市ヶ谷日記

喜寿を超えた老人です。日々感じたことを、過去のことも含めて、書き記しておこうと思います。

世界最大のコーヒーチェーン店「スターバックス」 ­­―――ブランド・イメージの重視はさすが―――

2022-06-24 | 日記

 今春4月、岡山に住む孫娘が神戸税関の職員に採用され、その初任者研修で東京に出て来た。我々夫婦とは久しぶりの出会いであったので、高級レストランで食事でもしようということになり、何処で食べたいか尋ねたところ、彼女は遠慮がちに皇居近くに最近できた「スターバックス」に行きたいと言う。

 東京には選ぶのに困るほど様々なコーヒーショップがあるが、「スターバックスは頭をすっきりさせるコーヒーの店」として私自身行き付けの店なので、そんなところでよいのかと思いつつ一緒に行くことに決めた。

 孫娘も皇居近くの「スターバックス」は初めてでありどんな店か知らなかったが、スマホの地図を頼りに行ってみると、驚くなかれ御幸通りを挟んで皇居外苑の隣に位置する和田倉噴水公園の一画にあった。一般的には飲食店を設置することなど考えられないロケーションである。

 皇居外苑近くのレストランでは、日比谷公園の「松本楼」が有名である。この場所に松本楼が開設されたのは明治時代、時の東京都知事が気ままに自分の愛人に店を開かせたという由来をどこかで読んだことがある。その後、この一帯は飲食店経営者にとって喉から手が出るほどに格式の高い場所であるのに、100年近く経っても飲食店の数は増えていない。

 和田倉噴水公園は、通常の都市公園と異なり、いわゆる公園行政の流れを汲まない環境省所管の公園である。スターバックスはこの得がたい場所に店舗を構えるのに相当の知恵と予算を費やし、努力したと考えられる。こうした立地場所に賭ける「スターバックス」経営陣のブランド重視の凄さに感動するとともに、これを認可した環境省の英断にも拍手を送りたい。

 「スターバックス」といえば、海外旅行好きの人には中国北京の紫禁城にもその支店があったことを覚えているであろう。我々夫婦も役所を退職した後、中国の紫禁城を訪れ、その中に「スターバックス」の店があるのを知って驚いたことがある。紫禁城といえば、日本の皇居にも比肩し得る中国観光の一等地である。そこに1999年、アメリカ資本主義の象徴とも言うべき「スターバックス」は店舗を開き、そのブランドを限りなく高めたのである。(ただし、スターバックス紫禁城店は2007年、「中国にふさわしいメニューを追加せよ」という中国政府高官の要求を拒否し、撤退を余儀なくされ、今は別の店に変わっている。)

 孫娘が神戸に戻り静かになった6月、再び和田倉噴水公園の「スターバックス」を訪れた。最初に4月、孫娘に連れられて来た時の「この店のロケーションは素晴らしく、多くの客を集めるだろう」との予想どおり、その日も訪れる客で店は賑わっていた。そして、和田倉噴水公園自体がショップに入りきれない客で一杯であった。自宅に向かう帰り道、東京のいたる所に出店している「スターバックス」のあの特徴あるマークがどれも輝いて見えるのが不思議であった。


慶応大学病院における腹部大動脈瘤手術の詳細記録(その3)

2014-11-02 | 日記
(7)9月20日(金)<入院5日目>
 何ということなく、眼が覚める。気分は爽快。
 朝食はお粥。相変わらず、4分の3くらいしか食べられない。
 傷口は、左は全く痛みなし、右は動くと激痛が走る。咳をした時、起き上がる時は、特に痛む。しかし、立った姿勢では痛みが無く、歩くことも可能である。
 Y講師が来る。G医師も来る。S講師は一度も来ない。K医師は顔を出さなくなる。
 昼頃、婦長が来て、本日、個室に移れると言う。看護師にそのことを言うと、「今、移りましょう」と言って直ちに準備を始める。部屋は前と同じ5759室。
 部屋の雰囲気が違うので、よく見るとベッドの位置が変わっている。前はソファが窓際に置かれており、ベッドもソファに並行して置かれていたが、今度はソファが壁際に移され、ベッドは他の一方の壁に並行して(頭を窓の方に向け、足を入口の方に向けて)置かれている。今回の配置の方がベッドからテレビを見るのに便利であるので、そのまま利用することにする。
 HCUから病室に移ると同時に、点滴がなくなり、心臓の動きを測定する機器と酸素吸入器だけになる。いずれもナースセンターに無線でつながっており、外れると看護師が直ぐに飛んで来る。
 身体に付いている器具がなくなると身体の自由が増し、非常に快適になる。ベッドを離れる時は、壁に埋め込まれている酸素供給栓からチューブを外し、それを酸素ボンベの栓に移し変える。酸素ボンベは0~30のレベルがあり、0では酸素ゼロ、30では酸素が音をあげて吹き出る。移動は酸素ボンベを引きずりながらする。この格好でリハビリを兼ねて、7階フロアーを歩き回った。
 スマホを使って、二人の息子、娘、親戚の人たちに電話して、無事手術が終わり、普通の病室に戻ったことを、お礼かたがた報告する。 
 夕食は、4分の3食べる。
 体温は37℃。熱があるが、手術後は体温が上がるらしい。
 家内は7時過ぎに帰る。
 今日は疲れ、21時には就寝する。
 なお、家内の名前で次の特別療養環境料(差額ベット代)の支払い「同意書」を提出したとのことである。
    病室       5759号室
    特別療養環境料  1日 37,800円
    入室日      2013年9月20日
    病院側説明者   ○○○○ 

(8)9月21日(土)<入院6日目>
 早朝4時、看護師が来て、横向きに寝るように指示する。血中の酸素濃度が低下しているというのが理由である。夜中に何回もトイレに起きるが、その度に酸素ボンベを使うのが面倒なので酸素なしでトイレに入っている、それが原因ではないかと尋ねると、看護師はそうではないという見解。上向きに寝ると気道が狭くなるので、横向きに寝る方が酸素吸入が増すと言うのである。
 6時30分、心電図の測定、採血がある。
 7時30分、血糖値の測定。93で良好であるとのこと。この血糖値の測定は4時間おきにあり、その度に器具を使って指先から血を出し、測定する。1本ずつ指を変えて測定してもらうが、気持の好いものではない。看護師は、血糖値が安定しているので、検査をしなくてもよくなるかもしれない、と言ってくれる。
 左腕内側にものすごい内出血の跡を見つける。幅10cm、長さ50cmに及ぶかなり広範囲の出血跡であり、紫色に変色している。この部分には、ICUにいる期間、骨折した時の添木のようなものが付けられていたが、添木を取った後、この出血跡に気付かなかったのが不思議である。看護師にそれを見せても、吸収されると言ってあまり驚いた様子をしない。 
 手術後3日経ち、寝ている状態から上半身を起こす動作もあまり痛みを感じないで出来るようになる。これまでは右下腹の傷が痛み、ベッドの手すりに掴まって腕の力だけで起き上がらなければならなかったので、苦労していた。
 8時30分、朝食。クロワッサンとパン、煮た野菜とハム、缶詰のミカン、チーズ、牛乳から成る献立。全部食べる。
 8時53分、可動式のレントゲン機械で胸と腹の撮影。
 9時40分、看護師が常用の薬を持って来る。
 9時45分、Y講師、K医師、I医師の回診。
 K医師が「9月24日の火曜日にCTを撮り、結果がよければ退院」と告げる。予定通りである。
 Y講師に左腕の内出血のことを尋ねる。「大動脈のステンツそのものは下腹部から挿入するが、ステンツを挿入するものを腕から入れる。それによる内出血である」との説明。淀みない説明であるので、初めから予定していた処置であると思える。手術後の時間(事後処理の時間)が長かったが、事故などにより時間が長引いたのではないと確信する。
 K医師が傷口を見て、アッと声を上げ「テープを貼り替えなければ」と言う。新しいテープを持って来て、薄いテープに貼り替えてくれる。古いテープを剥がす時、非常に痛かった。
 10時前に家内が来る。
 看護師が来て、血圧測定。
 次に、別の看護師が来て、血糖値を測定。98で良好と言う。
 病室担当の看護師が来て、酸素吸入器とホルター心電図を外してくれる。これで完全に自由になる。
 自由になったところで、家内と中央棟地階の「ナチュラルローソン」まで歩いて行く。中央棟地階と1階の間は、階段を上り下りする。建物の外に出て病院の写真を撮る。今日は休診日であり、人は少ない。
 11時、自室のトイレで用をたす。中程度、出る。意気込むことができないので、なかなか出ない。3日ぶりであり、すっきりする。なお、用を済ませた後の処理が難しい。手が届かないからである。
 11時20分、血糖値の測定。120。
 12時30分、昼食。
 看護師が来て、傷口を観察する。太ももの内出血の部分が倍くらいに広がっており、このことを先生に報告すると言う。内出血が新しく生じたということでなく、既に内出血していた血液が移動したために拡大したらしい。家内は内出血の部分は昨日とほとんど変わらないと言う。
 30分後、看護師が再び現れ、先生から「出血後の部分が広がるのは、自然。出血の部分に印をつけるように指示された」と言い、マジックで縁取りをする。
 14時頃、息子夫婦が見舞いに来る。
 16時、血糖値の測定。
 18時30分、夕食。
 19時、息子夫婦が帰る。家内も帰る。
 排便。かなりの量が出る。用を足した後の処理が完全に出来ないのが苦痛。
 ラウンジでK医師に会う。「出血の広がりは自然の現象」、「立ち上がる時、下腹部に鈍痛がするのも正常な現象」と言う。
 20時30分、看護師が来て、体温と血圧の測定。血圧が160と高い。もう一度はかりに来て血圧が下がらなければ、先生に報告すると言う。
 再度測定した血圧は135。看護師からプリセプト2錠、ロキソニン1錠、胃薬1錠をもらい、服用する。プリセプトは腸を活性化する薬、ロキソニンは痛み止めである。
 20時50分、血糖値測定。102。

