神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.61 太良峠 1.塩ノ山

2024-01-27 00:04:42 | 勝記の巡回
 今日は塩山の塩ノ山を紹介します。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を気付く-』日本林業調査会(J-FIC)131~3ページにあるように、神足は、静岡管内の巡回・出張に出ます。
 10月27日に出発して御殿場・世附方面を視察した後、富士吉田ー藤ノ木と越えて山梨に入ってきます。そして、
 11月 3日 藤ノ木ー切差
 11月 4日 切差
 11月 5日 切差―甲府ー鰍沢
 と巡回・通過して、名古屋へ向かいます。

 前に笹子雁ヶ腹摺山を紹介しましたが、神足は笹子峠を越えて山梨に入りました。
 現在は、電車でも車でも、笹子トンネルを通過して山梨に入ります。
 川端康成の『雪国』風に言うと、
 「トンネルを抜けると勝沼駅だった。」となります。
 

   勝沼からの眺望:神足もこの景色を見たはずです。
  
 神足は、御殿場―須走―吉田―河口―御坂ー藤ノ木ー日下部(山梨市)を経て切差に向かいました。
 このうち、今日は切差の方向だけ紹介しておきます。
 
 列車は勝沼から塩山に向かいます。すると、前方に〔のち右方向に〕小山が見えてきます。塩ノ山です。

 
   列車から見た塩ノ山(552m:下の案内板は556m)  

 神足は、この山に登っていないようですが、何回も見ています。今日はこの山に登りましょう。
 なお、切差は、右奥に見える扇状地を上がって行った上になります。この先は明日にします。
 
 
 ご覧の通り、30分から1時間の散歩コースです。
 でも、山は山です。中に入るとそれなりの気分は味わえますし、うっかりすると危険なところもあります。その辺は行ってみてのお楽しみとして、眺望を一つだけお見せしましょう。
 西が「笛吹川フルーツ公園」の方向です。中央に見える茶色の建物は富士屋ホテル?、正面の山が棚山?、明日紹介する太良峠のある方向です。



 コースを一つだけ紹介します。良い雰囲気でしょう。機会があったら、歩いてみてください。ただし、晴れていないとつらくなります。
 
   心配は要らないと思いますが、山であることを忘れないでください。

 神足は、日下部〔日下部〕村〔今の山梨市役所のあたり〕を通過し、この間、塩ノ山を正面にそして右に見て塚原熊三郎技手補が作業する切差に向かいました。
 
 なお、私は、いつもの通りミニサイクルを持参して、甲府の方から上がり、切差の方から、ラクして来ました。

 




 
 


 

 
 




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No.60 多摩川で

2024-01-25 19:17:51 | 余録
 昨日は、プロバイダーから届いていたメンテナンス予告を忘れていて、投稿してもつながらず、あれこれと調べているうちに、ついに操作を誤ってしまい、半分くらい消えてしまいました。これはその作り直しです。

  最初に、先日の付録です。
 
    阿仁の伝承館で:メッケルとありますね。

 私は、家にいるとだいたい机・パソコンにしがみついています。そのためどうしても運動不足になりがちなので、作業に区切りがつくと出かけます。しかし、出るとなるとあそこもここもとなり、ついつい大旅行となって苦労します。阿仁・田沢湖・仙岩峠などもそうですし、その前の院内もそうでした。
 しばらく前は、JRの「大人の休日クラブ」に入会して、それを利用して東北諸県などを回りました。
 最近は、コロナ蔓延もあって遠出は少なくなりましたが、多摩川や、少し足を延ばして秋川の方へ電動自転車に乗って弁当を食べによく出ます。1回2~3時間くらいの散歩です。
 
 18日に多摩川へ弁当を食べに行きました。
 次の写真は、八王子市と昭島市を結ぶ多摩大橋から河川敷に降りて上流から立川方面に向かって写したものです。
 多摩川にも岩場(砂岩)みたいなこんな景色あるんですね。
 
 

 向こうに多摩大橋が見えます。
 私はここで弁当を食べたのですが、見ていてすごなと思いました。
 左側のわずかに見えるところから、中央の水のあるところ、そして右の岩のところまでずっと浸食でできたものです。中央の水に影が映っていて、曲線状に浸食されたことがよくわかります。
 その箇所を上から撮ったのが次の写真です。



