神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

補遺:三浦命助

2024-01-08 23:33:17 | 余録
 今日は、三浦命助の碑と彼の業績を記した顕彰の看板を紹介しておきます。


 
 これは、しばらく前に書きましたが、東北の震災の被害を実地に見るために出かけたときに写したものです。
 なかなか写真が出て来なくて遅くなりましたが、釜石のわずかに北にある鵜住居というところから、遠野に向かって西に約10km入った栗林というところの道路わきにあります。ここからさらに西へ10kmほど行くと、旧橋野御料地だった山地になります。
 
 三浦命助については、『日本思想大系58 民衆運動の思想』(岩波書店)の中に、東北の3閉伊郡の一揆のことを述べた「露顕状」と、下の写真にもありますが、一揆の首謀者として捕らえられた際に書いた「獄中記」が収められています。

 

 私がこれを知ったのは、1970年頃、江村栄一先生が「日本経済史」の授業で紹介されたからでした。上記の2文献を読み、驚きました。みなさんもぜひどうぞ。
 先生は自由民権運動の研究を専門とされていて、授業の時のある出来事から覚えていただいて、爾来、お世話になりました。

 この時以降ずっと気にとめていたものの、約40年してようやく三浦命助の縁の地を踏むことができたのでした。
 今日は、短いですがここまでです。



 
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勝浩氏への手紙

2024-01-08 01:28:52 | 手紙
 
     
     勝浩氏が保存されていた大澤の手紙の表紙

 今日は、夕方からずっと、「勝浩氏宛の自分の手紙」を読み込みました。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の解題(4ページ)に書きましたが、私は毎年の『日記』を入力し終わると、勝浩氏に、打ち出したものに手紙とフロッピーをつけてお送りしました。
 すると、勝浩氏は、すぐに『日記』に目を通し、お電話くださり、毎回、延々40~60分に亘ってお話しを伺うことができました。

 解題に、このお電話をいただけたことが励みになって、60年に及ぶ『日記』と「回顧録」の入力作業ができたのだろうと思っている旨を書いたのですが、しかし、いったい何を話したのか、よく覚えていないのです。

 じつは、上の「表紙」に「20.10.2」と日付が入っていますが、コロナが始まった年の秋2020年10月2日のことですが、ご子息の勝文氏より勝記関係の文書を10箱ほどお借りすることができました。
 そこには、前に紹介した勝記の母伊喜さんの日記『清壽院殿御日記』、勝記のご子息の勝孝氏の日記ほか、勝記が引退後に調べてまとめた『神足家系録』などがすべて含まれていました。そこで、これらの目録を作るために調べると、わずかですが、勝浩氏のものも含まれていて、その中に、なんと私が日記と共にお送りした手紙(送り状)60年分のほか、参考文書などのすべてが整えられて、上の表紙を付けて袋に入れられていたのです。 

 このことに気が付いて、だいぶ前に一度読みましたが、なにせ自分の手紙なので気恥ずかしく、パラパラと拾い読みするのがせいぜいでした。しかし、今日、少し真剣に読み直してみて、勝浩氏がずいぶんとアンダーラインを引いたり、メモ書きをしていることに気付き驚きました。

 電話で、勝浩氏が訳もなく話されていたという記憶はありませんから、私の質問や日記に関することをまず話され、それからその時々の世相・世情など話したのだと思います。
 何回か「日記の内容について、知らなかった」と言われたことがあったのを思い出しました。

 これらのことについては、自分も日記に何かを書いているだろうと思われますから、ちょっと時間を取って調べてみたいと思っています。後日、機会があればここに書きたいと思います。
 この辺で。


   山でのアリバイ作り
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