(9)9月22日(日)<入院7日目>
 7時、起床。
 ラウンジで血圧と体重を測る。血圧(最高、最低、脈拍)は141 81 81、体重は81・1kg。
 血糖値の測定。91。
 8時、朝食。
 9時、看護師が来て傷口を見る。出血部分がやや広がり、そこにマジックで印をつける。
 9時30分、回診。看護師が事前に二度も来て「回診がありますので、準備して下さい」と言うので、てっきり心臓血管外科教授の回診かと思ったが、いつものK、G、I各医師による回診。出血の跡を見て、「大丈夫、直ぐに消えます」と言って終わり。1~2分の回診であった。
 9時45分、家内が来る。連日の通院で疲れているらしい。
 10時30分、家内に連れられて、散歩に出る。地階の自動販売機で水を買う。地階と1階の階段を上り下りする。
病院建物の外にある「スターバックス」でコーヒーを飲む。戸外の椅子に座り、人々の往来を眺めていると、何とも言えない幸福感がわいてくる。そして、テーブル近くにまでスズメや鳩が集まって来て、餌をねだる。これも気持ちを和ませてくれる。病院に入院し、こうした幸福感に浸れるのは退院間際の本当に短い期間だけである。
 12時、血糖値測定。108。
 看護師に、何故、神経が敏感な指先から採血するのか聞く。指先か耳たぶ以外は器具による血液採取が禁じられている、というのが理由であった。
 12時30分、昼食。相変わらず、お粥。堅いライスに改めるよう、G医師にお願いしていたが、実現しない。食後、梨を食べる。
 14時、突然、S講師が病室に入って来る。「これまで学会に出ていて、様子を見に来られなかった。申し訳ない」と言う。何か聞くことはないかと言うので、「傷痕が少々痛む」とだけ言う。「手術は手品でないので、痛まないようにすることはできない」という返事。退院後は何をしてもよいが、「下肢の血流が悪くなることは、長い時間しないように」という注意を受ける。
 「学会出席」は大病院医師の使う常套句であるが、担当の医師が気楽に話かけてくれるのは非常にありがたいことである。患者は、医師の語る言葉よりも、顔色や態度で自分の病気の程度を判断する。医師が「順調である」と言っても、語る様子に何か引っ掛るものが窺えれば、患者は「順調ではないのではないか」と疑念を抱くのである。S講師の訪問は私の気持ちを著しく明るいものにしてくれた。
 14時40分、大便。非常に柔らかく、水に近い便が出る。
 15時、病院の地下街等を散歩する。
 16時00分~16時20分、看護師の指導の下、シャワーを浴びる。バスタブに入らないでシャワーのみで身体を洗う。傷口周辺は、タオルを用いず、手に石鹸を付けて丁寧に洗うように言われる。
 看護師が、常用の薬を手渡しながら、今後は自分で服用するように言う。これまでは服用直前に薬を持って来ていたが、私に十分な管理能力があり、薬を扱うことができると判断したのであろう。
 17時15分、病院別棟の3号新館を散歩する。
 17時30分、血糖値測定。103。
 18時、夕食。お粥を少し残す。その代わり下の売店で買ってきた納豆巻き1本を食べる。久し振りの納豆の味に感激する。
 18時30分、家内が帰る。
 看護師が来て、傷口を見る。今日、拡大した出血跡部分に新しくマークを入れる。
 23時、就寝。ロキソニンは服用し、下剤は飲まないで、寝に就く。
 右腕や太もも部分の出血跡が早くきれいになるように水分を多めに取っている影響か、小水がよく出る。毎晩、1時間30分おきにトイレに行く。今日も、18時~翌日9時の間に、6回もトイレのお世話になる。

(10)9月23日(月)<入院8日目>
 今日は祭日で、病院は休診。
 6時、起床。ラウンジで血圧(135/81/77)、体重(81・1kg)を測定する。部屋の体温計で体温を測定(36・2℃)する。
 傷口はまだ痛い。しかし、我慢できる程度の痛みである。座った姿勢から立ち上がる時、右の股の部分、傷口より下の部分に痛みを感じる。手術直後は激痛が走ったが、今は痛みを感じる程度。左側は相変わらず痛みを感じない。
 座っていて背筋を伸ばすと、痛みが軽減する。立ち上がると、右傷口から太もも上部にかけて痛みが広がるが、1~2秒後には痛みが消える。歩きはじめると、両傷口よりやや下の部分を結ぶ直線上に軽い痛み(軽く押さえられているような痛み)を感じる。そのため、両足を少し広げて歩くようになる。
 早いもので、入院して1週間が経った。
 7時25分、採血。採血は毎朝であったが、2~3日に1回に減少。
 8時、お茶の給仕。
 8時30分、お粥の朝食。今日は全て食べる。
 8時35分、看護師が来て、調子はどうか聞かれる。午前中にレントゲン撮影があるとのこと。
 8時55分、常用薬を飲む。
 9時30分、回診。K医師の他2人。傷口を見て、「順調」との見立て。明日、CTを撮り、その結果により水曜日退院との診断。看護師に「よかったですね」と言われる。
 9時35分、何時もお茶や食事を給仕してくれる女性スタッフが来て、今日はレントゲン撮影があり、1階の撮影室まで車椅子で連れて行くと言う。「歩けるから、車椅子はいらない」と断る。30分後にくだんの女性スタッフが再び来て、ナースセンターで確かめたところ「車椅子で連れて行くことになっているので、乗って下さい」と言う。車椅子に乗るのも良い経験と思い、乗せてもらうことにする。
 10時、家内が来る。 
 10時15分、レントゲン撮影。立った姿勢で胸と腹、寝た姿勢で腹部の撮影。
 今日は休日、病院内に人が少なかったので、車椅子に乗っていても「お気の毒に」という視線を受けないで済む。なお、車椅子の乗り心地は良く、高級車に乗っている気分であった。
 11時、娘と孫たちが見舞いに来る。
 11時20分、「スターバックス」でお茶を飲む。孫たちは病院が珍しいのか、大はしゃぎである。
 12時、娘と孫たちが帰る。家内も、コーヒーで汚した私のガウンを洗濯するため、家に帰る。
 12時15分、昼食。お粥、みそ汁、魚の煮つけ、ジャガイモの煮物、ホーレン草のお浸しという献立。
 12時35分、トイレ。一般病室用のトイレを使って排便。自室のトイレより一般病室用のトイレの方が広く、便利。街中の身体障害者用のトイレと同じ広さと設備を備えている。照明が明るいのも衛生的である。汁状の便が大量に出る。
 13時、看護師が来て、明日の午前中にCT撮影。そのため、朝食はCT撮影後、薬はいつも通り飲むこと、という指示。
 G医師から「CT検査におけるヨード造影剤使用に関する同意書」の提出を求められ、提出する。
 14時15分、家内が家から戻る。
 地階の「ナチュラルローソン」まで散歩。地階と1階の階段をリハビリのため、上り下りする。
 17時30分、お茶。
 18時、夕食。お粥、澄まし汁、ハンバーグ、大根・ニンジン・ブロッコリーの煮つけ、卵焼き、梅干しの献立。
 18時25分、家内が帰る。
 最近、血圧が高い。今朝も160を超えた。夕方も1回目の測定では157であったが、再度測ると、148に低下。しかし、手術前に比較すると、高くなっている。
 夜、病院が寝静まった後、看護師の日割表を見る。8:00~15:30、 15:00~23:30、23:00~8:00の3交代制であり、この病棟だけでも非常に多くの看護師が働いている。大部分が女性の看護師、1割くらいが男性の看護師。いずれも厳しい選抜を経て慶応病院の看護師になったのか、親切で、笑顔を絶やさず、質問には的確に答えてくれる。個々の患者ごとに担当が決まっているようであり、また、用務別に担当が決まっているようでもある。勤務時間の多くをパソコンのディスプレーに向かい、仕事をしている。記録をインプットするのにかなりの時間を割いているようである。したがって、看護師や医師の間のコミュニケーションが悪いのは、IT機器に依存し過ぎていることも一つの原因であると思う。
 今日は疲れ、21時に就寝する。