 見事なものですね。いったいどれだけの年月がかかってこんな地形にまで浸食されたのでしょうか。
 じつは、ここの少し上流に八高線の鉄橋がかかってますが、その付近から約200万年前のクジラ(昭島クジラ:アキシマエンシス)が発見されています。かつてはこの辺も海で、そのころ堆積した砂岩が侵食されて上の写真のように姿になったものと見られます。
 それだけでなく、写真の左上を見ると、そこにも水の流れた跡が見えます。そうすると、この岩の上から現在の水面まで2mほどありますから、かつての多摩川の流水面ははるかに上の方にあったことになるので、なお一層、水の力や時間のかかり方に驚かされます。
 その頃はダムや堤防や取水ということもなかったはずですから、流量も多くて河川も今より広々として雄大だったでしょう。

 昨年の暮れに、多摩大橋の下流で弁当を食べた時のことです。
 ちょっと不気味に見えるかもしれませんが、次の写真のような化石があたり一面に見えました。


 
 私は、「これはてっきりクジラのような大きな動物の骨の化石に違いない」と感動して、すぐさま20枚ほど写真を撮り、市の図書館の地学担当のところへ持って行きました。すると、20代くらいの若い担当者がじっと見て、
 「これは貝などが移動するときに周りを固めた跡の化石です。骨ならば・・・。
  つまり、人間がトンネルの周りをセメントなどで固めるのと同じです」と。
 
 弁当を使ってそこに30分くらい居てから、上流に向かって歩きました。すると、ガタンゴトンと始まって、左の方から八高線の下りが現われました。
 八高線は単線ですが、1時間に2本くらい運行しています。往復で4本。そこで「15分待てば上りが来る」と見込んで、遠くに見える大岳を入れる構図を考えて待っていると、来ました。

 シャッターを押すのが少し遅かったですが、撮れました。次の写真です。

  大岳:向こうに見える一番高い山

 八高線は故郷の群馬県へ行く最短コースです。八高線についてはいろいろと思いがあります。いずれ書く機会があるでしょうから、今日は予告として一つだけ。
 
 1969年6月、上京して高田馬場に下宿していた友人を訪ねた帰りのこと、「八高線で、八王子から高崎まで通して乗ってみたい」と言うと、「新宿駅から高尾行に乗れば、どれでも八王子は停まるはずだ」といって新宿駅まで案内してくれ、約3時間の直通の旅を味わったことがあります。
 もちろん、その列車を半世紀後に多摩川から見上げるだろうなどということは思いもしないことでした。

 

 
 
 
 
 


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No.59 開店休業

2024-01-24 20:01:59 | 余録
  今日はお休みです。

 
 
 でも、せっかく開いてくれたのですから、ひとつだけ・・・。
 
 私の作った『明治期皇室財政統計』が古書市に出てました。

 

 画像が少し暗くて申し訳ないですが、
 興味がある人は検索してみてください。

 私がこれを作った時は、まだワープロの時代でした。パソコンが普及してきて、いまはずいぶん多機能で便利になりました。
 でもね、パソコンよりワープロの方が使い勝手が良いところも確かにありました。懐かしいです。

 これを作った時は、キーボードは今と変わらないですけど、入力で指が痛くなり、最後は、消しゴムがついた鉛筆を2本買ってきて、それで入力しましたよ。今でもこれを超えるものはありません。
 
『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く—』日本林業調査会(J-FIC)の作業ができたのも、もとはといえば、こういう作業を続けてきていたからです。
 こういうことがいつの間にか私の作業方法になっていて、なにかやるとするとたいがい入力していて、未発表のものがほかにまだ5作ほどあります。
 
 あ、今日は休業でしたね。では。

 

 

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No.58 阿仁鉱山行 6.帰京

2024-01-23 14:56:58 | 勝記日記

 
  オカトラノオ:大覚野峠

 神足は田沢湖を通過して一気に仙岩峠を越えましたが、私は田沢湖の近くの国民宿舎に泊まりました。
 夕食の時に、国民宿舎のご主人のお父さん(80歳くらい)に、旅行に来た目的と、この日の自分の行程をお話しして、神足が「田沢湖から生保内のどこを歩いて仙岩峠へ向かったと思われますか」を尋ねてみました。すると、しばらく考え込んで、「明日の朝、車で案内します」と。
 私は、その申し出に甘えてお世話になり、車中ずっと地図で道を追いましたが、昔の道だからといいつつ辿ってくれたその道筋は、藪をくぐることもある道で、最後はもう見当もつかなくなっていました。そして、「そこを上って行ってください旧道です」と促す言葉に送られて、「また歩きに来ます」と礼を言って別れました。
 それから、コロナ蔓延もあって、もう7年近くたっています。

