とにかく日記

とにかく何でもいいから書く日記。3人の子へは仕送り、更新頻度は下がり、書き続けられるのか?(コメント等は承認制です)

夫婦で子育て・・・子供の偏食を例に

2005-08-28 14:53:19 | 母乳育児・離乳・偏食
子育てをする上では夫婦の方針を一致させるべき、といわれている。

そういわれると、一理あるような気がする。
しかし、そんなこと、できる訳がない、とも思う。
夫婦といえども別の人格であり、そう簡単には意見が一致しない。
意見が一致しない夫婦の方針が一致しないのは当然である。

夫婦の意見を一致させるなんてことは、大変な困難を伴う。
そもそも「夫婦で意見を一致させたい」という人の大半は、相手を自分の考えに
従わせよう、という不遜な野望(と私には思える)を持っているのではないか。
他人の考え方を変えさせるなんて、そんな簡単にできる訳がないのだ。

話を戻す。
現実問題としては「子育てをするために夫婦の方針を一致させなくちゃいけない
のに、ウチの夫(妻)は話にならない、全然言うことを聞いてくれない」という
愚痴になり「だから子育てが大変、悩みが多い」という話をよく聞く。

これは、目的と結果が逆になっているような気がする。
多くの子育て経験者(過去を振り返って「方針が一致していたので良かった」とか
いう夫婦)は、子供のために方針を一致させた、のではなく、共同して子供を育て
ているうちに結果として「共通の方針」らしきものがいつの間にかできあがった、
というのが実状に近いのではなかろうか。

「もともと価値観が違う夫婦がいかに共同して子育てするか」という考えで、夫婦
間で意見調整をしたり妥協しあったりしながら、とにかく夫婦で子育てする。
夫婦が互いの価値観を尊重しつつ子育てする姿を子供に明示する方が、価値観の
違いからくる夫婦喧嘩も少なく、子供も混乱せず、うまくいくのではないか、
と私は考えている。


抽象的な話になってしまったので、少しは具体的な話を。

ウチの亭主は、日頃は温厚で優しいのだが、時々、ものすごい剣幕で子供を怒る
ことがある。傍から見ている私にとっては「この程度のことで、そんなに怒ること
ないのに?」というようなことである。

食事の時に、子供の一人が嫌いな食べ物を口から出した、ということで亭主の怒り
が爆発したことがあった。(一度ならず。)
食べられないはずがないようなもの(辛くも苦くもない、ただの食わず嫌いだと
いうことが明らかなもの)だから「そんなワガママは許さない」と。

怒られた子供は「おとうさん、ごめんなさい」と大声で激しく泣き出した。
しかし泣きながらも「じゃあ、もう一度食べろ」という亭主の命令には従わない。
感情的になっている亭主は怒りを増幅させる。

私一人が子供と食事をしているのだったら、ああ、もう、泣き声がうるさいし
面倒だからそれはもう食べなくていい、と言いそうだ。
その分、他のもので栄養を補えばいいか、と自分の中では考えたりして。

しかし。
子供たちと食事をしているのは私一人ではない。
亭主が一緒で、その亭主は感情むき出しで怒っている。

亭主が子供に対して猛烈に怒っている時、私は傍観者を決め込むことにしている。
口を出さない。黙って見守っている。亭主の怒り方に決して賛成できなくとも。
介入したくなる衝動を抑えるのは容易ではないが、努力して、そうしている。
子供の身に危険が及ばない、ただの言葉の暴力は放置する。

「もともと価値観が違う夫婦が共同して子供を育てる」とは、そういうことだと思うのだ。
共同して事に当たっている相手の価値観と立場を尊重する。
黙ってみていれば、亭主の怒りを支持せず、子供の擁護もしないことになる。
だから見守る。努力して、中立的立場を貫く。

子供に感情移入し大人の理屈で擁護したつもりになると、亭主の怒りは理不尽な
ものになってしまうが、見方を変えてこちらが傍観者になってしまえば、それは
「父と子の(壮絶な?)ぶつかりあい」である。