(11)9月24日(火)<入院9日目>
 5時、起床。今日はCT検査があるため、朝食なし。
 常用薬(オルメテック10mg、クレストール2・5mg、バイアスピリン100mg及び、ネキシウム20mgの各1錠並びにハルナール0・1mg2錠)を飲む。
 6時20分現在、血圧153/82、脈拍80、体温36・9℃、体重80・5kg。 
 血圧が高い。150台が常態になった。降圧剤として手術前はコニール4mg半錠を朝夕2回、オルメテック10mg半錠を朝1回飲んでいたが、今はオルメテック10mg1錠を朝1回飲んでいるだけであることが影響しているのか。
 6時35分、看護師か見回りに来る。今日のCT検査の注意点を説明する。朝食は検査後に食べるように言われる。血圧の高いことを告げると、先生に報告するとのこと。
 K医師が5~6人の研修医を連れて回診。傷口を見て、「順調」と診断。
 血圧について、今まで110~120であったのに、150にアップし、心配していることを告げるが、あまり気にしていない様子。血圧は長期的にコントロールする必要があり、
   ① 手術をしたので、身体の対応能力が変化し、血圧が上がる、
   ② 大動脈にステンツを挿入し、太い血管を細くしたので、それだけでも血圧は上がる、
   ③ 今後、長期的に外来で血圧をコントロールしていく、
と極めて論理的に説明してくれる。
 8時45分、看護師が来て、体調についていろいろ質問するとともに、血圧、出血部分の広がり、シャワーの浴び方などについて、注意すべき事項を話してくれる。また、退院に際しては、退院指導をする予定であること、新たにアムロジン(降圧剤)が処方されたことも、伝えられる。
 9時30分、車椅子でCT室へ。車椅子は楽であり、これに乗る癖がつくと、歩けなくなると思われる。
 CT検査室前で10分くらい待ち、検査。10分もかからないで終わる。造影液を身体から排出させるため、多くの水を摂取するように言われる。
 7階に戻ると、家内がラウンジで待っていた。
 直ぐに、朝食。
 12時30分、昼食。今日もお粥であったが、完食。
 13時30分、本日の看護リーダーを名乗る看護師が病室に来て、退院後の注意事項を話してくれる。
   (1)傷口は、テープを剥がし、そのまま放っておく。薬をはじめ何も付けない。何も貼らない。膿んできたり、腫れたり     したら病院に来る。
   (2)血圧のコントロールをする。血圧手帳に血圧の記録を付ける。
   (3)急に寒い所に出ること、熱い風呂に入ること、排便時に意気込むことは、血圧を上げるので、避ける。
   (4)便はためないようにする。適宜、薬を使う。
   (5)血圧の薬は、病院から出る。
 14時、突然、S講師が病室に現れ、「顔を見に来ただけ」と言う。
 15時30分、K医師が「CT検査の結果、全く問題なし。明日、退院」と告げに来る。
 19時50分、手術前に一度病室に来たことのある薬剤師が来て、常用薬にアムロジンを加えたことを説明。アムロジンはこれまで服用していたコニールと同じ薬効があり、かつ、効く期間が長いので、変更したとのことである。
 20時45分、S講師が一人で病室に来る。「CT検査の結果は良好です。よかったですね」と言う。「ステンツが入り、大動脈は縮小するのですか」という私の質問に対し、「細くなる人は40%くらい。太くなる人もいる。その時はまた別の治療方法を考える」ということであった。
 S講師は、今日も元気はつらつ、自信満々の態度。この遅い時間まで病院で何をしていたのであろうか。

(12)9月25日(水)<入院10日目>
 今日は退院の日。
 朝6時前に起きる。まだ外は薄暗い。
 早速、血圧、体重の測定のためラウンジに行く。既にほかの人たちが測っている。
 最近、血圧が高く、心配であったが、最高139、最低89、脈拍88。体重は79・4kgで80キロを切った。80キロを下回るのは、体重を気にしはじめて10数年、初めてのことである。
 看護師が様子を見に来る。
 家内が8時過ぎに来る。今日は退院の日であるので、いつもより1時間早い。
 K医師以下7~8名の医師から成る一団が回診。傷を見て、適当にテープを剥がすように言われる。
 「退院療養計画書」をもらう。退院後、定期的に外来に来ること、その他食事、入浴、運動、薬についての注意書きである。
 いよいよ退院である。昨夜、親しくなった看護師に「退院する時、どのようにしたらよいか。先生方に挨拶するには何処へ行ったらよいか」尋ねたところ、「ナースセンターに退院を告げるだけでよい」ということであったので、教えてもらった通り、荷物を持ち、ナースセンターに立ち入り、「退院します。お世話になりました」と挨拶する。皆、パソコンのディスプレー相手に仕事をしている最中であり、突然の挨拶に初めは無反応であったが、気が付いた人は立ち上がり、ニコニコして挨拶を返してくれた。ナースセンターにいる人たちを一通り見渡し、頭を下げ、お礼を言う。
 1階の入院会計に立ち寄り、支払いについて聞く。請求額にまだ不明の部分があるので、支払いは「次の外来時、ここに来て支払って下さい」ということであった。次回の外来は大分後の2週間後であると言っても、「その時にして下さい」と言う。実に鷹揚な返事であった。
 後日、慶応病院から連絡のあった入院費用は378,369円であった。差額ベッド代やステントグラフトの価格を考えると相当に高い医療費を請求されると覚悟していたが、予想外に安かったのは「高額療養費制度」のおかげである。改めて我が国の社会保障制度の凄さを認識することとなった。
 病院の玄関前からタクシーに乗り、家に向かう。入院してから10日ほどしか経っていないが、街の様子がしっとりしていて、以前に比べ落ち着いて見える。
 家は前と同じである。小生の帰宅に合わせて開花したハイビスカスの花と、慶応病院入院を記念して家内が病院入口の花屋で買い求めたデコポンを写真に撮る。
 居間のある2階に上がる。体力が減退しているにもかかわらず、苦労せずに登れる。ともかく直ぐに横になりたい。ソファに横になり、テレビのニュースを見ながらうつらうつらする。
 昼食は、私の希望を入れて、メイプルシロップのかかったパンケーキにコーヒー。
 午後もうつらうつらしながらテレビを見る。最近の世の中の動きに目を見張る。日経平均は3桁のマイナスで終わる。
 家内の兄弟から病気見舞いが届く。
 息子(2人)、娘、私の姉妹(2人)、家内の兄弟(3人)、それぞれに電話をかけ、無事退院し、本日家に戻ったことを伝え、お礼を言う。
 夕食は私の希望によりカレーライス。
 シャワーを浴びる。
 24時、1階の寝室で寝る。病院のベッドより落ち着く。