 さて、神足は仙岩峠を越えました。
 ここからがまた実に詳しく書かれています。経路、風景、歴史など、毎日毎日の記述がA4判(40×40)で打ち出して2分の1~1ページはあります。しかし、全部どころか、1日分マルマルもを書けませんから、ここでは、昨日の続きの5月26日の冒頭のところだけを紹介しましょう。

 
  オオマツヨイグサ:旧道と新道の合流点で

 「雨 午前5時橋場駅発。河流を渡る数回。橋皆大水の為に破損す。直道修
 路甚た整へり。地亦平坦。7時頃雫石駅に着す。橋場より2里19丁52 
 間。岩手県管内に入りてより道路広美。山形県に譲らす。県令の心を運搬の
 便に用ゆる知るへし。
  昨日歩行12里余、且山路を昇降せし故か、脚足疲痛を感し、僅々2里半
 の路程頗る困苦。恰かも10里の程を行しか如し。当駅より乗車。道路平
 美。山上川に沿ふて下り、厨川を通り、2時盛岡に着す。雫石より4里18
 丁52間。
  頗る広大の市府。秋田に勝る一等。県庁・裁判所・師範学校・勧工場・病
 院・警視署等、建築美麗を極む。繁華も亦秋田等に比する大に優れり。」
 この日、神足は雫石―盛岡を通過して花巻まで行きました。

 この調子でずっと書かれていますから、歴史的描写・記述、紀行日誌としても興味を引くことでしょう。しかし、ここで書き続けるわけにもいきませんから、これ以降は行程だけとして、何とか公開の場所を見つけたいと思います。

 5月27日 花巻発ー水沢ーー中尊寺ー一ノ関ー金成泊。
 5月28日 金成発ー築館―古川―吉岡―仙台泊。
 5月29日 仙台発―岩沼―白石ー斎川泊。
 5月30日 斎川発ー桑折―福島―二本松―郡山泊。
 5月31日 郡山発ー須賀川―矢吹―白河―芦野泊。
 6月 1日 芦野発ー大田原―氏家―宇都宮泊。
 6月 2日 宇都宮発。9時浅草。9時過帰宅。
 この間、馬車・舟・人力車などのないところは徒歩です。
 
 神足は、阿仁鉱山まで20日余、帰京に8日かかっています。1日で往復できるような今の時代からすると想像を絶する事態です。
 
 神足は筆まめな人で、日々の日記のほか、この旅程についての長いまとめを書いています。
 行きはともかく、帰りもずいぶんいろいろなところを見ていますが、それでも「此回の巡回は、是只東山道の一路、且官用急忙なるを以て未た平生の素志を満着せしむる能はす。他日全国巡回の後、詳らかに論及するところあるへし」と述べています。
 こののちの神足の動向については、ぜひ『御料局測量課長 神足勝日記 ー林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC) をご覧ください。

 それから、今回のこの「阿仁鉱山行」を書きながら日記を見直していて、「2週日の暇を得て京に帰省す」と書いていることがわかりました。結果として、上京して6月30日に工部省へ「少書記官長谷川嘉道を経て辞表を提出す」ることになりますが、母からの電報を受けた時点では、阿仁鉱山への復帰の予定はあったことになります。
 
 長くは書けませんでしたが、工部省関係では興味を持ってもらえたのではないかと思っています。
 全文公開の場所の提供いただける場合はお知らせいただければ幸いです。

 以上、阿仁鉱山行はここまでです。
 
 

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No.57 阿仁鉱山行 5.仙岩峠

2024-01-22 15:51:08 | 勝記日記
 はじめに今日の行程の写真を挙げておきます。


 左上から下桧木内(松葉)・田沢湖、中央が生保内〔おぼない〕、その右のピンクに見える山越えの道の尾根界が仙岩峠です。越えて、黄土色の道を下り、赤の「国道46号」に合流したあたりが「橋場:雫石町」になります。
 
