昨日の写真のうち、塩ノ山から西の方向〔笛吹川フルーツ公園〕を写した写真をもう一度載せます。
向こうに見える山はおそらくすべて旧御料地です。
前にも紹介した恩賜林との関係ですが、山梨の山はかなりが一度御料地に編入されます。しかし、明治40年代の度重なる洪水をを契機に、下賜されます。その理由は、通常は「天皇が洪水被害をあわれに思ったからだ」といわれたり、それが碑文に記されたりしています。これは誤りとは言えませんが、実際は、当局が入会問題に手を焼いていたという背景があり、40年ころになると内地〔本州〕の測量事業が進んで、皇室財産の要になる世伝御料地の確定に見通しが立つようになったことがあります。つまり、山梨の御料地を払い下げても困らないようになっていたのです。こういうことを言った人はまだいないでしょう。
戻ります。
山梨の山はかなりは恩賜林になりますが、写真に見える山の一帯は下賜されずに御料地として残ります〔それがなぜなのかはまだわかっていません〕。
ともかく、神足はここを写真の右の方から上がって行きました。上がって行ったところが切差です。
さて、私は甲府の方から上がりましたから、そちらの写真をお見せしましょう。
この写真は、甲府駅から北へ10分ほど進んだ山梨大学のキャンパスから、少し拡大して撮ったものです。実際はもう少し遠くにある感じになります。
手前の左のこんもりとしたところが武田神社、中央奥が積翠寺、その右に要害〔山:787m〕があります。
『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC)の口絵にある「相川御料地」の中心部分がこの写真の後ろに見える一帯です。この写真に見える山がすべて旧御料地です。
ここがなぜ「相川御料地」と名付けられたかというと、この一帯が「相川村」にある山林だったからです。写真の左方向に相川という地名もあります。
さて、要害の下を通って後ろの山の方へ上がって行くと、上にある家のところに到達します。この間、道の一部がかなり急登です。
上がると近代的な住宅が10軒ほどあります。うしろから郵便車が来ました。歩く人が珍しいのか、声をかけられ、少し立ち話をしました。
住宅地は限界集落化して?無人の家もあるようで、「熊注意!」の看板が出てました。驚きましたが、山ですから、そういうことも当然ありです。
上の写真で、中央の🍙状の山のすぐ上、住宅の右上の中央にV字形に窪んだ所が見えます。ここが「太良峠(太良ヶ峠)1123m」です。神足は「多々良峠」と書いていますが、間違いないと思います。
神足は、塩山の方から切差を巡回してここを通って甲府へ降りて行ったわけです。太良峠から甲府の方を俯瞰したところ、逆光でしたが、次の写真のように見えました。
太良峠から甲府方面:実際にはもっと迫って見えます。
はっきりとしませんが、森が横に並んだあたりが武田神社かと思われます。駅は中央にあるようですがよくわかりません。
ここは甲府の夜景を見るにはいいでしょう。ただし、この峠に上がるには、車のローでも大変な坂がいくつかあるので気を付けてください。そのほかは、この峠付近も含めて、普通の自動車道です。バイクのツーリングも見ました。全く開けています。
太良峠:向こうが甲府方面
写真の左下方向へ行くと塩山、右下方向へ行くと帯那山
前にも書いた多様に、わたしは向こう側の甲府方面から上がってきて、左下方向へミニサイクルで降りて行ったわけです。
帰りの道がさわやかでした。
正面は山梨市、中央向こうが笹子峠の方向:切差から下って堀内の辺りより
最後に、繰り返しになりますが、ここは塩山からでも甲府からでも、どちらから登っても急登があり、注意が必要です。ということは、下りも要注意の坂道だということです。老爺心です。
こういう近代化した道をいくら歩いても、神足を偲んだことになるのかわかりません。むしろ、その辺の山道を歩く方が当時に近いのかもしれないと思うことがたびたびあります。しかし、いまの道を歩くのも別な意味で大変なところもあり、まわりの景色や雰囲気はわかるので興味ある人にはお勧めします。