その後の経過(2014年10月現在)
 退院後、体調は完全に昔と同じ状態に戻っている。食事、運動などについても、特に意識して注意することがない。Y講師には引き続き診察をお願いしているが、3ヶ月ごとの通院においても、毎回「全て順調」とのお見立てをいただいている。身体の枢要部分に人工物を入れたのに、何らの違和感を覚えないのが不思議である。
 私的生活においては、毎日の散歩、週1回のハイキング、家内に連れられての寺社巡り、休祭日の遠距離ドライブなどの遊びに精を出し、今年になって4月には孫たちを連れてヨーロッパ旅行に出かけ、8月には富士登山に挑戦した。
 今年の7月、執刀していただいたS講師が「外科学教授」に昇進された。何だか自分のことのようにうれしく思っている。


慶応大学病院における腹部大動脈瘤手術の詳細記録(その2)

2014-11-02 | 日記
Ⅲ 入院・手術
(1)9月14日(土)<病院からの連絡>
 
 慶応病院から電話。16日入院、18日手術という連絡であった。16日は休日であるので10時までに救急の受付15番に来ること、病室は2号館7Nで料金は1日37,800円であることも、併せて伝えられた。
 いよいよ来るものが来たという思いであった。

(2)9月15日(日)<入院準備>
 明日の入院を控え、準備。何か、戦地に出征する兵士のような気分であった。
 病院からの指示により、持込み荷物を、
   手術前2日間の必要物、
   手術直後ICU室で過ごす1日のための必要物、
   その後HCI室で過ごす1日のための必要物、
   1週間の入院期間中の必要物、
と4組用意する必要があり、家内はその点検に一生懸命であった。
 私は、その他の持参する物品として、読書用メガネ、本(塩野七生著「わが友マキアヴェッリ」3分冊)、筆記用具、スマホ、カメラ、計算機、爪切りセット、懐中電灯などを準備した。

(3)9月16日(月)<入院1日目>
 台風18号が東京に接近しつつあるなか、慶應病院へ向かう。10時の入院であるので、1時間早く9時に家を出てタクシーに乗る。病院には、9時10分に着いてしまった。
 その日は「敬老の日」で病院の休診日。救急の15番受付は救急患者の関係者でごったがえししていた。事務員に「入院」と告げると、直ぐに手続きをしてくれた。 
 保険証、患者カード、予め署名しておいた同意書等を提出し、10分で入院手続きを終える。病室は電話連絡の通り2号館7N5759室である。
 なお、提出した同意書等は次の通りである。
   「入院に係る同意書」(病院規則を守ること、許可なく付添人を付けないこと等)
   「特別療養環境室入室申込書」(室料37,800円/1日、9月16日~    )
   「『身体抑制』実施に関する同意書」
   「インフルエンザなどの感染予防について(同意書)」
 エレベータで7階まで上がり、7Nのナースセンターへ行く。看護師が、フロアー全体の説明をし、病室まで案内してくれた。風呂のある場所、風呂の予約の仕方を教えてくれる。入院患者のための洗濯機もあった。
 病室は8畳くらいの広さ。トイレ、洗面所、衣服入れが付属しており、ベッド、机、椅子(2脚)、貴重品入れ、冷蔵庫、電話(使用料無料。ただし、1度も使わなかった)、テレビ、TV台を兼ねた物入れ、屑入れなどが備わっている。しかし、時計やインターネットの設備が無く、やや古い型に属する病室である。
 一段落して病室で家内と二人で休んでいると、看護師が来て血液の採取をするとともに、看護に必要な情報(耳が遠いとかといったこと)の聞取りをする。入院前の事情聴取で話したことが伝わっているのか、75歳の高齢でまだ仕事をしていること、毎年富士山に登っていることなど、称賛してくれる。
 しばらくして、病棟担当の若いK医師が挨拶に来る。この医師とは電話で話したことはあるが、会うのは初めてである。姿、恰好はまさしく慶応ボーイ、我儘そうなところがあるが、好青年といった印象。
 午後に予定されていたレントゲン撮影を午前中にすることになり、1階の外来検査室で撮影。立った姿勢で正面から腹と胸、横から腹、ベッドに寝た姿勢で腹部、胸部の各撮影をする。
 12時30分、昼食。昼食30分前にお茶の給仕があり、その後、食事が運ばれて来る。これが慶応病院における朝、昼、夕の食事の給仕の仕方である。
 お腹が空いていたのか、食事は美味しかった。特に、ライスが美味しく感じた。ライスが美味ければ塩だけでも食える、というのが私の持論であり、不味い病院食を覚悟していたが、予想に反して美味しく、心配の一つが消えた。
 食事後、病棟副担当のG医師が挨拶に来る。この医師も好青年。「何かあったら、直ぐにナースセンターを呼ぶように」と言われる。
 午後、することがないので、家内と二人で散歩に出かける。病院隣の神宮外苑を通り抜け、青山通り近くにあるレストラン「Royal Garden Café」でコーヒーを飲む。ここは家内と一緒に散歩でよく立ち寄る喫茶店である。
 病院に戻った時は、16時を過ぎていた。
 看護師が16日夕~18日朝分の薬として次の薬を届けてくれた。
   コニール4mg(1日2回、半錠) 
   オルメテック10mg(朝食後1回、半錠)
   クレストール2・5mg(朝食後1回、1錠)
   バイアスピリン100mg(朝食後1回、1錠)
   ネキシウム20mg((朝食後1回、1カプセル)
   ハルナール0・1mg(朝食後1回、2錠)
 入院案内には「常用薬2週間分を持参すること」と書いてあったので、これらの薬は全部持って来ており、慶応病院から改めてもらう必要はなかったが、面倒なので黙って受け取る。
 予約していた16時30分~17時の時間に風呂に入る。広いバスタブがあり、シャワー付きである。床が滑りやすいのが難点であった。
 バスタブの容量が大きいためお湯を貯めるのに時間がかかる。衣服を脱ぎ、時間節約のため直ちにシャワーを浴び、身体を洗い、最後にバスタブに浸かるという一連のプロセスを終えると、もう30分近く経っていた。自宅の風呂のように、入浴を楽しむということはできない。
 18時10分に夕食。今日が「敬老の日」であるからであろうか、尾頭付きの鯛に赤飯であった。食事担当者も頭を使い、メニューに工夫を凝らしているようである。
 19時頃、家内が帰宅する。
 20時過ぎ、看護師が体温と血圧を測りに来る。
   体温 36・8℃
   血圧 128 78 85(最高 最低 脈拍)
 21時、消灯。セルシンを飲む。セルシンは、心配症の性格であるため、S講師に処方してもらった薬である。
 23時頃、看護師が見回りに来る。寝たふりをして、やり過ごす。その後も、消灯したままテレビを視て時間を過ごす。
 24時、就寝。入院1日目が終わる。

