突然、降ってわいたように、小泉進次郎氏と滝川クリステル氏の結婚話がテレビを賑わせるようになった。今のところ、どの放送局の扱いもこの二人の結婚に好意的である。
しかし、筆者には、この一連の騒ぎが「不潔」に見えてならない。標準的な婚期を過ぎた御両人の結び付きは、どうしても新鮮さを欠くことはやむを得ない。その上に、既に妊娠しているということになると、嫌悪感は更に増幅される。
来週以降、スキャンダルな報道に熱心な週刊誌がこの二人の結婚をどのように報道するか、見ものである。おそらく、この超特ダネに乗り遅れた腹いせに、週刊各誌はネガティブな立場からの報道に血道を上げるであろう。
筆者は、これで小泉進次郎氏の総理大臣への道が遠のき、安倍総理の党総裁4選が確実になったと考える。再来年9月の自民党総裁の改選に向けて小泉進次郎氏は最有力候補であったが、誠に残念と言わざるを得ない。
本年5月1日、平成に代わって新しい元号が生まれる。
元号改正といえば、昭和から平成に移る際の新元号発表の記者会見が想い出される。当時内閣官房長官であった故小渕恵三氏が、新元号を墨書きした額を前面に掲げ、「新しい元号は『平成』であります」と発表した映像は、元号のことが話題になる度に繰り返し繰り返し放映された。
これで顔と名前を売ったからであるかどうか分からないが、小渕氏は、その後内閣総理大臣の椅子を射止めた。総理候補の本命ではなかったにもかかわらずである。
それ故、今年4月に予定されている新元号の記者発表を誰がするかは、次期総理候補と絡めて考えると、興味津々である。
新元号を発表するのは、内閣である。したがって、現時点において閣外にいる政治家には新元号を発表する役回りはやって来ない。この段階で無役の石破茂氏や衆院予算委員長として活躍中の野田聖子氏は、総理候補からも外れる。また、自民党の要職を占めている岸田文雄氏や小泉進次郎氏も、残念ながら候補外になる。ましてや地方公共団体の首長である小池百合子氏は対象外である。
現在内閣に属している人も、財務大臣や外務大臣、経産大臣は、職掌がら新元号を発表するにはふさわしくない。
前例を踏襲すれば、新元号発表の第一候補は菅義偉内閣官房長官である。しかし、この職にある人が内閣総理大臣のポストに少しでも色気を示せば、政府政党の要職から追い落とされることは、自民党の長い歴史から明々白々である。慎重な菅官房長官は絶対にこの役目を引き受けないであろう。
そうすると、新元号の記者発表をするのは、安倍総理しかいないことになる。つまり、安倍総理の後任は安倍総理ということであり、安倍総理の首相在任期間の更新が確実になる。
最近、安倍総理のメイン・ターゲットが憲法改正よりも長期政権記録の樹立に傾いているように思えてならない。いずれにしても、4月1日の新元号の発表を興味をもって待ちたい。
今回の米朝首脳会談において最も評価を落としたのは、韓国の文在寅大統領である。
文大統領は、今回の会談をお膳立てするため、米国は勿論、日本を除く関係諸国を歴訪して、会談の意義を強調するとともに、成果の実現に向けての自らの努力を世界にアッピールした。
米国には、金正恩委員長の真意なるものを伝え、トランプ大統領の歓心を得ることに成功した。
一方、北朝鮮には、トランプ大統領の独特の性向を踏まえた工作を行い、金委員長をその気にさせたと推測される。
いずれにしても、韓国によくある、事実に基づかない、期待先行の調整である。
したがって、米朝首脳会談が不調に終わることは明らかであった。
この会談が惨めな結果に終わった象徴は、ワーキング・ランチのドタキャンである。どちらが言い出したことか不明であるが、通常、ありえないことである。両首脳とも、文大統領の甘い言葉に翻弄されたわけである。
韓国マスメディアは、トランプ大統領から文大統領に、日本の安倍首相より前に、電話があったことを喧伝しているが、韓国大統領のノーベル平和賞受賞が遠のいたことだけは確かである。
セクハラ事件の責任を負って、財務省の事務次官が辞任した。
事の成行きをメディアの報道から顧みると、何とも奇妙で不思議な事件と言わざるを得ない。深夜、アルコールの入った席でテレ朝の記者と事務次官が会合し、そこにおいて次官が「抱きしめたい」とか、「おっぱいを触りたい」とか、発言したことが問題であるらしい。
それでは事務次官が、(貴女は魅力ないので)「抱きしめたくない」とか、「おっぱいを触りたくない」と言えばよいのか。普通の女性であれば、このように言われる方が侮蔑された気分になり、セクシャル・ハラッスメントになるのではないか。
仮にも事務次官の発言がセクハラであるとすれば、美しく化粧し、着飾った女性に対し、どう褒めればよいのか。「抱きしめたくも、抱きしめたくもありません」とか、「触りたくも、触りたくもありません」とか、言うのが正解なのか。まるで禅問答である。
換言すれば、男と女が会った場合、性的なことは一切話題にしてはならない、ということである。これでは、文学も、詩歌も、そして広く芸術全般が面白味のないものになってしまう。
テレビをはじめマスメディアは、事務次官の言動のみを非難しているが、筆者は、テレ朝の記者が自社でなく他のメディアにこの情報を流したことに違和感を覚える。そして、テレ朝記者の行動から判断して、財務事務次官はテレ朝記者が欲しがっている情報を漏らさなかったと推測できる。事務次官は、ハニーの美味に弱いのかもしれないが、守秘義務を守ったわけであり、公務員としての矜持を全うしたことになる。このことをどのメディアも触れていないのは、これまた不思議と言うほかない。
法律を少しでもかじった人は知っているであろうが、罪刑法定主義というのがある。何をしたら有罪、何をしたら無罪、という基準が明確でなければならないという基本原則である。その時々の世論の勢いで有罪になったり、無罪になったりすることは、断じてあってはならない。今回のセクハラ事件のように、マスメディアが一方的な意見のみを取り上げ、国会の審議においては問答無用の議論が横行し、世の中全体がヒステリックな状態になるのは、セクハラの蔓延以上に恐ろしいことである。我が国は法治国家であり、世論の高まりにより物事が決する国でないことを、近隣の国々にも示すべきである。