市ヶ谷日記

喜寿を超えた老人です。日々感じたことを、過去のことも含めて、書き記しておこうと思います。

台湾発祥の「Vサイン」で旅を楽しく!

2015-04-17 | 独吟
 ここでの「Vサイン」は、勝利を意味するサインでも、平和を意味するサインでもない。トイレを意味するサインである。
 旅行をする日本人が多くなったが、道中もっとも悩ましいのはトイレの問題である。外国人に比し、日本人がトイレについて抱く羞恥心は異常なほど過大である。私も、若い頃はそれほど困らなかったが、年齢を重ねるに従い、どうにもならない生理現象を経験することが多くなり、旅行すること自体、逡巡するようになった。
 最近は、海外旅行をする時、必ず日本の旅行会社が主催するツアーを選ぶようにしている。日本の旅行会社は、おおよそ2時間おきくらいに、必ずトイレ休憩をしてくれるからである。この点、トイレのことを忘れ、うっかり外国旅行会社主催のツアーに参加してしまうと、大変な苦労を味わうことになる。また、個人で旅行する場合にも、トイレの在りかを探すのに無駄な時間を浪費しなければならない。
 こうしたトイレの問題を解決する良い方法を、台湾旅行中に、偶然、発見した。
 戦前、日本植民時代の台湾において大規模な利水事業を行った八田與一という土木技術者が、今でも台湾でその功績を高く評価されているという話を聞き、台湾を訪れることにした。台湾は私の好きな国の一つで、50年前に訪れて以来、仕事や個人旅行で数回訪れたことがあるが、今回は、トイレの問題もあり、ツアーに参加して旅をすることにした。
 この時、知ったのが「Vサイン」である。
 台湾に到着して、空港からホテルへ向かうバスの中で、中国人のガイドが、旅行中の一般的な注意事項を話したうえで、次のように語った。
「日本の皆さんは、トイレに行きたくても、我慢する方が多い。トイレは我慢しないで、私 に直ぐ言って下さい。トイレに行きたくなったら、このサインをして下さい」
と言って、人差し指と中指を立て、Vの字のサインをした。
 更に続けて、
「我慢できない時は、Vサインを左右に激しく振って下さい。その振り方で、緊急の程度が分かります」
と言い、ツアー参加者一同を笑わせた。
 これを聞き、私の頭の片隅にくすぶっていたトイレの悩みが雲散霧消し、何とも言えない晴々とした気分になった。トイレに行きたくなったら、何も言わず、ただ「Vサイン」をし、左右に振れば、後はガイドが何とかしてくれる、と思っただけで旅の楽しさが増したのである。ツアーに同行した人達も、高齢者が多かったせいもあり、この「Vサイン」の話を聞いて、いっきに和む雰囲気になった。
 そして、不思議なことに、日本人の団体旅行では常に見られるトイレ前の行列が、今回の台湾旅行ではなかったのである。トイレへの気遣いが頭から離れれば、尿意も便意も感じなくなるのであろうか、私自身もトイレの回数が減少したように思われる。
 JTB、阪急交通社、近畿日本ツーリスト、日本旅行、HISをはじめ日本の旅行会社の皆さん、是非ともこの「Vサイン」を日本でも普及させ、定着させて下さい。トイレの問題で旅行を控えている人達にも、旅の楽しさを味あわせて下さい。
 なお、この「Vサイン」は特許や実用新案には関係ないものと思われるが、これを私たち日本人旅行者に教えてくれた台湾人ガイドの名前だけは明記し、彼の功績を後世まで伝えおくこととしたい。
 彼の名前は、周 聰 和 さん(永恒旅行社有限公司観光部)である。
 男性で、年齢は60歳。日本人の性格をよく心得ており、日本が、戦前の台湾統治時代、教育、衛生、産業、交通などの分野において、如何に善いことをしてくれたか、いろいろエビデンスを挙げて話をしてくれる。韓国や中国から謂れ無い非難を受け、うつ的状態に陥っている日本人の気分を晴らし、「日本人に生まれてよかった」ということを感じさせてくれる、本当に立派なガイドさんである。

富久クロスーーー奇異な街の出現

2015-04-10 | 独吟
 東京新宿にどう見ても周囲の景観にマッチしない不思議な街が出現しようとしている。55階建てタワーマンションなど近代的な高層ビルに囲まれて、戸建て住宅から成る街並みが造られているのである。写真がその建築現場である。