(4)9月17日(火)<入院2日目>
 6時、起床。
 まず、浴室に行き、予約表に「15:30~16:00」と書き入れ、午後、入浴できるようにする。
 体温を病室備え付けの体温計で測り、血圧、体重をラウンジにある計測器で測る。体温35・9℃、血圧135/87、脈拍75、体重81・2kg。
 6時30分、病室に来た看護師に体温等の測定結果を報告する。
 7時50分、ナースセンターから呼び出しがあり、ラウンジで採血を受けるように言われる。ラウンジには入院患者が集まっており、毎朝、定期的に採血があるようである。
 7時58分、医師の一団が病室を訪れる。総勢6人くらい。何のために来たのか分からなかったが、「今日、手術の説明がある」とだけ言われる。各病室を回っているので、これが回診というものであろうか。
 回診と言えば、テレビドラマで見るように、教授を先頭に大勢の医師、看護師が患者を見て回る図を想像していたが、今日の回診は、病棟担当のK医師を先頭に研修医が数人付き添う形のものであった(なお、慶応病院では、教授を先頭に巡回する回診は無いようである。心臓外科教授の顔は入院中一度も見たことがなかった)。
 8時15分、看護師が入院記録票を集めに来る。「今日、入浴前に手術個所の毛を剃ります」と告げるとともに、ICU用の荷物の再確認をするので「奥さんが見えたら、声をかけて下さい」と言って帰る。
 次に、別の看護師から手術の流れの説明を受ける。説明図には、ベッドに寝て数本の管につながれ、点滴を受けている患者の姿が描かれている。その模式図を見て「下のことが心配です」と言うと、「前日就寝前に下剤を服用し、翌日手術前に全部出してしまうので、大丈夫」とのことであり、安心する。
 家内が10時過ぎに来る。担当の看護師に来てもらい、手術の流れの説明、荷物の確認をしてもらう。
  <ICU(3階集中治療室)用必要物品>
   ティッシュペーパー 1箱
   T字帯 2枚
   歯磨きセット・プラスティックのコップ
   電気ひげ剃り(男性)  
   ボディーソープ(固形石鹸は不可)
   入れ歯(必要な人)のケース
  <HCU(7Nの高度治療室)用必要物品>
   ミネラルウォーター500ml 2本
   タオル 2枚
   前開きパジャマ上下 2着
   パンツ 2枚
   箸
   ウェットティッシュ
   上履き 1足
   シャンプー
   洗濯物用袋
   湯呑み用コップ(プラスティック)
   イヤホン・テレビカード

 12時30分、昼食。天ぷらそばにかぼちゃの煮物付き。
 13時45分、病室の掃除。赤い派手な服を着た女性二人が掃除。おそらく業務委託に出しているのであろう。
 14時、看護師が局部の毛を剃りに来る。看護師が剃ってくれるものと思っていたら、「自分でしますか」と尋ねられ、自分で剃ることになる。剃るといっても、専用のバリカンで毛を刈るのである。
 自分で刈ろうとすると、腹部の筋肉が痙攣して痛い。途中から家内に代わってもらう。家内も手付きが危なっかしく、陰嚢が傷つき出血する。家内がハサミの方がよいと言って、ナースセンターに借りに行くが、ハサミは危ないということで別の看護師が病室に来て仕上げをしてくれる。
 15時30分~16時、風呂に入る。
 18時、お茶の給仕。
 看護師が今夜21時に飲む下剤を持って来る。プルゼ二ド12mgという薬。
 18時15分前触もなく、S講師が病室に現れ、手術の説明をするので来てほしいと言う。ナースセンター奥、HCU横の部屋でパソコンのディスプレーを見せながら説明する。
   (1)手術の必要性
   (2)2種類の手術のうちステントグラフト内挿術を選んだ理由
   (3)この手術に伴うリスク(死亡率2~3%という説明に驚く。)
などの説明があって、次の承諾書等の提出を求められる。
   「腹部ステントグラフト内挿術」実施の承諾書
   全身麻酔の同意書
   輸血/特定生物由来製品の使用に関する同意書
 そして、手術は明日(9月18日)の午後に行うとのことであった。
 なお、慶応病院は、相当の資金を投入し、最新鋭の医療機器を備えた手術室を新たに造ったが、そのオープンがたまたま9月16日であり、心臓血管外科の手術としては私が第1号の患者であるとの説明があった。私の心配そうな表情を見て、S講師は直ぐに「シミュレーションはしっかりしているので、大丈夫」と言ったが、何だか心配であった。
 私の方から身体に埋め込むステントについて尋ねたところ、Medtronic社製のものであるとのことであった。Web検索で調べたところ、現在、腹部大動脈のステントとして薬価に掲載されているのは、Zenith、Excluder、EPL、Talent、Endurantの5種類であり、最後の“Endurant”がMedtronic社製である。Medtronic社は心臓の人工弁などでも有名な会社である。なお、ステンツの価格は161万円であり、非常に高価なもののようである。
 S講師の説明の後、夕食。
 夕食の最中にY講師が病室に来る。突然の来訪なので慌てる我々夫婦に、「いよいよ明日ですね。しっかり手術をします」とだけ言って帰る。
 次に、麻酔担当の医師(女性)が麻酔の説明に来る。
 病棟担当のK医師も夜の見回りに来る。
 明日の手術に関係する人たちが次々に来て、声をかけてくれる。手術では本当に大勢の方々のお世話になるということを改めて実感する。どの人がどれだけの度合いで手術に関わるのか分からないが、家内と二人、ともかく皆さまに頭を下げ、「お世話になります」、「お願いします」を繰り返した。
 家内が帰った後、遅くなって薬剤師が病室に来る。これまで慶応病院で処方した薬剤を説明し、併せて手術中に点滴により注入する4種類の薬についてそれぞれの薬功を説明してくれる。正直言って、薬剤の説明は専門的過ぎて頭によく入らないが、ともかく丁寧に詳しく説明してくれるのである。私が看護師に薬についていろいろ質問するので、わざわざこのような説明をしに来たのか、あるいはどの患者に対してもこのように薬の説明をすることになっているのか分からないが、患者にとっては有難いことである。
 私の方から、「明日、手術であり、通じのことが心配です」と前々から気懸りになっていたことを口に出すと、通じをよくする次の薬を処方してくれることになる。
   プルゼ二ド錠12mg(今夕、看護師から手渡された薬と同じ。腸を活性化する)
   新レシカルボン坐薬(肛門から挿入、結腸に溜まった便を出す)
 今夜9時にプルゼ二ドを2錠服用し、明日の朝、新レシカルボン坐薬を挿入し、出来る限り我慢した後トイレに行くように言われる。
 19時40分、看護師が陰毛の剃り具合の点検に来る。「ばっちりです」という評価。
 20時20分、看護師が来て、血圧、体温をチェック。看護師の勧めでプルゼ二ドを2錠服用する。
 21時、就寝。ただし、23時の看護師見回りの後、昨夜同様、テレビを観て過ごす。
 なお、病室には「入院記録」の用紙が置いてあり、患者が記入するようになっている。本日の入院記録は次の通りである(以後毎日作成するが、省略)。
   食事   朝:完食   昼:完食   夕:完食
   尿回数:6   便回数:2
   夕   血圧:135/87 脈拍:75 体温:35・9℃ 体重:81・2kg 
   朝(翌日)血圧:      脈拍:    体温:      体重:

参考:ENDURANTステントグラフトシステム承認のお知らせ(日本メドトロニック株式会社)
 2011年9月16日付けで腹部大動脈瘤用ステントグラフト「ENDURANTステントグラフトシステム」の承認を得ましたのでお知らせ致します。
   保険収載:2011年11月Ⅰ日を予定
   一般的名称:大動脈用ステントグラフト
   販売名: ENDURANTステントグラフトシステム
   医療機器承認番号:22300BZX00385000
   保険適用開始年月日:平成23年11月1日
   償還価格:1610千円

