市ヶ谷日記

喜寿を超えた老人です。日々感じたことを、過去のことも含めて、書き記しておこうと思います。

「大阪都」でなく「大阪特別市」の実現に目標を転換、橋下市長は「大阪都構想」と心中すべきでない。

2015-11-16 | 独吟
 大阪の知事と市長のダブル選挙が間近に迫っている。橋下徹大阪市長が立ち上げた「維新の党」が空中分解し、地域政党の「おおさか維新の会」が大阪市を廃止し5つの特別区に分割する大阪都構想を掲げて選挙戦に臨んでいる。
 大阪都構想は今年5月17日の住民投票で否決されたばかりである。橋下市長は任期満了後の政界引退を表明しているが、大都市制度について改革の狼煙を上げた功績は大きい。筆者は、今回の選挙がどのような結果に終わろうと、橋下市長は「大阪都構想」と心中すべきではなく、特異なキャラクターを活かして、引き続き日本の政治と行政を正す革新政治家として活躍してもらいたいと考えている。
 大阪都構想が住民投票で敗れたのは、橋下市長の強引な政治姿勢をはじめいろいろな理由が挙げられているが、私は今でも、戦略の誤りであり、負けるのが初めから明らかであったと考えている。大阪都構想は、①府と市の二重行政を解消する、②大阪を東京に匹敵する活力ある地域にする、という2大目標を掲げているが、所詮は現在の東京都をモデルとしたものである。そして、煎じ詰めれば、大阪市の豊かな財源で大阪府の行政レベルをアップする効果しかなく、この賛否を問う住民投票が大阪府民全体を対象にするものであれば勝ち目はあったが、大阪市民のみを対象とするものであったため、負けるのは当然であったと言える。そのうえ、長年親しんだ「大阪市」が消滅することを、大阪市民が選択するとはとうてい考えられなかったからである。
 そもそも、大都市の行政を如何なる仕組みの下で行うかは、明治以来の長い歴史のある問題であった。戦後の昭和22年、新しい憲法と同じ日に施行された地方自治法では、人口50万以上の市(当時は、大阪、横浜、名古屋、京都及び神戸の5市)で法律で指定を受けた大都市は都道府県から独立した「特別市」とする、と定められていた(この制度は、お隣の韓国で「直轄市」制度として活きている)。しかし、この制度は、大都市とそれを包括する府県との意見の対立で陽の目を見ず、昭和31年の自治法改正で現行の「政令指定都市」制度に改められ、大阪市はその時、政令で指定され、政令指定都市の一つになった。政令指定都市は、大都市と府県の争いの結果、妥協の産物として生まれたものであり、市としての権能を有するとともに、府県の権能をも一部担任している。この点が、橋下市長が知事時代に嫌っていたところであったのであろうと推察する。
 一方、東京の都制度は、戦時中の特殊事情から創設されたものである。当時の東京府と東京市が一体となって、厳しい戦局を乗り切るために構築された仕組みであり、いわば地方の自治組織を中央集権化するための改革であった。戦後、日本を統治した占領軍が東京の都制度に手を付けなかったことが不思議なくらいである。そして、現実の行政運営においても、東京都と特別区の役割分担等をめぐってしばしば論争が生じ、その都度手直しがなされたという経過をたどっている。したがって、大阪府と大阪市を廃止し大阪都に再編成しても、全ての問題が丸く収まるという保証はないのである。
 革新政治家たる橋下市長は、このような成立の初段階から問題含みの都制度に固執することなく、かつて廃案となった「特別市制度」の復活を目指して、大都市制度の改革を推し進めるべきである。「特別市制度」の復活は、全国の政令指定都市を巻き込む大改革になるので、橋下市長は躊躇しているのかもしれないが、それはむしろ逆であり、全国20の政令指定都市が一団となって戦えば、簡単に大阪市の大阪府からの独立が実現でき、橋下市長が大阪都構想の理由としている二重行政の弊害を解消することができるのである。
 橋下市長の優れたところは、既成の政治家が選挙を意識して、面と向き合うのを避けて来た問題に果敢に取り組む政治姿勢である。公務員制度の改革、地域改善行政の見直し、滞納債務の回収強化、朝鮮高級学校補助金の廃止、生活保護行政特別調査の実施、敬老パス負担金の引上げ、国保保険料の適正化、障害者・高齢者・ひとり親世帯に対する補助金の適正化、君が代条例の制定、性犯罪者居住地届出条例の制定、街灯防犯カメラの設置等々は、多くの自治体首長が見て見ぬふりをし、まともに向き合うことを避けてきた問題である。国民は、こうした難しい問題の改革に勇気を持って事に当たった橋下市長を高く評価しているのである。
 橋下市長は手垢にまみれた大阪都構想に何時までも固執すべきではない。より重大な問題の提起とその解決を目指して、政治に取り組んでほしい。これこそが大阪市民、そして全国民が望んでいるところである。