家族が他人と違うのは、ナマの感情をさらけ出し合い、ぶつけ合う間柄である
から、だと私は思う。自分も相手も正直なホンネを出し、うまくいくことも
あれば対立(衝突?)することもある。そのために傷つけたり傷ついたりする
ことがどうしても生じるが、マズイ、やりすぎた、と思えば謝ったり反省したり
何かで補完したりして相手との関係を調整し、修正しようとする。
子供たちには家庭の中で、そういう対人関係の基本を学んで欲しい。

傍観者になりきってしまうと、ドラマチックな場面を楽しめる(?)ようになる。
たとえば、こんな風に。
小さな子供が絶対かなわないような大人である父と対峙し、厳しく怒られても懲りずに自己主張した。
そのため、父の怒りは恐ろしく倍増。
さぁ、子供は一体どうするのか?

・・・こういう追いつめられた経験は、子供にとって決して無駄ではないだろう。
この絶体絶命のピンチ(?)を子供自身が、自分の頭で考えて切り抜けるのだ。
他の人に助けてもらうのではなく、自分の判断で。

父の怒りに対する恐怖に負けるな。
自分がやったことから逃げるな。
頑張って自分の力で解決しろ、と心の中「だけ」で応援する。
傍観者は、傍観者でしかないのだから。

結局。
子供は何度も怒鳴られたあげく、泣きながら、皿に出した食物を再度口にした。
泣きながら噛んで、飲み込み、口が空になったのを見届けて亭主は怒りを収める。
「よし、よく食べた」と少し優しい声で亭主が言う。

そこまで待ってから、私も声をかける。
「ちゃんと食べられたね、よく頑張ったね。
お父さんに怒られて悲しかったけど、頑張って食べたのはオリコウだよ。」
・・・こんなことを言うと、子供はいっそう激しく泣き出す。

まぁ、我が家で食事を作っているのは亭主だし、せっかく子供にも食べられそうな味付けで作ったものを、
一度は口に入れたのに味わいもせず吐き出されては、腹も立つだろう。
「くだらないことでひどい怒り方をするなぁ」と思うのだが、
問題が解決すれば元の優しい亭主に戻ることが判っているし、親子とも時間がたてば忘れてしまう。
たぶん、それでいいのだろう。

場合によってはどちらも一歩も引かず、親子の対立が膠着状態になることがある。
そんな時は冷静に妥協点を探り、タイミングを見計らって和平工作(?)をする。
「半分の量だけ食べればいい、ってことことにすれば?」と亭主に提案したり。
子供に「これだけ頑張って食べれば、お父さんが許してくれるかもよ?」と
小さな努力をうながしたり。
うまくいくこともあるが「それだけじゃダメだ」と駄目出しされることもある。
そしたら「このおかずをちゃんと食べたら、ご飯にかけるフリカケを持って来ようか」などと、
できるだけ子供の側に妥協をうながす方向で、物事を進める。
亭主が怒るのが間違っている、などとは思っても気配にすら出さない。

夫婦は平等である、と私は思う。
しかし便宜上(何の便宜だ?)子供の前では「ウチで一番偉いのはお父さん」
つまり亭主、と私は教えている。
亭主は仕事も育児も食事作りもするが、私は仕事と育児しかしない、というの
がその理由、という風に子供たちには教えてある。

こういう経緯で、子供の偏食に関しては「嫌いなものを好きにならなくてもいい
から、努力してでも口に入れて食べられるようになりなさい」というのがいつ
からか我が家の方針として確立された。
「嫌いな食べ物についての夫婦で一致した方針」は亭主主導で、私がそれに従っ
て成立したものだが(やはりウチで一番偉いのは亭主か?)なんかそう思うのは
悔しいので(夫婦は平等!)この方針は、父子の対立に口を出したくなるのを
徹底して見守ることで勝ち取った、私の強靱な精神力の産物だ、と思うことにしている。
もちろん、こんなこと、亭主には言わないけど。

最後に。
そうやって無理強いしてでも食べさせ続けていると、子供がずっと嫌いだった
食物を突然、好きになる、ということが何度もあった。
「モロヘイヤの青じそドレッシング和え」が子供たちの大好物になったのはこう
いう亭主のおかげである。緑黄色野菜の少ない夏場、モロヘイヤは重要だ。

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