きょうは朝鮮人にかかわって少しだけ書きます。
(1)群馬県の「朝鮮人追悼碑」撤去の件
まだごく最近のことなのでご存じの人も多いでしょう。
群馬県の県立公園内にあった碑について「反日的」との批判が起こり、県も碑前の集会で政治発言があったことを問題視して、碑の設置条件に違反があっとしての更新を認めず、それが裁判に至り、最終的に県が勝訴して撤去と決まった、ということです。
しかし、現実に設置条例に違反があったことは事実ですが、関係団体側も碑前集会を自粛するなどしていて、この10年余なにも問題は生じていないといいます。
これに対して、山本一太知事は「公益に反する状況が続いている。一日も早く正さなければ行けない」と述べたとそうです。つまり、「碑があること」=「公益に反する状況」ということらしいですが、私にはその意味が分かりません。みなさんはどうですか。
(2)「移民」への態度
明治以降、朝鮮人が日本にどのようにしてきたのか、いろいろな場合があるでしょう。職を求めて自主的に来たのか、口車に乗せられてきたのか、強制的に連れてこられたのか、などなどです。
そうして、たとえば、関東大震災の時にはすでに多数の朝鮮人が日本にいました。
『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(JーFIC)の538ページ以降に神足たちの被災の状況が克明に描かれていますけれども、震災2日目に東京から逃げてきた人の咄として「殆と全滅なりと云ふ。震災よりも火災の方甚大なりしと云ふ」と伝えられた翌9月3日に「暴鮮人襲来の説あり。復ひ山に逃げんとせしも、風説なるを知り中止す」ということが出てきます。
私が見た限り、神足は、御料地測量という現実の課題をリアルに遂行することを迫られた人=「誠実の人」で、部下を見下げるとか、上司に卑屈になるとかということを感じさせませんでした。だから、よく聞いて事態に冷静に対応できたのではないかと思われます。
いうまでもなく、朝鮮人が多数いることが日本人に被害を及ぼす原因になるということは考えられません。もしそんなことが起こるのなら、日本人は韓国旅行に行くことはないでしょう。
そうではなく、「移民としての朝鮮人」とどうかかわってきたか、どういうものだったと考えるか、それを全体としての日本人に問うているのが(1)の問題でしょう。
そうすると、これは同時に現在の問題でもあります。
多数いる「外国人実習生」を初めとする「現在の日本への移民」への対応はこれまでのようなことでよいか、どうすべきかということです。
上の碑の撤去問題も、すでに沈静化している問題をむきになって対処するのでなく、議論しやすい環境を整備するほうが公益であり、行政としてふさわしいと考えます。
(3)帰国した朝鮮人
1971年ころ、帰省して町を自転車に乗っていると、上から「大澤くん」と呼びかけの声が聞こえました。見上げると、山本君でした。
山本君は朝鮮人ですが、この当時もまだ日本名を名乗っていました。お父さんはいわゆるバタヤ(古物商)で、金物の廃品・くず鉄などの回収を生業としていて、村中にある豊玉神社の社務所を借りて生活していました。
その山本君が、町の表通りの2階から声をかけてきたので、懐かしいというより、いぶかしく思いながら「おう!」と返事をすると、ニコニコとして嬉しそうに言いました。
「今度、祖国へ帰るんだ。」
私は、一瞬とまどって、
「祖国って、ここじゃないのか?」
と思いましたがすぐに、「そうだ彼は朝鮮人だった」と気付いて、
「いつだ?」というのが精一杯でした。
いつも赤銅色の日焼けした顔をした彼のお父さんは、今の韓国の出身だと聞いたことがありますが、韓国ではなく、当時「地上の楽園」と宣伝された北へ「集団帰国」して行ったのでした。
北のことがニュースになると、いつも彼の家族のことを思い出します。
「山本、メシを食えているのだろうか?」と。
「自分は×××を守れなかった」と。
どこでいつみたのか・・・