 坪300万円はゆうに超える地区に建つ庭付きの邸宅、さぞや高額所得者向けの物件かと思われるが、実はこの地区に元から住んでいた地権者たちのために用意された住宅である。再開発計画によれば、こうした住宅が約100戸、商業施設が入る予定の低層建物の屋上に建てられつつある。何ともチグハグな景観であり、遠くない将来において、醜悪な街に変貌することが十分に予想される。
 東京都新宿区富久町内の約2.6㌶の地区は、昭和から平成に遷り変わる時期に地価高騰の嵐に翻弄され、地上げ跡の無残な姿がバブル崩壊の遺物としてテレビや新聞に何度となく紹介された。その富久町が今、四半世紀の歳月を経て、再開発の真っ直中にある。
 この間の事情をNHKのレポーターは「富久町は地上げで住民の数が激減し、一時は『地上げの象徴の地』とまで言われました。それが再開発にこぎつけられたのは、住民たち自身が街の再生に向けて、活動を続けてきたことが大きな要因です。行政や開発業者に任せっぱなしにせず、地元の大学の研究者と協力して住民の意向をていねいに聞き取り、数々の規制に合わせて手直しをして、再び住民たちが決定をする。そうしたプロセスを繰り返して、ようやく計画が固まったのです。」と紹介している。
 土地バブルの時代、この地区は関係者の権利が入り乱れていて、地上げがスムーズに進まず、ブームに取り残されてしまった。私など部外者は、この地区を通るたびに、ブームに乗り損ない、未だに細々と営業を続けているうらぶれた商店街を眺めながら、「欲の皮を突っ張らずに適当なところで妥協すればよかったのに」と思ったものである。
 地権者たちは「再開発は賛成であるが、自分たちもこの街に住み続けたい」と主張していたようである。具体的には、小さな木造住宅が軒を並べ、季節ごとの祭りなどで住民たちが交流できるコミュニティーを残すことを、開発に同意する上での条件にしていた。
 こうした動きに呼応し、ある時期からこの開発プロジェクトに関与するようになったのが、地元早稲田大学の研究者たちである。地権者たちは、権威ある大学の専門家から支援を受け、住民主導による「西富久まちづくり組合」立ち上げ、自分たちの願う街造りを目指した。この組合が作成したパンフレット等によれば、住民たちは、かつての公団住宅を連想させるような分譲マンションを5~6棟建設し、それぞれの建物の屋上に自分たちの店や戸建て住宅を造る、ということを構想していた。
 住民たちの描いた街造りの構想が、如何に幼稚であり、将来展望を欠くものであるかは、素人の目から見ても明らかであった。分譲マンションの屋上に造られる市街はそれぞれの建物ごとに孤立する形となり、住民たちが期待する街並みの形成は物理的に不可能であるからである(現在進行中の再開発事業では、住民たちの構想は変更され、戸建て住宅は低層の業務商業棟の上に造られている)。その上、再開発費用を最終的に負担するマンション購入者が狭い部屋に押し込められ、費用を全く負担しない地権者たちが陽光のさんさんと降り注ぐ庭付き住宅に住む、という真に格差社会を具現した環境において、新旧住民が融和するコミュニティーなどできるはずがないからである。
 実際、戸建て住宅を希望していた地権者たちも、計画が具体化し、事業が進行するに従い、自分たちの希望が如何に非現実的であるか理解し始め、噂では、ほとんどの人が戸建て住宅に住む権利を譲渡し、全く別の場所に移り住むか、開発地区内の分譲マンションに住むかの選択をしているとのことである。
 再開発事業が完了した後、地権者たちの要請に応えて造られた戸建て住宅には、どのような人たちが住むのであろうか。これらの住宅は、庭付きであるといっても、周囲のマンションから日々の生活が丸見えであり、そうしたビル群の狭間で、樹木を植え、花を咲かせ、時には日光浴をする人がいるであろうか。しかも、土地は人工のものであり、通常の土地資産とは異なる尺度でその経済価値が評価される。
 「住民主導の街づくり」という聞こえの良いスローガンの下に、西富久地区の市街地再開発事業は進められてきた。住民たちの昔ながらの街並みを残したいというナイーブな願いと大規模な住宅開発を両立させることは、元々無理であったのである。こうした無理を承知の上で、このプロジェクトの推進に加担した東京都や新宿区、地権者たちの私利私欲が見え隠れする要求を何故か称賛していたマスメディア、そして地権者たちの意向を無批判に受け入れ、再開発の基本構想、基本設計の作成に携わった早稲田大学関係者の責任は重いと言わざるを得ない。とりわけ早稲田大学の研究者たちは、初め学術研究の立場からこのプロジェクトに関わるようになり、後に株式会社「まちづくり研究所」を設立し、結果として地権者たちの利益獲得を助長する役割を果たしたわけであり、STAP細胞事件で世間を騒がせた女性科学者や従軍慰安婦記事の捏造で話題をさらった朝日新聞の元記者と前社長など早稲田大学出身者の場合と同じく、名門早稲田大学の名前を傷つけることにならないか、気がかりな点である。