でもう一度文法を勉強し直したのです。それでもちゃんと覚えていなくて困ってしまいます、よくへまをしてしまって。だから、今、しっかり勉強しておきなさい。早すぎもせず遅すぎもしない今が丁度そのときよ。二通前の手紙はとても良く書けていて、母さん、うれしかったけれど、今度の手紙にはやたらにSがついていますよ。

サンドの誕生日 l'anniversaire de G.Sand

2005年08月05日 | G.サンド研究
サンドは1804年7月1日生まれだと云われている。しかし『わが生涯の記』(1854)にサンド自身も書いているように、これは確かな生年月日ではないようだ。

7月5日だとする説もある。
長い間、サンド自身もこの日を誕生日だと思い込み、誕生祝いをしていたようである。

二つの説の間をとったフランス政府は、2004年7月3日に、フランス共和国に多大な栄誉をもたらした、この偉大な作家の生誕二百年を記念し、作家の故郷のノアンの館で盛大な記念祭を催した。この祭典には、当時の民族衣装を着飾った地元の人々や風笛や様々な楽器を手にした音楽隊の演奏に迎えられ、サンドにゆかりのある芸術関係者、作家、女性学や文学研究者、各国からの招待客が数多く参列した。文化コミュニケーション担当大臣は、多忙であること、また折からのテロ対策と警備の関係もあったのだろう、ヘリコプターで駆けつけて、演説を述べるという華々しい祝典であった。城館の奥に普段は観光客に開放されない広いスペースがあるのを知ったのも驚きだった。
だが、よく考えてみると、何年か前にここを訪れたある夏の夕べに、サンドの小説『ナノン』の演劇を見たのがこの広場だったこと、持田明子氏との約束が変更になって、La petite Fadetteの投宿を延長したことなどを想い出した。特別な催しのときにのみ公開される場所なのだろう。7月末という夏のまっただ中なのに、ひどく寒い夜だった。地元の人たちに混じって、たった一人で観劇している薄着の東洋人は奇妙に映ったのだろうか、寒くはないかと親切に心配してくださる方もいた。
広場の式典と参列客のざわめきをよそに、城館の木陰には、ショパンとサンドが語りあったこともあっただろう、ひっそりと小さな古い木のベンチが置かれていた。

一方、毎年、歴代の著名な作家を讃えて国際シンポジウムを開催している由緒あるフランスのCerisyのシャトーでは、世界のサンド研究者が集い、こちらでは7月1日から一週間に渡り、今日のサンド研究の最高峰が披露された。日本からも三名のサンド研究者が参加し、様々な研究者と親交を深めることができた。車に便乗して海辺の町を訪れたり、近くの小さな町に行ってみたりする他は、連日、奥まったシャトーでほとんど一日中、発表を聞くという毎日だった。そんな中では、食事が以外な楽しみとなった。
シャトーに住み込み、長年、国際シンポジウムの開催を手伝っているマダムの鳴らす古い鐘の音が聞こえてくると、それが「お食事ですよー!A la table !」というシャトーのお知らせ。フランス人の中には「昨日のリフォーム料理ね!」と陰口を叩く人もいたけれども、概して出てくる料理はボリュームもあり、地元の珍しい野菜や果物の添えられた美味しいものだった。
中でも最後の夕食に出されたOmelette de Norvegeというデザートは、圧巻だった。中はアイスクリーム、外側はメレンゲ状のガトー。歓声の中を、リキュールの燃える炎に包まれ、荘厳な儀式のようにいそいそと運ばれてきた大きなケーキは、まさに生誕二百年を祝うサンド国際コロックColloqueの終幕を飾るにふさわしく、Cerisyの麗わしく優雅な女神のようだった。フロベールの『ボヴァリー夫人』に出てくるウエディング・ケーキのシーンを想い起こしたのは、その華麗なイメージに共通するものがあったからだろうか。