(5)9月18日(水)<入院3日目>
 手術日。朝食なし。
 朝6時過ぎにK医師が病室に来て、点滴用の注射針を右手前腕部の甲に近い部位に刺す。若い男性医師なので相当痛いと覚悟していたが、案に相違して極めて慎重な打ち方をする。彼を見直すとともに、「注射、上手いですね」とほめる。
 点滴の薬剤は、酢酸リンゲル液「ソルアセトF」(テルモ製)500mg。点滴の器具をよく見ると、薬液が垂れていない。薬液が垂れるように調節しようかとも考えたが、そのままにする。
 6時15分、看護師が来て点滴の着装具合を調べる。液が垂れていないことを指摘するが、意味不明の説明をして帰ってしまう。
 6時45分、別の看護師が来て、手術着に着かえるのを手伝ってくれる。上はすべて脱ぎ、手術着のみ、下はパンツのみ。
 6時53分、新レシカルボン坐薬を挿入する。常用の薬(降圧剤および前立腺の薬)を飲む。
 7時7分、便意が昂じ、我慢が出来なくなってトイレに行く。少々出るが、腹の中に大分溜まっている感じである。トイレに早く行き過ぎたことを悔いる。
 7時30分、看護師が常用薬の服用の確認に来る。「入院以来、便が出なかったのに、今朝、少ししか出なかった」、「もう一回坐薬を挿入したい」と要望する。
 7時55分、K医師をトップに6人くらいの手術チームの一団が手術前の挨拶に来る。「よろしくお願いします」と頭を下げる。便が無いことについて、K医師に話す。手術は午後であるので、様子を見ましょうと言う。
 8時過ぎに家内が来る。今日は手術日であるので、いつもより早く来る。
 9時5分、今日手術担当の看護師が挨拶に来る。
 続いて、Y講師が病室に来る。夫婦二人で最敬礼の挨拶をする。
 病室に置かれていたマニュアルには、ステントグラフト内挿術の場合、術後1日はICU室で過ごし、翌日は元の病室に戻ると書かれてあったが、今年マニュアルが改訂され、術後1日目は3階のICU室、2日目は7階のHIC室で過ごし、3日目から病室に戻ることになったとのことである。そのためであろうか、病室は空け、荷物はロッカーに預けるように指示される。
 10時頃、東京に住む娘が見舞いに来る。娘は、手術が当初午前に行われると言われていたので、手術中家内に付き添うことになっていたが、手術が午後に変わり、正午を過ぎても手術の迎えが来ないので、子供たちが学校から帰る時間に間に合うよう、13時に病院を出る。
 14時45分、地位の高そうに見える女性看護師が迎えに来る。7階病棟婦長に次ぐ立場の看護師であろうか、初めてお会いする看護師である(婦長は7階の7S病棟及び7N病棟に一人いるだけ)。
 家内とは、7階のエレベータ前で別れる。瞬時、家内の顔を見るのもこれが最後かと思い、しみじみと見る。病室から手術室までは、徒歩で移動する。
 4階の中央手術室入口の前で、7階の看護師から手術室の看護師に引き渡される。名前と誕生日を確認し、何の手術のためにここに来たかを尋ねられる。入口にある帽子をかぶせられ、ベッドに乗り、横になる。ベッドの上からは天井しか見えない。頭を少し上げ周囲を見渡すと、長い廊下が続き、医療スタッフが忙しそうに動いているのが見える。
 手術室らしき所で移動用ベッドから手術用ベッドに移される。看護師に、今朝から便が出ず、催したくなったと告げる。トイレに連れて行ってもらえるのかと思ったら、便器を尻の下に入れる。「ここでするのですか」と尋ねると、「そうです」という返事。これでは出るわけがない。看護師が肛門の中に指を入れ、「便が来ていない」と言うのを聞いて少し安心する。
 手術室内を見回すと、二日前に新装なった手術室というわりには古い感じがする。どこが新しくなったのか分からない。
 突然、大きなメガネをかけた白衣の医師が現れ、「○○です」と名前を言う。S講師である。手術用の眼鏡をかけているので、別人のように見える。
 それからパンツを脱がされる。「この手術が、心臓血管外科には、コケラ落しだ」と叫ぶS講師の大きな声が聞こえる。この時を最後に意識がなくなり、以後、全く記憶なし。
 「○○さん、○○さん」という呼び声に目覚める。看護師の顔が直ぐ近くに見える。壁にかかっている時計を見ると、19時30分を指している。4時間30分の手術である。説明されていた3時間より大分長い。難しい手術であったのではないかと、少し心配になる。
 術中、術後のことは全く分からない。以下のことは、後日、家内から聞いた話である。
 家内は、私と別れた後、患者の家族等が待機する部屋で私の手術が終わるのを待っていたが、手術が終わる度にその関係者が呼び出され、家内は最後の一人になってしまったようである。
 17時20分頃になって、S講師に呼ばれ、3階のICUの隣の部屋で「すべて順調。早く手術が終わった。何の心配もない。後の処理は若い者に任せてある」という説明があったそうである。その後、仕事を終えた息子も病院を訪れ、二人で私の手術が終わるのを待つが、なかなか終わらない。ようやく19時30分過ぎになって、ベッドに乗せられた私がY講師とともに4階の手術室から3階に降りて来て、ICUの部屋に入るのを見かけたそうである。
 少し経って、ICU横の部屋(S講師が説明してくれたのと同じ部屋)に家内と息子が招き入れられ、Y講師から手術の状況について、説明板に腹部の図を描きながら
   (1)手術はすべて順調であった。
   (2)(私の)体格がよいため後処理に時間を要したが、何らの異常もない。
   (3)ご主人は手術室で既に目覚めており、直ぐにお会いできる。
との説明があったとのことである。
 家内と息子はICU室の中に入り、私と顔を合わせたが、私の方も家内の顔を認め、また息子の顔も見えたので「来てくれてありがとう」と礼を言った。この場面は、私の記憶では、ベッドに乗せられたまま手術室を出て、エレベータで4階から3階に降り、ICUに向かう途中でのことと記憶していたが、実際はICU室の中における出来事であったらしい。
 ICUでは、1時間おきに看護師が体温、血圧、血糖値を調べに来る。血圧、脈拍、体温などは、私の身体に着装された自動計測器で常時データが取られているのに、念には念を入れての看護であろうか。
 麻酔が覚めるに従い、右股の部分に痛みを感じる。それとともに、下腹部に言葉では言い表せない異様な刺激を強く感じるようになる。麻酔により停止した排尿機能を補うため挿入したカテーテルが尿道を圧迫しているのである。海外旅行中、トイレが近くに無く、我慢に我慢を重ねていた際の切羽詰まった気持を更に強くしたのと同じ状況である。看護師に訴えると、「尿が出ているから大丈夫」という的外れの答えが返って来た。
 K医師、G医師など私の手術担当の医師団が来て、手術跡の点検をする。「左の傷口は全く痛くない。右の傷口が少し痛む。腹の中は何も感じない」と申告する。尿道に差し込まれたカテーテルについては、看護師に対してと同じように何とかしてくれるように訴えるが、彼等も看護師と同じ反応しか示さなかった。
 Y講師も様子を見に来る。
 移動可能なX線撮影機で、ベッドに寝たまま、腹部、胸部のレントゲン撮影をする。
 尿道から生じる不快感を「何時まで耐えなければならないのか」と考えつつ、時間が21時、22時、24時と進む。看護師は「睡眠薬で眠るようにしましょうか」と聞いてくるが、拒否する。尿道の不快感と眠気が一緒に襲ってきたらどうなるのか、予想がつかなかったからである。