 5月25日日曜日、天気は雨。
 神足は、上桧木内を朝4時に出発し、「谿間を昇降、二河流を渡り、六時頃下桧木内〔松葉〕を通過」するまでに「3里許」歩きました。2時間余で3里許ですから、時速5~6kmです。そして、さらに1里ほど歩いて、7時頃に田沢湖に達しました。ここまでですでに約16kmです。

 田沢湖に沿って東に1里ほど行くと原野になり、神足はここで烈風のために蝙蝠傘を折られてしまいます。そして、玉川を渡船、1里ほどで生保内駅〔駅は「宿駅」です〕に十一時に着きます。すでに30km以上を歩いています。

 そして、「午食し、人足を替へ、十二時半発」。
 平地を1里ほどで仙岩峠への山道にかかります。上の拡大図を挙げます。

 
 地図の左下から始まるピンクの線を上って尾根界のところが仙岩峠です。ここを越えて「国見温泉」とある方へ下り、黄土色の線を下って再び赤の46号に出るのが旧道です。
 新道は赤く書かれた方です。中央に「仙岩トンネル」と見えますが、これが建設されるまでは旧道の山越えの道路が幹線でした。

 しかし、神足が通過したのはこの旧道ではありません。
 地図には出ていませんが、「明治道」というようですが、旧道のすぐ下あたりに部分的に残っていて、東電の送電線の点検工事用の道として現在も使用されているとのことです。実際、私が歩いているときに、作業員がゲートを開けて旧道を車で上がってきて、下の道へ降りていくのを見ました。
 
 さて、2017年に私はここを踏破しましたが、ピンクの箇所はゲートがあり、一般車は入れません。とくに仙岩峠手前は、崩落が道の上からも、下に向かっても激しく、また、樹木類が道路一面に生い茂り始めていて、歩行もなかなか困難です。危険といった方がよいでしょう。
 なお、「仙岩峠」で検索すると、2013~5年頃の投稿・写真が見られます。私が通過したのはその後ですから、もっと荒れていました。

 
   生保内の眺望:上の地図の左下のつづら折れの上付近から
          新道はこの左下方向

 
 仙岩峠の碑:「国道仙岩峠貫通記念碑/建設大臣河野一郎書」と読めます  

  ここで、神足の日記に戻りましょう。つぎのように書いています。

 「古昔、生保内峠或は国見峠と称せしか、明治8年更に新道を開鑿し、名け
 て仙岩峠と云ふ。仙北郡と岩手郡に跨るの故ならん。誠に険路。板谷峠〔福 
 島と米沢の間〕・院内峠〔新庄と湯沢の間〕の比にあらす。山谷を望めは、
 千仭万壑、巍々として悚然たるの思あり。上坂下坂とも各1里半余と云ふ。
 風雨雲霧、為めに咫尺を弁せす。峠に達する迄の疲労、真に言語に絶た
 り。」
 「・・・降坂1里半余、平地に出て、4時30分橋場駅〔雫石〕に着す。生 
 保内駅より4里35丁6間。身体甚疲労。旅宿に踞してより身を動かす能は
 す。従来数度旅行せしと雖とも、今日の如く労れしことあらす。仙岩峠の険
 なる知るへし。」

 なお、仙岩峠からの「明治道」の下りは、私は入り口付近を見ただけですが、黄土色の道の下にあたるところを、峠からそのまま東へ向かって下り、国道46号に合流するあたりに至る感じになっていました。
 しかし、調べたところ、ここもすでに荒ていて一般には危険な通路ということと、迷子にならないように探検するくらいの覚悟が必要な所という印象でした。せいぜい、通れないことはないという程度のようです。
 「明治道」の開通後には大久保利通も馬車で通過していますが、現在は自然に帰ってしまっています。
 
 この日、神足は、生保内まで30km以上、生保内から約20km、計50kmを歩いて難所を越えたわけです。
 私も、南アルプスに上がって、最後に光〔てかり〕岳を朝4時に降り始め、寸又峡林道を歩いて夕方6時頃に寸又峡温泉に着いた時のことを思いだしました。
 到着した安心感もあってか、疲労感が噴き出してきて自分で自分の身を処することができない・・・。神足ほどの人でもそうだったのでしょう。
  
 つづきは明日にしましょう。



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