(6)9月19日(木)<入院4日目>
 日が変わって午前2時頃、看護師に尿道カテーテルを取り除いてくれるように頼む。看護師は「自分で尿を出すことを約束してくれない限り、取外しはできない」とよく分からないが、無理難題と思えるようなことを言う。麻酔の影響で尿が出なかった場合、どのような処置をされるのか、いろいろ考えあぐねる。こわごわ下腹部を触ると、非常に太い管が入っている。先に風船があり、それを膨らませて尿が出るようにしている構造のようだ。
 こうしている最中にも、麻酔の効果が薄れ、傷口の痛みがだんだん強くなって来る。痛みに神経が集中し、カテーテルによる不快感が軽減されていくような感じもする。それにしても、不快感はなお強く、恥ずかしげもなくヒーヒー悲鳴をあげながら耐えていた。
 医師の誰かが取り外してもよいと指示してくれたのか、4時半過ぎに看護師がスパッとカテーテルを抜いてくれた。非常に乱暴な抜き方で、親切であった看護師も私の騒ぎにうんざりした模様である。勢いよく抜いたので尿道を傷つけたのか若干の痛みが残っていたが、気持は非常に楽になる。空腹感も出て来て、早く次のHCUに移りたいと思うが、なかなか迎えが来てくれない。
 8時過ぎに迎えが来る。ベッドに乗ったまま7階に登り、ナースセンター裏のHCU室に入る。HCUは“High Care Unit”の略で、室は6人の患者を収容できるようになっており、それぞれがカーテンで仕切られている。私は、入口から入って左側2番目の場所。HCU室に勤務する看護師も、親切で丁寧に患者に対応する。両側はカーテンで仕切られ、前部は開いていて、常時、看護師が観察できるようになっている。
 Y講師、K医師、G医師がそれぞれ個別に様子を見に来る。
 9時頃、尿意を感じる。看護師に告げると、尿瓶を持ってきてくれる。ベッドの上で出すように言われるが、いくら努力しても出ない。ベッドから降り、いつものように立ったままの姿勢で試みる。尿道に少し痛みを感じたが、出すことに成功。これで尿の問題は解決し、安心する。
 HCUでも、1時間おきに看護師が体温、血圧、血糖値を調べに来る。その上、鼻には酸素吸入器、左手人差し指には血中酸素濃度測定器、胸には血圧や心電図の観測器具が取り付けられ、それぞれ枕元にある機械に接続している。右腕には点滴で何かの薬液が注入されており、首筋には緊急時の点滴用注射針が付いている。このような重装備では、身体を少し動かすのも大仕事である。しかも、腹部の筋肉を使う動作は傷口が痛むので出来ない。腹筋を使わずに、寝返りをうったり、起き上がったりするのは至難の業である。喉に痰が絡んでも、咳をすると激痛が走るため、痰が自然に流れ出るのを待つしかない。
 HCUにおいても、ベッドに寝たまま、腹部、胸部のレントゲン撮影をする。
 待ちに待った家内がようやく来る。家内も私の看護で疲れているらしい。
 昼食はお粥。4分の3くらい食べる。術後初めての食事で、食欲が無い。
 リハビリのため、看護師(男)に連れられ、7N病棟のフロアーを2周する。
 夕食も、4分の3くらいしか食べられず、残す。
 夕食後、便意を催したので、その旨を看護師に伝えると、酸素ボンベを持って来てボンベから酸素の供給が受けられるようにし、ホルター心電図検査の時と同じような器具を取り付け、私の身体が移動可能な状態になるようにしてトイレに連れて行ってくれた。これではトイレに行くにも大掛かりな作業を伴うことになり、やすやすとトイレに行けなくなる。この時は、便意はあったが、ものは出なかった。トイレに行く準備をしてくれた看護師には申し訳なくて、ベッドに戻る際、「気分が爽快になりました」と如何にも出たようにお礼を言った。
 家内は7時頃帰る。
 家内がいる時は、家内の世話で小の方の用を済ませていたが、家内が帰った後は看護師に手伝ってもらわなければならない。手術の際に挿入したカテーテルの影響か、深夜になっても尿の頻度が下がらない。気恥ずかしく、また申し訳ないと思いつつ、1時間半ごとに看護師に来てもらい、ベッド脇に立って尿瓶に用を済ませた。1回、約300CC出る。
 いずれにしても、身体に入れるのは簡単であるが、出す方は大変である。


慶應大学病院における腹部大動脈瘤手術の詳細記録(その1)

2014-10-30 | 日記
はじめに
 2013年9月、慶応義塾大学病院において腹部大動脈瘤の手術を受けました。これは同手術の記録であり、腹部大動脈瘤の存在を宣告され、何時そして何処の病院でどのような手術を受けるべきか迷っている方々の参考になれば、という思いから作成したものです。
 なお、同病院における診察、検査、入院、手術及びその後の経過を出来るだけ詳細に記すことに努めましたが、診察や看護に当たっていただいた方々の氏名は、プライバシーを考慮し、すべて伏せておくことにしました。

Ⅰ経緯 
(1)腹部大動脈瘤とは

 「腹部大動脈瘤」とは、心臓から下半身部分に血液を送る大動脈に瘤ができ、大動脈の直径が大きくなる病気である。瘤が成長し大動脈が太くなっても、痛くも痒くもないので、本人はもとより医師も気が付かないことが多々あるようである。
 大動脈瘤が怖いのは破裂することがあるからである。破裂すると大出血し、救急車で搬送されても、病院に着く前に死に至るケースが多く、死亡率は非常に高いと言われている。
 腹部大動脈の直径は通常約20mm。これが40mmを超えると破裂する危険が増大する。そして、50mmを超えると手術適応と診断することになっているようである。
 腹部大動脈瘤の治療は手術が基本である。かつては腹部を20cmほど切開し、瘤のできた動脈部分を切除して人工血管に置き換える「人工血管置換術」が主流であったが、最近は両足の付け根部分の動脈からカテーテルを挿入し、これを通じて人工血管を瘤のある動脈内に留置する「ステントグラフト内挿術」が行われるようになった。
 私は、専門家の意見を参考に自分自身でも勉強し、後者の「ステントグラフト内挿術」を選択した。

(2)手術に至るまでの経緯
 2005年5月、都内大病院の人間ドックで「腹部大動脈瘤の疑いあり、12ヶ月後に検査する必要あり」との診断を受けた。これが私と腹部大動脈瘤の関係の始まりであった。
 以降、毎年1回の人間ドックで、「6ヶ月後に検査する必要あり」から「経過観察が必要」へと、徐々に病気の程度が進行した。
 手術前年の2013年3月には、人間ドックで問診の医師に「大動脈瘤は大丈夫ですか」と当方からあえて質問したが、その時は「腹部大動脈瘤が45mmに拡大しているのが認められるので、経過観察が必要」という判定であった。
 この間2009年3月、足の甲の痛みが長く続くので近所の整形外科医院で診察を受けた際、腰部のレントゲン写真を見た医師が「足が痛いどころではありませんよ。大動脈に瘤がある」と大騒ぎし、MRI検査を受けることになったことがあった。
 この時の診断は「腎動脈分岐下腹部大動脈は、短径33mmに紡錘状に拡張している」であった。私もその頃は腹部大動脈瘤についての知識が深まり、33mmであればまだ大丈夫と自分で判断し、そのまま様子を見ることにした。
 また、別の病気で某私立大学付属病院に長期にわたり通院していたが、担当の医師が2013年1月、たまたまCT検査で腹部大動脈に瘤ができているのを見つけ、手術することを熱心に勧めた。私が、大動脈瘤のことについてはよく承知しており、何時手術をするかは自分で決めると言い続けていたら、その医師は責任が負えないとして「もうこの病院には来ないでくれ」とまで言うようになった。
 というようなことがあって、私自身も、新聞の死亡記事欄で「大動脈瘤破裂」の文字を目ざとく見つけるようになり、また、何所へ出かけるにも救急車到着までの所要時間を気にするようになった。年5、6回は、夫婦で出かけていた海外旅行も行くのをためらい、毎週末のハイキングも救急車が来られないような場所は避けるようになった。
 そんな私を見て、家内が「手術をしてすっきりした方が好いのではないか」と、これまた勧めるようになり、優柔不断を決め込んでいた私も遂に手術を受ける気持ちになった次第である。

(3)人工血管置換術 orステントグラフト内挿術
 手術を受けることになると、次は、何処の病院で、どのような手術を受けるべきか、を決めなければならない。
 幸い家の近くには、東京女子医科大学病院、国立国際医療センター、慶応義塾大学病院、東京医科大学病院などの大病院があり、入院するにはどこが便利か、家内と二人で実地に調査することにした。面会時間に見舞客のふりをして中に入り、それとなく様子を見るのである。
 更に足を延ばして、腹部大動脈の手術に実績のある東京ハートセンター、虎の門病院、三井記念病院なども見て回った。緊急性のない病気なのでこうしたことが許されたわけである。
 腹部大動脈瘤の手術には、前述のように「人工血管置換術」と「ステントグラフト内挿術」の二つの方法がある。どちらの方法も一長一短があり、大いに悩んだ。
 本来、二種類の手術のうちどちらの手術を行うかは、医師が患者の病状、身体的条件等によって決めるべきものであるが、私がインターネットで調査したところでは、大方の病院は二つの手術方法のうちどちらか一方に特化しており、どの病院で診察を受けるかによって手術方法が決まってしまう傾向があるようであった。
 そんな時、たまたま大学で寮生活を一緒にした友人に巡り合った。彼は東大医学部を卒業し、東大病院で心臓外科手術を専門に行い、後に東京大学工学部教授(精密工学)になった人物である。私のこれまでの経過を説明したところ、「手術をすべきかどうかについては、何とも言えない」、そして「手術をするのであれば、『ステントグラフト内挿術』でなく、『人工血管置換術』の方を奨める」というものであった。そして「いつでも神の手を持つ名医を紹介してやる」とまで言ってくれたが、私自身は、痛くも痒くもないのにお腹を大きく切る手術をする気にはどうしてもなれず、友人の親切なアドバイスに従うことができなかった。
 そこで意を決して2013年6月27日、慶応義塾大学病院で診察を受けることにした。慶応病院を選んだのは、事前のリサーチにより同病院心臓外科の大動脈専門の先生方が「人工血管置換術」と「ステントグラフト内挿術」の両刀使いであることが分かったからである。
 私の調べたところでは、東京都内の病院で患者の状況に応じて手術方法を決めていると推測できるのは東大病院と慶応病院であり、後者が自宅から歩いて行ける距離にあったので、まず慶応病院で診てもらうことしたわけである(この部分は、私の拙い調査の結果であり、単なる感想である)。

Ⅱ 外来診察及び検査
(1)6月27日(木)<初診>

 慶応病院は初診の際、原則、かかりつけの医師からの紹介状(正確には、「診療情報提供書」)が必要とされており、紹介状なしの初診受付に多少手間取ることになった。紹介状なしの患者は、症状が緊急であるか、あるいは何か特別な理由があるか、どちらかでないと受け付けないとのことであった。
 こうした取扱いは事前に分かっていたが、私が紹介状なしで受診しようとしたのは、診察してもらう医師を自分の判断で決めたいと考えていたからである。現在は、インターネット等により、どの病院にどのような医師がいるか分かるようになっている。
 受付の事務員との間で擦った揉んだした後、診療科に直接電話してもらい、ようやく診察を受けることができるようになった(医師法により、原則、医師は診療を拒むことはできない)。私を実際に診てくれた医師はY講師であった。この先生は、慶応ボーイを紹介するあるテレビ局の番組に出ていて、そのお人柄等も分かっているような感じでいたので、ラッキーと思い、この先生に全部任せてしまおう、自分でいろいろ思い煩うのはやめようと、その時決めてしまった。
 Y講師に腹部大動脈瘤の経緯について説明したところ、大動脈瘤は手術でしか治す方法が無いこと、手術には二通りあり、人工血管置換術とステントグラフト内挿術があり、慶応では最近はステントグラフト内挿術を主体にしていること等の説明があった。私はどちらかと言えばお腹を切らないで済むステントグラフト内挿術を望んでいたので、ますます好い医師に巡り会ったと幸福な気分になった。そして、ベッドに横になった私の腹部を触診し、「50mm以上は手術適用」としていると説明、「いずれにしても、まずCT検査をし、その結果により判断しましょう」ということになった。
 私が勉強し想定したのと全く同じ成行きであった。

(2)7月2日(火)<腹部CT検査>
 CT検査の予約は午後4時15分。朝食と昼食は軽めにとり、3時半に病院に入り、CT検査の前に済ませておくよう指示のあった血液検査を受けた。
 CT検査は、検査着に着替え、ベッドに寝て丸い輪の中をくぐるものである。初めは単純な撮影、次いで造影剤を注入しての撮影で、15分くらいで終わった。

(3)7月18日(木)<2回目診察>
 CT検査によるY講師の診断は手術をした方がよいということであった。腹部大動脈は50mmに拡大しており、一応「手術適応」とのこと。私も50mm以上であれば手術を受けようと覚悟していたので、直ちに手術をお願いすることにした。
 「入院前に手術に必要な検査を済ませておきましょう」という先生の考えにより、肺機能検査、血液検査、尿検査、鼻くう検査、心電図、腹と胸のX線検査を受けることとし、予約を入れてもらった。

(4)7月25日(木)<頸動脈超音波検査>
 検査は簡単で、所要時間25分。

(5)7月26日(金)<頭部CT検査>
 先日、腹部のCT検査をしたばかりであり、このようにたびたびX線を浴びてよいものかと心配しつつ検査を受けた。
 検査技師の見立ては「多少石灰化が進んでいるところがあるが、年齢相応である」とのこと。

(6)8月9日(金)<ペルサチン負荷心筋血流シンチグラフィ検査>
 検査は10時開始。ペルサチンおよびアイソトープの注射をし、それから15分間撮影。横に寝た姿勢で15分間過ごすと、左手がしびれ、しんどい思いをした。
 1回目の撮影が終わった10時30分から14時30分までの4時間、待機。ペルサチンの効果がなくなるのを待って2回目の撮影をするためである。この日は朝食抜きである上に、この待ち時間中も水以外は口に入れてはいけないと言われ、空腹感に苛まされた。
 2回目の撮影では、同じ姿勢の撮影であったが、慣れたせいか楽であった。

(7)8月15日(木)<診断>
 最終診断の下る日である。手術すべきか否か、どのような手術になるか、結論が出ることになっていた。緊張しつつ病院を訪れる。
 これまでの診察では、診察室の前に担当「S講師」と掲示されていたが、実際はY講師が診察していた。いつもと同じであると思い診察室に入ると、見たことのない医師が待っていた。間違ったところに入ってしまったのかと思ったが、看護師に「ここです」と言われた。この医師が「S講師」であった。
 S講師からこれまでの検査結果について非常に丁寧な説明があり、そして「腹部の大動脈の直径が5cmを超えており、手術をした方がよい」という診断が告げられた。
 手術の手法について、私の「開腹手術とステントがあるが、どちらですか」という質問に対し、「ステントグラフト内挿術」で行いたいという返事であった。期待通りの答えであったが、あえて「開腹による人工血管置換術は、手術法が確立しており、安全な手術と聞いています。ステントグラフト内挿術は、患者の身体的状況から人工血管置換術を行うことが出来ない場合に採択する手術、と言われていますが」という質問をしたところ、「人工血管置換術を望むのであればそれをします。ただ自分はステントの方が良い方法であると思う」という回答であった。
 私も、簡単な手術の方を望んでいたので、「先生のお考えに従います」と申し上げ、手術はステントグラフト内挿術で行うことになった。
 私の事前のリサーチでは、S講師は「人工血管置換術」と「ステントグラフト内挿術」の両刀使いであり、私の期待にピッタリの医師であった。ただ、写真から見て繊細なお人柄と思っていたが、実際は、丁寧な言葉遣いではあるが、断定的にはっきりものを言う自信に満ちあふれた外科医であった。この日の診察には、家内も同席しており、慶応病院で手術をすることに決めて大成功であったと、二人で喜び合った。
 なお、初診から私を診ているのはY講師であるのに、何故、最終的な診断はS講師がするのか、分からなかった。両者の関係は、術中、術後においても、分からずじまいであった。ただ、S講師の方がY講師より慶応大学医学部の卒業年次が12年先輩であり、病院内の格付けは同じ講師でありながらS講師の方が上であるようである。
 この日は、診察の後、看護師から入院・手術の一般的な説明を聞いたり、入院事務局に入院申込みをしたりした。私は鼾がひどく、同室の人に迷惑をかけてはいけないので、入院の絶対的条件として個室を希望しておいた。
手術することが決まり、晴れやかな気分で病院を後にした。

(8)8月22日(木)<経胸壁心エコー検査・麻酔科説明・入院オリエンテーション>
 慶応病院で経胸壁心エコー検査。
 また、この日に麻酔科の説明があった。これから手術を受ける予定の患者が20人くらい1室に集められ、ビデオによる説明を受けた。どのような種類の麻酔があり、麻酔科の医師や看護師が手術にどのように関わるかを説明するビデオであった。
 その後、患者一人一人に対して、麻酔科医師の面接があった。
 続いて、入院のオリエンテーションがあり、入院係の看護師と手術担当の看護師の二人から入院中の注意事項等の説明があった。私の視聴覚能力、好み、人生観などが聞かれるとともに、入院時に持参する物品の説明があった。
 私はこれまで、香川県立中央病院(急性肝炎で3ヶ月)、和歌山県立医科大学病院(ぶどう膜炎で2ヶ月)、自治医科大学病院(眼科手術で3ヶ月)および日本大学病院(白内障手術で1週間)に入院したことがあるが、慶応病院は、有名病院でありながら、患者を非常に大切に扱う病院であるという印象を受けた。